混乱したままの脳内ではあったが、更衣室に入ると自然と体が覚えている動きをしていた。制服からロッカーに入れておいた制服に着替えて、それから入れっぱなしのワックスで自分の前髪をどかした。朝は整える時間がないからそのままだけれど、バイトの時は多少手間だがこうすることにしている。目が隠れたままというのは接客をするうえであまりよくは思われないし、コンプレックスの一つである鋭い目つきだってここではメリットだ。なんて言ったって変な客に絡まれなくて済むからな。
小さな鏡で出来栄えを確認してから、ロッカーのカギを閉めてそれからダグアウトに顔を出した。店長が事前に言ってあったのか、何人か人が集まっている。その中心にはもちろん黛がいて、バイト用なのか髪を後ろで縛ってポニーテイルにしていた。「お疲れ様でーす」と適当に挨拶をすると形式通りの『お疲れ様です』が返ってくる。
「うん、じゃあこれで今日はこれで全員だね」
店長こと三島さんが頷く。誰よりもここの制服が馴染んだおじさまといった風情の男性だ。
ここにいるのは黛を入れて四人。どうやら僕が最後だったらしい。この店はそれほど広いわけじゃない。平日にこれだけの人数がいれば十分に回ってしまう。むしろ黛が新しく入ったからそれだけ余裕を持っているのだろう。
「今日から新しく入ってもらう黛さん。軽く挨拶をよろしく」
「はい。黛玲子です。入江君と同じ高校で、クラスメイトです。精一杯やりますが、初めてのバイトで、わからないことだらけなので、いろいろと教えてください」
よろしくお願いしますと頭を下げる黛。僕ともう一人のアルバイト、山川はぱちぱちと軽い拍手をした。彼女は我先にと手を挙げる。
「じゃあ入江は放って置いてもいいね。私、山川! 下の名前は美しい海と書いて
バッと明るく自己紹介。眼鏡とお下げが特徴の山川は僕らと同じ高校二年生。通う高校こそ違えど年が同じだから比較的やりやすい部分があった。
「よろしく、山川さん」
「おっと、つれないか。芯の強い女を連れてきたな、リーダー」
山川が肩に手を置いてくる。僕は「いいや」と首を振った。
「連れてきてないよ。僕だってさっき聞いたんだ」
「へえ、それは運がいいのやら悪いのやら……」
含みのある言い方をする山川に「どうして?」と黛が問う。
「だってこんな見つけにくい場所で働くのって、見つかりたくないか、サボりたいかのどっちかでしょ?」
「……山川君? 後でちょっと話があるんだけど」
「おっと、いっけね。店長、冗談です。三島カフェジョークだから、これ」
「……ならいいけどね」
店長がふとため息をつく。山川はそれなりに要領がいいけど、そういうところがある。店長も手を焼いているのだろう。
「話を戻すけど、知り合いがいる方が楽って人もいるし、逆もまたあるじゃない? レイちゃんはどっちよ」
人差し指で黛を指さした。客の前でもやりそうだなとちょっとひやひやする。てかレイちゃん? いきなりあだ名かよ。クラスでの黛を見ていないからできる芸当だ。黛との距離の詰め方グランプリ初代王者に輝ける速度だった。
普段の黛は奥手。こういうタイプは苦手かと思った。心配ではあったが、特に気にした様子はない。普段通りの彼女は顎に指を添えて少し考えて、それから発言をする。
「んーどっちもどっちかな。でも、入江君が前髪を上げてるのを見れたのは良かったかも」
「ん? どういうこと?」
山川が僕を見る。自分のだらしない部分だから、あまり積極的に言いたくはない。けれど別に隠すことでもないから答えることにした。
「学校だと前髪下ろしてるんだよ。昔から朝はダメでな。準備できないんだよ」
「へぇー、意外。夜だとしっかりしてるのに」
「だからこっちに来てビックリしたの。学校でもそうしておけばいいのに」
「早起きができたら考えておくよ」
適当に返事をした。多分、考えることは一度もない。間違いなく早起きできないからな。
