暖の意識が戻らないまま三日が過ぎた。熱は上がったり下がったりを繰り返している。呼吸は安定してきたため人工呼吸器から酸素マスクに切り替えられたけれど、体に繋がれた管は減ることもなくそのまま。
「松永さん、消毒お願いします」
「はい。お願いしまーす」
昨日から、消毒をした上で私の無菌室への入室が許可された。ドラマでよく見る手術着のような防護服のような服をがっちがちに着こんで。それでも、暖の傍にいられるというのは大きい。
「暖、来たよ」
声をかける。暖は眠ったまま返ってくる言葉はないけれど。
「今朝ね、咲花とママがまたヨーグルトの取り合いしてたの。冷蔵庫に予備あるのにさ、テーブルにママが出してたヨーグルトを咲花が食べようとして、それで取り合い。咲花も咲花だけど、ママもママだよね。大人げないっていうかさ。本当、咲花が赤ちゃんの時からずっと変わってないもんね、ヨーグルトの取り合い」
子どもを授かって、私も彩花も子どものことを最優先に考えて動くようになった。けれど、唯一と言っていいほど食べ物については、子どもも最優先になれない。
それこそ暖が赤ちゃんだった頃は私も彩花も欲しがるものを一番にあげていた。でも、暖が保育園に通い始めて彼が「欲しい」と言えないのを心配して、おやつの「ちょうだい」から練習を始めたのだ。それが案外暖にもウケて、私たちも今まで我慢をしていたわけではないけれど我慢することもなくなったし、家がにぎやかになった。彩世と彩花の取り合いもそこそこ激しいが、咲花と彩花の取り合いも激しい。あえて彩花がそうしている部分もあるのだけれど、朝からにぎやかで助かる。
「落ち着けてくれる人がいないからさ、彩世が頑張って宥めてるよ」
そんなにぎやかな朝に、どっちも一緒なんだから早く食べなよ、と言ってくれるのが暖で、何気ない一言が二人のやり取りの激しさを緩和させていたのだと暖が大学生になって家を出てから気が付いた。
「……」
手を握った。暖の手はあたたかい。けれど、握り返してくれることもない。
暖の手は大きい。身長が百七十九センチもあるのだから当然だ。生まれた時は平均身長より小さいことが気になっていたのに、中学生の時に急に身長が伸びて高校生になっても止まる気配がなく、ここまで伸びた。私たち夫婦との身長差は約三十センチ。話す時には少し見上げないといけないし、頭なんてもう容易に撫でられない。そのくらい、大きくなったのだ。
なのに、今はすっかり痩せ細ってしまっている。とても百八十センチ近く身長のある人だとは思えないくらい。前から身長がある割にひょろっとして、もっと肉をつけさせようと彩花と企んでたくさん食べさせたらそれが全部身長にいってしまった。びっくりするにも程がある。
そんな、ただでさえ痩せ体質だった暖なのに、入院してからすっかり痩せ細ってしまった。
今年の二月。私の誕生日がきてすぐのことだった。貧血気味なんだけどどうしたらいい、とLINEが入って、話している様子がおかしいから掘り下げて聞いてみれば鼻血が頻繁に出ては止まらないという事態。暖はしっかりその症状について調べた後で、病院に行く勇気が欲しくて私に連絡をしてきたということ。それから検査があって、急性骨髄性白血病ということですぐ入院になった。
抗がん剤を投与し、安静に過ごす時期に感染症になったり腸炎になったり順調かと思えば退院日は延びるばかり。それでも一時退院できたり、治療がうまくいったりして今回も何事もなかったのに。
健やかにいてほしい。それだけを望んできたのに。
「……」
勉強ができなくてもいい。秀でた才能がなくてもいい。人前に出るのが苦手でもいい。できれば人の気持ちを考えられるような優しい子になってほしいけれど、そんなのは二の次。私たちのもとに来てくれたこと自体が奇跡だから、健やかに生きてくれればそれでいい。そうやってそれだけを願って生きて、育ててきたのに。
どうして、神様はこんなにもこの子を苦しめようとするのだろうか。
「……」
暖の手を握りしめる。片手では収まらないから、両手で包み込む。力なく、ただあたたかいだけの手をしっかりと何度も握り直す。
爪の形も、手の筋張った感じも、寝顔も、赤ちゃんの頃から何も変わらない。確かに私が抱きしめてきた子で、私の子で。私の人差し指を握っていた小さな手は、私の手では収まらないほど大きくなって。
「……暖?」
分かっている。これは生理現象だ。前にもこうして意識不明の状態になった時に説明は受けたし、本も読んで知っている。こういう状態の時に流す涙も、握り返す手も、跳ねる身体も、生理現象だ。生きていれば起こり得る。暖が目覚めたわけではない。
「暖、悲しくないよ……大丈夫、お母さんがいるから……」
でも、子どもの涙に声をかけられないでいられるものか。こんなにも苦しんで、悩んで、苦しんで、悲しんでいるというのに。暖は人前で泣かない子だから、きっと人知れずところで泣いている。私たち親にさえなかなか弱音を吐かないのだ。今溢れている涙は、無意識下で流す涙かもしれない。
私がいるよということを強く手を握って伝える。それしかできないけれど。
それに返す言葉は、ないけれど。
「……」
零れた涙をハンカチで拭ってやる。ゆっくりと上下している胸。生きていることを知らせる心拍計。酸素濃度を測る指先の器具。どうしてこんなにも、この子がここに縛り付けられて、窮屈に生かされていなければならないのか。どうして、普通に大学生をさせてあげられないのか。どうして、救ってあげられないのだろうか。
