機動戦士ガンダム0090 方舟のレガリア   作:しゃくなげ

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 宇宙(そら)()んでいた。

 

 どこまでも広くて、底が見えないほどに深い。

 

 落ちていくように、浮き上がるように、吸いこまれるように、押し出されるように。

 

 ぐるぐるぐるぐる、めまぐるしく天地がまわり、視界がゆがんで赤く染まる。

 

 仰角(ぎょうかく)七十一度、俯角(ふかく)四十三度。上下にそれぞれ二機を確認、最初にしかけてきたのは頭上の片割れだ。

 

 膨れあがる青白い炎が、長く尾を引いていく。その発生源は、単眼をあざやかに輝かせながら、蛇の頭のように襲いかかった。

 

 ほとばしる閃光は、独特の音色とともに宇宙(そら)の黒を裂く。

 

 コントロールロッドを引いて、機体を制御。頭部ユニットをかすめた一撃は、後方のどこかで炸裂した。

 

 ペダルを踏みこみ、バーニアを噴射。敵との距離は即座に消え失せ、展開したビーム・サーベルが装甲を溶解させて両断する。

 

 振り下ろして銃身を斬り飛ばし、手首を返して右前腕を。機体を旋回させつつ振り抜いて、コックピットを真一文字に蒸発させる。

 

 モビルスーツの装甲越しに、残りの三機がひるんだのを感じた。ばかなやつらだ、前に出なければやられなかったのに。

 

 いちばん近い足下の一機へ、ロックオンを待たずにトリガーを絞る。理由はないけれど、当たるという確信があった。

 

 爆裂する機体を残して、()ぶ。後退しても、もう遅い。そんなめくら()ちでは当たらない、回避も防御もさせはしない。

 

 サーベルを叩きつけてやった装甲が蒸発し、パイロットの恐れとおびえが伝わってくる。

 

 一太刀を振り抜くまでの間、ずっと膨れあがり続けるそれは、間近で感じる太陽めいたひどく不愉快なものだ。

 

 斬り捨てて、斬り捨てて、斬り捨てて。指の先がぢりぢり痛んで、目の奥になにかがあるような錯覚。

 

 けれど、モビルスーツを操縦するときに、そういうものを感じていた記憶は、僕にはない。記憶にないのに、感じてしまう。

 

 記憶と感覚がちぐはぐになって、体がきしんで悲鳴をあげる。

 

 いや、ああ、そうか。不愉快なのは、当然のことだ。

 

 このときの僕は、まだ、そんな感覚を持っていなかった。だから、昔の夢をみたりすると、いまの僕には不具合が発生するのか。

 

 そこで、目が覚めた。コントロールロッドの感覚が、いまも指先に残っているような気がする。

 

 うす開きのまぶたをあげると、研究所や軍艦の白いそれではない、すすけて汚れた天井があった。

 

 月面都市フォン・ブラウンの最下層、ジャンクだまりのぼろ家の寝室。そこが、いまの僕たちが見つけた寝床だ。

 

 ひたいに浮いた汗を、手の甲でぬぐう。視線だけを動かして隣を見ると、ユイが寝息を立てていた。赤みがかった茶色の髪は、なでるとさらさらと心地いい。

 

 時計の表示は、午前四時。耳を澄ませば、どこか遠くで重機の駆動音が聞こえてくる。

 

 こんな時間に起こしてしまっては、かわいそうだ。彼女の耳を手のひらで(おお)ってやると、言葉にならない声が小さな寝息に混じった。

 

 こんなことを考えるだなんて、きっと、僕はおかしくなったのだろう。けれど、それでも、そんなものは小さなことだ。

 

 僕たちは、いまもまだ、生きている。

 

 いまもまだ、僕も彼女も、生きている。

 

 それと比べてみれば、僕自身の異変など、とても小さなことだった。

 

 

 

 九十年 三月 三十日

 

 サイコ・レコーダーの出力ログを確認しておどろいた、夢まで記録に残せるのか。

 

 もうしばらくは、起動しっぱなしにしておこう。

 

 

 

 九十年 四月 一日

 

 久しぶりに、あのバーへ足を運ぶ。

 

 とはいえ、今回は客の立場ではない。製氷機の具合が悪いとのことで、僕の役割はその検査と見積もりだ。

 

「やあ、お久しぶりですな」

 

「どうも」

 

