あなたはこの日を忘れるけれど   作:緋色鈴

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-2- Forgot Yester

そして私は彼女の、記憶に触れるという魔法の実験台になってみた。

それはもともと初日の私が期待していたことでもあり、彼女の研究の一環でもあるという。

とはいえ天才魔女を自称する彼女でも、記憶をひょいと戻せるような治療法はそうそう見つからず、今もそれを探している途中らしい。

 

昨日はどうだったのかと訊いてみると、彼女はちょっと苦笑いだった。

曰く、昨日の私・・・彼女からすれば初めて記憶を失った私に対して、彼女もどう接したものか手をこまねいていたらしく、そこまで話を進められなかったのだという。

今朝方の彼女が慣れた様子で説明してくれたのも、昨日の経験があったから、ということらしかった。

そんなことを聞いてしまっては、申し訳ないのか面目ないのか、私も似たような気持ちで苦笑を浮かべるほかない。

 

故にそれが、初めて私の記憶が戻る、あるいは失うことがなくなる一縷の望みがかかった試行だったのだが、しかし。

 

言われるままに椅子に座り、失うものは何もないというか、なるようになれの気持ちで身を任せてみたものの、彼女の魔法は身構えていたほどには激しいものではなかった。

そして幸か不幸か、効き目と呼べるような違和感も生じなかった。

色とりどりの煙や光にあてられて多少眩しい思いをした以外には、私には別段何の変化もなく、彼女の顔も段々と曇っていくばかりだった。

 

やがて、彼女が溜息とともに杖を下ろし、実験の終わりが告げられる。

結局、私の記憶は戻ることはなく、彼女から見ても芳しい結果を得ることはないようだった。

拍子抜けした節はあったものの、私はこの問題がそれほど難解なのだと知って悲しむよりも、仕方ない、と思う気持ちの方が強かった。

むしろ杖で自分の頭をとんとん小突いていた彼女の方が、手応えのなさに少し苛立っていたようにも見えたのが印象的だった。

ただそんな彼女には最後に、もしかしたらこの記憶喪失は貴方のせいではないかもしれない、と言われた。

「それってつまり、どういうこと?」

「・・・いや」

その時まで険しい顔をしていた彼女は、何度か迷ったような素振りで口を開きかけたものの、結局首を振る。

そして気を取り直したように笑顔を見せた彼女の口ぶりは、明るいものだった。

「やっぱりその日記に書かれている通り、信仰の都エストにその鍵があるかも、ってことかな」

「・・・そっか・・・」

何かを言い辛そうにしていたのが少し気になったものの、私はその返答に頷くことにした。

 

ごぉん、と何度目かの鐘の音が聞こえてくる。

少し休憩しようという彼女の提案に従って、テーブルに戻ることにした。

 

 

 

 

冷めてしまったハーブティーを淹れ直している彼女の後姿を見ながら、私は当惑していた。

期待していなかった、と言えば嘘になるが、記憶が戻らなかったことに、それほど落胆していない自分がいる。

何故なのかと己の心の内に問いかけようにも、困ったことにそれも当てにならないときている。

記憶喪失の身では、自分自身が何を理由に感情を左右しているのか、いまひとつ確信が持てないのだ。

・・・あるいは、彼女ならその正体も分かるかもしれない。

そう思い、私は気になっていたことを口にした。

 

「あの・・・あなたはなんで、記憶について詳しいの?」

「ん、ああ・・・」

振り向いた彼女は、そういえば、というような顔をした後で、薄く笑みを浮かべた。

湯気を立ち昇らせるカップを両手に、慣れた足取りでテーブルに歩み寄ってくる彼女の返答は、意外なものだった。

「言ってなかったっけ。実は私も記憶喪失なんだ」

「えっ」

「まあ君と違って、記憶を失ったのは少し前の一度だけ、それも恐らく一部なんだけどね」

はいおかわり、とティーカップを私の前にひとつ置き、もう片方を持って先程と同じ席に座ってから、彼女はなんということもないように言った。

 

