九十年 六月 十二日
サヴァの行方は、まだわからない。昨日のあれから、一度も姿を見ていない。
フォン・ブラウンに隠れているのは、たしかだ。僕の作業場からガンダムを持ち出すつもりなのか、それともニッコのやつを探しているのか。
サヴァの目的がどうであれ、あそこまでゆがんでいてはどうしようもない。月から出て行くようにさせるしかないだろう。
「ダメだ、出ないな」
電話機からは、コール音が延々と聞こえてくる。六度目の電子音で、通話を断念した。
いま、いちばん危険なのはミス・ロザーミックだ。いっそ、サヴァをあの場で捕まえておけばよかったと後悔している。
サヴァのやつ、かんしゃくを起こして誰かれ構わずに襲いかかりそうな顔だった。
ニッコにはミス・ロザーミックとは無関係だとうそをついたけれど、いまのサヴァがそれを正しく認識できているとは思えない。
「……この時間は、事務所かな」
まえに渡されたカードには、事務所の名前と所在地が記載されていた。訪ねてみるなら、そこからだろう。
モビルスーツの起動キーは、念のために抜いておく。これならガンダムも、ただの巨大な鉄くずだ。
作業場を荒らされた場合、ガンダムで飛び立たれるのは困る。ユイの帰る家がなくなることだけは、避けなくてはならない。
それさえ防げれば、僕は満足できる。
さて、向かうべきは上層だ。ミス・ロザーミックの近くにいれば、すぐに動きやすい。ほかの手立てがないというのも、事実ではある。
「せめて前払いにするべきだったな、こんなにお金が必要になるなんてさ。商売もうまくならないとダメだな、僕は」
現金の手持ちは、多くない。生きるだけならまだしも、目的を持って行動するにはまるで足りない。
これは、自分の無頓着が招いた状況だ。ここから学ばなくてはならないと、嫌でも考えさせられる。
うまくなろう、もっと。どうすればいいのかはわからないけれど、もっと、うまくやれるようになりたい。
ざわざわと湧きあがる感情に押されるようにして、僕は作業場を飛び出していた。
道路をフォン・ブラウンの血管だとするなら、車は酸素を運ぶ赤血球だろうか。
窓の向こうで後方に流れていく景色は、
搬入用のトレーラーしか知らない僕には、タクシーの乗り心地は退屈なものだった。
メータに表示される運賃が、等間隔で加算されていく。もう五分もかからないと、運転手が口を開いた。
見覚えのあるボロのコートを見つけたのは、そのときだ。
「ごめん、止めて。ここでいい、おつりはいらないから」
急な要請にも関わらず、運転手はうまいこと歩道の切れ目に停車させてみせる。多めに紙幣を手渡すと、彼はにこやかな笑顔で見送ってくれた。
向かう先は、入り組んで見える細い路地だ。きれいに舗装された道を、駆け足で抜けていく。
下層とは違う、住宅街というやつだろう。重機の音もよっぱらいの姿もない、子どもを連れた母親が歩いているだけだ。
閑静とは、このことなのかもしれない。静かな空間から、僕やニッコの姿はどうしても浮いている。そのおかげで、見つけやすいのもまた事実だ。
ニッコのやつは、僕に気づいていない。コートのすそを揺らしながら、小走りでどこかを目指している。
サヴァとの待ちあわせだろうか。それとも、なにか別の目的があるのか。
ポケットの中から電話機を引っ張り出して、ミス・ロザーミックの番号をコールする。ほどなくして、留守番電話の機械音声が流れてきた。
景色がどんどん流れていく。見たと思ったらすぐにうしろへ、建物もひとも視界から消えていく。
僕らを見た母親は、子どもを守るように両手で抱きあげた。前を走るニッコよりもずっと先で、男が車に乗りこんでいる。
どこかで犬が吠えて、エンジン音が鳴き声をかき消すようにひびく。自分の心音は、静かなままだ。
「ロータスさん、ジンロウです。いま、上層でニッコを見つけました。とにかく、気をつけて」
不意にニッコが駆け出したせいで、警戒対象が不明瞭なメッセージになってしまった。
いま、ニッコを見失うわけにはいかない。電話機を片手に、強くアスファルトを蹴り抜いて追いかける。
さっきまでの大通りと並走して、ニッコは足を止めずに走り続けている。ただ、足が速いわけではないから、彼の背中に追いつくのは簡単だ。
