「何だか眠い……」
眠気。それさえもフラピアはあの憎き白い空間では感じることを許されなかった。だから、この睡眠欲が良くない傾向にあるとは薄々自覚は出来ていても、その快感に抗えない。百年もの間、人らしくあることを許されなかったフラピアにとってこの眠気はあまりにも甘美だった。
段々と瞼が重たくなる。凍死の二文字が脳裏によぎる。それでも気持ちが良いのだ。ようやく眠ることができるのだ。もしかしたら普通に起きて、そして、元の暮らしに戻っているかもしれない。
思考が緩慢となり、かつてをフラピアは思い起こす。フラピアの記憶は個人情報に関する粗方がかき消されていたが、それでも全てが消され切っていなかった。ごくごくわずかに残った記憶、ほとんど残っていないそれらはとても平穏で安らかなもののように思われた。普通の人として暮らしたかつての記憶、顔も声も何もかも消えたかつて自分と共にあった人々の姿がうすぼんやりとだけ脳裏によぎる。
このまま意識が途絶えれば、元に戻れないか。忘れてしまった昔に戻っていたりはしないだろうか。
そういった期待もないまぜにしながら、心地よい眠りへとフラピアが落ちようとしたその時だった。
視界を黒い光が焼くと同時に額に激しい痛みが走る。
「うわー!」
思わず叫ぶと同時に目を開くと、怪しげなオーラを纏った御札が額に張り付いていた。
「ええー!? 何で!? 何でー!?」
額から御札を引きはがそうと両手で全力を込めて引っ張るも、御札はびくともしない。終わりへ向かおうとしていたフラピアの安寧は突如として妨げられた。
「何これ何これ!? 何で私にくっついてくるのー!?」
フラピアは泣きそうになる。せっかく理不尽な空間から抜け出せたと思ったのに、今度は御札が自分を虐めて来る。こんな紙切れ如きにいいようにされている自分が情けなかった。
「とーれーてー!」
怒り。フラピアの心に今、怒りが芽生えた。情けない自分への怒りが今、フラピアの力を全開する。フラピアの怒りの力を前に、御札は剥がれるだけでは済まない。剥がれると同時に形状すら維持できずに分子一つ残さず消滅する。
「と、取れ……ってなくなっちゃった。何だったの……?」
力を精いっぱいに籠め、指先が痛くなるほどに握りしめていた御札が瞬間的に消滅したことでフラピアは呆気にとられる。千切れた紙片すら何処にも残っていないのだ。果たして自分は本当にさっきまで剥がれない御札と格闘していたのか。それすらもフラピアは自信がなくなりそうになった。
呆然と手を見つめるフラピアの視界の端に、ふと黒いブーツが映る。ぽかんと口を開けたままフラピアが顔を上げるとそこには同じようにぽかんと口を開けてこちらを見つめる長身の女性がいた。
年の頃は二十には届かないほどだろうか。何処か陰鬱な雰囲気を醸し出しているカッコいい顔立ちをした美人の女性だった。ニット帽からはみ出た前髪に半ば隠れた瞳はこちらを呆然と見つめている。
「人だー!」
フラピアは先ほどまでの出来事の全てを忘れ、目の前に人間が立っているのを見て感動で全身を震わす。人間を画面越しでなく、直接自分の目で見るのは何年ぶりだろう。それもいきなり自分に無茶ぶりを強要するような恐るべき存在ではない、ただただ近くにいるだけの無関係な人間と出会えたことがフラピアは嬉しくてしょうがなかった。
自然と瞳からは止めどなく涙が溢れ出て来る。白い空間にいた頃、悔しさで泣いた事は何度もあったがこんなに嬉しい気持ちで泣けたのは随分と久しぶりの事だった。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
さらに何という事だろう。ぼそぼそとした小さな声でどもりながら、目の前に立つ女性は自分の事を心配してくれるではないか。
百年間、理不尽に閉じ込められた空間の中でいつ罵倒されるかもわからない日々を過ごしていたフラピアにとってその言葉だけでも感涙ものだ。
「ほら……その、これ使って」
「うう……ありがとうございます……」
だというのに、彼女はポケットからハンカチを差し出してフラピアの涙を拭ってくれる。フラピアは嬉しい出来事があまりに連続的に起こるものだから、思考回路が溶けて消える。これはもしや、天国か……? 天国に今自分はたどり着いたのか?
