コミュ障JDに捕獲される追放TS女神   作:am56x

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第五話:襲撃される。

 大きく柔らかな心地よさに包まれた幸福の中で犬子は目を覚ました。

 

「あれぇ……いつの間に」

 

 百年の孤独の中では睡眠すら休息として許されなかった。白い空間内部にあって犬子は疲れを覚えることを許されず、ただかの女神のために働くことを求められていた。

 

 それ故に犬子にとって目覚めたばかりの微睡みはあまりにも甘美な感覚で、眠るにしても起きるにしても惜しい気持ちで揺らいでしまう。ふわふわのベッドの温もりと、篠縣(しのかた)伊火子(いかこ)の温もりが犬子を再びの眠りを誘う。

 

「ん?」

 

 目の端に映った篠縣伊火子へ犬子はゆっくりと目の照準を合わせていく。それは紛れもなく篠縣伊火子で、すうすうと静かに寝息を立てて犬子の隣で眠っていた。あまりの驚きで、犬子は声を出すことも出来ずに大口を開けて震えはじめる。

 

 どうしようと犬子は焦る。篠縣伊火子は自分より三十センチ以上大柄な美人なお姉さんだ。そんな綺麗な女の人とベッドを共にするなんて恩人相手にあまりに失礼である。手を出してはいないだろうか? うっかり触れてしまってはしないだろうか? そもそも男相手にこんな無防備に眠る篠縣伊火子は無防備に過ぎる……焦りで空回りしていた思考が、自らの胸元の谷間を見て思い出す。今、自分は女だった。

 

「でも、やっぱり問題な気がする」

 

 おそらくこんな経験、初めて経験している。何となくだが、確信に近い思いを抱きながら犬子は煩悶とする。隣で眠る篠縣伊火子の体臭の甘さと体温の暖かみは魅力的で、犬子はずっとくっついていたかった。

 

 心中に浮かぶ強烈な誘惑に後を惹かれながらも、犬子はベッドの中でもぞもぞと小さな体をばたつかせてその場からの離脱を図った。欲望に負けない犬子の誠実さが光るが、篠縣伊火子は犬子の離脱を許さない。

 

「えっ」

 

 起こさないようにとゆっくりと動いていた犬子に、目を開けた篠縣伊火子ががばりと覆いかぶさって来る。

 

「えー! 起きてるのに何でー!」

「逃がさない、犬子」

 

 ぎゅうと抱きすくめられ、犬子は顔を真っ赤にしながら暴れるもあまりに体格差が大きすぎた。

 

「あにょ、あにょ……当たってる。当たってますぅ」

「ん? 何が?」

 

 恥ずかしさに呂律も回らない犬子の胸元に顔を埋めながら篠縣伊火子はにんまりと笑みを浮かべる。綺麗な顔立ちに似合わないだらしのない笑顔だった。けれど大層幸せそうな笑顔だったので、犬子はもうこのままでいいやと思った。

 

 しばらく無言でいた二人だが、篠縣伊火子の方から口を開く。

 

「昨日。いきなり犬子が寝ちゃったから、ベッドに運んで……そのまま私も寝ちゃってた」

「そうだったんですね」

 

 嘘だった。だが、それを知る術は犬子にはない。

 

「こんなに気持ちよく寝たの。すっごく久しぶり」

 

 そう言って微笑んだ篠縣伊火子があまりに可愛らしく、犬子は耳が赤くなっていくのを自覚してしまう。

 

「照れてる?」

「知らないですっ!」

 

 そっぽを向いて反意を示す犬子があまりに愛らしく、篠縣伊火子の手が犬子の頭に乗る。その手を犬子は拒否することなく、ただ撫でられるに任せる。犬子にとって篠縣伊火子はようやく得られた安寧の象徴であり、幸福の代名詞になりつつあった。

 

 身を寄せ合い、頭を撫でられている間、犬子は幸せを肌で感じ取っていた。

 

 ずっとこの人といられたら……そんな思いがふと頭を巡る。けれど、まだ犬子は篠縣伊火子のことについてはあまり知らない。生い立ちや交友関係、食べ物の好み、趣味等々……もっともっと、篠縣伊火子のことが知りたいと犬子は思った。

 

 無言の時間が数十分と続いている中、犬子はもそもそと動いて胸元に顔を埋めている篠縣伊火子へと目線を下げる。

 

「あの。篠縣さん」

 

