未だ日の昇らぬ冬の朝、犬子は
「あんな演技、必要でしたか?」
「いる。後で警察に疑われるのは面倒」
マンションの裏手へ出た二人は人通りの少ない道に点々と灯る街灯の下、雪を踏みしめて逃げる。銃火器を持った相手というのに篠縣伊火子は冷静さを崩すことなく平静そのもので犬子の隣を歩いているのが不思議だったが、その頼もしい姿のおかげで犬子も何とか落ち着きを保っていられた。
「人、全然歩いてないですね」
「年末だから」
マンション周辺の住宅地を抜け、篠縣伊火子に先導されるがままにバスへと乗り込み二人は市街地からの逃走に成功する。朝日が昇る前の車内、客は篠縣伊火子と犬子の二人きりだった。
さっきまでの慌ただしい逃走劇が嘘だったかのようにバスは規則正しくダイヤ通りに運行している。それが何よりも安全を保障し、日常の枠組みに戻れたような気にさせてくれて犬子はありがたかった。
「何処に行くんですか?」
ディーゼルエンジンの騒音と振動が響く車内で、人心地ついた犬子は追われる身となった恐怖から声を大きく張り上げるのに抵抗があったので篠縣伊火子に身を寄せて声を掛ける。
「決めてない。連絡が来るまでぶらぶらしよう」
「え」
「一人じゃ入れなかったお店があるんだ。ついてきてくれる?」
恐ろしい追っ手には篠縣伊火子は一切動じた様子を見せなかったのに、犬子をお店に誘うのは抵抗があるらしい。情けない縋るような微笑みを見せながら、篠縣伊火子は犬子を見下ろしてきた。
「行きますけど……篠縣さんは凄いですね。怖くないんですか?」
「怖い?」
「え。さっきまでのこと覚えてますよね?」
犬子がひそひそとさっきまでの恐怖を述べたてるも、篠縣伊火子は小さく首をかしげ数瞬考え込んだ後にああ、と呟いた。犬子にとって人生で初めて銃火器を持った人間に追い立てられた経験は新しいトラウマにもなりかねなかったというのに、篠縣伊火子は聞かれてようやく思い出す程度の出来事でしかないようだった。
「んー……怖さより、初めて友達と出歩ける楽しさの方が大きい」
そう言いながらわくわくそわそわしている篠縣伊火子を見ていると、次第に犬子も先ほどまでの恐怖が馬鹿らしくなってきてしまう。
「篠縣さんは肝が据わってますね。何だか私も怖さがなくなっちゃいました。折角だし、この街の案内お願いしますね」
「……私、ぼっちだったから学校とスーパーとかくらいしか行ったことない」
絞り出すような声をあげる篠縣伊火子は大柄な体躯を小さく屈めて小さくごめんねと謝って来る。刺客から逃走経路を考え動いていた時の篠縣伊火子は頼もしかったのに、このギャップはなんなのだろう。どうにもおかしくて愛おしい。犬子はこんな状況だというのに口元が緩んでいくのを自覚した。
「じゃ。一緒に楽しんじゃいましょっか」
「……うん」
バスを何度か乗り継ぐうちに時刻は七時を過ぎ、ようやく太陽も遅まきながら顔を出してくると車内もぽつぽつと人が増えだす。
「ここらへんで降りよう」
篠縣伊火子に言われるままに犬子が降りたのは切り立った渓谷だった。
「ここ、何処?」
「あー、
「確かに綺麗な風景ですけど……」
岩の切り立った渓谷は冬とあって雪に覆われ、底を流れるマリンブルーの澄んだ川の色も相まって非常に美しい。美しいのだが、二人を除いて誰もこのバス停で下りなかったのが分かるほどに冷たい風がびゅうびゅうと吹き付けて雪が踊り狂うように舞っていた。
「ちょっと歩けば温泉地がある」
「おー! 温泉! 行きましょう!」
しかし犬子は知らなかった。篠縣伊火子のちょっと歩くは数十分を優に超えることを。犬子の歩くペースが篠縣伊火子に大きく劣るのもあって、
「つかれた……」
すっかり燃え尽きた犬子は温泉街の入り口に置かれたベンチに座り呆けていた。吹き付ける風に降雪が混じり合い、全身を雪が散々に叩いてきたせいで犬子の体はすっかり冷え込んでしまっていた。
「ごめんね。温泉入って暖まろう」
「おおー!」
一瞬で復活した犬子は意気揚々と篠縣伊火子の手を引いて一見さん歓迎の温泉施設に入り、女湯に入って気付く。自分、男じゃん。いや、男か? 自分はどっちだ? どっちにしても入ったら困る奴じゃん。犬子は混乱した!