 いつぞやのバーテンダーは、一度しか顔を見せなかった僕のことを覚えていた。この店のマスターなのだから、それくらいは当然だと彼はいう。

 

 朝方のバーは当然ながら準備中で、人の気配がない。あれほどそうぞうしい空間だったのが、夢かなにかのように静まり返っている。

 

「それじゃ、確認してみます。異音がするのは、これですね」

 

 無駄話をするのも苦手だから、依頼された製氷機を点検する。バーカウンターの向こう側は、思った以上にせまい。

 

 体を折りたたんで、金属製のカバーをひとつずつ外していく。大抵ほこりが塊になっている場所だけれど、彼はきれい好きなのか、しっかりと手入れがされていた。

 

 機械のすき間にペンライトを差しこんで奥を照らすと、タンクの亀裂が二カ所に、パイプも老朽化しているのが見える。これでは、正しく動作しないのも当然だろう。

 

 この手のパーツは量産されているから、交換対応も楽でいい。店に戻れば、すぐに見つかるはずだ。

 

「給水用のタンクとパイプが破損しているので、そこを替える必要がありますね。ものさえあれば、十分もあれば終わりますよ」

 

 僕の言葉に、バーテンダーはおどろいた様子もなく、指の先で白ひげを軽くなぜた。早いものだねと、静かな声が感心したような色を帯びる。

 

「店に部品がないか、確認してみます。見積もりは、それからでもいいですか」

 

 正直にいって、この手の仕事は労力を必要としない代わりに、大した金にはならない。

 

 モビルスーツの脱出用ポッドでも見つけられれば大金が稼げるけれど、そういう幸運は僕にはない。だから、こうして地道に稼ぐしか道はない。

 

「ああ、よろしく頼みます。私は、お茶でも用意しましょう」

 

 バーカウンターの外に戻ると、電話を作業着のポケットから引っ張り出した。

 

 僕のアドレス帳には、一件の番号しか登録していない。目をつむっていても、電話をかけるのは容易だ。

 

「はい、もしもし」

 

 短いコール音に続いて、ぷつりとノイズめいた接続音。それから、ふきげんそうな少女の声が聞こえてくる。

 

 客商売としては、あまりよくない応対だろう。けれど、僕もユイも、どうすれば正解なのかがわからない。屋号だって決めていないのだから、つくづく、僕らは社会不適合者なのだろう。

 

「ユイ、口径が七ミリの給水パイプってあるかい。それから、タンクも必要になる。えーと、容量は十八か、そのくらい」

 

「お仕事、うまくいってるんだ! わかった、すぐに調べるから待ってて!」

 

 僕の声を聞くと、ユイはすぐに声のトーンが高くなる。ばたばたとやかましい足音は、店の中を走り回っているときのそれだ。

 

 二分とたたずに元気そうな発見の報告を聞いて、バーテンダーへと視線を戻す。音がもれていたせいか、彼はこっくりとうなずいていた。

 

「替えのパーツがどちらもあるので、すぐに修理できますよ。作業量も少ないので、最低価格でどうですか」

 

 僕が受け取る代金の内訳は、作業量に応じた工賃と部品代がほぼすべてだ。

 

 さすがにタダ働きというわけにもいかないから、どんなに小さな作業でも受け取る下限の工賃が、今回要求できそうなものだった。

 

 このあたりの感覚をつかむのがうまいと、稼げる人間になっていくのだろう。昔から金銭には無関心だったせいもあって、僕のそれは当然ながら壊滅的だ。

 

「なに、できるだけ色をつけますよ。いまのは、妹さんですか」

 

 だから、彼の申し出はありがたかった。

 

 得することなどないだろうに、どうしてそんなまねをするのか。それがわからないまま、僕は礼の言葉を口にする。

 

「助かります、とても。ああ、ええと、どう、だろう。妹のようなもの、なのかな」

 

 ユイ自身は、妹かと聞かれると不機嫌になることは黙っておいた。僕自身も、ユイを妹とは思っていない。ただ、話せば長くなることは、話さない方がいい。

 

 きっと、僕が彼を不思議に思うように、それを話してしまえば、彼も僕らを不思議に思うに違いない。そうして人目を引くのは、避けたかった。

 

「よければ今度、ご一緒にいらっしゃってください。ランチもほそぼそとやっているので、おまけさせていただきますよ」

 