「さっき……あなたにくっついた御札。あれ私の。ごめんなさい……」
「うう……うう……いいんです。じぇんじぇん、気にしないでください」
ボロボロの滑舌になりながら、フラピアは目の前で申し訳なさそうにする女性へ気にしていない旨を告げる。これだけ心を癒してくれた目の前の女性には感謝こそすれど苛もうなどという気持ちは欠片も起こらなかった。
「それで……その、あなたはどうして夜で冬なのに、そんな薄着? 寒くない? すっごく震えてる」
フラピアは白いノースリーブワンピースにサンダルしか身に付けていなかった。下着すらもなく、中には何も着ていない。寒暖のない、体の代謝に伴う汗や排泄行為もなかった白い空間では問題なかった格好も、雪が降り氷点下の屋外では死に装束に等しい。
「しゃむい」
思考レベルが幼稚園児程度まで退化していたフラピアは素直に女性へ答えを返すが、女性の方は今更ながら慌てた表情でコートを脱ぎ始める。ここは雪国だ。極稀に氷点下でも半そで短パンで意気揚々と歩く変態もいるので女性は対処が遅れたが、普通はフラピアの格好で外を出歩けば凍死する。
「あ、あの! これ着て!」
フラピアの返答を待つことすらせず、女性は大慌てでフラピアを自身が着ていた厚手のコートに強引にくるんだ。だが、フラピアの体は既に冷え切ってしまっている。長身の女性のコートにミノムシみたいに包まれたフラピアの手を女性が握っても冷たいままだ。
どうしたものかとフラピアの前で女性はあわあわと胸の前で両手を訳も分からずぶんぶんと振りながら辺りを見回すと、都合よく少し離れた場所に自販機が暗闇の中でピカピカと存在感を主張している。これだと女性は駆け出してから数秒後、フラピアの前にすぐ戻って来る。
「お財布、コートのポケットに入ってた」
ごそごそとフラピアに巻き付けられたコートをまさぐり財布を掴み取った女性は再び雪上を駆けて、いくつかのホット飲料を抱えて戻って来る。
「どれ……飲める?」
フラピアの前にお茶とコーヒー、お汁粉、コーンポタージュが提示される。
「飲み、物……!!」
フラピアの眠たげに沈んでいた瞼が覚醒し、目を見開く。代謝の存在しない白い空間内で、幾度もフラピアは飢えと渇きに苛まれた。それは小腹が空き、口が渇いた程度のちょっとした欠乏感に過ぎなかった。だが、延々と解消することの出来ない欲望だった。
何度もフラピアは何かちょっとでもいいから飲みたいなと夢想した。食べたいなとディスプレイ越しに食事を取る人間を見て涎を流した。
そのフラピアの前に、今、飲み物があるのだ。
「え、えと。どれにしよう? どれにしよう?」
人からのもらい物であるという事をすっかり忘れ遠慮をするだけの自制心は吹き飛んでしまい、フラピアは貰えることが前提で目の前の飲み物たちに目移りする。
高揚した気持ちは、声と態度にも現れる。弾むような口調でリズムを取りながら飲み物迷い、ニコニコと満面の笑みを浮かべるフラピアを見て、心配げだった表情の女性の口元が微笑ましさで緩んでいく。
「欲しいなら、全部飲んでいい」
「ホントですか! いいんですか! じゃあ、じゃあ! まずはねー、緑茶!」
コートに包まれたフラピアはもそもそと動いて手をコートの中から伸ばし、緑茶のペットボトルを受け取る。
「ふふー! まずは日本人として、お茶から飲みたいと思いますっ!」
ウキウキとししながらペットボトルの蓋を開けようとするフラピア。だが、かじかんだ手では力が入らず、開けることが出来ない。見かねた女性が近くのベンチに飲み物を置いてきてペットボトルの蓋を開けてくれる。
「お茶の匂い……」