だが、犬子の体は冷え切っていた。幸い、他のお客さんは脱衣所で見かけない。ここで引き返すなどありえなかった。
「私、暖まりたいもん! 仕方ないもん!」
百年の付き合いで自分の体にはもう慣れ切っている。ぽんぽんと篠縣伊火子に着せつけられたゴスロリ衣装を脱ぎ去っている横に、篠縣伊火子がいた。
「あ……」
すっぱだかの犬子の隣で、篠縣伊火子はおずおずと遠慮しながら服を脱いでいく。それは人前で裸を見せる機会が極端に少ない故の羞恥だったが、犬子はそうは捉えなかった。平均を上回る身長をした篠縣伊火子は、スタイルもまた常人離れした肉体美をしていた。犬子が視界に入れないように目を反らしても、衣擦れの音だけでも一瞬目に入った艶めかしい体躯が頭に浮かんできてしまう。
命の恩人相手に何と無礼なのだ。
「わ、私先行ってますっ!」
顔を真っ赤に染めて犬子は駆け出し……危ないので歩幅だけは広げて徒歩で浴場へと逃走を図る。だが。
「待って。一人にしないで」
「ひょえー!」
犬子の華奢な細い肩に篠縣伊火子の手が乗る。二時間も降雪の中歩いてきた手の冷たさが犬子の肌に突き刺さる。
「にゃんですか!」
「誰か来たら怖い。一緒にいて」
「はい……」
目を潤めて縋って来る全裸の篠縣伊火子に抗する力など犬子にあるはずもない。ゆだるような熱さが温泉に入っても居ないのに脳を焼き始める。
結局、温泉に二人が入っていたのは三十分にも満たなかった。犬子の方が限界を迎えた故の離脱だった。
「私に構わなくても長く入ってても良かったんですよ」
コーヒー牛乳の瓶を胸元に抱えながら、犬子は隣で美味しそうに普通の瓶牛乳を一気飲みしている篠縣伊火子を見上げる。短時間の入浴だったが、犬子の全身はほかほかと温まっていた。温泉は偉大だった。
「やだ。一緒じゃないと私死ぬ」
「えー、大げさですね」
「気まずさで精神が死ぬ」
「私となら平気なんですか?」
こくりと頷いてみせる篠縣伊火子を見て、犬子は何故だか心拍数が跳ね上がった。
それから二人は温泉街で食べ歩きをした後、近くの美術館に入ったり博物館の展示を覗いたりと時間を過ごしていく。
すっかり朝のことなど忘れて犬子は篠縣伊火子と一緒に遊んでいた。篠縣伊火子と一緒にいられる時間がとても楽しくて、それ以外のことなど頭から吹き飛んでしまっていた。遊びという遊びを百年もの間ずっと体験できずすっかり忘れていた犬子が夢中になるには十分なほど、楽しい時間だった。幸せだった。
博物館で先史文明期の旭舘市の展示を犬子に分かりやすく教えてくれる博識ぶりがカッコよかったのに、人混みが迫ると途端に威勢を失いサッと隠れる臆病なところが可愛らしく、かと思えば雑踏に埋まりかけるちっちゃな犬子をしっかりエスコートしてくれる優しさを見せ、何度も手を繋ごうとしてきては諦める姿がいじらしく、手を繋いであげるとこちらの心を陽だまりの中にいるかのような気持ちにさせてくれる。
犬子は、篠縣伊火子と共にいれてよかったと心の底から思えた。
「……あ」
「どうしたんですか?」
「すっかり忘れてた」
だが、そんな至福の時は唐突に終わりを告げる。お昼過ぎ、温泉地の食事処で休憩を取っている最中に篠縣伊火子は携帯電話を取り出して慌ただしく操作を始める。
「何をしてるんですか」
「休眠させてたドローンを起こしてる」
「?」
「見てて」
テーブルに携帯を置いた篠縣伊火子は画面を犬子と共有する。
「あ、篠縣さんのマンション」
見上げるばかりだった高層マンションを、携帯電話越しに犬子は上空から眺めていた。正午過ぎの旭舘市は降雪が目立つ守三火山一帯と違い晴れきっていて、路面に積もった雪が陽光をギラギラと反射していた。
「……様子がおかしい」
「どこか変ですか?」
「ほら、硝子割れてたのに直っている」
画面をトントンと篠縣伊火子が指で叩いた先、確かに玄関口にはめ込まれていた大きな硝子が何枚も粉々に割られていたはずなのにすっかり直っていた。