 犬子の胸に顔を埋めている篠縣伊火子は何処か恍惚とした表情を浮かべていた。何だかいけないモノを見たような気がして犬子は心拍数が上がっていく。思考力が溶けて消え、何を言おうとしたのか分からなくなる。それでも、ここで立ち止まりたくなかった。篠縣伊火子ともっと仲良くなりたかった。その一歩を踏み出したかった。

 

 だから顔を真っ赤にしながら、思考力の溶けた頭で本能の赴くままに犬子は口を開く。

 

「あの、伊火子さんって……呼んでもいいですか?」

 

 口から紡ぎ出された言葉は、犬子の篠縣伊火子との距離を縮めたいという想いをそのままに構成されていた。果たして篠縣伊火子は受け入れてくれるだろうか。

 

流石に断られるとは思わなかった。けれど、引かれるかもしれない。そんな犬子の懸念は目をキラキラと輝かせ顔を高速で縦に振動させている篠縣伊火子が払拭してくれる。

 

「さん付けもいらない。伊火子でいい」

「あ……じゃあ、い、伊火子?」

 

 それは篠縣伊火子が豹変するトリガーとなった。何故か篠縣伊火子はものすごい勢いでその場に立ち上がる。

 

「い、犬子……!」

「あの、伊火子? 顔が怖いよ?」

 

 先ほどまでの目を輝かせていた篠縣伊火子が何処へ行ったのかと思えるほどに今の彼女の顔からは感情が消え去っている。機嫌を損ねてしまったのか? 何が篠縣伊火子の琴線に触れてしまったのかが分からなくて犬子は恐怖と困惑で身動きが出来なくなる。

 

そんな犬子をそのままに篠縣伊火子はベッドから飛び降り、何故か床に伏して四つん這いになる。

 

「うう……うぐぐ……」

「伊火子!? だ、大丈夫!?」

「だい、丈夫……」

 

 篠縣伊火子の喉から辛うじて紡ぎ出されたか細い声。とても大丈夫には見えなかった。何かを必死に堪えているような篠縣伊火子は震える手を犬子へと伸ばす。もし、その手の誘いに応じれば闇に呑まれるような危険な予感が犬子に警鐘を鳴らすが、もっと仲良くなりたいと奮起したばかりの犬子はここで篠縣伊火子を見捨てたくなかった。

 

ゆえに、勇気を振り絞って手を差し伸べる。犬子の細く小さな手が、痙攣にも等しい震えを帯びた篠縣伊火子の手に触れた瞬間だった。

 

「犬子ォ!」

「い、伊火子!? 突然何を!?」

 

 野獣のような咆哮を上げ、篠縣伊火子はベッドにいた犬子を一瞬の内に床へと組み伏せていた。引っ張られた感覚はなく、瞬間移動でもしたかのような錯覚を覚える程だった。最早何が起きているのかが犬子は分からない。どうしたらいいのかも分からなかった。

 

 犬子は縋るように自分を組み伏せている篠縣伊火子の顔を見つめる。その瞳は犬子をまるで獲物でも見るように爛々とこちらに眼光をぶつけてきていた。犬子は食べられる、そう直感し身を震わす。

 

 ……だとしても。ここで人生が終わるとしても。一日足らずとはいえ平和で穏やかな生活を見せてくれた篠縣伊火子になら、それでもいいかと犬子は思ってしまった。

 

 怖くて口を開くことすらも出来ないけれど、犬子は“許し”を篠縣伊火子へ表情で伝えようと微笑んで見せる。百年の苦行の果てのご褒美は十分に楽しめた。その感謝を表情に精いっぱい込めて犬子は笑った。

 

「あっ……ちょ、ちょっとお腹痛いからトイレ行ってくるっ!」

 

 悲愴な覚悟を決めた矢先、篠縣伊火子は犬子の目では捉えられない程に超高速で目の前から消え去った。

 

「お、お気をつけてー……」

 

 呆然としながら犬子は先ほどの奇行は腹痛に苛まれたが故だったのかと自分を納得させる。腹痛の記憶を探るも、犬子はああも取り乱すほどの代物だったとはとても思えなかったが、痛みというのは個人差があるものだ。もし再び篠縣伊火子があのような奇行に走り出したら、きっとお腹が痛いのだ。

 

一つ篠縣伊火子の内面を知れて、犬子はちょっと嬉しくなった。

 

 

 

