どこまでも広くて、底が見えないほどに深い。
落ちていくように、浮き上がるように、吸いこまれるように、押し出されるように。
ぐるぐるぐるぐる、めまぐるしく天地がまわり、視界がゆがんで赤く染まる。
膨れあがる青白い炎が、長く尾を引いていく。その発生源は、単眼をあざやかに輝かせながら、蛇の頭のように襲いかかった。
ほとばしる閃光は、独特の音色とともに
コントロールロッドを引いて、機体を制御。頭部ユニットをかすめた一撃は、後方のどこかで炸裂した。
ペダルを踏みこみ、バーニアを噴射。敵との距離は即座に消え失せ、展開したビーム・サーベルが装甲を溶解させて両断する。
振り下ろして銃身を斬り飛ばし、手首を返して右前腕を。機体を旋回させつつ振り抜いて、コックピットを真一文字に蒸発させる。
モビルスーツの装甲越しに、残りの三機がひるんだのを感じた。ばかなやつらだ、前に出なければやられなかったのに。
いちばん近い足下の一機へ、ロックオンを待たずにトリガーを絞る。理由はないけれど、当たるという確信があった。
爆裂する機体を残して、
サーベルを叩きつけてやった装甲が蒸発し、パイロットの恐れとおびえが伝わってくる。
一太刀を振り抜くまでの間、ずっと膨れあがり続けるそれは、間近で感じる太陽めいたひどく不愉快なものだ。
斬り捨てて、斬り捨てて、斬り捨てて。指の先がぢりぢり痛んで、目の奥になにかがあるような錯覚。
けれど、モビルスーツを操縦するときに、そういうものを感じていた記憶は、僕にはない。記憶にないのに、感じてしまう。
記憶と感覚がちぐはぐになって、体がきしんで悲鳴をあげる。
いや、ああ、そうか。不愉快なのは、当然のことだ。
このときの僕は、まだ、そんな感覚を持っていなかった。だから、昔の夢をみたりすると、いまの僕には不具合が発生するのか。
そこで、目が覚めた。コントロールロッドの感覚が、いまも指先に残っているような気がする。
うす開きのまぶたをあげると、研究所や軍艦の白いそれではない、すすけて汚れた天井があった。
月面都市フォン・ブラウンの最下層、ジャンクだまりのぼろ家の寝室。そこが、いまの僕たちが見つけた寝床だ。
ひたいに浮いた汗を、手の甲でぬぐう。視線だけを動かして隣を見ると、ユイが寝息を立てていた。赤みがかった茶色の髪は、なでるとさらさらと心地いい。
時計の表示は、午前四時。耳を澄ませば、どこか遠くで重機の駆動音が聞こえてくる。
こんな時間に起こしてしまっては、かわいそうだ。彼女の耳を手のひらで
こんなことを考えるだなんて、きっと、僕はおかしくなったのだろう。けれど、それでも、そんなものは小さなことだ。
僕たちは、いまもまだ、生きている。
いまもまだ、僕も彼女も、生きている。
それと比べてみれば、僕自身の異変など、とても小さなことだった。
九十年 三月 三十日
サイコ・レコーダーの出力ログを確認しておどろいた、夢まで記録に残せるのか。
もうしばらくは、起動しっぱなしにしておこう。
九十年 四月 一日
久しぶりに、あのバーへ足を運ぶ。
とはいえ、今回は客の立場ではない。製氷機の具合が悪いとのことで、僕の役割はその検査と見積もりだ。
「やあ、お久しぶりですな」
「どうも」
いつぞやのバーテンダーは、一度しか顔を見せなかった僕のことを覚えていた。この店のマスターなのだから、それくらいは当然だと彼はいう。
朝方のバーは当然ながら準備中で、人の気配がない。あれほどそうぞうしい空間だったのが、夢かなにかのように静まり返っている。
「それじゃ、確認してみます。異音がするのは、これですね」
無駄話をするのも苦手だから、依頼された製氷機を点検する。バーカウンターの向こう側は、思った以上にせまい。