 そうさせてもらいますとだけ応えて、僕は自分の役割に没頭する。やはり、こうした他人との接触は苦手だ。

 

 このところ、調子が狂うことばかり起こる。

 

 僕が、もっとうまく生きられたのなら。そうでなければ、この世界がもっと簡単に生きられるのなら。

 

 そのときは、こういう大人の言葉も、また違って聞こえたのだろうか。

 

 

 

 九十年 四月 七日

 

 今日は、例のバーでランチを食べることになった。

 

 理由といえば単純なもので、ユイは僕の作る食事を苦手としている。だから、外食をするのは彼女にとって喜ばしいことらしい。

 

 ユイと一緒に外出するのは、ひさしぶりだ。つないだ手はひやりとしていて、触れているとやすらぐような心地になる。

 

 ひとごみの中ではぐれないように身をよせあう僕たちは、多少なりと目立つらしい。みすぼらしい衣装の男たちが、汚い声でなじってくる。

 

 この世界は、やはり、どうしたって生きづらい。

 

 侮辱を受けたからとそいつを殺してしまえば、それはこちらの罪になる。だから、こういうときは無視するしかないのが現状だ。

 

「なに考えてるか、わかるよ。昔はさ、あんなの気にしてなかったもんね」

 

 考えごとを察したように、ユイは僕の手を引いた。じゃれつくように腕を絡めて、笑顔のままで見あげてくる。

 

「でも、うん、嬉しいな。捕まったら、離ればなれにされちゃうもん。それが嫌なんでしょ」

 

 ──いっしょだね。

 

 最後のそれは、ユイが言葉にする前からわかった。そうだねと返したのか、それとも言う前に伝わったのかは知らない。

 

 ただ、彼女は嬉しそうに、なついた猫のように身をよせてくる。それだけで、通じあっていることはわかるから、それでいい。

 

「もう着くよ、そこだから」

 

 細い路地の間を抜けるのにも慣れてきた。雑居ビルの合間、うす暗くなっている一角に、ひっそりと地下への階段が口を開けている。

 

 コンクリートのざらりとした質感はどこか冷たくて、僕になじむ気がする。踏み固められたカーペットは、靴のソールをちっとも受け止めてくれなかった。

 

「いらっしゃいませ。ああ、今日もお元気そうですね」

 

 なんとかという材質の、とにかく高級そうな木製の扉を開くと、マスターはいつもの静かな声で僕に語りかける。

 

 最近では、僕の顔を見てその日の調子を言い当てるようになってきた。ふしぎなもので、彼は僕が好調か不調を的確に言い当てる。

 

 意識的に表情を出さなくても正解するのだから、いよいよもってなぞめいてくる。ひとまず会釈(えしゃく)を返して、僕はカウンターのかたすみをユイと一緒に占拠した。

 

「そちらが、ユイさまですね。はじめまして、いつもお世話になっております」

 

 マスターに声をかけられると思っていなかったのか、ユイは名前を呼ばれてびくりと肩を跳ねさせた。その様子が面白くて、つい、眺めてしまう。

 

「あー、うー、はじめ、まして。ユイ、ツォン……えーと、叢雨(ツォンユイ)、です。あの、あー、えー……ジンロウが、お世話になってます」

 

 ユイのあいさつは、やはり、どうしてもぎこちない。

 

 人に名乗ることもしなければ、そもそも名前の発音だって正しいのかもわからないのだ。僕も彼女もあの言葉は母語ではない、当然といえば当然だろう。

 

 そんなありさまでも、マスターはなにも聞かず、柔和そうな笑みを浮かべるだけだった。

 

 探り屋でないひとは、とても、助かる。僕もユイも、探られたくないことばかりだから。

 

「では、本日のランチです。どうぞ、ごゆっくり」

 

 マスターから渡されたランチプレートに、ユイの表情が明るくなる。料理の味がわからなくても、彼女の顔を見ているだけで、これがおいしいのだろうと察せられた。

 

 ユイの喜ぶ顔が見られただけで、今日はいい一日だったと思える。明日もまた、そんな一日であったらいい。

 

 

 

 九十年 四月 十日

 

 あれから、僕とユイは連日のようにマスターのランチを食べている。

 

 やはり、僕の作る食事は彼女の口にあわないのだろう。食いつきも表情も、家とはまるで別ものだ。

 

