「へっくし!」
7月20日。白井黒子と共にとある事件を追う御坂美琴は、本日何度目かとなるくしゃみを炸裂させていた。昨晩、自分の邪魔をした挙句にわけのわからない『右手』を持つツンツン頭の少年を、夜通し追い掛け回していたためである。
「やはりお休みになられていた方が良かったのではありませんか?」
「平気よ。ちょっと馬鹿を追いかけてただけだし」
馬鹿? と白井は美琴の言葉を繰り返し、はあ、と小さくため息をついた。
「相手がどこのどなたかは存じませんが、あまり一般人相手に暴れないでくださいまし。昨日の停電騒動、お姉様が原因なのでしょう」
ぎく、と美琴の肩が跳ねる。白い目で見てくる白井に対して、美琴は慌てて反論する。
「し、仕方ないでしょうが! 本気出さないと全然怯まないんだもん、アイツ!」
「言い訳にすらなっていませんわよ」
呆れた調子で言う白井に、美琴はなおも食い下がろうとするが、これについては弁解のしようもない。周囲への影響を鑑みずに、衝動で年上男子に噛みついていたのは確かなのだから。
「そ、それより。あの爆弾魔が昏睡した件だけど」
美琴はつい先日、能力のレベルを格段に引き上げる都市伝説『
「詳しいところはまだわかりませんの。ああ、そうでしたわ。巡回のシフトを急遽変更しなければなりませんわね。お隣の
思い出したように、白井が
「私、結構乱暴にぶん殴ったのよね……あれが原因じゃないといいんだけどなぁ」
「お姉様、それ、結構な爆弾発言ですわよ」
ひとり述懐する美琴を、白井が引きつった顔で見た。
◇
「任務達成ご苦労様~!」
煤と埃で派手に汚れた服でアジトへと帰還した
「あれ? ミコちゃんは一緒じゃないの?」
「途中で別れた」
「えー、せっかく親睦を深めてもらおうと無茶言って同じ任務に就かせたのに。やっぱり仲良くやれそうにないのー?」
「……」
ふと、靡く髪を抑える少女の姿が過った。
「一応聞くが、母さんは全部知ってるんだな?」
「ミコちゃんのこと?」
頷くと、乖離はにんまりと笑って見せた。
「そりゃあ、あの子を連れてきたのは私だもの」
「アイツは本当に、御坂美琴のクローン……
素直な疑問を口にする。乖離は目を丸くしていた。
「顔は確かに御坂美琴のものだった。体格はまあ、研究するうちに規格を変えることもあるだろう。だが、奴のレベルは
ロケットのような機構で空へと飛び立とうとした
「少なく見積もっても
「通行区分」
少し語調を強くして、木原乖離は遮った。
「それ以上は、女の子のプライバシーに踏み込む行為。疑問に思う気持ちはわかるけどね、『あっ、ちょっと変わった子なんだなぁー』くらいに留めておきなさい?」
「……俺にも口外できない事情があるのか?」
「それがお互いのためなのよ。これから先、同じ部隊の仲間として働く上で、知らない方が良いこともある。知ってしまったが最後、見る目が変わってしまうことってあるのよ? どんなに良い人に見えていても、実はバツ3とか聞いたら普通には見られなくなるじゃない? ああ、まあ、あの子の場合は本人の問題じゃないから、このたとえは変かもしれないけど。まあ言いたいことは同じよ」
手をぷらぷらと振って、誤魔化す。木原乖離という女性が、隠し事をする時の癖だった。一応、母親である彼女のことを信頼している通行区分だったが、彼女のこの仕草だけは、いつまで経っても好きになれなかった。
そしてこの仕草をした木原乖離が口を割ることは絶対にない。彼女の子として過ごした日々の中で、それは体感していた。これ以上追及したところで、時間の無駄になるだけだ。強硬手段に出ればあるいは、とも思うが、生憎とそこまでするつもりもない。自分の立ち位置を揺るがしてまで、危ない橋を渡るほど好奇心のタガは外れていないのだ。
「……ああ、わかったよ。それなら、あの子どもについて聞かせてくれ」
折衷案というわけでもないが、もう一つの疑問を投げかけた。
「ああ、あの子のことね」