 それから数十分が経過する。

 

「ホントに大丈夫かな」

 

 一向にトイレから帰ってこない篠縣伊火子が不安になった犬子はトイレまで様子見に行くか思案する。しかし、排泄行為に伴う音を聞かれるのは篠縣伊火子も嫌がるだろう。犬子もあまり聞かれたくはない。女性の篠縣伊火子ならばなおさらだろう。

 

行くべきここで待つべきか。悩んだ犬子は遠巻きに近づいて何か音がしたら引き返すことにした。

 

 そっと、抜き足差し足で犬子はトイレを目指す。幸い犬子は体格も小さく体重も軽い。ゆっくりと歩けばほとんど音を立てずにトイレへと向かうことが出来た。

 

そして、犬子は途中で引き返した。

 

 トイレに設営された擬音発生器の防御すら貫通し、便器に勢いよく液体が噴き出して当たる音と女性が発するにはおよそ相応しくない声が聞こえた故だった。腹痛に苦しむ篠縣伊火子が心配ではあったが、排泄音だけでなく、それに伴う下品な声が漏れたのを聞かれたと知れば篠縣伊火子は恥ずかしいに違いない。どうか治りますようにと願いながら、犬子はリビングのソファに腰を下ろし待つことにした。

 

 

 

 

 

 犬子が篠縣伊火子を気遣う一方で、トイレに籠る篠縣伊火子はあらゆる保身を忘れ快楽を貪る事のみを考え自慰行為に耽っていた。

 

 人生の中で篠縣伊火子は幾度か名前で呼ばれることもあったが、ただ名前を呼ばれるだけでこれほど気持ちが昂ったのは初めての経験だった。危うく狂喜に呑まれてそのまま犬子を犯してしまう寸前だったが、もしそれが原因でようやく手に入れた犬子との絆が切れたらという恐怖が辛うじて理性を呼び戻した。薄っぺらい理性でどうにか我慢した結果が、トイレに駆け込んでのヘビーな自慰行為だった。一人で同人誌を生成していた頃とは比べ物にならない快感に篠縣伊火子はすっかり呑まれてしまっていた。

 

 そして、篠縣伊火子に魔が差した。

 

 乱れた息を整える思考すらも残っていない性欲お化けと化した篠縣伊火子はドロドロの下半身をそのままにトイレを出る。目的地は犬子。

 

どうしても彼女の顔を見て、体臭を嗅いで、吐息に触れて頂点に達したいという欲求に抗えなかったのだった。微かに残っている理性が、もし犬子が起きていたら引き返すことを決意していたが、二時間以上の連続自慰行為により火照り切った肉体・精神共にそれが可能かどうかまでは今の篠縣伊火子に判断する余力はなかった。

 

 狭いトイレの中で延々と発情し行為に耽っていた影響で今の篠縣伊火子は凄まじき雌臭を漂わせていた。見目麗しい容姿をそのままに性欲に蕩けさせたその姿は常人の理性を軽く粉砕し間違いを犯させてしまうことも可能なだけのオーラを漂わせていることに無自覚なまま篠縣伊火子は犬子目掛け進撃を開始する。

 

 犬子を直接感じたい欲求しか脳内に残っていない篠縣伊火子は、研ぎ澄まされた嗅覚及び聴覚で一切迷いなくリビングのソファで眠りこけてしまっている犬子を捕捉する。

 

 幼い顔つきなくせに主張の激しい胸を呼吸する度に揺らす犬子を見て、篠縣伊火子はすぐに全身を露出し行為に至り始めた。それは脳内がチカチカと瞬き、神経が焼き切れていく体験したことのない快感だった。

 

 だが、快感に呑まれ過ぎた篠縣伊火子は自身の下半身から漏れ出し、飛び散っていく体液が犬子を汚していくのに気付かない。

 

 気が付けば、言い訳もしようもないレベルで犬子は篠縣伊火子の体液に濡れていた。

 

 まずい。犯してもいないのに、それに近しい姿に犬子をしてしまったことで先ほどまでの快楽に染まっていた脳内が一気に冷え切っていく。

 

 急いでどうにかしないと。焦りにパンクしそうになる脳内をどうにか落ち着かせながら、篠縣伊火子は慌てて隠ぺい工作に乗り出し始めた。

 

 

 

 

 

