異世界でパン屋をしたら英雄と呼ばれた件 作:紅乃 晴@小説アカ
それは凶報だった。
アスレニア大国がイオニア山脈地下道を建造し、山脈の西側であるラーニエ地区との陸路が繋がった当初から、人族と近いエルフ族やドラフ族は、西側でしか自生しないハーブやスパイスを元に貿易を行なっていた。
それが近年、軍備化に突き進むアスレニア大国の強行な侵略行為が進み、親人族派だったエルフ族やドラフ族からも人族に対する不満や疑心は生まれつつあった。
現にエルフ国は数回、アスレニア大国軍からの侵略行為を受けているし、俺が捕まった時も戦時中で休戦協定が結ばれたのは一年後だった。
魔王が復活し、アスレニア大国とエヴロビ連邦が共同戦線を構築。エルフ族も親人族派として自国を経由して西側へと入ることを許可していたわけだが、両国の粗暴な態度についに不満が爆発。
エルフ国は突如として…いや、積もり積もった恨みつらみを爆発させ、両国軍の退路である地下道への道を封鎖。
魔王軍との戦争状態にある軍を後方から奇襲したのだ。結果、エルフ族の裏切りにより戦線は崩壊。魔王軍によって両国の精鋭軍は瞬く間のうちに制圧されてしまった。
魔王討伐のために勇者が西側に入ったという話も聞いたが、魔族の大群を率いる魔王軍が地下道を抜け、アスレニア大国やエヴロビ連邦の市街地に侵攻してくる方が圧倒的に早い。
地下道を守るための防衛戦は全滅。魔王軍はイオニア山脈という人と魔族を隔てる敷居を越えて、人側への侵攻を開始した。
アンゼの街は、イオニア山脈から近く。そして巨大な地下道からもすぐに向かうことができるエヴロビ連邦の入り口とも言える市街地だ。
魔王軍が決めた行先がまさにアンゼの街だった。連邦内でパンの生産のほとんどを担う街でもあるし、その物資はアスレニア大国側にも多く輸出されている。
まずは敵の兵站拠点を押さえ、そこを橋頭堡としてエヴロビ連邦を制圧し、続いてアスレニア大国へと駒を進めるのが軍師として利口な選択だった。
つまり、アンゼの街を魔王軍に落とされれば終わりというわけだ。
仮に勇者が魔王を討伐したとしても、東側を制圧した魔族の対応は間に合わなくなるし、街の市民たちが犠牲になるのは明白。
アンゼの街をとにかく死守できるかどうかが、この均衡の行先を担う重要な要素となるはずなのだが…。
エヴロビ連邦には数万以上に膨れ上がった魔族の大群を凌ぐ軍事力など残っていない。
そしてアスレニア大国からの増援もまったくもって期待できなかった。大国は首都防衛で軍備を割き過ぎている。彼らからの援軍支援の申し入れもない状況だった。
迫り来る魔王軍を前に人族の重要拠点であるはずのアンゼの街は、あまりにも無防備だった。
誰も助けてはくれない。
そんな恐怖心からか、街の人々は逃げ支度を進めていた。かつては「フェルデニア最高のパンの街」と謳われていた栄光は見る影もなく、家も店も土地も、そして愛していたはずの街すら捨てて人々は逃げようとしている。
逃げても、どこにも平和も、あの頃のような豊かな日々もないというのに。
真っ暗な雲が空を覆う。
人々が暗澹たる思いで逃げる支度をしている。
だからこそ、俺は敢えて戻ってきた。
「パンを焼くぞ」
アンゼの街、俺が唯一知る変わらない店。ミューディーのベーカリー。その扉を開いた俺は、驚いた顔をするミューディー、そして大きくなった彼女の娘を見つめたまま、そう言った。
アンゼの街にいるのは女と子供と老人。多くの男たちは魔王軍との戦いに駆り出されていた。
「な、何をいってるの!?すぐそこに魔王軍が来てるのに…」
「だからだよ、ミューディー。俺はパン職人だ。それ以上でもそれ以下でもない」
持ち込んだのはフェルデニア大陸の至る所から集めてきた材料だ。小麦もライ麦もなんでもあるし、オーブンも移動式のものがある。ここに身を寄せていた当時では作れなかったものが、今じゃなんでも作れる。
「ここで逃げる。それもいい。だがここで逃げれば俺は何もかもからも逃げることになる気がするんだ」
長年使い込んだエプロンを身につけて俺はミューディーに言う。
結局、俺はアンゼの街から逃げた。
多くの国からも。馴染めないままで、ずっとさすらってきた。パンを作るということだけにここで生きた全てを捧げてきた。
「俺はこの時のために歩んできたんだよ、その瞬間にパンを焼くために」
誰に言われることもなく、誰に命じられることもなく、俺は俺が信じるがままに、俺が望んだままに焼き続けてきた。だから今ならわかる。俺がなぜ、この世界で再びパンを焼き続けることができたのかが。
「意味がないのかもしれない。もしかすると死ぬかもしれない。だが、そんなことよりも…俺はパンを作る」
迫り来る魔王軍。迎え撃つ軍勢も、打ち払う武器もない。だが、俺にはパンがある。魔王軍の軍勢?そんなことよりもパン作りだ。
生地の整形に入った俺は、魔王軍に向けてパンを焼く。それしか俺にはできない。けれど、それが俺にできることだと思えるから。
気がつくと、俺が準備したパンをミューディーが釜に入れ始めていた。もうすっかり老いたかつてのパン職人たち、そして残された子供たちも俺のパン作りに感化されたのか、次々と手伝いに加わってゆく。
それはまるで、俺がアンゼの街に来たばかりの頃のような光景だった。
「私は、一人のパン職人として、貴方を尊敬していた」
ミューディーは生地をたたみ、こねながら呟く。彼女は気付いてなかった。その憧れに自分がどう思っていたのか。恋なのか、愛なのか、それもわからないまま、はちゃめちゃにパンを作ってゆく俺の姿を見ていたのかもしれない。
「けど、やっとわかった。私は貴方に認められたかったんだ」
〝…な…な…なんだ…このパン…〟
〝ふふーん!美味しいでしょう?アンゼの街じゃ1番のベーカリーと言われてるんだから当ぜ〟
〝不味すぎる〟
〝な、なななな…なんですってぇ!?不味い!?私のベーカリーが!?もう一回言ってみなさいよ!!〟
〝すまないが厨房を貸してくれないか?それとパンの材料もだ。余り物でいい〟
〝は、は…?〟
「パンを作るぞ!!!!!」
きっと、あの瞬間から。
ミューディーの心に灯ったのだ。
アンゼの街のパン職人として、必ず見返してやると言う職人としての意地が。その技量や、全く新しい知識に圧倒され続けたけれど、それでも見返してやりたかった。
五年と言う空白の月日が、彼女の中で輝いていた職人としての魂を曇らせたのかもしれない。それを今になって思い知るなんて、遅すぎるし、酷だとも思った。
けれど……それでも。
「どう?私も立派な職人になったでしょ?」
「ああ、お前は立派なパン職人だよ、ミューディー」
その言葉が聞けただけで、彼女の中に長年あった陰りは綺麗に消えて無くなったのだった。