木原乖離は頷いて、傍らのコンソールに何か命令を打ち込んだ。素直に言うことを聞いたからか、どこか満足げであった。命令の入力とほぼ同時に、部屋の大部分を占める壁面モニターに情報が表示される。手術着のようなものを着た、金髪の少年の姿だった。
「『
モニターを見た通行区分は、真っ先にプロフィール部分を読み取り、呟いた。
『置き去り』とは、要するに身寄りのない子どもたちである。学園都市では様々な理由から、子どもを預けたまま失踪する親は多い。それは金銭的な問題ということもあるし、単純な厄介払いという場合もある。望まれない子どもだったり、最新鋭の衛生都市ならきっとよくしてくれるという希望を込めて、ということもある。そうして学園都市の庇護に入った子どもたちの行く末は明るい――ばかりでもない。乖離は楽しそうに微笑む。
「今時珍しくもないでしょう。赤ちゃんポストなんてものがある時代なんだもの」
「母さん達に言わせれば、才能の有効活用ってやつなんだろ。それについてはとやかく言うつもりはないさ。それで、こいつのどこを気に入った?」
「顔が可愛いっていうのは言うまでもないとして、次のページ」
エンターキーを一度叩く乖離。モニターに新たな情報が表示される。それは、能力者の能力を解析、説明するものであった。
「『
「聞き慣れない能力でしょ。夢が広がるわよ、この子のチカラは」
得意そうに微笑む乖離をよそに、通行区分はその文字の羅列に目を向けた。
「AIM拡散力場の観測と、同期、拡張……」
「世に言う『
「そんなことが可能なのか? いや――」
「そう、まだ実用段階じゃない」
通行区分の言葉を遮って、乖離が口にした。
「ここに記されているのは、大部分が推論よ。ただし、この子が持っている『種』を開花まで導くことができれば、これは現実になる。もしそうなったら、何が起こると思う?」
尋ねられて、通行区分は目を細めた。
「学園都市を取り巻く『
にわかには信じがたい話である。もしもこれがネットのよもやま話であれば、一笑に伏すところだ。しかし、『木原』が目を付けているとなれば話は別である。
「そう聞くからには、この推論を実現する方法はもう考えてあるんだろうな」
通行区分の言葉に、ピンク髪の研究者はにんまりと笑った。
「もちろん。多少手荒にはなるけどねぇ」
◇
その光景は、見れば見るほど恐ろしいものだった。
御坂美琴のクローンである冨逆美鼓は、巨大な培養器の中に詰め込まれた金髪の少年の姿を見て、眉をひそめる。頭の中に残っている、忌々しい記憶が呼び起こされるようだった。ぞわりと背筋に走った嫌な感覚を、肩を抱いて押し退ける。
「……予想以上ね、学園都市の腐りっぷりは。こんな子どもまでモノ扱いか」
思わず、そんな独り言が漏れた時であった。
『……誰か、そこにいる……?』
不安げな声が、聞こえてきた。見れば、培養器の中の少年の瞼が開き、こちらを見つめていた。予想外の反応に、目を丸くする冨逆。
「そんな状態でわかるの?」
『……うん。実験の影響で、感覚は他人よりも良いみたい』
「……実験」
ここへ連れてくるに当たって、木原乖離は「能力者を買い付けた」と言っていた。能力者にも千差万別があり、オリジナルの御坂美琴のように順当に成長していくタイプの者と、生まれた時から強大な力を有している者がいる。この少年がどちらに該当するのかはわからないが、あの木原乖離が金を出して買い付けたという時点で、ある程度学園都市内で能力開発ないし解析を行われたことは想像できる。学校での教育という形を取っているのなら非人道的とまでは言うまいが、この幼い少年はそうではない。
勝手に境遇を想像して、冨逆はそれ以上、実験について尋ねることはしなかった。
「アンタ、名前は?」
『……え』
問いを投げると、少年は戸惑ったように言葉に詰まった。小首を傾げて、冨逆は続ける。
「あるでしょ。自分の名前よ」
少年の戸惑いも、止まらない。少しあれこれ考えるように視線を泳がせてから、おずおずと口を開いた。
『
どこぞの同僚という例があるからそこまで違和感も覚えないが、それはあまりにも、人名とはかけ離れたものであった。苛立ちながら、冨逆はさらに問いを投げた。