体を折りたたんで、金属製のカバーをひとつずつ外していく。大抵ほこりが塊になっている場所だけれど、彼はきれい好きなのか、しっかりと手入れがされていた。
機械のすき間にペンライトを差しこんで奥を照らすと、タンクの亀裂が二カ所に、パイプも老朽化しているのが見える。これでは、正しく動作しないのも当然だろう。
この手のパーツは量産されているから、交換対応も楽でいい。店に戻れば、すぐに見つかるはずだ。
「給水用のタンクとパイプが破損しているので、そこを替える必要がありますね。ものさえあれば、十分もあれば終わりますよ」
僕の言葉に、バーテンダーはおどろいた様子もなく、指の先で白ひげを軽くなぜた。早いものだねと、静かな声が感心したような色を帯びる。
「店に部品がないか、確認してみます。見積もりは、それからでもいいですか」
正直にいって、この手の仕事は労力を必要としない代わりに、大した金にはならない。
モビルスーツの脱出用ポッドでも見つけられれば大金が稼げるけれど、そういう幸運は僕にはない。だから、こうして地道に稼ぐしか道はない。
「ああ、よろしく頼みます。私は、お茶でも用意しましょう」
バーカウンターの外に戻ると、電話を作業着のポケットから引っ張り出した。
僕のアドレス帳には、一件の番号しか登録していない。目をつむっていても、電話をかけるのは容易だ。
「はい、もしもし」
短いコール音に続いて、ぷつりとノイズめいた接続音。それから、ふきげんそうな少女の声が聞こえてくる。
客商売としては、あまりよくない応対だろう。けれど、僕もユイも、どうすれば正解なのかがわからない。屋号だって決めていないのだから、つくづく、僕らは社会不適合者なのだろう。
「ユイ、口径が七ミリの給水パイプってあるかい。それから、タンクも必要になる。えーと、容量は十八か、そのくらい」
「お仕事、うまくいってるんだ! わかった、すぐに調べるから待ってて!」
僕の声を聞くと、ユイはすぐに声のトーンが高くなる。ばたばたとやかましい足音は、店の中を走り回っているときのそれだ。
二分とたたずに元気そうな発見の報告を聞いて、バーテンダーへと視線を戻す。音がもれていたせいか、彼はこっくりとうなずいていた。
「替えのパーツがどちらもあるので、すぐに修理できますよ。作業量も少ないので、最低価格でどうですか」
僕が受け取る代金の内訳は、作業量に応じた工賃と部品代がほぼすべてだ。
さすがにタダ働きというわけにもいかないから、どんなに小さな作業でも受け取る下限の工賃が、今回要求できそうなものだった。
このあたりの感覚をつかむのがうまいと、稼げる人間になっていくのだろう。昔から金銭には無関心だったせいもあって、僕のそれは当然ながら壊滅的だ。
「なに、できるだけ色をつけますよ。いまのは、妹さんですか」
だから、彼の申し出はありがたかった。
得することなどないだろうに、どうしてそんなまねをするのか。それがわからないまま、僕は礼の言葉を口にする。
「助かります、とても。ああ、ええと、どう、だろう。妹のようなもの、なのかな」
ユイ自身は、妹かと聞かれると不機嫌になることは黙っておいた。僕自身も、ユイを妹とは思っていない。ただ、話せば長くなることは、話さない方がいい。
きっと、僕が彼を不思議に思うように、それを話してしまえば、彼も僕らを不思議に思うに違いない。そうして人目を引くのは、避けたかった。
「よければ今度、ご一緒にいらっしゃってください。ランチもほそぼそとやっているので、おまけさせていただきますよ」
そうさせてもらいますとだけ応えて、僕は自分の役割に没頭する。やはり、こうした他人との接触は苦手だ。
このところ、調子が狂うことばかり起こる。