「硝子屋さんが早く来たんでしょうか」
「これ、自動ドア。そんなすぐに直るはずがない」
次いで画面を操作し、篠縣伊火子はドローンを自身が住む部屋が映り込むように移動させる。カーテンがかかっていたので篠縣伊火子はサーマルセンサーを起動させ熱による室内探査に映ると、そこには荒らされきった室内が映り込んだ。
「あ……」
朝まで二人で平和に過ごしていた部屋の無惨な姿に、犬子は胸が締め付けられる。さっきまでの楽しい思いが崩れ、不安と恐怖が再び鎌首をもたげ始めた。
「おかしい。警備システムは起動していたのに」
「警察沙汰になってるようには見えませんね」
篠縣伊火子は監視カメラの映像の
厄介なことになった。篠縣伊火子は小さくため息をつき、高速再生された映像を判別できないので甘味を与えて放置していた犬子の頭を撫でる。スプーンを咥えながら何か用かとばかりに上目遣いしてくる犬子と目が合い、篠縣伊火子のストレスは消失した。
犬子のほんにゃりだらけきった顔を見て癒された篠縣伊火子は、一応犬子にも重要な部分だけでも見せてみるかと考える。あまり期待はしていなかったが、犬子には清浄な気配で”天からの産声”に押し付けられた御札を浄化した実績もある。何か新しい発見があるかもしれなかった。
「犬子。不思議なモノとか見えない?」
「あー……何だかみなさん頭の上に紐みたいなのがついていたような?」
「紐……」
犬子は黒い悍ましい気配を纏った糸のような物体が刺客たちの頭頂部から伸びている事を篠縣伊火子へ話す。それは犬子が注視して初めて気付いた代物だったが、一度気付いてしまうと部屋の死角に逃げ去った不快害虫が目に見える範囲にはいないのにいることを知っている嫌悪感と同じものを犬子に感じさせた。
「移動する」
「何処に行くんですか?」
「ポンコツ霊能者のトコ」
状況を把握したらしく、手短に会計を済ませ店を出た篠縣伊火子の表情から先ほどまでの優しさは消えさっていた。戦いに赴く者のような冷たい顔つきに、犬子は慄く。
「あの! その人に任せて私たちはずっと逃げてちゃ駄目……なんでしょうか」
だが、犬子が抱いた恐怖は荒事に立ち向かうことに対してではなかった。
「私、篠縣さんが危ない目に遭って欲しくないんです」
犬子がこの世界に降り立ってから一日にも満たない。それでも篠縣伊火子と共にいられたことは犬子によってかけがえない想い出になっていた。心の拠り所になっていた。篠縣伊火子を万が一失うようなことがあったらと少しでも考えてしまうと、怖くて仕方がなかった。
「ありがと。でも、私が犬子を巻き込んだのが悪いから私が決着を付ける」
後悔も怯えもない、きっぱりとした物言い。自信すら感じられる篠縣伊火子に犬子は心が囚われていく。カッコいい、と思ってしまった。
「行こう」
「……はい」
この体になってから初めて会った人。初めて優しくしてくれた人。初めて食事を一緒にとった人。一緒にベッドで寝た人。微笑んでくれた人。意地悪をしてきた人。危機から救ってくれた人。変な服を着せて来た人。極寒の辺鄙な渓谷を二時間も歩かせてきた人。人との会話になる度こっちに縋るような眼差しを向けて来る人。自然と手を握ってしまった人。
一日にも満たない期間なのにたくさんの感情が篠縣伊火子に向かい、篠縣伊火子へ絡みついていく。犬子は犬子で、篠縣伊火子がいなくては生きてはいけない体になりつつあった。
犬子は篠縣伊火子から離れたくなかった。離れるような目に遭いたくなかった。出来ることなら誰も来ないような、それこそあのドミニアに幽閉された白い空間でも構わない。二人だけの世界に閉じこもっていたいと思ってしまった。
”天からの産声”→物損したが、ちゃんと直した。
篠縣伊火子→警備システムに不正アクセスしてる。
どっちが犯罪者なんですかね?