百年ぶりに嗅いだお茶の香りで、フラピアは全身に感動が走る。この心地よい余韻にいつまでも浸っていたい気持ちもあったが、フラピアはどうしても舌でお茶を味わいたくてしょうがなかった。
ゆっくりと舌を湿らす程度の量のお茶を口に含む。
「おいちい」
あまりの感動に、フラピアはまた目から涙を溢れさせた。ずっとずっと、使われることのなかったフラピアの味蕾に、お茶の味が突き刺さる。
もっと飲みたい。急いたフラピアはお茶のボトルを傾けて一気に口内へとお茶を流し込む。だがそれは悪手だった。
「むぐぅ!?」
買ったばかりのお茶は未だに高温を保ち続けていたのだ。フラピアの口内は熱さに悲鳴を上げる。それでも、フラピアはお茶を吐き出すような真似はしない。喉をごくりごくりと動かして全てを胃の腑へと流し込んだ。生まれる途方もない満足感。
「舌がひりひりしゅる……」
「あ、慌てて飲んじゃ、駄目」
「はい……ゆっくり味わいたいと思います」
舌のひりつきもフラピアにとって心地よかった。そのままフラピアはお茶を飲み、お汁粉を飲み、コーンポタージュを飲み、コーヒーすらも飲み干してしまう。量にして一リットル近いだろうか。あっという間にフラピアは全てを飲み切ってしまっていた。
「お腹がタプタプします」
「そ、そそっそんなに飲んで大丈夫?」
「平気ですっ!」
多幸感に包まれながらフラピアはお腹をさする。大量にホット飲料を摂取し、コートがその熱を逃がさないようにしてくれたおかげでフラピアの体はぬくぬくしだしていた。それもまた多幸感を煽り、先ほどとは別の意味でフラピアは眠気を覚え出す。
「あの、コートも飲み物もありがとうございました」
「その、気にしないで。変な御札ぶつけたお詫び、って思ってくれればいいから」
「そうだ。あれは一体何だったんですか?」
フラピアまで自立して飛行して来てはいつの間にか消失してしまった怪しげな御札。科学文明を創り上げたと思っていたフラピアは心中に疑問符を浮かべる。自分の創った世界なのに、知らない要素があるとはどういうことなのだろう。
「あー……あれは私の物じゃない。そのー……変な宗教団体に勧誘されて、それで貰って……どうしようって持ち歩いてて……何で御札が飛んだんだろう?」
もごもごと言い訳をするように女性は話す。言い分を聞く限り、彼女の落ち度はフラピアの聞く限りなかったので、その態度がフラピアは不思議だった。フラピアは御札をぶつけられたことを全く気にしていなかった。
「……寒い」
風が一瞬びゅごうと強く吹き、雪が視界を一時的に奪う。そのさなかに女性はぽつりと呟いた言葉をフラピアは聞き逃さなかった。女性はコートを脱いでもなお分厚いセーターに手袋、ニット帽を着ていたがそれも氷点下の屋外に居続けるには物足りない装備だった。
「あ、これ返しますよ」
「だ、駄目。あなたにはそれがいる」
フラピアは全身に巻かれたコートを返そうとするも、女性はフラピアの腕を掴んで止める。
「家は、近い? それまでは……貸す」
「い、家……」
家などフラピアにはなかった。さっきまでの多幸感が嘘のように現実が冷たくフラピアの心に突き刺さる。家も、お金も、衣服も何もない。目の前の女性の親切心で少し長生きできたが、それがなければフラピアは翌朝にでも遺体となって発見されていただろう。
俯くフラピアを見て、女性は何も言わずにフラピアに巻き付けられたコートへ手を突っ込んで携帯電話を取り出す。
「タクシー、一台。白峯の湖です」
しばらくタクシー会社の人間と話した後、女性は表情をこわばらせながらこちらを見下ろす。
「事情は知らないけど、その、私の家に来て」
「え」
「あー……と。ほら、ね?」
何が「ね?」なのか、フラピアには分からなかった。