僕が、もっとうまく生きられたのなら。そうでなければ、この世界がもっと簡単に生きられるのなら。
そのときは、こういう大人の言葉も、また違って聞こえたのだろうか。
九十年 四月 七日
今日は、例のバーでランチを食べることになった。
理由といえば単純なもので、ユイは僕の作る食事を苦手としている。だから、外食をするのは彼女にとって喜ばしいことらしい。
ユイと一緒に外出するのは、ひさしぶりだ。つないだ手はひやりとしていて、触れているとやすらぐような心地になる。
ひとごみの中ではぐれないように身をよせあう僕たちは、多少なりと目立つらしい。みすぼらしい衣装の男たちが、汚い声でなじってくる。
この世界は、やはり、どうしたって生きづらい。
侮辱を受けたからとそいつを殺してしまえば、それはこちらの罪になる。だから、こういうときは無視するしかないのが現状だ。
「なに考えてるか、わかるよ。昔はさ、あんなの気にしてなかったもんね」
考えごとを察したように、ユイは僕の手を引いた。じゃれつくように腕を絡めて、笑顔のままで見あげてくる。
「でも、うん、嬉しいな。捕まったら、離ればなれにされちゃうもん。それが嫌なんでしょ」
──いっしょだね。
最後のそれは、ユイが言葉にする前からわかった。そうだねと返したのか、それとも言う前に伝わったのかは知らない。
ただ、彼女は嬉しそうに、なついた猫のように身をよせてくる。それだけで、通じあっていることはわかるから、それでいい。
「もう着くよ、そこだから」
細い路地の間を抜けるのにも慣れてきた。雑居ビルの合間、うす暗くなっている一角に、ひっそりと地下への階段が口を開けている。
コンクリートのざらりとした質感はどこか冷たくて、僕になじむ気がする。踏み固められたカーペットは、靴のソールをちっとも受け止めてくれなかった。
「いらっしゃいませ。ああ、今日もお元気そうですね」
なんとかという材質の、とにかく高級そうな木製の扉を開くと、マスターはいつもの静かな声で僕に語りかける。
最近では、僕の顔を見てその日の調子を言い当てるようになってきた。ふしぎなもので、彼は僕が好調か不調を的確に言い当てる。
意識的に表情を出さなくても正解するのだから、いよいよもってなぞめいてくる。ひとまず
「そちらが、ユイさまですね。はじめまして、いつもお世話になっております」
マスターに声をかけられると思っていなかったのか、ユイは名前を呼ばれてびくりと肩を跳ねさせた。その様子が面白くて、つい、眺めてしまう。
「あー、うー、はじめ、まして。ユイ、ツォン……えーと、
ユイのあいさつは、やはり、どうしてもぎこちない。
人に名乗ることもしなければ、そもそも名前の発音だって正しいのかもわからないのだ。僕も彼女もあの言葉は母語ではない、当然といえば当然だろう。
そんなありさまでも、マスターはなにも聞かず、柔和そうな笑みを浮かべるだけだった。
探り屋でないひとは、とても、助かる。僕もユイも、探られたくないことばかりだから。
「では、本日のランチです。どうぞ、ごゆっくり」
マスターから渡されたランチプレートに、ユイの表情が明るくなる。料理の味がわからなくても、彼女の顔を見ているだけで、これがおいしいのだろうと察せられた。
ユイの喜ぶ顔が見られただけで、今日はいい一日だったと思える。明日もまた、そんな一日であったらいい。
九十年 四月 十日
あれから、僕とユイは連日のようにマスターのランチを食べている。
やはり、僕の作る食事は彼女の口にあわないのだろう。食いつきも表情も、家とはまるで別ものだ。
そういうユイを見ていると、ときどき、不思議な感覚になる。
これは、寂しさとか、そういうものなのだろうか。
あいかわらず、僕の味覚や嗅覚は、普通のひとよりもずっと弱い。もしくは、にぶいというべきかもしれない。
