松永家   作:空潟 聿

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母視点。


祈り

 電話があったのは夕方、これから夕飯を作ろうとしたところだった。

「はい、はい……分かりました。よろしくお願いします」

 白血病で入院している息子の暖が、少し熱を出したとのことだった。念のため無菌室に移動するとのことで、私は頷くしかなかった。

 この医療という分野は、私には難しい。反論することもできなければ、異議を申し立てることもできない。そもそも、理解することすら難しく、私はこの歳になってなお自身の無力さを感じることしかできないでいる。

 しかし、病院の先生が信頼できることはこの状況で救いだった。不安はあれどお任せするしかない中で、お任せしようと思えるのだから。

 病院からの電話を切って、すぐに彩花に連絡した。暖が白血病になって以降、私たちの間で作った決まり事のひとつが、何かあったらすぐに連絡をすることだった。まずは電話を一本、通じなければメッセージを。緊急を要するものは職場に。今まで、彩花の仕事が多忙だからと、何かあってもメッセージで済ませていたか家に帰ってくるのを待っていた。

「もしもし?」

 彩花は電話に出た。今がちょうど休憩時間だったのか、いつもに比べて穏やかな声をしている。

「うん、そう、暖のことで病院から電話があってね? 微熱があるから一応無菌室に行くって。うん、そう、そう」

 電話の向こう側で彩花は落ち着いていた。病気が分かった当初、動揺しまくっていた頃に比べれば私たちも随分冷静にさせることができるようになってきたと思う。

「うん。また何かあったら連絡するね。今日は遅いんだよね? ……分かった。分かった、はい、はーい。じゃあねー」

 電話を切る。私はひとつ、ため息をついた。

 分かってはいる。最新の注意を払っていても、起きる時には起きてしまう。今までにも暖の体調が不安定になったことは何度もある。それが原因で念のために無菌室に入ったことは何度かある。

 念のためだ。と不安になりそうな心に言い聞かせる。

「お母さん、音読きいてー」

「はいはい」

 すぐに病院に行きたい気持ちはやまやまだ。でも、今日はもう家を離れられない。咲花が学校から帰ってきているし、ご飯の用意をしないといけない。彩花は今日遅番だったから帰ってくるのはもっと後。その後となるともう面会時間は過ぎてしまっている。彩世が帰ってくるのを待って咲花をお願いしてもいいけれど、彩世は今日部活だ。そんなに早くは帰ってこない。

「ねえ、お母さんきいてる?」

「へっ? あ、ごめん」

「もー! 咲花ちゃんと読んだのにー!」

「ごめんごめん、もう一回読んで?」

「もー!」

 ぷりぷりしながら咲花が音読を始める。こういうところで咲花にも咲花の知らないところでストレスをかけてしまっているのだろうなと反省する。私は夕飯作りをする手も止めて咲花の声に耳を傾けた。

 咲花はいつの間にかすらすらと音読できるようになっていて、難しい漢字も読めるようになっていて、私はそのひとつひとつを褒めながら咲花を抱きしめた。気付けばこんなに大きくなっていたのだ、と上二人の時に感じたのとはまた違う”あっという間”を感じていた。

「お母さんお腹空いたー!」

「もうちょっとでできるからね」

「早く食べたい」

「ちょっと味見する? はい、熱いよ」

「あー」

 こんなに味見をせがんでくるのも咲花くらいなものだな、と思いながら焼いていたお肉を咲花の口の中に入れる。彩世も味見をしたがったが、あの頃は私も彩花も忙しくてどちらかというとつまみ食いだった。作り置いていた晩ご飯のおかずがいくつか減っているという摩訶不思議さ。それに比べて暖は欲しがることもなければつまみ食いをすることもなかったけれど、ぴとっとくっついてきては離れず、おかずをあげても離れなかった記憶が。

「あ! ママだ!」

「え?」

「おかえりー!」

 どたばたと咲花が玄関の方へと走っていく。そして咲花の言った通り彩花が咲花と一緒にキッチンに顔を覗かせた。

「ただいま」

「おかえり、早かったね?」

「うん。一応ね。早く上がらせてもらったんだ」

「そうなんだ」

「面会行こうと思ったんだけどさ、そこまでの時間はなかったや」

「うん。私明日行ってこようと思うんだ」

「私も行きたい……」

「仕事は?」

「ある」

「だめじゃん」

「はぁ……」

「よしよし」

 盛大なため息を吐く彩花をハグして慰める。介護福祉士の彩花はいつも忙しそうで、人手不足なことも相まって急なお休みはなかなか取れない。

「彩世は?」

「まだ。部活あるって言ってたし、今頃帰ってきてるんじゃないかな?」

「そっか。お兄ちゃんのことは?」

「それもまだ。部活切り上げて帰ってくるってなったらかわいそうだし。咲花にも言ってない」

「ん、分かった。久しぶりに咲花とお風呂入ってこようかなー」

「いいんじゃない?」

「よし。いってくる」

「よろしくね」

 彩花が咲花を探しに部屋から出て行ってしまう。私は味付けの終わった鍋の火を消してお皿の用意を始めた。まだ微熱が出ただけなのだ。普通に過ごそう。普通に過ごしてあげないと。

