宵闇のトレイター   作:街田和馬

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第2話「前途洋洋のホームカミング」

 俺は今、病院から脱走して家に向かって走っているのだが、本当に家に向かっているのかわからないという状況に陥っている。

 

 脱走するとはいっても、自分が入院していた病院のことを一切知らなかったので、せめて名前だけでもと思い、病院の名前だけは確かめた。

 

 病棟の周りを一周して名前を探すと、入り口に書いてあった。病棟はかなり横長で一周するのに時間がかかる上、入り口から遠回りな方の回り方をしてしまった。

 

「反対向きに回ればよかった……」

 

 俺は、予定外のタイムロスにがっくしと肩を落とした。しかし、落ち込んではいられないので、俺は病院の名前を確かめてから病院を走り去った。

 

「神代中央病院……か……」

 

 その名前が何かの手がかりになればよかったのだが、残念ながら何もわからなかった。「名前だけは聞いたことがある」という感じで、具体的な場所はまったくわからなかったた。

 

 だから、俺は今なんとなく走っている。きっとこっちに走れば家に着くという直観に任せて、不安と困惑を両手に握りしめて走っている。

 

 俺が困惑しているのは、町の様子が5年前とは比べ物にならないほど退廃しているからだ。

 

 もともと神代町は、「この神聖な町の景観をあまり壊さないようにしよう」という国の方針であまり開発が進められなかった。

 

 自然を大切にし、森林や草原はそのままの状態に保てるように町民総出でゴミ拾いや清掃活動をしたり、神社の付近に高層ビルを建てることは禁じられていた。

 

 ちなみに、ポイ捨てをしているのが見つかったら極刑確定という法律がある時代もあった。流石に重すぎるという国民全体からの反対によって、俺が生まれる前に改正されたらしいが。

 

 そういう事情があって、元々神代町はいつまで経っても開発が進まない町だった。とはいえ、決して町が寂れていくことはなかった。

 

 他の県から態々この町に引っ越してくる人もいたし、逆にこの町から出ていく人は少なかった。環境に関しても、現状維持の能力に関しては、本国随一だった。

 

 それが一体どうして、こんな状態に陥ってしまったのだろうか。

 

 今走っているのは、一般家屋が少なく会社や飲食店、各種専門店が立ち並ぶ地域だが、その建物は皆、神代中央病院の非常階段で見たビルのようになっていた。

 

 建物の外壁には抉れや塗装の剥落、窓の割れが目立つ。また、道路は所々がひび割れ隆起や陥没で凸凹になり、とても機能しているとは思えない。それに何よりーー

 

「さっきから一切、人の気配がないな」

 

 今の時間帯は昼で、しかも今日は水曜日だ。普通なら会社員たちで賑わっている筈だが、賑わうどころか人の営みが一切感じられない。

 

 建物の明かりも今まで走りながら見てきた中では、ひとつたりとも点いていなかった。

 

「これはまいったな。土地勘もないし、現在地を確かめる手段も訊く相手もいない。本当に、どうしようか……」

 

 と、俺が誰にも聞こえない文句を溢しながら視線を道路沿いに並ぶ建物たちから逸らして正面に向けると、そこには見覚えのない建造物があった。

 

「あんなもの、なかったよな」

 

 俺が今見ているのは……いや、見上げているのは、天を貫かんとばかりに高々と聳え立つ赤いタワーだった。まるでこの国の首都にあるスカイツリーのようだった。先端は、雲の中に隠れ、本当の高さはわからない。

 

 それだけ立派な建物が入院する前からあったのならば、知らないわけがないだろう。ということは、俺が入院している間に建てられたということで間違いない。

 

 あのタワーが気になった俺は、とりあえずそのタワーに向かうことにした。

 

 周りの様子を気にしながらタワーに向かって走っていると、タワーに近づくほどに町の景観が変わっていくのに気づいた。

 

 昔はなかった……というか法律的に建てられるはずのなかった高層建築物が増えてきた。ボロボロなのは先ほどまでの建物と変わらないが、明らかに材質と割れた窓から覗く内装が立派だった。

 

 まさに、「都市」という感じだった。

 