いろいろなものをいじられているのだから、きっと、治りはしないだろう。
ユイの人生には、僕の故障が、悪影響にならないでほしい。
「他人のことを考えるだなんて、おかしくなったかな」
ふと、昔よりも、自分がずっと弱くなってしまったように感じる。いまだって、その感覚がまとわりついている。
以前の僕は、モビルスーツを動かすパーツだった。ガンダムにだって負ける気のしない、完璧なパイロットだったはずだ。
いまの僕は、いったい、どうなっているのだろう。
心の中には無駄なものが多すぎて、体は故障ばかりしている。そればかりか、まるで負け犬も同然に、こんな場所に住んでいる。
思えば、僕が持っている最初の記憶だって、敗北だ。あのとき僕が敗けたから、できそこないとしてムラサメ研究所に売られた。
「うん、おかしくなってる。昔のことを思い出すなんて、なかったのに」
ひとりごとは、自分に言い聞かせるためのものだろう。耳に音は入ってくるけれど、頭の中には入ってこない。
過去には、楽しいものはない。未来にも、楽しいものは見えない。
たったひとつ、なにより楽しかった戦争も、いまでは不思議とざらついている。
いっそ、もう起こらなければいいと、そう思ってしまうほどに。
ああ、やめだ。やめよう、無駄なことを考えるのは。
あちこちの革がひび割れたソファをあとにして、寝室へ。冷えきった廊下の温度が、足裏を通じて頭を切り替えてくれる。
あかりのない寝室でも、この目はユイを見つけられる。枕に顔をうずめて、寝息を立てる横顔を。
「……、…………?」
小さな唇が、かすかに動く。うすく開いたまぶたのすき間から、とろんとした瞳が僕を見あげていた。
「起こしてごめんよ、ユイ。いいよ、そのまま寝て」
手のひらで、頭をなでてやる。柔らかな髪の感触が、とても心地いい。
何度かなでてやると、ユイは安心したように、またゆるやかな寝息を立て始めた。
ああ、やはり。
いまの僕は、きっと、前よりずっと弱くなった。
けれど、きっと。
たぶん、きっとこの僕は、いまがいちばん幸せなんだ。
九十年 四月 十三日
「となり、いいですか?」
僕は最初、その問いが自分に向けられていると認識できなかった。
どういうわけか、今日はテーブル席もカウンターも、空席がなくなるほどの客入りだ。
だからというのもおかしい話だけれど、返答は既に決まっている。ここで僕が断ったら、このひとは行き場がなくなるのだ。
「どうぞ」
「よかった、ありがとうございます」
ランチプレートをこちら側に退けて、場所を提供する。スツールに腰掛けた女の横顔に、向こうの席の男がみとれているのがわかった。
他の客とは、明らかに毛色が違う。やたらと肉感的な肢体をタイトで堅いデザインのドレスに包んだ、およそ、この最下層に似つかわしくない女だ。
背中を隠すように長い、金色の髪。そのパーツだけは、見覚えがある。記憶の中を探っていると、横からぐいと作業着をひっぱられた。
「早く食べて、デザートがこないから」
不機嫌そうなユイの声に、考え事は中断して、食事を再開する。
角切り野菜とベーコンが入ったスープに、粗挽き肉のハンバーグステーキ。サラダを除いて、どれも彼女のお気に入りのメニューだ。
料理の味は、今日もわからない。
「これ、半分、あげようか」
「いいよ。あたしは自分のを食べたから、いらない」
そうかいと答えて、プレートの料理を口に運んでは噛み砕いて胃に送る。もともと半ばまで食べ終えていた昼食は、五分もかからずに消えてしまった。
食後のパフェを待つ間、ユイはスツールの上で足を揺らして遊んでいる。僕がとなりを見ようとすると、そのたびに、彼女は作業着を引こうとする。
