タクシーに乗り移動する中、フラピアは車窓からの景色で無邪気にはしゃいでいた。何しろ何もない空間に百年もの間ずっと幽閉されていたのだ。ただ信号機が赤く灯って何台か車輛が並ぶさまやショッピングモールの眩いビル灯り、人が歩道を何人か歩いている風景ですらフラピアにとっては興奮隠せぬ景色だった。
「ばいばいお嬢ちゃん。また今度な」
「はい! 乗せてくれてありがとうございました!」
そんなフラピアの姿を運転手と女性がニコニコ眺めながら十数分、興奮冷めやらぬフラピアは運転手が振る手の平へ律儀に手を振り返しタクシーが去っていくまで目で追い続けた。
「よし、来て」
フラピアがタクシーを見送るまで待ってくれた女性はそう言うと、フラピアの歩幅に合わせるようにゆっくりと歩きながら十数階建てのマンションへとフラピアを案内する。若い女性が一人で暮らすには立派なマンションだった。
「おっきなマンションですね! ご家族と一緒ですか?」
「一人。昔は一緒に住んでたけど、仕事で両親は引っ越した」
オートロックを潜り抜け、エレベーターを降りた先は屋内通路になっていた。清潔感溢れる通路を少し歩き、入り口の鍵を開けて女性はくるりと振り返る。
「入って。どうぞ」
「お邪魔します」
室内も外観からの印象に違わず広々としている。一人だと逆に寂しくなりそうなくらいだった。
「コート頂戴。乾かすから。服は……多分小さい頃のがある」
雪に転がりはしゃいでいたフラピアの服は水を吸っていた。そのせいで巻き付けられたコートにも水が染みてしまっていた。女性の言うがままにコートを脱いだフラピアは、自分がコートを汚してしまったことにようやく気が付く。今更ながら、服に染み込んだ水が体温で生ぬるくなったじっとりとした感触に気味悪さを覚えた。
「あの、こんなにしちゃってごめんなさい……」
これだけ親切にしてくれた人物へ失礼を働いてしまったことが、フラピアの精神に罪悪感を根深く植え付ける。果たして自分はここまで涙もろかったのだろうかと思いつつ、フラピアは潤んだ眼を隠すように頭を下げてコートを女性へと返した。
「事情は後で聞く。お風呂入って。このままじゃ風邪を引く」
今のフラピアは親切を押しのけられるほど、心が強くなかった。結局、フラピアは謝罪の返事は貰えないままお風呂場に押し込まれた。じっとりと肌に張り付いた衣服を脱ぎ棄てて、機能的なユニットバスに溜められたお湯に身を沈める。百年ぶりのお風呂はとても気持ちが良かった。全身がほかほかと温まっていく。浴槽の傍についた液晶パネルからリラクゼーション映像と音楽が流れ、フラピアの視覚と聴覚を癒してくれる。罪悪感に沈んでいたフラピアの心も、いつの間にかお湯の温もりに癒されていた。
「うえうあー……」
自分についた大きなお胸がお湯に浮かぶさまに感心しながらぼんやりと眺め、意味もないうめき声を上げつつ過ごしていると、液晶画面の端っこに映されているデジタル時計がふと目に入る。気付かないうちに、入浴してから一時間も経過していたらしい。
「うわ。いつの間にかこんな時間経っちゃってる」
あまり長湯し過ぎて女性を待たせるのは失礼だ、そう思いフラピアが慌ててお風呂場を出ると女性が脱衣所で待ち構えていた。
「これ、押入れ探してたらあった。下着も古いけど包装開けてない新品が隠れてた」
お湯につかっている間にあげたうめき声やら鼻歌を聞かれていたのかとフラピアがぎょっと固まっていると、女性は気にした様子もなくバスタオルをこちらへ差し出してくる。フラピアが初めて自らの長髪を拭くのに手間取っていると、女性が手を貸してくれた。
「あの、ありがとうございます」
「こんなに長いのに、今までどうしたの?」
「お風呂、入ったことがなくて……」
フラピアの言葉に女性は小さくえっ、と呟く。フラピアも遅れて結構な失言をしてしまったと気付くが嘘ではない故に弁解の言葉が浮かんできてくれない。
「……これからは毎日入るようにした方がいい」
「あー……はい。ごめんなさい」
気まずい雰囲気の中、フラピアは全身を拭き終えて女性から渡された衣服に手を付ける。
下着に手間取るフラピアが再度女性の手を借りて着けてもらうと、下着はぴったりと体に合ったものの上下のパジャマは丈が余ってしまった。フラピアが袖を捲ろうとすると、そのままでいいのだと女性に止められる。
「駄目、なんですか?」
「駄目」
「どうしてですか?」
「駄目」
「あの……」
「駄目」
理由は教えてくれなかったが、頑なに止められるのでフラピアは諦め袖をそのままにすることにした。ちょっと意味が分からない女性の拘りに引っ掛かりを覚えるがそれでも着替えまで恵んでくれたのも確かだ。パジャマの袖をペラペラと中空にぶらつかせながらフラピアは頭を下げる。
「この服も含めて色々、親切にしてくれてありがとうございます」
「気にしないでいい」
「お名前伺ってもいいですか? お互いまだ自己紹介してないですね」
お風呂に浸かっている時に思い至ったのだ。フラピアにとってはあまりに久しぶりの現代文明のあれこれに気を取られ過ぎて、人としての常識的な礼儀に思考が回り切らなかったとフラピアは反省したのだった。