 そういうユイを見ていると、ときどき、不思議な感覚になる。

 

 これは、寂しさとか、そういうものなのだろうか。

 

 あいかわらず、僕の味覚や嗅覚は、普通のひとよりもずっと弱い。もしくは、にぶいというべきかもしれない。

 

 いろいろなものをいじられているのだから、きっと、治りはしないだろう。

 

 ユイの人生には、僕の故障が、悪影響にならないでほしい。

 

「他人のことを考えるだなんて、おかしくなったかな」

 

 ふと、昔よりも、自分がずっと弱くなってしまったように感じる。いまだって、その感覚がまとわりついている。

 

 以前の僕は、モビルスーツを動かすパーツだった。ガンダムにだって負ける気のしない、完璧なパイロットだったはずだ。

 

 いまの僕は、いったい、どうなっているのだろう。

 

 心の中には無駄なものが多すぎて、体は故障ばかりしている。そればかりか、まるで負け犬も同然に、こんな場所に住んでいる。

 

 思えば、僕が持っている最初の記憶だって、敗北だ。あのとき僕が敗けたから、できそこないとしてムラサメ研究所に売られた。

 

「うん、おかしくなってる。昔のことを思い出すなんて、なかったのに」

 

 ひとりごとは、自分に言い聞かせるためのものだろう。耳に音は入ってくるけれど、頭の中には入ってこない。

 

 過去には、楽しいものはない。未来にも、楽しいものは見えない。

 

 たったひとつ、なにより楽しかった戦争も、いまでは不思議とざらついている。

 

 いっそ、もう起こらなければいいと、そう思ってしまうほどに。

 

 ああ、やめだ。やめよう、無駄なことを考えるのは。

 

 あちこちの革がひび割れたソファをあとにして、寝室へ。冷えきった廊下の温度が、足裏を通じて頭を切り替えてくれる。

 

 あかりのない寝室でも、この目はユイを見つけられる。枕に顔をうずめて、寝息を立てる横顔を。

 

「……、…………?」

 

 小さな唇が、かすかに動く。うすく開いたまぶたのすき間から、とろんとした瞳が僕を見あげていた。

 

「起こしてごめんよ、ユイ。いいよ、そのまま寝て」

 

 手のひらで、頭をなでてやる。柔らかな髪の感触が、とても心地いい。

 

 何度かなでてやると、ユイは安心したように、またゆるやかな寝息を立て始めた。

 

 ああ、やはり。

 

 いまの僕は、きっと、前よりずっと弱くなった。

 

 けれど、きっと。

 

 たぶん、きっとこの僕は、いまがいちばん幸せなんだ。

 

 

 

 九十年 四月 十三日

 

「となり、いいですか?」

 

 僕は最初、その問いが自分に向けられていると認識できなかった。

 

 どういうわけか、今日はテーブル席もカウンターも、空席がなくなるほどの客入りだ。

 

 だからというのもおかしい話だけれど、返答は既に決まっている。ここで僕が断ったら、このひとは行き場がなくなるのだ。

 

「どうぞ」

 

「よかった、ありがとうございます」

 

 ランチプレートをこちら側に退けて、場所を提供する。スツールに腰掛けた女の横顔に、向こうの席の男がみとれているのがわかった。

 

 他の客とは、明らかに毛色が違う。やたらと肉感的な肢体をタイトで堅いデザインのドレスに包んだ、およそ、この最下層に似つかわしくない女だ。

 

 背中を隠すように長い、金色の髪。そのパーツだけは、見覚えがある。記憶の中を探っていると、横からぐいと作業着をひっぱられた。

 

「早く食べて、デザートがこないから」

 

 不機嫌そうなユイの声に、考え事は中断して、食事を再開する。

 

 角切り野菜とベーコンが入ったスープに、粗挽き肉のハンバーグステーキ。サラダを除いて、どれも彼女のお気に入りのメニューだ。

 

 料理の味は、今日もわからない。

 

「これ、半分、あげようか」

 

「いいよ。あたしは自分のを食べたから、いらない」

 

 そうかいと答えて、プレートの料理を口に運んでは噛み砕いて胃に送る。もともと半ばまで食べ終えていた昼食は、五分もかからずに消えてしまった。

 

 食後のパフェを待つ間、ユイはスツールの上で足を揺らして遊んでいる。僕がとなりを見ようとすると、そのたびに、彼女は作業着を引こうとする。

 

