購買で丸ごとソーセージ、それから自動販売機でコーヒーを二つ買った。一つは微糖でもう一つはブラック。僕はコーヒーをブラックで飲むことはほとんどないけれど、黛は食後に好んで口にしていた。僕はこの昼休みに彼女に話しかけるつもりだった。
さっきまで緊張に緊張を上塗りしたみたいな態度だったのにいったいどんな風の吹き回しだと、五十嵐は笑うかもしれない。けれど、これはちょっとしたけじめみたいなものだ。本当に自分が困ったときに助けてもらったのだから、何かしら対価があってしかるべきだと僕は思う。テレビの中の正義のヒーローだとかはそんなものを求めないだろうけれど、彼女は一般の、どこにでもはいないが女子高生だ。ちょっとしたご褒美ぐらいあってもいいと思う。
……なんて、それっぽい理由を並べてみたけれど、本音を言ってしまえば僕は修正をしたい。彼女にとっての自分の印象を最悪なままにしておきたくなかった。ほとんど話したことのない僕たちだけれど、このままかかわることなく消えてしまう関係性かもしれないけれど、それでもほんの少しでもいい思い出にしておきたかった。誰だって最後の思い出が自分の失態だなんて嫌だろう? 少なくとも僕はそうだ。
さっきはテンパっていただけ。本気を出せば僕だってもう少しまともに話せるんだから。そう自分を奮い立たせて階段を上り、まばらな人影の隙間を縫って自分の教室へと足を踏み入れた。窓際では今日も彼女が小さな弁当箱を広げている。
今朝の彼女の足取りをトレースしながら、最初の一言を考える。なるべくスマートにコーヒーを渡せて、なるべくかっこよく、そのままスムーズにお礼が言えそうな言葉……となれば言うべきことは一つだ。缶コーヒーをテーブルに置いて、彼女を見る。
黛はなめらかな黒髪を揺らしながら不思議そうに僕の方を見た。近くで見ると肌がきめ細やかで綺麗だった。正装が必要な場所にジャージで入ってしまったような緊張感が僕を支配して、つい早々と口を動かしてしまう。
「お嬢さん、食後のコーヒーはいかがですか?」
いや、まだ飯食ってんだよ! この馬鹿!!
かつてないスピードで脳内からバッシングがフィードバックした。正直、さっきの黒板にいた時よりも冷や汗がすごい。今すぐ背中を見たい。たぶん汗でぐっしょりでインナーが透けて見えるだろう。
彼女のきょとんと、呆気にとられたような表情。それが僕のメンタルにダメージを与える。心をサンドペーパーで削られているみたいな気分になった。
「おっ、なんだ? ケイの奴とうとう自爆特攻したか」
五十嵐、聞こえてるぞ。お前後で覚えてろよ。いや……わかってる。悪いのは僕だ。全部僕が悪い。五十嵐の言いたいこともわからなくはない。許せないけれど。
ああ、性に合わないことをするものではないな、ホント。人生はチャレンジだって言ってる奴のこと一生信用できなくなったわ。
周囲がざわめき出す。黛が昼休みに今まで誰かに誘われたことは一度もなかった。人気がないからではない。誰もが遠慮するというか、高嶺の花すぎて近寄りがたいのだ。故に周囲の驚きは当然だった。……まあそれ以上に僕のアプローチが斜め上過ぎて飽きられているというのもある。というかそれで間違いない。
もういい。ここまで来るともう印象の修正は不可能だ。僕と黛の貸し借りの清算だけでいい。缶コーヒーを手放すと机と缶がこすれる音がした。
「……さっきのは、その、忘れてくれ。それと、一限の数学は助かった。ありがとう」
「結局入江君間違えてたけどね」
「……そうだね。できることならそれも忘れてくれ」
思い出すだけでもいろいろと恥ずかしい。もうまともに黛の顔を見ることができない。あの無垢な表情が自分への嫌悪を現すものに変わっているのを見たくなかった。
一方的に言うだけ言って、自分の席へ向かった。伏せていた視線を上げると自分の席の隣で五十嵐がニヤニヤとしているのが見えた。ああ、これはしばらくネタにされること間違いなしって感じの雰囲気だった。憂鬱な気分のまま、タイル一枚分進む。これが自分の出した勇気にふさわしい結末なのだと噛み締めた。ほんのちょっと泣きそうになる。
そしてブレザーの裾が引っかかったようにその場にとどまって、五十嵐をはじめとしたクラスメイトの表情が変わった。
「待って」
誰の物かわからない「馬鹿な、ありえない……」というつぶやきを僕は鮮明に記憶した。自分の気持ちをそのまま引き出したみたいなセリフだったからだ。
裾を掴む手は普段は机上を超えて動くことはない。昼休みにあの声を聴くことはない。そのすべてが自分に向くことは絶対にない。自分が世界に勝手に置いていた仮定。それがすべてぶち壊された。
その振り返ると黛は僕の顔をなめるように眺めて、それから頷いた。何に納得したんだよ。
「入江君、お昼一緒にどうかな? これからでしょ?」
彼女が一瞬何を言っているのかわからなかった。字幕が全部カタカナで再生されたみたいだった。数秒の間を置いてようやく彼女の言葉を理解する。