驚きのあまり呆けていた私は、ふと我に返り、その後におずおずと問いかける。

「・・・えっと、質問ばかりで悪いんだけど・・・なんで分かるの?」

今朝の私は、自分が記憶を失った、ということなど自覚できなかった。

ある意味それは当然とも言えるのだろうが、彼女の場合は何故事情が異なるのだろう、と疑問が浮かんだ。

気づけば、勢い込んで前のめりになってしまっている。

対して彼女は落ち着き払った調子で、どう答えたものかと悩む仕草のように、持ったティーカップを軽く揺らしていた。

 

「んー・・・まあ・・・その時の私は、自分の名前も、そのほかのことも大半は覚えていた。その日に初めて会ったらしい人の名前もね」

「・・・じゃあ、一部って?」

「それまでの日常の大部分・・・私が何をしていたのか、かな」

聞けば彼女もまた、自分が何故そうなったのかは分からないらしい。

気がついた時には、ここ数年の記憶が所々不自然に欠けて穴あきチーズのようになるだけでなく、幼少期のことに至ってはほとんど思い出せなくなっていた、とのことだった。

そんなことを明かした彼女は、自分が記憶を失った時点からある程度の期間、どうしていたのかを語ってくれた。

 

「それ以外にも、自分が魔女だってことは分かるのに何故かろくに魔力は残ってないし・・・町の人に訊いても、よくわからなくて。聞いた限りだと仕事をしてない時は、ほとんど家に閉じこもってたとか」

公私を分けるタイプだったんだろうね、と他人事のように彼女は言う。

失ったのはそのうちの、私的に使っていた時間らしい。

 

ふと、少し目を細めて彼女は一つ付け加えるように言った。

「・・・セレナって人、に関わることらしいんだけどね」

「あれ、セレナって」

「ああゴメンそれも適当に名乗っただけ」

「・・・」

やっぱりこの人信用できないんじゃないかな、と一瞬思ってしまうが、それも私の提案と言われたら悲しいので閉口するしかなかった。

 

彼女の話は続く。

「そのとき事情を知っていそうな人が傍にいたんだけど、すぐに出て行っちゃったから聞くに聞けなかったというか・・・」

彼女は言いながら、遠い目をして天井を眺めている。

その時をできるだけ思い出そうとしている彼女の瞳は、まるで今し方それを失くしてしまったかのように、どことなく虚ろに見えた。

「机の上に大金は置いてあるし・・・もしかしたら私、自分の記憶をその人に売っちゃったんじゃないかなって思ったんだけど。それもどうにもしっくりこないというか、ね」

そう言って表情を取り戻した彼女は、困ったような笑みを浮かべると共に、肩をすくめてみせた。

 

失われた記憶を取り戻せないかと、今は空いた時間で記憶に関わる魔法の研究をしている。

成果は今のところ出てないけどね、と言って笑う。

それでおしまい、と言ってのけてしまう彼女の様子は、いっそ清々しいという風にさえ見えた。

 

そんな姿に、私はあまりに無遠慮な言葉と分かっていながら、訊かずにはいられなかった。

「なんで・・・そんなに落ち着いていられるの?」

彼女はきょとんとしてこちらを見つめ返した。

「それはまあ、もちろん、君の場合とは事情が違うから・・・」

「それでも・・・それでも何か、焦ったり、不安になったり・・・しないのかなって」

私の切羽詰まったような訊き方に、彼女も何かを感じたのか、ふと視線を逸らす。

少しの間考え込むように黙っていた彼女は、再び口を開いた。

 

「ん、まあ・・・そうだね。そうだとは思う」

先程とは違って、少し歯切れの悪い言い方だった。

「何か大切なものを失ったんじゃないのかって、思うこともあるよ」

言いながら彼女が何かを見つめていることに気がついて、私もそちらに目を向ける。

 

そこには壁に貼られた、何枚かの写真がある。

映っているのはいずれも、二人の小さな女の子が笑い合っている写真だった。

「でもね」

と言った彼女の言葉に、視線を戻す。

 