 うす暗い店内は、いつもの静けさとは違う、熱気のようなものがある。その正体に行き着くまで、いくらかの時間がかかった。

 

 男たちの視線が向いている先は、となりに座っている女だ。以前も、僕はこのざわつきを感じている。

 

 あの、ピアノを弾いていた、ドレスの女だ。たしか、名前は、ロザーミック。

 

 そこまで思い出したところで、ぐりとわき腹に硬いものを突き刺された。

 

「ジンロウ、よそみ。コーヒー、きてるよ」

 

 家の鍵を握ったまま、ユイはふてくされた顔で僕をにらんでいた。せっかくだからとばかりに、彼女はもう一度、鍵の先端を突き刺してくる。

 

 目の前に置かれたパフェに手をつける様子もみせず、ユイは僕へと向き直る。その意図を図りかねていると、また鍵で肋骨のすき間をえぐられた。

 

「食べさせて」

 

 彼女の言わんとすることも、不機嫌の理由も、わかるつもりだ。問題なのは、その行為をとがめる気がない僕自身だろう。

 

 スプーンに乗せたクリームを、()づけするように食べさせてやる。ユイは満足そうにそれを味わって、また当然のように口を開ける。

 

 あとは、ただただそれを、パフェグラスが空になるまでくり返すだけだ。

 

 幸いだったのは、周囲の大人がとなりの女にみとれてばかりで、僕らを気に留めなかったことか。

 

 ユイがプルクローンの生き残りだと大人に知られたら、きっと、よくないことになる。もしもそれが、戦争を始めようとしている大人だったら、どうなるだろう。

 

 ジオンの人間が多い場所というのは、どうしても、その不安がぬぐえない。だから、僕は目立ちたくはない。

 

 ユイを、モビルスーツに乗せたくない。

 

 うわべだけでも、かけらだけでも、平和というものに触れてしまうと、その思いは強くなっていく一方だ。

 

 店内の客はあいかわらずジオンの軍人ばかりだけれど、その中にスウィフトと名乗った彼の姿はない。

 

 彼は、スウィートウォーターへ行ったのだろう。きっと、また、地球の人間と戦争をするために。

 

 ジオンの軍人は、そういう人間が多い。大義だとかの、僕にはわからないものを、いつも胸に抱いている印象だ。

 

 戦争を楽しんでいたあのころの僕は、もう、死んでしまったのか。

 

 彼らに呼びかけられても、いまの自分がついていくとは思えない。もしもまた戦争になったのなら、僕は、いったいどうするのだろう。

 

「ジンロウ、どうかした?」

 

「いや、なんでもない。それより、もう戻らないと」

 

 マスターに礼を言って、代金をカウンターへと残しておく。それから、冷めていくコーヒーを、一気に胃の中に流しこんだ。

 

 熱を失っていく液体の味は、やはり僕にはわからない。わからないままに、ユイとふたりで店を出る。

 

 視界のかたすみで、女が一度、僕らに会釈(えしゃく)をするのが見えた。

 

 

 

 九十年 四月 十五日

 

 時間を忘れさせるようにゆっくりと、どこかうら悲しい旋律が流れていく。

 

 なにが悲しいのかは、わからない。そもそも、これが悲しいという感情なのか、それさえ僕にはあいまいだ。

 

 ただ、僕はこの音色を、この旋律を、この歌声を、そういう風に認識している。胸の奥をなでられているように、自分の知らない感覚がある。

 

 周りの大人たちも、このときばかりはなにも言わない。景気のいい手拍子も、はやしたてるような口笛もない。いいや、グラスがテーブルにこすれる音すら立てようとしていない。

 

 彼らは、ドレスの女にみとれているのではない。静かでしっとりとしたピアノの旋律に、甘くて澄んだ歌声に、きっと聞き惚れている。

 

 その理由が、いまならわかる気がする。

 

 ときおり挟まれるハミングが、くすぐったくなるほどに柔らかい。

 

 そんなものは知らないはずだのに、僕はたしかに、彼女の歌に黄金色をした草原の景色を見た。

 

 歌の中に出てくる大麦畑というのは、どんなものなのだろう。

 

 きっと、果てが見えないほどにどこまでも広くて、一面が黄金色なのだろう。

 