「私は
「私は……」
フラピア。フラピアはそう名乗ろうと思ったが、口をつぐむ。確かにそう名付けられた。だが、あの自身に災難ばかり振り撒いてきた存在から付けられた名前を名乗りたくなかった。
「名前を名乗る前に、私の身の上を話してもいいですか?」
荒唐無稽な話と一笑に付されるかもしれない。頭がおかしいと拒絶され、退去を求められるかもしれない。それでもここまで親切にしてくれたのだ。フラピアは
なのだけれども。もし、拒絶されたらと考えたフラピアは背筋が凍りつくような恐怖を覚える。手が震えてくるのを悟られないよう、フラピアはそっと腕を後ろに回した。袖が長いのが今はありがたかった。
「立ったままじゃ疲れる。こっち」
フラピアの震えを知ってか知らずか、
「じゃあ……どこから話そう」
フラピアは今までの自分が被ってきた出来事を
「私……私なんかが人類の命運を左右しなくちゃいけないなんて……そんなの気が重すぎなんですよー!」
「大変だったね」
「そう! 私すっごく大変だった! そう思いますよね篠縣さん!」
こたつの卓を、袖の中に隠れた小さな手でぺふぺふと叩きながらフラピアは声を張り上げる。最初は対面に座っていた二人だったが、フラピアの弁舌に熱が入るにつれフラピアがどんどん
「私のお話をちゃんと聞いてくれて安心しました。冗談だって笑われると思ってましたから」
「正直全部受け止めきれてはない」
「でも、私は嘘を言ってないんですよ? 神として、この世界の人類を救ったのです!」
「神様」
「それで名前の話に戻るのですが、そんな悪逆非道な女神に付けられた名前を名乗るのが癪なので、篠縣さん。私の名前付けてくれませんか?」
「私が?」
「篠縣さんは訳も分からない私のことを拾ってくれて、服も貸してくれて、家にも招いてくれて……とにかく感謝してもしきれません! そんな篠縣さんに付けられた名前なら私も自信を持って名乗れます!」
「え……時間が欲しい。そんなすぐには無理」
「あんまり重く考えなくていいですよ? 見た目からとか、場所からとか、パッとつけてくれてオッケーです!」
「見た目……」
「犬……」
「じゃあ今日から私は犬です!」
「え、え。そんな安直なのでいいの? 姓名判断とか調べてからの方が……」
「いいんです! これでもう私はフラピアではなくなりました! 清々します!」
安直どころか、人に付けるような名前ではない。だが、それでもあの負の象徴たる女神から与えられた名前から解放されたと感じたフラピア改め犬は心の底から新たな名前に感謝していた。
「いやでも、流石に犬は……せめて犬子とか」
「じゃあ犬子で! ほら、呼んでみて下さい!」
「い……犬子?」
「えへへー!」
果たしてこれでいいのか。おずおずと名を呼んだ
可愛い。思わず伸びた手が犬子の頭頂部に乗り、気付かぬうちに
数十分ほど、ただただ頭を撫で続ける時間が続いていく。いつの間にか犬子は頭を抱えられ、
「あの……私、本物の犬ではないのですよ」
「んー……」
今更ながらに恥ずかしくなってきていた犬子だが、
このまま時間が過ぎていくのかと思われた時。小さく
「その……お腹空いてない? 私、夕ご飯作る」
「食べます! 手伝います!」
「偉い。よしよし」
「えへへー……って、何か馴らされてる気が……?」
家族向けのマンションだけあり、
「上手い。料理好きだった?」
「うーん……なのかも?」
「覚えてないの?」
「はい……誰かに料理を振舞ったような気が、するんですけど」
「そっか」
犬子が男だったような気がすること、自分に関する記憶が失われていることを
二人で囲む食卓。本当は一人だけの食事だったので
だが、犬子にとっては百年ぶりの食事だった。スーパーで売っている固形ルーを利用した普通のカレーライスを口に運んで、犬子は涙した。
「そんな、美味しい?」
「おいじいですぅ……かりゃいですぅ……」
「次は中辛じゃなくて、甘口にしよう」
「はいぃ……でもおいしいですぅ……」
一口一口を味わい尽くしながら犬子はカレーライスをたいらげおかわりをし、サラダを頬張り、ミカンを口に運ぶ。満腹時の多幸感を犬子は百年ぶりに味わう。それは、至福だった。暖房の効いた部屋でお腹いっぱいご飯を食べて、ただただのんびり座って満たされた感覚に浸る。普通の何処にでもある日常の一幕だが、犬子にとってはかけがえのない時間だった。
「あのさ。戸籍もお金もない犬子」
「うえ!? いきなり罵倒ですか!?」
そんな幸福感はまさかの隣に座る
「あ、いや……でもない。でしょ?」
「まあ……はい」
テンションが一気に下がり、しょぼくれた犬子。もうちょっとの間だけ、あの幸福感に浸っていたかったなと犬子は現実逃避する。
「私もどうしたらいいか分かんない、けど……どうにかなるまでここにいていい」
「いいんですか?」
こくりと頷いて見せる
「ありがとうございます! この恩は絶対の絶対に返しますから!」
「うん」
犬子は目の前の
これにてハッピーエンドでいいのでは?