前へ、前へ。二十メートルほどの距離は、またたく間に手を伸ばせば触れられるほどに縮まっていく。
そこまで近づかれて、どんくさいニッコも尾行に気づいたらしい。
声をかけるよりも先に振り返って、ニッコはポケットから小さなナイフを取り出した。その表情が、すぐにおどろきで固まる。
「えっ、えっ、えっ」
目をしろくろさせている様子で、ニッコが混乱しているのがわかる。不測の事態で動きを止めてしまうのだから、やっぱりこいつは近接格闘がへたくそだ。
一歩を深く、鋭く。走っていた慣性を殺すために、制動は甘く。
「受け身、とれよ」
「え、あ、ひ、ぃ、っ!」
壊すためでないから拳は握らず、手のひらでそっと胸を打つ。軽い手応えとともに、ニッコの小さな体が吹き飛んだ。
尻もちをつくように着地して、ニッコは痛みにもんどりうっている。からからと音を立てて、ナイフは路地のすみへと転がっていった。
「い、い、痛っ、痛い、う、う……じ、じ、ジュロー、ひど、ひどい、よぉ!」
涙目で抗議するニッコは、自分の手に得物がないことに気づいて慌て始める。四つに這って地面を探す彼の前に、目線をあわせるためにしゃがみこんだ。
「ニッコ、聞け、ニッコ。おまえ、こんなところでなにをしていた。あのナイフは、なんのために持ってたんだ、ニッコ」
僕を見あげるニッコの瞳は、涙で濡れているものの、怯えや敵意が感じられない。
こいつの性格からすると、もっと反応があってもおかしくない。ミス・ロザーミックを狙っていたのなら、なおさらだ。
嫌な感じが、ずっとまとわりついてくる。
「あ、あの、あの、ね、に、に、兄さんが、わ、悪いひと、に、あの、あの、お、お、お仕事、あの」
ひざ立ちになると、ニッコはいつもの手振りを交えて話し始める。左右の指をつけては離して、離してはすりあわせて。
「し、し、写真の、お、女のひと、こ、こ、殺すって、言うんだ。そ、そ、それなら、じ、ジュロー、が、い、いっしょにくるって」
言葉を探しているのは、わかる。けれど、今はその時間さえも惜しい。
もうすでに、頭のどこかに確信がある。それも、受け入れたくない確信がある。
「じ、じ、ジュローの、と、と、ともだちじゃないから、よ、よかった、って、思った、けど、ぼ、僕、あ、あの、女のひと、た、た、た、助け、たくて」
失敗した。選択を間違えた。思い違いをしていた。
自分の直感に、嫌な汗が背中に浮きあがるのを感じる、ぞわぞわとした不快感がのしかかってくる。
こいつが、ひとを傷つけるようなやつじゃないと、そう信じるべきだった。僕はなぜ、こいつのことをきちんと考えなかった。
ニッコの話を、しっかりと聞いておくべきだった。こいつがなにを伝えようとしていたのか、正しく理解するべきだった。
「ぼ、ぼ、僕は、あの、あの、僕は、その、し、し、知らないひとでも、し、し、し、死んじゃうの、か、か、かわいそう、だったから」
ニッコはふらふらと立ちあがって、落ちていたナイフを拾いに行く。
「わ、わ、悪い、ひと、追っかけてたんだ、けど……あ、あ、あの、こ、転んじゃった、から」
思い出す。ニッコのずっと前で、車に乗りこんだ男がいた。
ニッコがとつぜん走り出したのも、エンジン音が聞こえた直後だったはずだ。
まずい、まずい、まずい、まずい。
「い、い、行かなきゃ、僕、行かなきゃ。じ、じ、ジュロー、ご、ご、ごめん、ごめんね」
地面を蹴る。強く、前に進むために、強く。アスファルトがひび割れても構わなかった。
ニッコの悲鳴が、背後から聞こえる。振り向いてたしかめる時間も惜しい。
間にあってほしい。止められる、止められるから、間にあってほしい。
路地を抜ける寸前で、ひどく不快な音が大通りから聞こえた。
救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。到着したところで、もう意味はないというのに。
警察官が、なにかをさけんでいる。言葉の中身を理解するだけの気力は、どこかに流れてしまっていた。
交通事故だと、誰かの声が言っていた。車が、歩道に突っこんだのだと。
人混みは、絶えない。悲惨な事故の様相を見て、なにかを口々に囁いている。
その光景が、なんだか、ひどく苦手だ。頭の中が、ざわつく感じがする。