うす暗い店内は、いつもの静けさとは違う、熱気のようなものがある。その正体に行き着くまで、いくらかの時間がかかった。
男たちの視線が向いている先は、となりに座っている女だ。以前も、僕はこのざわつきを感じている。
あの、ピアノを弾いていた、ドレスの女だ。たしか、名前は、ロザーミック。
そこまで思い出したところで、ぐりとわき腹に硬いものを突き刺された。
「ジンロウ、よそみ。コーヒー、きてるよ」
家の鍵を握ったまま、ユイはふてくされた顔で僕をにらんでいた。せっかくだからとばかりに、彼女はもう一度、鍵の先端を突き刺してくる。
目の前に置かれたパフェに手をつける様子もみせず、ユイは僕へと向き直る。その意図を図りかねていると、また鍵で肋骨のすき間をえぐられた。
「食べさせて」
彼女の言わんとすることも、不機嫌の理由も、わかるつもりだ。問題なのは、その行為をとがめる気がない僕自身だろう。
スプーンに乗せたクリームを、
あとは、ただただそれを、パフェグラスが空になるまでくり返すだけだ。
幸いだったのは、周囲の大人がとなりの女にみとれてばかりで、僕らを気に留めなかったことか。
ユイがプルクローンの生き残りだと大人に知られたら、きっと、よくないことになる。もしもそれが、戦争を始めようとしている大人だったら、どうなるだろう。
ジオンの人間が多い場所というのは、どうしても、その不安がぬぐえない。だから、僕は目立ちたくはない。
ユイを、モビルスーツに乗せたくない。
うわべだけでも、かけらだけでも、平和というものに触れてしまうと、その思いは強くなっていく一方だ。
店内の客はあいかわらずジオンの軍人ばかりだけれど、その中にスウィフトと名乗った彼の姿はない。
彼は、スウィートウォーターへ行ったのだろう。きっと、また、地球の人間と戦争をするために。
ジオンの軍人は、そういう人間が多い。大義だとかの、僕にはわからないものを、いつも胸に抱いている印象だ。
戦争を楽しんでいたあのころの僕は、もう、死んでしまったのか。
彼らに呼びかけられても、いまの自分がついていくとは思えない。もしもまた戦争になったのなら、僕は、いったいどうするのだろう。
「ジンロウ、どうかした?」
「いや、なんでもない。それより、もう戻らないと」
マスターに礼を言って、代金をカウンターへと残しておく。それから、冷めていくコーヒーを、一気に胃の中に流しこんだ。
熱を失っていく液体の味は、やはり僕にはわからない。わからないままに、ユイとふたりで店を出る。
視界のかたすみで、女が一度、僕らに
九十年 四月 十五日
時間を忘れさせるようにゆっくりと、どこかうら悲しい旋律が流れていく。
なにが悲しいのかは、わからない。そもそも、これが悲しいという感情なのか、それさえ僕にはあいまいだ。
ただ、僕はこの音色を、この旋律を、この歌声を、そういう風に認識している。胸の奥をなでられているように、自分の知らない感覚がある。
周りの大人たちも、このときばかりはなにも言わない。景気のいい手拍子も、はやしたてるような口笛もない。いいや、グラスがテーブルにこすれる音すら立てようとしていない。
彼らは、ドレスの女にみとれているのではない。静かでしっとりとしたピアノの旋律に、甘くて澄んだ歌声に、きっと聞き惚れている。
その理由が、いまならわかる気がする。
ときおり挟まれるハミングが、くすぐったくなるほどに柔らかい。
そんなものは知らないはずだのに、僕はたしかに、彼女の歌に黄金色をした草原の景色を見た。
歌の中に出てくる大麦畑というのは、どんなものなのだろう。
きっと、果てが見えないほどにどこまでも広くて、一面が黄金色なのだろう。
もしかしたら、地平線というものがある場所なのかもしれない。