 咲花と彩花がお風呂から上がってきた頃、高校生の彩世も帰ってきて四人で食卓を囲んだ。テレビのバラエティー番組を見ながら笑い、今日あったことを話した。そのうち咲花が眠くなってきたのを私が部屋に連れていき、リビングに戻ってきた時に彩花と彩世が何か話した様子だった。

「私、お風呂行ってくる」

「うん。ゆっくりしてらっしゃい」

「うん」

 優しい顔の中に少し不安が入り混じっているような顔をしていた。そそくさと出ていく彩世を見送り、私は再び椅子に座る。

「彩世に話したの?」

「……まあ、そう」

 少しばつの悪そうな顔をしている彩花。後悔の念がその表情から読み取れる。

「……受験もあるからあんまり言いたくないんだけど、教えてって言われたら教えるしかないじゃん?」

「そうだね」

 彩世ももう高校三年生。大学受験が控えている。来月には共通テストが控えているし、その後には国公立大学の入試がある。私立大学の受験だってある。ただでさえしんどくて周りのことなんて気にしていられない時期なのに、暖のことで不安を与えたくない。という私たちの気持ちとは裏腹に、彩世は暖の様子を聴きたがる。

「暖、原因とか分かったの?」

「ううん。まだ何も言われてない」

「そっか……大事ないといいんだけどな」

「うん」

 病院からの電話はまだない。良くも悪くも、まだない。

「まあ、もちろんだけど暖からも何も連絡ないし、明日行ってみないことにはなんとも」

「だね」

 彩花が相槌を打つ。

「彩世出たらちーちゃんもお風呂入ってきたら? お皿私が洗っとくよ」

「ほんと? じゃあそうしようかな」

「うん。そうしな?」

「ありがとう」

 彩世のお風呂はあまり長くない。他の女の子がどのくらい時間をかけてお風呂に入るか分からないけれど、湯船につかってゆっくりしたい私に比べれば割と早く出てくる方だ。

 スマホをいじりながら待っていると彩世がお風呂から出てきて、私もお風呂場へ向かった。一通り済ませて湯船につかり、ゆっくり目を瞑る。不安が込み上げてきそうになるのを唾と一緒に何度も呑み込みつつ、もう上がってしまおうかな、と考えていると脱衣所のアコーディオンカーテンが開けられる音がした。

「……お母さん」

「彩世?」

「うん……」

 声からしても、シルエットからしても彩世だった。

「ごめん、お風呂入ってるところなのに」

「ううん。どうしたの?」

「あの、えっと……ノートがなくなって……」

「分かった。明日買ってきたのでいい?」

「うん」

「りょーかい」

 お風呂場の摺りガラスを挟んで会話をする。ノートのことについて話した後も彩世はそこにいて、要件がノートではないことは伝わってきた。

「……お母さん」

「ん?」

「お兄ちゃん、大丈夫なの?」

「お兄ちゃん? どうして?」

「だってママが……お兄ちゃん、熱出てるんでしょ?」

「ちょっとだけね。微熱だって先生は言ってた。一応ね、念のために無菌室にいるだけだから。熱が下がったらまた戻ってくるよ」

「うん……」

 脱衣所で彩世が座り込んでいるのが見える。膝を抱えているようで、私は続ける言葉を探した。

「お兄ちゃんは大丈夫だよ。今までもそうだったでしょ?」

「うん」

「もし、もし万一何かあったらちゃんと知らせてあげるから。ね。だから彩世は勉強頑張りな?」

「うん」

「ん」

 彩世は、もう少しそこに座っていた。けれど何か踏ん切りがついたのか、すくっと立ち上がると自分の部屋に戻っていった。

 私もお風呂場を後にして、何もなかったことを彩花に確認して早めに二人で布団に潜り込んだ。もし何かがあった時に動けるよう、寝られる時に寝て体力を温存しておこうという話になったのだ。明日はいつも通りに起きて、彩世のお弁当を作って、片付けられるだけ家事を片付けて朝一番に病院に向かうことにした。彩花が明日も遅番を引き受けたから朝一なら面会に行けるとのことだった。

 眠りについて暫く。着信を知らせるバイブレーションに起こされたのは朝方四時のことだった。

「はい、松永です」

 相手は帝大病院。朝早くにすみません、と先方は謝っていた。ロック画面に表示された帝大病院という文字に驚き、頭が真っ白になる勢いで意識が覚醒した。隣で眠っていた彩花も起こされたらしく、もぞもぞと身体を起こして電話に耳を近づけている。