 犬子は何だかむずがゆい感覚に襲われ、目を覚ます。どうやら気付かぬうちに眠っていたらしい。目を開けた犬子はむずがゆさの原因を理解した。篠縣伊火子が犬子の服を脱がして着せようとしていたからだ。犬子の下半身に新しいパジャマを着せている篠縣伊火子からは、甘く爽やかな香りがした。何処かでこの匂いを嗅いだ覚えが犬子はあったが、意味不明な篠縣伊火子の行動が気になってそれどころではなかった。

 

「何をしてるんですか?」

「飲もうとした水、こぼした……から新しい服に着せ変えようと」

「はあ……」

 

 犬子は寝ぼけ眼で視界の端に昨日から来ていたパジャマをぼんやりと視界に捉える。確かに、点々と飛沫が液状に染み込んでいるようだった。

 

「そこまで濡れてるようにも思えませんけど、気にし過ぎじゃないですか?」

「そう、かな?」

 

 見たところ、暖かな屋内なら十数分もすれば渇く程度の小さな液体の染みのようだった。その程度で慌てていたであろう篠縣伊火子を想像し、犬子はくすりと笑う。

 

「伊火子は慌てん坊さんですね。このくらいなんてことありませんって」

「けど、もう新しい服を用意した。着せる?」

 

 既に下半身の着替えは完了していたが、上半身はパジャマを脱がされ犬子は半裸を晒していた。しょげている篠縣伊火子は半ば顔を隠すように新しいパジャマを見せつけてくる。

 

「服くらい一人で着られます! 貸して頂いていいですか?」

「……はい」

 

 少しの間に犬子は引っ掛かりを覚えたが、ブラジャー姿で辺りをうろつく気はなかったので気にせず新たなパジャマに袖を通す。その間に篠縣伊火子は着終えたパジャマを回収し、何処かへと去っていった。

 

ふわりと、再び爽やかな甘い香りが漂う。この香りの正体を犬子は思い出した。シャワーを浴びた時に使用した、ボディーソープの匂いだった。この場から消えた篠縣伊火子からは、その匂いが強く香っていた。心なしか、髪もいつの間にか濡れてしっとりとしていたような……寝てる間に、お風呂に入ったのだろうか?

 

「伊火子何処?」

 

 篠縣伊火子の姿が消え、犬子は僅かに心が曇るのを自覚する。思わず切なげな呼び声を発して篠縣伊火子を求めると、ひょっこりと玄関に繋がる廊下から篠縣伊火子が顔だけを出してこちらを見つめて来る。その顔が見られただけで、犬子はホッとする自分自身を自覚した。

 

「ここ。洗濯機動かしてきた」

「あ! 洗濯物出たらすぐに洗濯する派ですね!」

「……今日はそんな気分だった」

 

 篠縣伊火子は気分屋なのだろうか? その発言もひっかかる部分があったが、それ以上に犬子は篠縣伊火子がお風呂に入ったことが気になっていた。朝シャン派なのか否か。それだけの情報でも、犬子は知りたくてたまらない。篠縣伊火子の一面をもっと知りたかった。

 

「伊火子は朝にお風呂入る人ですか?」

「……それもその日の気分」

「気分次第です?」

 

 コクリと頷いて見せる篠縣伊火子に犬子は唸る。目の前の女性は思った以上に理解しきるのに時間がかかりそうだった。

 

「……それより、そろそろ朝ごはんにしない?」

 

 篠縣伊火子からそう問われると、途端にお腹が空いて来るのを犬子は自覚する。先ほどまでは篠縣伊火子への興味しか頭になかったのに、もう犬子の頭は食欲まみれになってしまった。

 

「朝ごはんは何にしますか? ご飯? パン?」

 

 果たして何を食べることができるのだろう? うきうきと犬子は目を輝かせる。これだけ嬉しそうに食事を求める人間がいては、篠縣伊火子の方も俄然やる気が湧いて来る。

 

「じゃー、パスタ。スープパスタにする」

「えー! おいしそー!」

 

 ちょっとした悪戯心から言い出した第三の選択肢に大喜びしてステップを踏む犬子を前に篠縣伊火子の頬は緩む。犬子といることで一年分以上の笑顔を消耗しているなとぼんやりと考えながら、篠縣伊火子はキッチンで料理を共にする。

 

 スープパスタはとても美味しかった。犬子はじんわりと涙をにじませながら口内でしっかり味わいながら完食する。その様を見ているだけで、篠縣伊火子は料理をした苦労以上の喜びを得られたとご満悦だった。