「親からつけられた名前はないの。田中実みたいな」
『……ないよ。ボクは、『置き去り』だから。気が付いた時には周りは白衣の大人ばっかりで。その人たちはボクを境界因子って呼んでた。だから、それがボクの名前だよ』
「……そうか」
自分のことでもないのに、ひどく腹が立った。こんな年端もいかない少年が、人らしい名前も与えられずにこうして道具にされていることに。
『そういうお姉さんは、なんて名前なの?』
問われた冨逆は一度目を伏せて、顔を逸らしながら、
「……冨逆美鼓」
と答えた。苗字と名前、この日本で戸籍登録される、一般的な名前の構成だ。
「でもこれは、親から貰った名前じゃない。自分でそう名乗ってるだけよ」
帽子の鍔を摘まんで、伏せる。こういう話をする時は、誰にも顔を見られたくなかった。
『自分で、名前を……?』
少年は、まるで意味が分からないようだった。無理もないと思う。この少年にとっては、名前など他人が自分を定義するための記号に過ぎないのだから。そうさせた者たちと環境に、虫唾が奔る。
「そうよ。自分は自分だっていう証明のために、私はこの名前を名乗ってるの」
『自分の、証明……』
少年は、冨逆の言葉を噛み締めるように繰り返した。この少年の境遇すべてを理解しているわけではないが、知る限りの半生を思えば、冨逆の発言の一つ一つが価値観の外にあることだろう。そこまで話して、冨逆はふと我に返った。
(私、何でこの子にこんなこと話してるんだろ……)
はあ、とため息をつく。そもそもここを訪れたのは、この少年の安否を気にしたとかではない。この組織が、この街が抱えているものを正しく理解するためだ。御坂美琴のクローン、
そして、垣間見た闇の大きさを、深さを推し量って――復讐するために。
「……邪魔したわね」
強引に幕を引いて、冨逆は踵を返した。これ以上、ここに留まる理由はない。そう考えたからである。
『待って、ミコ』
「……?」
急に、少年が名前を呼んだ。数歩進んで、立ち止まる。呼ばれたから、という以上に、どうして下の名前なんだ、という俗な疑問が先に出た。
『あの時、ボクを助けてくれてありがとう』
「……え」
思わず、振り返る。少年の語る『あの時』に、少年の意識はなかったように見えたから。
『ごめんなさい。でも、今言わなかったらいつ言えるかわからないから』
事実である。自分が少年を助けたことも、明日にもどちらかが死んでいるかもしれないことも。冨逆美鼓は、もう一度小さく自嘲を込めたため息をついた。
「……お礼を言われるような筋合いじゃない。私一人が助けた訳じゃないし、アンタを助けたのは、それが仕事だったからよ。だから――」
『それでも。それがなかったら、今こうしてミコと話もできてなかったかもだから』
「――、」
真っ直ぐ向けられる好意に、冨逆は振り返ることができなかった。自分が身を置いている環境とはかけ離れた少年の純粋さは、まぶしくて、とても直視できるものではなかった。いや、そんな理屈じみたことではなく。単に、オリジナルの少女よろしく、彼女もまた素直ではないというだけか。
「……なんでこんな子が、こんな目に」
消えゆくような小さな声で、冨逆は呟いた。それはこの街にある理不尽であり、紛れもない真実であり、否定すべき悪徳であった。
『ミコ?』
背後から、少年の声がかかる。冨逆は背を向けたまま、小さく息を整えた。
「一つだけ言っておくわ、インターフェイス」
もう一度帽子の鍔を摘まんで、言う。
「アンタは、誰かの道具なんかじゃない。名前は仮初でも、自分で進む道を決められる、一人の人間。その自覚を持ちなさい」
冨逆の言葉に、少年は目を見開いた。それを確かめることなく、冨逆は部屋を後にする。真っ直ぐな言葉に絆されて、柄にもないことを言ってしまったと思う。
あんなに幼い少年が、価値観を歪められて、モノに収められていることが許せなかった。
(これも、血は争えないってやつなのかもね)
自分の中に流れる血。自分を形作っている遺伝子。そこに想いを馳せて、『超電磁砲』の在り方を連想する。