まぶたを閉ざして、不慣れながら、音楽というものに手を伸ばす。
受け取ることは簡単なのに、自分の中で起こっているものに説明ができない。ただ聞くだけなら、こんなにも簡単なことなのに。
となりで座っていたユイが、不意に、そっと身をよせてくる。もう眠たいのかと聞こうとして、口を開くのをやめた。
彼女も、この音色を楽しんでいる。そして、きっと、僕よりもずっと深くこの曲を理解している。それが、なにもなくても感じ取れた。
ゆるやかでどこか悲しげな旋律は、最後まで耳に優しく残っている。鍵盤に触れる女の指がゆっくりと動きを止めて、余韻を伴って静寂が降りてくる。
ミス・ロザーミックは、ほんのわずかに間をおいてから一礼をした。ほうけたようにもの言わなかった大人たちは、そこでやっと思い出したのか盛大な拍手を返している。
僕はといえば、となりのユイにハンカチを渡していた。大きな瞳は涙で潤んで、いまにもそれがこぼれ落ちてしまいそうだったから。
「ユイは、音楽が好きだったね。なんとなく、いま、その理由がわかった気がする」
「ん、……」
気恥ずかしそうに視線を泳がせて、ユイはハンカチで目元をぬぐう。それから、息をするのを忘れていたかのように、ゆっくりと肺の中身を吐き出していった。
彼女の感性は、僕のそれよりもずっと澄んでいて、
「いまのね、古い歌なんだよ、すごく、すごく古いんだ。けれどさ、古くさくなくって、すごくきれいだった。あのおばさん、しゃくだけど趣味がいいね」
指を絡ませて、僕の手を握りながらユイはつぶやく。
まるで夢を見ているかのように、とても穏やかな声で、ほかの誰かを彼女が褒めた。それが、僕にとってはおどろきだ。
僕たちは、自分たち以外の人間を見ようとしていない。誰かが入りこんできたら、そこからなにかが崩れてしまいそうだから。
他人と接する必要のある僕と違って、ユイは特に、他人を拒絶しようとする傾向が強い。
僕が誰かを見るだけで不機嫌になるし、自分が誰かに話しかけられるのも嫌う。アクシズにいたころよりも、ずっとその傾向は強くなっている。
そんな彼女があのひとを褒めたのが、誰かを言葉の上だけでも受け入れたのが、なぜか、悪いことのようには思えなかった。
本当なら、そういう風にあるべきなのではないか。
誰とも関わらずに生きていけるほど、この世界は簡単ではない。
本当なら、僕たちもこうやって、誰かを褒めたり触れたり、そういう風にあるべきなのではないか。その方が、ユイも幸せになれるのではないか。
根拠もなく、ユイの穏やかな横顔に、そんなことを考えてしまう。
もしかすると、この場所にある空気に酔ってしまっているのではないか。僕の思考は、故障でもしているのではないか。
どうするのが正解なのか、それを教えてくれるひとを、僕は知らない。だから、思考はどうやったってまとまらない。同じ場所を、ぐるぐると周ってばかりだ。
奏でられるピアノの旋律が、また異なる曲の始まりを告げていた。優しげなハミングが、やはり、耳に心地いい。
けれど、僕はもう一度、さっきの歌を聞きたかった。そう思っても、どうしようもないことだとはわかっている。
どうしてこんな気持ちになるのかは、わからない。ただ、こうやって、心になにかが触れるのが、それこそがユイが音楽を好む理由なのかもしれないと思う。
「……ねえ、ずっと一緒にいてくれる?」
さっきの歌詞に重ねたように、ユイはそう問いかける。僕の目を、まっすぐに見あげながら。
小さな手を握り返して、僕は答える。それこそ、さっきの歌詞に重ねるように。
言葉にするその前から、ユイの頬がどんどん赤くなっていく。なにも言わないうちから、なにもかもが伝わっているかのように。
だから、いつも、僕の返事は最小限だ。
「ああ、約束するよ」