 

料理を食べ終えた二人はリビングへと移動する。犬子がどうしてもテレビを見たいと言ったからだった。

 

「何か、見たいの?」

「番組が見たいというより、この世界のテレビが気になって」

 

 篠縣伊火子には話したが、犬子は別世界の人間だった過去を持つ。だから、この世界のことを知っておきたかった。篠縣伊火子にテレビを付けてもらい、朝のニュース番組を見る。番組の作りは地球と同じようだった。ニュースキャスターがニュースを読み上げ、現場の様子を映し、株価が映ったり、天気のテロップが画面の上の方でゆっくりと流れていく。

 

「ここは何て言う地名なんですか?」

「旭舘市」

「あ、あさひだて……」

 

 ものすごく混ざっている。ニュースで天気予報が読み上げられると旭舘周辺の地名が読み上げられ、列島図と共に各地の主要な地名が映り出すが、とにかく混ざっていた。

 

「帝都……東京が帝都だ」

「東京って、何?」

 

 犬子は地形の生成には関わっていなかった。そこら辺はもうすでに出来上がっていたから、いじっていないのだ。奇遇にも東方にそれっぽい列島があったから、ちょっと介入したのは故郷への郷愁故だったが別に贔屓したことはなかった。

 

「ここ、日本じゃないんですもんね」

「二ホン? 二本?」

「私の元いた国の名前です」

 

 日本に似ているし、日本語も話している。漢字だって使っていてる。だけれども、ここは日本ではなく大八津火帝國なのだ。犬子は頭がこんがらがってきた。

 

「ちょっとこの世界のお勉強しようか?」

「はい……」

 

 時刻は六時前で、年末の十二月とあって外は依然として漆黒を保っていた。篠縣伊火子の部屋に戻り、インターネットで犬子へ新たな世界について勉強をしているとディスプレイ上に怪しげな赤いポップアップが飛び出て来る。

 

「伊火子っ! ウイルスに感染しましたっ!」

「違う。マンションの警備システムが稼働した」

 

 驚いてのけぞる犬子を抱き支えながら篠縣伊火子がポップアップをクリックすると、画質の荒い監視カメラ映像が映し出される。そこにはマンションの入り口ガラスを破壊し、侵入を図る不審者の姿が映し出されていた。

 

「え、え? 泥棒でしょうか?」

「違う。宗教団体“天からの産声”」

 

 篠縣伊火子には彼らの顔と服装に見覚えがあった。昨日、宗教の会合に参加させられ散々見せつけられた白を基調とした和装に黒い雲の紋様を胸の部分に描いた独特の格好を見間違えるはずもない。彼らの確認したマンションの部屋番号は篠縣伊火子の住んでいる番号だ。ここに来ると篠縣伊火子は確信する。

 

 人数はカメラの視野内だけで四人。場合によっては後続がいる可能性もあるだろう。手短に犬子へ事情を説明しながら、既に篠縣伊火子の体は逃走の為の準備に動いていた。

 

「えー! どうするんですか!? けけけ警察に通報しますか!?」

「いや、警備会社から既に通報されてるはず」

 

 だが、警察が来るまでこの部屋に留まるのは難しいだろう。ブリーチングハンマーにショットガン、さらには扉爆破用の火薬も用意しているようだ。篠縣伊火子の見る限り、彼らの持つ装備ならば一般家庭の扉程度は数秒も経たずにこじ開けられるだろう。

 

「この部屋の扉程度ならすぐ破壊される装備……逃げよう」

「え、え?」

「はい。これ着て」

 

 混乱している犬子は篠縣伊火子が渡してきたゴスロリ衣装に疑念を抱く暇もなく慌てて袖を通す。来ている途中で恥ずかしくなってきたが、今は緊急事態だ。きっと篠縣伊火子も慌てて服を選ぶ余裕などなかったのだろうし、ここで着替え直している暇などある訳がないと犬子は自分を納得させる。そもそもからして一般家庭の女児が着るような服ではないことにまで犬子は気付けなかった。

 

 モコモコとした白いコートと、履いた気配のない茶色いスノーブーツを着こみ、犬子は完全に外出モードへと移行する。何故篠縣伊火子の自室にそれだけの衣装があるのかを考察する余裕は犬子にはなく、羞恥よりも泥棒がやってきた恐怖が心を占めていた。

 