「……あ、あ、あの、ひと、……、し、……し、し、死んじゃった、ね」
声をかけられていると、気づかなかった。
顔をあげると、いつものボロのコートが揺れている。佇んでいるニッコの顔は、泣き笑いのようにも見える。
「……そうだね、死んでしまったね」
歩道に広がった鮮血は、誰が掃除をするのだろう。あの死体は、誰が処理をするのだろう。考えると、目の奥がずきりと痛んだ。
「……なあ、ニッコ。おまえさ、どうしてあのひとを助けようと思ったんだい」
到着した救急車から、男たちが降りてくる。人混みをかきわけて、ストレッチャを運びこんでいる。
「……、あ、あ、あ、あの、あのひと、……ぼ、ぼ、僕に、歌って、くれた」
ああ、そうだったのか。
知っていたひとが、運ばれていく。黒い袋に詰められて、ひとではない、ものとして。
「きれいだったろ、歌声」
僕にも優しいひとだったから、こいつにも優しかったのだろう。
何度も何度もうなずいて、ニッコは僕の問いを肯定する。それから一拍の間をおいて、大きな目をまたたかせた。
「じ、じ、じ、ジュロー……あ、あ、あのひと、……や、やっぱり、と、と、と」
「いいや、違うよ。バーで見かけた、それだけさ」
ニッコはなにかを言いたそうにしていたものの、口をつぐんだ。
救急車は、サイレンを鳴らして遠ざかっていく。ボンネットのゆがんだ車は、レッカー車に運ばれていった。
あんなにたくさんの見物人も、みんな、どこかへ行ってしまった。
涙を流すひとは、ひとりもいない。無関係な人間の集まりだから、それも当然なのだろう。
だったら、あのひとを知っているのに涙を流さない僕は、ゆがんでいるのだろうか。
僕の感情は、想像よりもずっと静かなままだ。ずっと
ひとが死ぬのを間近で見るのは、思えばこれが初めてだ。
だというのに、こんなにも普段どおりでいる理由が、自分でもよくわからない。
「おまえが助けたいって顔をしていたから、手伝ってやろうとしたのさ。……もっと早く言ってくれたら、うまくやれたんだけどな」
僕のうそを、ニッコはどんな気持ちで聞いているのだろう。なんとなくだけれど、泣き出しそうなその顔で、感じ取れる気はした。
それきり、会話はとだえる。ニッコのやつはこちらを盗み見ていたものの、やがて一歩をしりぞいた。
「……ぼ、ぼ、僕、その、あの、い、行く、ね。に、兄さん、と、ち、ち、地球に、降りるんだ」
歩き出そうとする背中に、呼びかける。肩越しに振り返ったニッコの顔は、困ったように眉が落ちていた。
「降りたら死ぬよ、おまえもサヴァも。たったふたりで、なにができる」
ニッコは、なにも言わない。
黙って考えこんでから、仕方ないよとうそぶいた。
「だ、だ、だって、ぼ、ぼ、僕が行かない、と……に、に、兄さん、が、あの、あ、あ、あの、う、う、動かせない、から」
またねと小さく手をふって、ニッコは
小さくなっていく背中を見ていると、ふと思い出す。
「ガンダムもパーツも、うちに残したままだろ、おまえ」
つぶやいてみたけれど、ニッコのうしろ姿はもう見えなくなったあとだった。
ミス・ロザーミックの住居は、きれいで大きな集合住宅だった。
廊下にいくつも並んでいる同じかたちの扉を通り過ぎた、いちばん奥のつきあたり。ここが、あのひとの家だ。
ベルを鳴らすよりも先に、あわただしく扉が開く。両目をまっかに腫らしたユイが、顔を見せるなり僕の胸へと飛びこんだ。
ユイは、なにも言わずに泣いている。子どものように、大きな声で。
僕はといえば、この小さな体を抱き締めるしかできない。なにを言ったら慰めになるのか、そんなことは知らないし、わからない。
ただ、泣きじゃくるユイの姿は、いたたまれない気持ちになる。
僕と違って、この子は、ミス・ロザーミックといっしょにいた。ピアノを教わり、歌を聞いて、寝食をともにしていた。あのひとへの思い入れが、僕よりもずっと大きいはずだ。
考えれば考えるほど、僕の中になにかが入りこんでくる。あの場にいても動かなかった心が、ユイの姿で揺らいでいる。
おかしくなってしまうまえに、一度、記録を中断する。
記録を、再開する。
いまは、ミス・ロザーミックのソファを借りている。
ユイは、君は、泣き疲れて眠ってしまった。