 もしかしたら、地平線というものがある場所なのかもしれない。

 

 まぶたを閉ざして、不慣れながら、音楽というものに手を伸ばす。

 

 受け取ることは簡単なのに、自分の中で起こっているものに説明ができない。ただ聞くだけなら、こんなにも簡単なことなのに。

 

 となりで座っていたユイが、不意に、そっと身をよせてくる。もう眠たいのかと聞こうとして、口を開くのをやめた。

 

 彼女も、この音色を楽しんでいる。そして、きっと、僕よりもずっと深くこの曲を理解している。それが、なにもなくても感じ取れた。

 

 ゆるやかでどこか悲しげな旋律は、最後まで耳に優しく残っている。鍵盤に触れる女の指がゆっくりと動きを止めて、余韻を伴って静寂が降りてくる。

 

 ミス・ロザーミックは、ほんのわずかに間をおいてから一礼をした。ほうけたようにもの言わなかった大人たちは、そこでやっと思い出したのか盛大な拍手を返している。

 

 僕はといえば、となりのユイにハンカチを渡していた。大きな瞳は涙で潤んで、いまにもそれがこぼれ落ちてしまいそうだったから。

 

「ユイは、音楽が好きだったね。なんとなく、いま、その理由がわかった気がする」

 

「ん、……」

 

 気恥ずかしそうに視線を泳がせて、ユイはハンカチで目元をぬぐう。それから、息をするのを忘れていたかのように、ゆっくりと肺の中身を吐き出していった。

 

 彼女の感性は、僕のそれよりもずっと澄んでいて、繊細(せんさい)だ。もしかすると、僕よりもたくさんの景色を感じ取ったのかもしれない。

 

「いまのね、古い歌なんだよ、すごく、すごく古いんだ。けれどさ、古くさくなくって、すごくきれいだった。あのおばさん、しゃくだけど趣味がいいね」

 

 指を絡ませて、僕の手を握りながらユイはつぶやく。

 

 まるで夢を見ているかのように、とても穏やかな声で、ほかの誰かを彼女が褒めた。それが、僕にとってはおどろきだ。

 

 僕たちは、自分たち以外の人間を見ようとしていない。誰かが入りこんできたら、そこからなにかが崩れてしまいそうだから。

 

 他人と接する必要のある僕と違って、ユイは特に、他人を拒絶しようとする傾向が強い。

 

 僕が誰かを見るだけで不機嫌になるし、自分が誰かに話しかけられるのも嫌う。アクシズにいたころよりも、ずっとその傾向は強くなっている。

 

 そんな彼女があのひとを褒めたのが、誰かを言葉の上だけでも受け入れたのが、なぜか、悪いことのようには思えなかった。

 

 本当なら、そういう風にあるべきなのではないか。

 

 誰とも関わらずに生きていけるほど、この世界は簡単ではない。

 

 本当なら、僕たちもこうやって、誰かを褒めたり触れたり、そういう風にあるべきなのではないか。その方が、ユイも幸せになれるのではないか。

 

 根拠もなく、ユイの穏やかな横顔に、そんなことを考えてしまう。

 

 もしかすると、この場所にある空気に酔ってしまっているのではないか。僕の思考は、故障でもしているのではないか。

 

 どうするのが正解なのか、それを教えてくれるひとを、僕は知らない。だから、思考はどうやったってまとまらない。同じ場所を、ぐるぐると周ってばかりだ。

 

 奏でられるピアノの旋律が、また異なる曲の始まりを告げていた。優しげなハミングが、やはり、耳に心地いい。

 

 けれど、僕はもう一度、さっきの歌を聞きたかった。そう思っても、どうしようもないことだとはわかっている。

 

 どうしてこんな気持ちになるのかは、わからない。ただ、こうやって、心になにかが触れるのが、それこそがユイが音楽を好む理由なのかもしれないと思う。

 

「……ねえ、ずっと一緒にいてくれる?」

 

 さっきの歌詞に重ねたように、ユイはそう問いかける。僕の目を、まっすぐに見あげながら。

 

 小さな手を握り返して、僕は答える。それこそ、さっきの歌詞に重ねるように。

 

 言葉にするその前から、ユイの頬がどんどん赤くなっていく。なにも言わないうちから、なにもかもが伝わっているかのように。

 

 だから、いつも、僕の返事は最小限だ。

 

「ああ、約束するよ」

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