「よし……非常階段まで見張ってはいない。私たちが気付いてるとは思ってないみたい。行くよ」

「は、はいっ!」

 

 犬子の準備が終わったのを見届け、篠縣伊火子が毅然とした態度で自室のドアノブに手を掛けたその瞬間。時が停止した。

 

「え? 伊火子?」

 

 先ほどまで逃亡の経路を確認しきびきびと動いていた篠縣伊火子は微動だにしない。部屋に置いてあった壁時計の針は止まり、監視カメラの映像を映していたパソコンのディスプレイも動きを止めていた。

 

 動揺で一気に心拍数が跳ね上げるのを自覚した犬子が不安の余り篠縣伊火子の服の裾を掴むと、篠縣伊火子が動き出す。

 

「どうしたの? 早く行くよ」

「え、は、はい?」

 

 勘違いだったのか? 一瞬、自分の意識が変になっていただけなのだろうか? きっとそうに違いないと犬子が自分を納得させて、篠縣伊火子の服から手を離すと再び篠縣伊火子の動きが止まる。

 

「えー!? どうなってるの!?」

 

 意味が分からない。混乱が犬子の頭を支配し、叫んだとしても世界は停止している。誰も犬子の声を聞き届けることは叶わないはずだった。

 

「うるさいですよ。下級女神のフラピアさん」

 

 かつて見た覚えのある門が空間を裂いて現れたかと思えば美しき少女が姿を見せる。ドミニアに似た黄金の髪と瞳を持つ絶世の美少女だが、ドミニアのような釣り目ではなく大きな垂れ目がじとりとこちらを見つめて来る。背丈も篠縣伊火子すら越すほどだったドミニアに比べるとかなり小さい。犬子とどっこいどっこいなので、小学生くらいの小ささだ。

 

「どなたですか……」

「ふふ。ワタクシは中級神が一人、正義を司りしウサフォニア」

「神様?」

 

 間の抜けた声で問いかける犬子に、ウサフォニアはドヤ顔を決めながら腰に手を当てて頷いて見せる。幼い容姿も相まり、犬子には威厳を感じ取ることが出来なかった。

 

「貴方は極悪非道な中級神、阿諛追従(あゆついしょう)のドミニアの手により人から神へと変わりました。ワタクシが貴方に代わり、正義を執行致しましょう。フラピアさん、貴方の記憶をワタクシに渡しなさい」

「記憶、ですか?」

「貴方がドミニアに受けた仕打ち、その記憶です。安心なさい、貴方風に言うならば、記憶のダビングをさせて欲しいと言っているのです。消えはしませんよ」

「な、何を言って……」

 

 犬子は恐怖を覚える。記憶をドミニアに奪われ、犬子は自らのアイデンティティを失った。大切だったはずだった人々との思い出も失った。これ以上、頭の中をいじられたくはなかった。

 

 後ずさりし、無意識に犬子の手は篠縣伊火子の服の裾に伸びていた。時間停止の楔から篠縣伊火子は再び解放される。意識を取り戻した篠縣伊火子の前には、金髪ロリ美少女がいた。犬子にはあった大きなおっぱいがないが、それでも可愛らしさには何ら遜色がない。だが、篠縣伊火子にとっては小さな美少女であっても知らない人は怖かった。脅威対象ならば遠慮ない物言いも出来たが、なまじ弱そうな見た目のせいで篠縣伊火子は怖気づく。

 

「犬子。この人は?」

 

 篠縣伊火子の前に立つ犬子になるべくくっついて、口を微かに震わせているのを気取られないようにぼそぼそと小声で篠縣伊火子は声を発する。

 

「人ですって? 人間、弁えなさい」

「あわわわわ! 伊火子、この神様は神様です!」

「神、様?」

「そうです。崇め奉りなさい人間」

 

 慌てる犬子にドヤるウサフォニア。小さな二人の愛らしい態度で恐怖が和らぎほんわかしだした篠縣伊火子だが周囲の状況に気が付くと背筋に冷たいものが走る。目の前の美少女は危険だ。そう認識した瞬間、篠縣伊火子の口は先ほどまでが嘘のように流暢に動き出す。敵と認識したならば、篠縣伊火子は躊躇わない。

 

「何が起きて……時が止まっている?」

「察しの良い人間ですね」

「神様がどうしてこのような場に?」

「ふふ、そこの下級女神の仇を取ってやると申し出てやっているのです、人間」

 