私が、親であれば。
私が、親であれば……。
どうして、私とこの子は、血が繋がっていないのか。
血が繋がっていれば、私の骨髄を移殖できたかもしれないのに。暖は今頃とうに元気になっていたかもしれないのに。薫ちゃんや友生くんや友達と一緒に笑って楽しい大学生活を送っていたかもしれないのに。こんなに苦しむことなんてなかったかもしれないのに。
血が、繋がっていれば……。
血が繋がっていなくても家族になれるだなんて、こんな時に救ってあげられないのに何が家族だ。何が親だ。何が親だよ。
否、それとこれとは関係ない。やめよう。私が家族を否定してしまったらこの子はどうなるの。しっかりしろ。私が親だ。私がしっかりしなくてどうするのだ。いや、でも。
「なんで暖ばっかり……」
つい、零れてしまった。
「あ、や……っ」
はっとして、私は暖から手を離した。涙が出そうになるのを必死に堪え、息を呑んで昂る感情を抑え込んだ。
「……ごめん、暖。ごめんね?」
再び手を握り、声をかける。
「大丈夫。もう、大丈夫だからね?」
手を擦った。パワーを送り込むように、元気づけるように。
「でも、そろそろ寝坊助すぎない? 本当、そんなとこママにそっくりなんだからもー」
私が笑っていなければ。暖が不幸なのだと私が言ってどうするんだ。暖はただでさえ自分のせいで皆に迷惑をかけていると思っているのに、私がそれを真に受けて真に返してどうするんだ。いつも通り、笑っていたい。どんなあなたでも私たちの家族だって伝えたい。可愛い可愛い、私たちの息子だって。
「松永さん、そろそろすみません」
「あ、すみません」
看護師さんに声をかけられる。あまり面会時間が長いと暖の身体に負担がかかるから。
「じゃあねはるくん、また来るからね」
眠ったままの暖に声をかけ、私は暖の手を離した。
看護師さんに少し挨拶をして、私はすぐお手洗いに駆け込んだ。
「……う、く……ふっ……うう……」
年甲斐もなく泣いた。個室に隠れて蹲って泣いた。
暖に、聞こえてしまっていただろうか。どうしてあなたばかり、と言ってしまったことが。伝わってしまっただろうか。病弱なあなたが不幸せだと言ってしまったことにはならなかっただろうか。私が暖のことを不幸な子だと思っていると思われなかっただろうか。違う、違うのに。
否、違うわけないのだ。私の口からあの言葉が出てしまったということは。私は、私も私で、暖の幸せを信じられてなんかいないのだ。
急性骨髄性白血病。治癒率の高いものにはなっているというけれど、一昔前では不治の病で、今でも完全に治るかと言われればそうとは言い切れない。五年以内に再発する可能性も低くなければ、五年生存率は四十パーセント。左右されてはいけないと分かっている。暖は暖で、暖はきっと生きてくれると信じるしかない。暖が信じなくても私が、親が信じなければ。暖も信じていないのに私が信じてあげなければ誰が信じてあげるのだ。信じる者は救われる。救われるのだから。だから、あんな言葉、零してはいけなかったのに。
「ごめん……」
勝手に不幸だと決めつけてごめんなさい。誰よりもあなたの幸せを願って、信じなければならないのに。今のあなたを誰よりも肯定してあげなければならないのに。
「……」
暖。
愛してるよ。
愛してるの。
「あっ、お母さん! 松永さん! まだいた、よかった!」
「えっ?」
泣き腫らした顔をなんとか誤魔化して化粧室から出ると、看護師さんと出会った。その雰囲気からなんとなく悪い知らせでないことは分かった。
「暖さん、意識戻りましたよ! まだ朦朧としてるけど、声かけてあげてください!」
「……はいっ!」
「すみません、中で処置してるので外になるんですけど」
「大丈夫です」
病室に向かって、いつもの受話器を手に取った。
「もしもし暖? 聞こえる?」
暖の目がうっすらと開いていて、聞こえているのかどうか分からないけれど、ちらりとこちらを見てくれた気がした。
「お母さんだよ、暖。おはよう。よく寝たねえ?」
ふ、と、暖が微笑んだ気がした。
「今日はね、ママは仕事だし彩世も咲花も学校だからお母さんしか来れなかったんだけど、また明日来るからね。はるくんが起きたよってお母さん皆に言っとくから、待っててね」
微かに暖の口が動いて、それに気づいた看護師さんが暖側の受話器を口元に近付けてくれる。私は必死に耳を澄ませた。
「……おかあ、さん……」
久しぶりに聞いた暖の声だった。喉が渇いているのか、挿管した時に傷めてしまったのか、声は枯れている。けれど、あの子の声だった。
「大丈夫だからね、暖。お母さんもいるし、さっき暖が寝てる間に元気パワー注入しといてあげたから!」
「……」
「おかあさん、……」
「うん。分かった。はるくんの言いたいことは分かったよ。分かったから、今はゆっくり休みなさい。また明日教えてね」
ゆっくり、暖が瞬きをして応える。
「じゃあ、また明日来るからね」
私の声が聞こえたのかどうなのか分からないが、暖は目を閉じてまた眠りについたようだった。
彩花に暖が意識を取り戻したことを連絡すると、すぐ電話が入った。とりあえず山は越えたらしいという話をし、車を走らせた。電話の向こう側の彩花は緊張の糸が切れたようにぐったり疲れていて、また帰ったら詳細を話す約束をして電話を切った。
私はハンドルを強く握りしめた。よかった、と何度も心の中で呟いてはため息を吐いた。
おわり。