「よう、冨逆」
そんなことを考えていると、向かって正面、廊下の向こうからヘッドホンの少年が歩いてきた。
「なに?」
「少し話をしないか。あの子どものことだ」
少し考えて、冨逆は頷いた。この黒髪の少年と面識を持ってから数週間。交わした言葉は数えるほどしかなく、そのうちの半分はつい今日のことで占められていた。そもそも、冨逆自身が周囲との関わりを持ちたくないタイプというのもある。
何となく並んで歩き、通行区分が屋内にある自販機の前に立った。いくつか小銭を入れてから、肩越しにこちらを見る。
「何にする?」
「……別に頼んでないけど」
「誘ったのは俺だからな。奢ってやる」
「……しゃきっとオレンジ」
それは更槇灘飲料の定番商品であった。冨逆美鼓のお気に入りでもある。照れくさそうに言った一言を聞いた通行区分が、自分のコーヒーと一緒に持って、手渡してくる。色彩はまるで違うが、第一位の一方通行と同じ顔の少年がジュースで両手が塞がっていると思うと、何だかおかしい。
「……要するに、自分の能力領域を他者に貸し与えるわけか」
一部始終を聞いて、インターフェイスが自分に感謝を伝えてきたことを思い出す。なぜ意識のない状態で助けた人物と冨逆美鼓が同一人物とわかったのか疑問だったが、かつてAIM拡散力場を観測した際、それを記憶していたのだろう。
「ああ。演算領域も一緒にな。こいつが共振するための条件がまだつかめていないが、もしも理論が実証されたなら……俺やお前が、超能力者を目指すことも可能ってことだ」
超能力者という言葉を聞いて、冨逆は自分の肩がびくりと跳ねたのに気付いた。通行区分の言葉に、必要以上に反応していた。
「……乖離が興味を持つわけだわ」
ぼそりと、冨逆は呟いた。ふと、インターフェイスにかけた言葉が過る。お前は道具じゃないと、他でもない自分がかけた言葉である。今まさに、冨逆美鼓の脳内を巡ったのは、彼を道具として使うことであった。
ジュースに口を付けて、思案するように、疲れた瞳をすいと細める。
「……これじゃ、あの女と同じじゃない」
「ん?」
「……何でもないわ。こっちの話よ」
素っ気なく言う冨逆に、通行区分は「そうか」とだけ、短く答えた。そんな調子の少年を横目で見る。
「そういえば、アンタのそのヘッドホン……」
「『変速装置』のことか?」
「あの子の『才能補翼』、それの仕組みと近いんじゃないかって」
「ヒントに作った、というのはあるかもしれないな」
通行区分は首にかけていたヘッドホンを手元に持ってきて、軽く撫でた。
「これは、俺にかけられた保険なんだ」
「保険?」
「俺は一方通行の完全なコピーを、と望まれた。そうならなかった俺が欠陥品として捨て置かれないための保険だ。こいつが使えるから、俺は存在をまだ許されている」
「使えるから、って。他の人間には使えないわけ?」
「『変速装置』は二つのパーツで構成されている。一つは、装置を稼働させるためのこのヘッドホン。もう一つは、脳神経に癒着させたナノデバイスだ」
何でもないことのように言う通行区分に、冨逆は目を見開いた。
「ナノデバイスを埋め込まれたのは、母さんから生まれてまもなくだ。ナノデバイスは脳の成長に合わせて神経網と結合していく性質があったからな。俺は自前の神経網に覆いかぶさるようにして、ナノデバイスによる第二の神経網を持っているってわけだ」
自分のこめかみの辺りに指を当てる通行区分。冨逆は黙って、おぞましい『研究』に耳を傾ける。
「普段は自前の方しか使えないが、外部から命令を入力するこのヘッドホンを介することで、後付けの神経網がリンクし、俺の演算領域は倍に拡大する。そうすれば、オリジナルのように全身に反射の膜を形成できるようになる。条件付きの第一位が完成する。そういう意味では、領域が体の中にあるのか、外にあるのかという違いはあるが、『才能補翼』のシステムと似ているな。もっとも――」
「『自分だけの現実』の方も拡張する分、『才能補翼』の方が優れている」
「そういうことだ」