そして、混乱して気を配れなかった周囲の目線も感じ取れるようになった。男女入り乱れて鋭い目線が突き刺さる。
「せっかくだし、食後のコーヒーに付き合ってもらえるかな」
そんな周囲を気にも留めないで彼女は僕に返事を急かした。冷えた缶を手首のスナップでフリフリとして今か今かと待っている。
「そりゃあ、もちろん。願ってもないけれど……いいの?」
「いいって、何が?」
「いつも一人で食べてるからさ」
多分これは誰もが聞きたかっただろう。さっきまで針のむしろだった周囲の空気が弛緩する。
「今日は機嫌がいいからね。たまにはこういうのだって悪くはないよ」
逆に機嫌が悪い日は一緒に食事をしないわけか。ということは普段は年中機嫌悪いのだろうか。ちょっと心配になる。
「じゃあ、決まりだね。そこ座りなよ」
空いていた椅子に腰を掛け、ビニール袋から丸ごとソーセージを取り出して封を切った。中身を一口かじって、微糖の缶コーヒーを口にした。それ以外に何をしていいのかわからない。そんな僕を見かねてなのか彼女が先に口を開いた。
「入江君はコーヒーが好きなの?」
「まあ、それなりに。微糖しか飲めないけど」
「そうなんだ。意外だね。何となく、見栄張ってブラックとか飲んでそうな気がしたんだけど」
口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになるのをぐっとこらえて、そっぽを向いて咳き込んだ。確かにそんなことをしていた時期はあった。小学生ぐらいのことだが、あの時の自分は何よりも大人に憧れていて、早く大人になりたくて、ガキのくせにブラックを買ってそのたびに中途半端に残したものだ。思い出したくなかった記憶だった。
「おっと、大丈夫かい」
「大丈夫、少しびっくりしただけ」
「そっか」
一足先に弁当を食べていた彼女は昼食を終えて、弁当箱を重ねて片付ける。それから僕が置いた缶コーヒーのプルタブを起こした。
「逆に聞くけど、黛は見栄を張っていつもブラックなのか?」
「そういう風に見える?」
「いや、そうは見えないけど」
「けど?」
「聞いてくる奴の大抵は見栄張って飲んでるくせに他人の見栄を暴きたい……みたいな。そんな気がする」
この会話のタイムラグ。虎の尾を踏んでしまった感じ。自分のミスを感じた瞬間だった。せっかく窮地から脱したのに、僕って奴は……。恐る恐る黛の顔を覗く。でも彼女の表情は自分の想定とずれていた。
「……あたり。ちょっとビックリしちゃった」
驚きと関心が入り混じったような感じ。帰ってきた言葉の温度に安心感を覚える。どうやら虎の尾は踏んでいなかったらしい。
「最初は、見栄だったし。今は……味と見栄が半々かな」
「意外と子供っぽいところもあるんだな。黛も」
「何それ。私たち未成年だし。別に子供っぽくていいんじゃないかな」
「それもそうか」
でも、そういう考え方はなんとなく大人っぽいなと僕は思った。子供だから子供らしく、大人だから大人らしく。僕にはない思想だ。どうしても背伸びがしたくなってしまう僕からすれば考えられなかった。
「やっぱり黛は、しっかりしてるな」
「そうかい? そんなことはないと思うけれど、どうしてそう思うのかな」
「どんなことにもちゃんと、答えを自分なりに創ってる気がする。それこそ数学みたいに」
さっき助けてもらった時の事を思い出しながら彼女のことを表現する。彼女は自分と明らかに違う。常に芯が入っているように、行動指針がぶれない気がする。そんな真っすぐさに僕は心打たれていた。……今日はなんだかブレまくりなきがするけれど。
黛が缶コーヒーを一口含んで目を閉じる。十秒と少し間を取った。会話の間に挟むにしてはずいぶんと長い間だった。再び彼女と目が合う。
「……理由がないことは嫌いだからだよ。曖昧なものは好きじゃない。だから自分の中はなるべく具体的にしておきたいってだけ」
彼女の言葉をかみ砕く間もないままチャイムが鳴った。「そろそろ準備しなきゃ」と呟く。気まぐれで起きた最初で最後のチャンス。それがもうすぐ終わりを告げる。その前に、聞いておきたいことが一つあった。
「黛」と彼女の名前を呼ぶ、彼女は「なに?」と振り返る。
「じゃあ、さっきは、どうして助けてくれたんだよ」
「さあ、どうしてでしょう」
おとぼけたように彼女は言う。意外と悪ふざけもできるたちらしい。彼女のこれまでの振舞いからすればありえないことだが、今日だけで彼女の印象がどんどん変わっていく。
「……勿体ぶるんだな」
「そのうちわかることだから別に焦ることないよ」
「そのうちって具体的には?」
「内緒」
シーって自分の唇に人差し指を当てて、黛は自分のロッカーへ向かった。その背中を追いかけることは時間的にできそうにない。周囲の目線に耐え、自分の支度をして迎えた残りの五限と六限。その間ずっと、彼女に伏せられてしまった理由を考えていた。