「おい、入江どういうことだよ」
クラスメイトの一人が声をかけてきた。夏休みが開けたというのに彼の名前を未だに憶えられていないことが申し訳なかった。
「どういうことって、何がだよ」
「昼のあれ! 黛に話しかけてたじゃないか」
それは僕が理由が聞きたい。あれだけ会話にbadが付きそうなミスをかましておいておきながら、結果として彼女と楽しく会話をできてしまった。それが不可解でならない。
彼を皮切りに、他のクラスメイト達が男女入り乱れて近寄ってくる。したことがない体験にうろたえて、ヘルプを五十嵐に求めようとしたけれど彼は部活に一直線。もう教室には居ないことを失念していた。
「何か弱みを握ったのか?」
「握ってない!」
「私にも紹介して」
「紹介できるほど仲良くない!」
「じゃあいったいいくら貢んだんだよ」
そうだそうだと詰め寄るクラスメイト達を目線で制した。俺をなんだと思ってやがる。バイトをしているからと言ってお金持ちってわけではない。何なら俺よりもお前達の方が黛に貢げる環境下にいる。それに、俺の稼いだ金はそんなつまらないことに使われていると想像されたことに腹が立った。
周囲の反応が芳しくないことを察する。ああ、やっちまった。接客業に従事する人間としては失格の反応だった。落ち着けば冗談の類だと分かるだろう。店長が見ていたら間違いなくどやされる。一呼吸して気持ちを落ち着かせた。
……俺の時間だって無限じゃない。当然のことながら限りがある。出勤時間までのカウントダウンはもう始まっている。だから適当なことを言ってこの場から逃げることにした。修正するのも面倒だし。どのみち彼彼女らの望む答えは持ち合わせてない。
「悪い。今のは無し」
「強いて言うなら?」
「強いて言うなら、貢ぎ先は学校近くの山の上の寺。賽銭箱に五円。ゲン担ぎも案外馬鹿にできないな」
「それじゃ」と歩き始める。
何か言いたそうな声を漏らすクラスメイト達だったけれど、僕が一クラス分程度に離れるともう追ってくる気配はなくなっていた。
階段を下って、下駄箱のスニーカーを手に取る。つま先で床を二度叩いて、校舎から出た。ブレザーのポケットに入れていたスマホが振動する。
出勤直前の連絡は確認しないと面倒なことが多い。客の入り方によっては急がなければいけないことだってある。念のため足を止めて電源ボタンを押した。
『駐輪場で待つ』 黛
黛、僕の記憶にある限りでは一人しかもっていない苗字だった。でも僕は彼女に連絡先を教えていない。クラスのグループにも彼女は誘われていなかった。
名前だけ変えたクラスメイトのいたずらか、はたまた、今日の昼の光景を見た何者かによる逆恨みからの報復か。どちらかはわからないけれど、用心するに越したことはない。ただでさえうちの学校では自転車に張るステッカーに本名を書くことを義務付けられている。特定は容易なのだ。今のご時世ではこの校則に疑問を抱くけれど、修正には至っていない。
屋根の下の駐輪場。自分の自転車を陰から眺める。そこには荷台に腰を掛けて、退屈そうに両足をぶらぶらとさせている黛の姿があった。まさかの本人であるとは流石に予想していない。今日はエンカウント率が明らかにアップしている。それこそ世界に修正が入ったみたいだった。
彼女がこちらに気が付いた。
「遅い」
淡白に彼女は心情を吐露した。彼女にしては分かりやすく、少し眉間にしわが寄っていた。それを収めるために落ちいて接する。
「ちょっと捕まってたんだ。それに約束なんてしてなかったし、連絡に気が付いたのはついさっきだ」「じゃあ隠れてたのは?」
「……果し状が送られてきたのかと思ったから」
不思議そうな顔をして、ポケットからスマホを取り出してちらりと見た。
「……流石に手短に打ちすぎたね。これは私が悪かった」
彼女が荷台から降りて、僕のママチャリが晴れて自由になる。このままバイトに直行したいところだけれど、僕は彼女に呼びつけられている。このままサヨナラというわけにもいかないだろう。
「それで、何の用事?」