ほほを流れた涙は、乾いて跡を残すだけだ。この痕跡で、君が初めて、僕以外のひとに心を開いたのがわかる。
きっと君は、あのひとが死んだ理由をこのログで知るはずだ。
あれは、僕の失敗だった。許してほしいとは言わない、ただ、僕の失敗だったのは事実だし、それは隠さずに伝えなくてはいけない。
僕がもっと、ニッコの話を聞いて、考えて、理解できていたら。そうなっていたら、あのひとは死なずにすんだ。
だから、というわけではないのだけれど、僕は、この失敗を、違う、ユイ、どう伝えたらいいんだ、これは、ダメだ、うまく、まとまらない。
ああ、またおかしくなる。
記録を、中断する。
記録を、再開する。
ユイとふたりで、ミス・ロザーミックの部屋を出た。勝手に鍵を持ち出してしまったのが、なんだか心苦しい。
作業場に戻るべきなのか、まだわからない。
だからといって、僕らの行くあてなんて、そう多くはない。結局、いつものバーに向かうことになった。
ニッコたちを気にする必要は、もうない。相手がふたりだけとわかってしまえば、僕がユイと離れなければいいだけだ。
離れないように手をつないで、互いに身をよせあって歩く。なんだか、とても、ひさしぶりの気がする。
会話は、なかった。
なにを言ったらいいのか、お互いにわからない。だから、ずっと無言のままで歩き続けた。
「ああ、いらっしゃいませ」
マスターの静かな声を聞いて、はじめて、聴覚が正常に動作していることを知る。昼間にもかかわらず、バーの中には大勢の客が押しかけていた。
ただ、いつもの熱気は店内のどこにもない。重たく苦しい、静寂とはまた異なった静けさがあった。
「……その様子ですと、もうご存じのようですね。ランチプレートになさいますか?」
いつものカウンター席に座ると、僕らの様子から察したマスターが問いかける。それにうなずいてから、僕とユイは差し出されたグラスの水を飲み干した。
冷えた水が、のどの奥を流れていく。自然と、肺の中にたまっていたものを吐き出していた。
この店にただよっている空気が、見えるようだ。誰もが一様に、悲しみに暮れている。この手で触れられそうなほどに強く、そして悲痛なひとの感情があった。
否が応でも、ユイの泣き声を思い出す。となりに座ったままの彼女はうつむいて、こぼれそうな涙をこらえていた。
ひとが死ぬというのは、こういうことなのだろうか。
いままで、僕はモビルスーツの装甲越しにしか感じてこなかった。
だから、こんなふうになるということを知らなかった。ひとが死んだら、こんな感情が生まれるということを知らなかった。
苦手ではない。これは、嫌いだ。
僕は、この、これが、嫌いなのだ。それが、いま、はっきりと認識できる。
あんなに大勢の人間を、遊ぶように殺してきたというのに。こうして目に見えるかたちでひとの死に直面すると、胸を痛めている。
僕も、つくづく、勝手なものだ。だからきっと、僕はいまでも子どものままなのだろう。
「どうぞ、お待たせしました」
運ばれてきたランチプレートは、角切り野菜とベーコンが入ったスープに、粗挽き肉のハンバーグステーキ。いつもと変わらない、サラダ以外はユイのお気に入りだ。
「いただきます」
「……いただきます」
食べてみても、味はやはりわからない。
ただ、今日の食事はいつも以上に、楽しいと思えないものだった。
食事を終えてようやく帰った作業場は、朝と変わることのないままだった。
ガンダムもゲーマルクの内部パーツも、それどころか作業場の鍵にさえ変化はない。ニッコもサヴァも、ここにはこなかったのだろう。
ユイは、横たわったままのガンダムを見あげている。その表情は、いつもより険しいものだ。
「その顔、やっぱりガンダムは嫌いなのかな」
「……うん、嫌いみたいだ。あたし、こいつを
プルシリーズに施された刷りこみは、いまもユイの、プルテンの中に残っている。彼女の表情が、それをもの語っていた。
こうなると、ガンダムを作業場に残しておくのも避けたいところだ。こいつには、いつかここから出て行ってもらわないとならない。
「じゃあ、持ち主に返そうかな。嫌いなものを置いておいても、なんだからね」
装甲に手を触れると、冷たく硬い。
自画自賛だけれど、修理の成果は上々だ。ニッコたちの状況を考えると、代金を受け取れないのが惜しいくらいによくできている。