 ウサフォニアは犬子にした説明を律儀に篠縣伊火子へもして見せる。それを聞いて、篠縣伊火子は素朴な疑問が生まれた。

 

「どうして、下級女神なんて蔑む相手の記憶が必要なんです?」

「うっ」

「あ、そうだ! どうしてなんですか!」

 

 先ほどまでのドヤ顔は何処へやら、あからさまに動揺してあちこちへ目を反らしながらチラチラとこちらを窺ってくるウサフォニア。しかしそれで二人の疑念の眼差しから逃れられるはずもなく、ウサフォニアは涙目になりながら犬子目掛けて突進を始めた。

 

「うるさい! それは偉い神様なりの事情があるのですよ! 記憶をよこせ!」

 

 犬子の頭部目掛け手を伸ばすウサフォニアに神の威厳は最早なく、その切迫感にびびる犬子の為に篠縣伊火子はウサフォニアの両方の手首を掴んで動きを封じた。

 

「痛い! 痛いんですけど!?」

 

 離せと体をよじるウサフォニアだが、その腕は依然として犬子の頭目掛け力が込められている。ならば篠縣伊火子が離す道理がなかった。というか、力があまりに弱い。見た目相応の力すらも発揮できない目の前の神を、篠縣伊火子は脅威対象として見ることが出来なくなりつつあった。

 

「犬子は沢山酷い目に遭ってきた。もう十分……かみょ」

 

 最後の最後でどもってしまい内心赤面する篠縣伊火子だが、幸いシリアスな雰囲気の中でウサフォニアは気付かずに馬脚を現す。

 

「はあ!? ワタクシ様が親切心見せたらこれだもんなー! 別にそっちにも損のねー話だと思うんすけどね! じゃあもーいーよいーよ! 洗いざらい話しちゃうもんね!」

「ウサフォニア様……口調が」

「え? あっ」

 

 犬子の耳打ちで我に返りようやく動きを止めたウサフォニアは顔を真っ赤にして俯く。顔を覆いたくともその腕は篠縣伊火子に取られ顔を隠すことも叶わない。羞恥に染まった美少女の泣き顔が犬子と篠縣伊火子の前に晒される。

 

 殊勝に離してくださいお願いしますと頼み込んで来たウサフォニアを篠縣伊火子は仕方なく離してやると、ウサフォニアはくるりと背を向け壁に頭をぶつけて唸る。

 

 篠縣伊火子と犬子は目を合わせ微笑みあいながら、ウサフォニアの背を生温かな目で見つめて立ち直るのを待つこと数分。ようやく立ち直ったウサフォニアが振り返り、篠縣伊火子と犬子に事情を話していく。

 

 端的に纏めると、犬子の記憶がドミニアとの戦いで必要不可欠なものらしかった。

 

「こほん。おほほ。ワタクシは正義を司る神様です故、そのぅ、大義名分とかぁ、証拠の類がないと戦闘力が向上しない特殊な神様っていうか……」

「つまり、犬子の記憶がないとドミニアに勝てない、と」

 

 篠縣伊火子にバッサリ言われながらも渋々頷くウサフォニア。もう神の威厳を取り繕う余裕すら彼女には残されていなかった。流石の篠縣伊火子もこんなか弱い生物相手ならば、コミュ障を発揮しようがなかった。

 

「でもどうしてドミニアを裁くんですか?」

「それは、もちろん下級女神のフラピアを憐れんでですよぅ!」

「嘘。ウサフォニア様はそんなガラには見えないです。正直に言ってください」

 

 篠縣伊火子の指摘を前に、くそでかため息を吐いたウサフォニアは今までの鬱憤を晴らすかのように表情を変貌させ叫びだす。

 

「あの馬鹿がムカつくんですよ。姉だからって一々マウント取って来るくせにお偉方には媚び売りまくってあーあー情けないったらありゃあしないっつうの! それにワタクシ正義司ってるのにその前で人間拉致って道具のように使いやがってよぉ! ワタクシ見逃してたら神様として商売あがったりなんだよ! こちとら人間側に立つ神やってんのに面目丸つぶれなんだよ! これでいいかってのチクショウめ!」

 

 ぜえぜえと呼吸を乱したウサフォニアは体をふら付かせ、犬子に体を支えてもらう。何て弱々しいんだと篠縣伊火子は頷く。儚さポイントをウサフォニアは手に入れた!