「答え合わせをしようと思って」
「答え合わせ? 何の?」
「私が内緒にした話」
彼女が内緒にしたこと。僕が五と六限を費やした問いかけ。理由のないことが嫌いな彼女が理由もなく自分を授業中に助けた理由。僕はまだその解を導くことができていなかった。正直気になっている。僕以外のクラスメイトも聞きたがっているに違いない。
「ちなみに、正解すると私が貰えます」
「冗談でも他の奴にそんな言い方をするなよ。後悔するぞ」
「入江君に言ったから後悔はさせないってこと?」
「そういう言葉遊びは今してない」
黛は頭の中が愉快なんだな。話してみるまで分からなかったが外面とのギャップがものすごい。そんなところを知っているのはたぶん自分だけだと思うと得をした気分にはなる。……頭は痛くなるけど。
バイトにまで歩いていける程度には余裕がある。ちょっとぐらいは付き合ってもいい。
「まあ、良いよ。答え合わせしようか」
「それじゃあ本題にさっさと行こう。問い:私はなんで入江君に話しかけたでしょうか」
「さっぱりわからない」
「答え合わせをしようとか言っておいて、諦めが早すぎないかな?」
「別に早くない。そうだな……黛は条件の出ていない証明問題を解ける? 僕から見れば黛の考え方は難しいよ。ほとんど話したことだってないんだから」
彼女について僕が知っていることは外面と内面の差があまりにも激しいことぐらい。それだって決定打にならない。何ならむしろ混乱してしまっている。
「そう……じゃあ、条件を追加していこうか」
「……条件ね」
なんだか話が長くなりそうだ。
「歩きながらでいいか? この後用事があるんだ」
「それは構わないよ」
彼女は頷いてそれから隣で人差し指を立てた。
「条件
「なきゃ問題にならないだろ」
一発目から突っ込みどころが満載だ。まともに解かせる気はあるのだろうか。こっちはそれなりに気になっている。おちょくられただけとかだったらしばらく立ち直れそうにない。
「次は?」
「そうだね……条件二、動機は昨日生まれている」
心当たりがない。昨日はバイトで誰にも会っていない。
「まだ駄目だ。次」
「それでは条件三、私は連絡先を……おっと、これは答えになっちゃうね。やっぱりなしで」
彼女は濁したけれどその先は予測できる。連絡先を入手した方法だろう。気になっていたことだ。彼女はいったいどうやって僕の連絡先を知ったのだろうか。しかもそれは、今回の彼女が僕に係ることに決めたことに直結しているらしい。
校門を跨ぐ。ついでに黛に尋ねる。
「黛、家はどっちだ?」
「家にはまだ帰らないから大丈夫。しばらくはついていくよ」
「そうか。じゃあ次の条件」
「はいはい。続いて条件四──」
彼女の告げる条件が数を増していく。そのどれも気になるところをギリギリよけるもので彼女の言う理由にいまいち結びつかない。
その間に学校前の坂を下って、橋を渡って、砂利道を歩いて、条件が九つを数えたあたりで目的地の喫茶店『三島コーヒー』が見えてきた。入り組んだ住宅地に潜むこの店は、近くの人間からはそこそこの需要がある。結局、彼女の問いの答えがわからないまま、店の目の前についてしまった。
「ごめん、俺はここで。バイトだからさ。続きはまた……」
「うん時間切れだね。じゃあ、最後にもう一つだけ」
彼女が俺の勤務先の喫茶店を指す。
「条件十、私たちは同じ場所に向かっている」
彼女の言葉は自分が昨日見た人影が幻でないことを意味していた。昨日の面接は幻じゃなかった。彼女が朝、ちらりと僕を見たのは気のせいではなかった。自分の想定にすべてチェックマークが付けられていくようだった。
「ということで、今日から同じバイトとして働くことになりました~」
「嘘だろ……」
「嘘じゃないって。ほら、バイト先のグループにも入ってるし……って聞いてる?」
カメラ越しに話しかけるみたいに彼女が手を振った。まるで現実が画面の向こうに行ってしまったみたいだった。この戸惑いに折り合いをつけることができるのはたぶん相当先になる。そう確信した。