運搬は、ギャルに頼めばどうにかなるだろう。問題は、サヴァが僕を受け入れるかどうかだ。
「……ちょっと、考えなしだったかな」
「なにが?」
ユイは、ガンダムから離れた作業台へと腰をおろす。
「いや、ちょっと持ち主を怒らせてね。取引を切りあげたくて、悪口を言ったというか……」
僕の発言を聞くなり、向けられるユイの視線がするどさを増す。
「……ジンロウ、お金、もらえなくなるよ」
不意に、アラームのような電子音が鳴りひびいた。まるで、僕らのやりとりを見ていたかのように。
着信相手は、公衆電話からだ。
「ああ、そうだね……そうだな、うん、謝ってみるよ」
見届け終えたというように、ユイは久しぶりのキッチンへと駆けていった。
入れ替わりに、通話ボタンを
「なあニッコ、聞いてもいいかい」
「え、あ、あ、あの、じ、ジュロー、よ、よくわかった、ね。……な、な、な、なん、な、なに?」
「本当に行くのかって、さ」
無言の間が、流れる。
「……、う、ん。も、も、もうすぐ、で、で、出るんだ。が、ガンダム、じ、ジュローがな、な、なおしたやつ、なんか、い、いらない、て、に、に、兄さんが」
「……そうか、わかった。サヴァのやつは、僕の言葉はもう聞かないだろうね。だから、おまえに言うよ」
背後の騒音は、ニッコがまだフォン・ブラウンにいることの証左だ。
だからといって、いまからどうこうしても意味はない。こうやって言葉で伝えるしか、いまの僕にできることはない。
「死ぬよ、おまえも、サヴァも。兵力だって足りていないし、あのコムサイじゃ大気圏突入だって無理かもしれない」
だから、やめておけ。
そう伝えても、ニッコの反応はない。なにかを言おうとして、口ごもっている。
「……僕はさ、激情家にはなれないみたいだ。サヴァのやつに
ガンダムは、なにも言わずにそこにいる。こいつを届けたところで、ニッコたちの行動が無謀なことに変わりはない。
「ただ、なんだろう、うまく伝えるのが難しいな。ひとが死ぬのを、見ていたくない。おまえたち、いけ好かないけれど、サヴァのやつだって死んでほしいとは思ってないんだ」
「……ジュロー、が、い、い、いっしょに、きても、ダメ、かな?」
「ダメだね。僕はうまいけれど、味方を守るってのは苦手だから」
そうかあと間延びした声で、ニッコは残念そうに笑った。
「だから、行ってほしくない。おまえにも、サヴァにも、死んでほしくない」
それきり、返事はとだえる。
向こう側のざわめきは、ニッコの存在に関係なく一定の間隔で聞こえてくる。
「……ご、ご、ごめん、ね。ぼ、ぼ、僕も、に、兄さん、も、ミネバ様を、た、助けたいんだ」
そうだろう、わかっていた。
僕だって、グレミーに頭をいじられたときには、誰の言葉も届かなかった。
だから、これだけのやりとりでニッコを止められるはずがない。本当に止めようと思うのなら、これではダメだ。
「そうか、わかった」
「あ、あ、あの、ありがとう、ジュロー、に、に、兄さん、を、ゆるして、くれて」
「別に、そういうのじゃないよ。ただ、僕は、めんどうくさがりなだけさ」
ポケットの中には、ガンダムの起動キーがある。僕のかたわらには、ガンダムがある。
「そ、そ、そろそろ、行かなきゃ」
「そうか、じゃあ、気をつけてな。……ああ、そうだ、最後にひとつ。おまえさ、あのひとの、どんな歌を聞いたんだい」
無言ではないけれど、意味をなさない声が聞こえる。
それから、メロディラインをなぞるようなニッコのハミングが聞こえてきた。
聞き覚えのある曲だ、たしかに、ミス・ロザーミックが歌っていた。
「わかった、あれか。いい歌だったろ」
「う、うん、うん! じゃ、じゃあ、ぼ、ぼ、僕、行ってくるね、ジュロー」
そこで、通話は終わった。
無機質な電子音を聞くのが嫌で、電話機をポケットに押しこむ。それから、さっきの歌を思い出す。
キスと、笑顔と、ただひと言と、抱擁を。
ミス・ロザーミックの甘い歌声は、そんなふうに切なく訴えていた。ニッコのやつは、あの歌の意味を理解していたのだろうか。
「ニッコ、おまえ、本当にばかなやつだな。あれは『行きたくない』って歌だ……ニッコの、ばかめ」
ガンダムの起動キーは、いま、僕の手の中にある。