僅かな間、憂うような色を帯びていた彼女の表情は、どこか吹っ切れたような、涼しげな笑みに戻っていた。

「忘れたままでもいいのかな、って、思うこともあるんだ」

「・・・」

「どんなに大切な思い出も、時が経てば忘れてしまうことだってある。私の場合は、それが少し早く・・・大雑把に来てしまっただけなんだろうって、今は思うことにしてる」

間を置くようにハーブティーを一口飲んで、また冷めちゃったね、と彼女は肩をすくめてみせた。

「魔女としての仕事ぶりはどうも、記憶を失くす前より良くなったみたいだし・・・憑きものが落ちたみたいだ、とか言われたこともあってね」

まあそれは何故かちょっとカチンときたけど、と笑い話のように彼女は付け加える。

そして唖然としている私をちらりと見てから、苦笑いを浮かべた。

 

「・・・多分、忘れる前の私が聞いたら怒るだろうけどね」

溜息交じりに彼女はそう言った。

「あるいは、いつか思い出した私は、今の私が許せないかもしれない・・・それが怖いっていうのも、ちょっとある」

「・・・」

「だから私も分かる、なんて言ったら傲慢だろうけど・・・アムネシアさんも、それは同じじゃないかな」

「・・・・・・そうだと、思う」

 

怖い。

過去の自分と、過去を知ってしまった後の、未来の自分が怖い。

その言葉に、私は強く共感してしまっていた。

 

「これからのことが怖いのは当然。君の場合はもっと、だと思う・・・だから、というわけではないけれど」

飲み干して空になったティーカップを置いて、彼女は最後に、私に向かって言った。

「過去に怯える必要なんて本当は無いんだって、思って欲しい・・・少なくとも、今だけは」

「・・・・・・うん」

やや長い沈黙の後、私は相槌を打った。

必ずしも思い出す必要はない、と彼女は言っていた。

後ろが見えないのなら、いっそ前だけを向いてしまえと、そういう考え方もできるだろう。

 

・・・けれど、そんな彼女の言葉だって、明日の自分は忘れてしまうのだ。

「でも私・・・やっぱり、思い出したい」

自分がしてきたこと、辿ってきた道、知り合った人。

それを一日ごとに忘れてしまっては、どこにも居場所がないのと一緒だ。

たとえ自分が、今の自分が許せないだろう過去を残してきたのだとしても、今は、後悔することさえ出来ない。

それを知っている人に会いたい。

誰か。

私が知っている人に、会いたい。

「・・・そうだよね」

彼女はただ、ゆっくりと頷いていた。

 

そしてそれから、最後の足掻きにと彼女が提案し、いくつかの魔法を試してもらったものの、やはり効果はなかった。

それが恐らく彼女の力量どうこうという問題ではないのだろうということは、彼女の真剣さを見ていれば素人でも分かった。

私は彼女に礼を言って、今晩・・・日が変わる前にここを出発し、旅に戻ることを告げた。

彼女は、自身の事情は割り切っているのに、それがまるで自分のことのように悔しげに唇を噛んでいた。

 

「ごめん、何か助けになればと思ったけれど・・・私の魔法じゃ、君の記憶を取り戻すことはできないみたい」

「うん・・・こちらこそ、ごめんなさい。色々迷惑をかけちゃったみたいで」

「・・・そんなこともないけどね」

 

ふと、口を開きかける。

一緒にきてほしい、という言葉が喉まで出かかって、しかし、それを飲み込んだ。

信仰の都エストは、ここからだいぶ遠いところにあるらしい。

ここ数日で知り合ったばかりの、しかも此方から頼って訪問したという彼女に、そこまで頼めない。

彼女は国に仕える魔女で、旅人のように、ずっと自由に行動できるわけではないのだから。

 

「・・・ごめんね」

 

その葛藤を見透かしたかのように、彼女はもう一度そう言って、眉根を下げる。

私は強く頭を振ってみせたものの、それでも、それ以上何も言えずに黙ってしまう。

・・・やがて、気まずい沈黙を打ち払うように、殊更に明るい声で彼女は続きを口にした。

 

「でも、私は君を憶えてるよ。絶対に忘れない・・・たとえ気休めにしかならなくても、誓うからね」

「・・・うん」

「いつかまた会ったら・・・ああ。その時は君が憶えていなくても、また泊めてあげるよ」

「・・・うん」

彼女の冗談めかした台詞に、私はせいぜい苦笑して、心からの感謝を口にするほか、なかったのだった。

 


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