 

「でも、私の記憶なんかが役に立つんですか?」

「くれ! ないと負ける!」

「ええ……でも、他にも犬子と同じ目に遭った人はいるんですよね?」

「そいつらはみんな死にました。あの馬鹿姉の出世欲の生贄になってしまいました。フラピアさん、貴方はそこの人間に拾われて生き残った超ラッキーガールなんですよ」

 

 ウサフォニアの言葉に身を震わす犬子の肩へ篠縣伊火子は手を置く。ありがとうございます、そう小さく述べて微笑んで来た犬子の愛らしさといじらしさに篠縣伊火子もまた心を締め付けられる。それはそれとして華奢な犬子の肩の触り心地は宜しかった。

 

「拉致られる前にどうにか出来なかったんですか?」

「あのね、多元世界の何処かからランダムに一人の人間拉致ってんのですよ。そんなの気

付ける訳ないしー、ましてやアレは現地の神が敵対者と戦ってて人の一人や二人奪われる程度の損害無視せざるを得ない世界線にだけ手を出している卑怯者ですもの。無理無理無理ゲー」

 

 肩をすくめてみせたウサフォニアはもう神の威厳など何処かへ放り出したらしく、篠縣伊火子のベッドにぴょんと転がってみせる。

 

「ま、ムカつくことに血縁関係のワタクシだからこそ、たかが人間が数人消滅する程度の事件に気付けたのですよ。そしてその証拠さえあれば全能力値五十倍上昇補正でぶっ殺せるのですよ」

「こ、殺しちゃうんですか?」

 

 例え、自分に酷い目に遭わせた非道なる神とて死なれるのも犬子にとって負担だった。自分のせいで死んだとあっては復讐だとしても、殺したという罪悪感を抱かされてしまう。

 

それにもうあの神に思考を割きたくなかった。ただただ忘れてしまいたかった。だからウサフォニアが現れるまでは復讐なんて微塵も考えなかった。篠縣伊火子に会って貰った沢山の幸せで心を塗りつくしてしまえればそれでよかった。

 

「あー、いや死にはしませんよ。上級神ならともかく、同格の神同士では無理です。ま、権能奪って神の座から追い落としてやりますから結果的には死ぬかもしれませんし、追放先で真面目にしてたら普通に生きていく道もあるかもしれませんけど」

 

 ま、そんな殊勝に生きられる姉じゃありませんけどと冷笑するウサフォニア。

 

「それで? 神であるワタクシにここまでぶっちゃけトークさせたんだから、協力していただけるんでしょうね?」

 

 だが、報いを受けさせることが出来るのなら。それも自分が心労を抱かない形で勝手に倒れていくならそれは喜ばしかった。死なないのなら、それはあくまで正当な罰だと自身に言い訳が出来た。暗い感情の発露と自覚しても犬子は復讐心が湧き上がってくるのを抑えきれなかった。

 

「私もあの神には恨みがあります。やっつけてくれるんでしたら……私、協力します」

「やったー! んじゃ、契約成立ってことで、よろしくね!」

 

 ベッドから跳ね起きたウサフォニアは犬子に抱き付く。素直に喜べないが、犬子は腹をくくった。

 

「あのウサフォニア様。ちなみに私たち刺客に狙われていて死ぬかもしれないんですけど」

「え。死なれたら戦闘中に全能力補正消滅でボコられるからやめて。え、貴方たち今どういうシチュなの?」

 

 事情を説明して助力を求めるも、ウサフォニアは苦い顔をして断って来る。

 

「この世界に介入は出来ません。神の介入は世界が乱れます。特に、別の神が創った世界だと尚更です」

 

 変なトコで生真面目だなと不躾な感想を抱きながら篠縣伊火子は時間停止しているじゃないかと質問をしてみる。

 

「それは何もいじってないでしょう? だからオッケーなんです。まあそろそろリミットなんですけれどね」

「具体的に何分ありますか」

 

 ある程度時間があるのなら、刺客たちを拘束する余裕もあるだろう。だが、ウサフォニアは五分もないと言う。ならばもう逃げる以外の選択肢はなかった。唸っている時間など与えなければよかったと後悔しても最早遅い。

 

「頑張ってー」

 

 手を振るウサフォニアを背に、篠縣伊火子と犬子は部屋を後にした。

 

 




備考
犬子の身長:140cm
篠縣伊火子の身長:180㎝
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