能力を顕在化させるためには、『自分だけの現実』と『演算能力』の2つの要素が必要になる。『自分だけの現実』は能力の性質や物理法則に影響を及ぼす総量を司り、『演算能力』はそれをどれだけ精密に使えるかの指標となる。強力な『自分だけの現実』を持っている者はそれだけで脅威となるが、それに伴う演算能力を有していなければ、能力に振り回される言わば服に着られた状態になるのだ。通行区分の場合は、強力な『自分だけの現実』を持っているが『演算能力』が伴っていないため、全身に反射膜を形成することができないが、『変速装置』の力を借りることでそれを補い、操れるベクトルの総量こそ変わらないものの、より精密に、効率的に能力を使うことができるようになる。
即ち、『変速装置』だけでは所詮『一方通行の劣化版』でしかないが、『才能補翼』があれば『一方通行と同一』にまでなれる可能性があるということである。
「……よくついていってるわね。乖離に」
目の前の少年の境遇を思い、思わず冨逆はぼやいた。当の通行区分は不思議そうにしている。
「まあ、あの性格だし振り回されてはいるが」
「そうじゃなくて……まあ、いいか。どうでもいいことだけど。アンタ、何で私にこんなに協力的なワケ?」
これ以上この話を続けても仕方がないと思い、少年に問う。言われた少年は、コーヒー缶を行儀悪く口に咥えて、ばつが悪そうにしていた。
「言われてみれば、どうしてだろうな。……強いて言うなら、共感か」
「共感?」
「俺はこれまで、能力者のクローンは自分一人だと思っていた。そうしたら、同じ組織に居るお前も同じだと知った。この境遇は他の誰とも共有できないと思っていたところに現れた同類だ。少しばかり、思うところがあっても良いだろ?」
「……そう。まあ勝手にしてって感じだけど」
聞いて後悔した、と言わんばかりに照れ臭そうにする冨逆。そのまま飲み干した空き缶をゴミ箱に放り投げる。どいつもこいつも、どうしてこう感情がストレートなのだろうか。
「貴重な情報、助かったわ。……また気が向いたら教えて」
「ああ。わかった」
二つ返事で、通行区分は了承した。冨逆はその素直な反応にもどこか不服そうだったが、そのまま休憩スペースを後にした。
◇
「首尾の方は如何だろうか、乖離くん」
「ご心配なく。滞りなく進んでいますとも、社長」
木原乖離は、とある一室に呼び出されていた。実に、ちょっとした学校の体育館ほどの広さはあろうかという巨大な執務室。窓際に置かれたデスクと応接一式との距離は十メートル近く離れている。
「餌の方は?」
そのデスクから、初老の男の声がかかった。
「すいかずら園からの情報に相違はありませんでした。『才能補翼』の価値は依然変わらず。『DA』の襲撃までは、予想外でしたけれど」
「ふん。耳の早さは馬鹿にならんよ、『DA』は。むしろ奴らが動いてくれたことで、『才能補翼』の価値は以前より高まったと言っても良い。良い意味で、予想外だった」
初老の男は窓から眼下に広がる街を――いや、真っ直ぐ先に聳える巨大な塔へと目を向けた。
「先ほど、諜報部から報告があった。『才能補翼』の効果は覿面だ。オービット・ポータルの警備情報の一部が漏れてきたぞ」
「それはそれは。思いの外、食いつきが早かったですねえ」
ピンク髪の女医にも見える乖離は、何でもないことのように微笑んだ。その様子を見た初老の男性もまた、品のある微笑みを見せた。
「
「今のところは。試作型の『セレクター』を通じてバイタルは常に監視しています
し、『飛燕部隊』でコントロールできています。第三次計画に向けたデータ収集は順調そのものです」
「よろしい。ではプラン通り、投入するのは番外零式でいく。通行区分は別命あるまで待機。あの忌々しい塔を叩き折る最初の一手だ」
もう一度、男性は窓の外の巨大な塔を睨みつけた。命を受けた木原乖離は、こちらに背を向けている男性を見据えながら、不敵に、不敵に笑った。
「承知いたしました」
笑顔で細めたその瞳は、どこまでも楽しそうであり、愉しそうであった。