話が一区切りしたところで店長が二回手を叩いた。そろそろ仕事を始める意思表示だろう。
「じゃあ仕事をしようか、山川君はホール。入江君は黛さんに簡単に仕事を教えてあげて」
「教えるのは店長じゃなくていいんですか?」
「入江君なら大丈夫だ。山川君が教えるならともかくね」
「その言い方は山川が傷つきますよ~」
「山川がそうやって自分で言ってるうちは大丈夫だな」
「ぶー」
山川はふてくされながらズカズカとホールへ向かっていった。店長も厨房へ引き上げていく。それから僕は簡単なことから黛に教えた。注文の取り方、お客さんとの接し方。店長へのオーダー伝達、その他もろもろ。彼女はやっぱり呑み込みが早くて、二週間もすれば僕と同じぐらい仕事ができるようになるように見えた。
客が掃けて、バイトも終わりに近づいた頃。僕たちは皿洗いを終えて、食器を拭いていた。厨房には二人だけ。店長と山川がホールへ出ていて、やけに静かに感じた。
沈黙に押しつぶされそうで、少し苦しい。僕は耐えきれなくて、打開策をとして気になっていたことを一つ彼女に聞いてみることにした。
「あのさ、黛はどうしてバイトをしようと思ったんだ」
「どういうこと?」
「志望動機だよ。店長になんて言ったのかなってさ」
黛がバイトをする理由。昨日、面接をしていた彼女を幻と断定していたのはそれが思いつかなかったからだ。仕事をしている間、自分の中にずっとあった引っかかりを解消しておきたかった。
黛は少し言いにくそうにそっぽを向いた。てっきり話してくれないと思った。皿を拭くこと二枚分のインターバルを挟んで、彼女は一度深呼吸をした。
「……私、苦手なんだよね。人と話すの」
「そんなようには見えなかったけどな」
「気を使わなくてもいいよ。学校だといつもそうでしょ?」
確かに、普段の黛は無口だ。今日だけで去年聞いたセリフの文量をはるかに超えている。そう思うと彼女は今無理をしているのかもしれない。
「いけないとは思ってたんだけどね。なかなか、治せなくて」
「それで、バイト?」
「まあ……そんなところ」
うしろめたさがあったのかゆっくりとした声だった。
「すごいな。黛は。僕だったらずっと隠し通すよ。治したいだなんて思えないと思う」
普段下ろしている前髪と隠している目つきのことを思いながら、僕は言う。
「頑張れよ」
「そうだね、まずはお客さんとちゃんと話せるようになりたいな。ちょっと失敗しちゃったし」
確かに注文確認で噛みまくってたのを見たな。でも僕の方がもっとひどかった気がする。かっこ悪すぎて言えないけれど。
「その点入江君はすごいよね。注文もばっちりだし。なんだろうね。物怖じしないというか、胆力があるというか……。ほら、今日の昼なんかも──」
「頼むからそれだけは忘れてくれ」
そのまま二度と思い出さないで欲しい。黛は首を傾げた。
「なんで? 参考にできると思うけれど」
「あれは参考にしたら絶対にダメだ。悪い例の筆頭だよ。ちゃんとしたものを見たほうがいい。ほら、店長なんかはいい例だ」
あの落ち着いた佇まい。この店が変な立地でも保っているのはあの人が成す人徳のおかげといってもいい。黛に抱く憧れとは違う憧れが、あの人にはあった。
でも黛は首を横に振る。長い黒髪が揺れた。
「確かに店長さんは良い人だとは思うけれど、レベルが高すぎてちょっと」
「まあ、それもそうか」
「だから、私は入江君がいいの」
彼女が今朝、数学の授業中に見せたような笑みを浮かべる。今日はやけに目があう日だった。自分とは対照的なきれいで、大きくて引き込まれるようなそれに僕はすっかり魅了されてしまったと言ってもいい。
食器をしまい終えたタイミングで差し出された手。それに触れるかどうかすごく迷った。けれど比較的あっさりと下心に負けた。暖かくて柔らかい、仕事をあまりしていない手だった。
「だから、これから私にいろいろ教えてね。リーダー」
「勿論。頑張ろうな、研修生」
プロローグ、了