「はい、え、あ……えっ……あ、はい……」

 暖が、急変した。

 否、微熱の状態から様子を見ていたが、熱は下がるどころか上がる一方で、呼吸が弱くなってきたと。集中治療に切り替えたという連絡だった。今すぐ行ってもいいのかという問いについては構わないという返答だった。

「子どもたちどうする?」

 準備をしながら彩花が言った。

「どうしよう。まだどうって決まったわけじゃないし、学校休ませるのも。彩花は?」

「私は仕事休む。事情は知ってるし、何かあったらそうしていいって言ってもらってるから。六時になったら連絡入れる」

「とりあえず現金と財布があったらいいか。あと印鑑」

「うん」

 何があるか分からないけれど、とりあえず持っておけばいいものを鞄に詰める。

「……彩世に声かけて二人で行く?」

「そう、しようか。パンあるし、彩世と咲花で食べて家出て鍵閉めてってできるよね?」

「うん。私話してくるよ」

「ありがとう」

 彩花が子ども部屋に行ってくれて、私は家の戸締りと朝ご飯の用意をする。とんとんと彩花が階段を降りてきて、苦笑いを浮かべた。

「彩世も行くって」

「え、でも」

「言ったよ? 授業優先した方がいいって。でも嫌だって聞かないから」

「んー、まあ、そうだよね」

「彩世も行くとなると咲花も連れてくしかないから私咲花起こして着替えさせてくる」

「分かった」

 返事をしてお湯を沸かす。頭は驚くほどに冴えているけれど、運転中に眠くなってしまったらまずい。コーヒーでも入れてカフェインを摂取しておかなければ。

 身支度を整え、まだ眠そうにしている咲花を車に乗せて、まだ暗い空の下四人で病院へと向かった。

 病院に着くとすぐ暖のところへ案内してもらった。

 暖は、無菌室の中にいた。

「……」

 誰も声を発さなかった。誰も何も言えなかった。

 心電図に点滴、人工呼吸器、酸素濃度を測定する器械。私が分かる範囲の道具はこの程度だけれど、とにかくたくさんのコードが暖に繋がれているのは分かった。

「暖ー」

 先に声をかけたのは彩花だった。

「暖、皆で来たよ。ママとお母さんと、彩世と咲花もいるよ」

 無菌室と繋がれている受話器を手に、彩花が言葉を繋ぐ。穏やかな声で。

「暖、大丈夫だからね。絶対よくなるから、踏ん張りな。ね」

 ん、と彩花から受話器を渡される。息を吸うと、喉を冷たい空気が刺した。

「もしもし? お母さんです」

 なんと話せばいいだろう。このガラス一枚隔てた先にいるか弱い息子に、私はなんと声をかけたらいいのだろう。

「……暖」

 髪の毛もすっかり抜けてしまって、本人はすごく気にしてお見舞いに行くといつも帽子を被っていたのに、今は帽子すらも被っていない。ただでさえ細身だった身体もどんどん痩せて筋肉もなくなって、腕の点滴の痕は痛々しいし、痣は増えていくばかりだし。

「暖、聞いてる?」

 向こうで受話器は看護師さんが暖の枕元に置いてくれている。聞いているかは分からないが、聞こえているはずだ。

「熱はどう? しんどいよねぇ」

 涙声になりそうになるのをぐっと堪えて話しかける。私は、母だ。代わってあげられるのなら代わってあげたい。私が暖の悪いところを全部吸い取れたらいいのにと、何度祈ったことか。

「暖、お母さん暖が目覚ますまでずっとここにいるから」

 手も握れない。体も擦れない。頭も撫でてあげられない。あなたはこの透明なガラスの向こう側にいて、眠っているから。この先に入ることのできない私は、限りなく無力で、こんなにも頑張っているか弱い息子に何もできないもどかしさはあるけれど、お願いだから、傍にいて。

「お母さんから離れちゃだめっていつも言ってるでしょ? ね、暖。こっちにおいで。ね」

 これより遠くに行ってはいけない。お願いだから。

「彩世と咲花もすっごく心配してる。すっごくしょんぼりしてる。笑顔にさせてあげてよ」

 この声が届きますように。透明なガラス一枚隔てた先に、この思いが届きますように。いつものように手を握ってあげられない分、この声が、暖を包み込んでくれますように。あたたかく、優しい空気が暖の肌をくすぐりますように。

 暖が、今日も明日も明後日も、健やかに生きていけますように。

 暖の熱が無事に下がって、早く笑顔が見られますように。声が聴けますように。また、手を握れますように。

 暖が、元気になりますように。

 届いてください。

 お願いします。

 

 

おわり。

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