 そこからさらにタワーに向かって走ると、広い公園に出た。そこは、高層建築物の建ち並ぶ地区とは打って変わって、緑に溢れていた。

 

 しかし、遊具が錆びていたりツルが絡み付いているのを見ると、昔のように人々が自然を維持しようとしているのではなく、自然に浸食されているということがわかる。

 

 草木が生い茂って森林のようになり、とても入れそうにはなかった。虫が多そうだし、何より普通に危険だ。ここを直進すればあのタワーに辿り着けるのだが、迂回するしかないようだ。

 

「はぁ。……本当にここはどこなんだ?」

 

 俺が、公園を迂回する右に延びる道を進もうとそちらに視線を向けると、その途中で気になるものが目に入った。

 

「……ん?あれは……?」

 

 それは、小さなバドミントンコートだった。とても今の状態ではバドミントンをできそうにないが、この草木がなければ子供たちが騒ぎながらバドミントンを楽しんでいるに違いない。

 

 子供たちがバドミントンをしている平和な映像を頭に浮かべた瞬間、俺はある違和感を感じた。

 

「このバドミントンコート……どこかで……?」

 

 改めてよく見ると、そのコートに俺は強く既視感を感じた。

 

 俺は必死に入院前の記憶を辿る。絶対にここに俺は来たことがあるはずだという確信を持って。そしてーー

 

「思い出した。俺は1年生の時に一度、ここに来たことがある。確か、小学生だった姉はバドミントンをやっていて、試合に負けて、悔しくて練習がしたいと言ってーー」

 

 そして、父が周辺の公園を巡ってバドミントンが出来そうな公園を探した。その結果、父が見つけてきたのがこの公園だったのだ。

 

 父が見つけた翌日に、早速家族でこの公園に遊びに来て、父と姉がバドミントンをしている間に、その横で俺は母と弟と一緒にゲームをしていたんだった。

 

 後は、帰り道を思い出すだけだった。幸いにも、俺はその道をはっきりと覚えていた。これでようやく、帰ることができる。

 

「よしっ。そうとなれば早く行こう」

 

 病院から脱走してもう1時間が経った。ようやく見えた希望の糸は、俺を絶望の底に落ちる前に引き上げてくれた。

 

 心に余裕を取り戻した俺は、ずっと走って脚が疲れ切っているのにも気づかずに、5年ぶりの我が家に向かって走り始めていた。

 

 

 

 走り始めてから10分ほど経ち、5年前まで家族みんなで幸せに暮らしていた家が、俺の目前に迫っていた。

 

 あれから5年ということは、もう弟は10歳に、姉は19歳になっている筈だ。

 

 久しぶりに家に戻るというのは勿論、大きくなった家族たちと対面することになるので、少し緊張していた。

 

 もしかしたら、無断で病院を抜け出してきたことを叱られるかもしれない。

 

 でも、それもそれで嬉しいような気がした。

 

 そんなことを考えている間も、念願の再開は近づいてくる。段々と緊張が募り始め、俺が気を紛らわすために、走りながら周りを見渡すと、懐かしい住宅街が広がっていた。

 

「この家も、あのブロック塀の落書きも見覚えがある。……けど、やっぱりボロボロだな」

 

 廃れてしまった思い出の町に愁いと哀しみを感じた。

 

 それでも俺は、足を止めない。俺に本当に必要なのは、あの家だけだから。

 

 ーーあの家さえあれば俺はいいんだ。

 

 やがて、俺は目的地に辿り着いた。見間違えるはずがない。一切の雑味がない純粋な黒で塗装された屋根、車一台しか保有していない我が家にとっては無駄に大きいガレージ、そして、なぜか敷地の半分を蝕む夏野菜の畑。

 

 それらが俺に改めて帰宅を実感させた。

 

 額に浮かぶ汗を薄汚れた患者服の袖で拭い、切れる息を整えるために深呼吸をし、再開の準備を整える。

 

 息が整ったのを確認して、インターホンに指を近づける。喉は渇き、指は震えている。

 

 緊張は最高潮だ。しかし、期待で既に顔のにやけるのが抑えられない。

 

 このままウジウジしていても埒があかないと思った俺はついに、緊張で力の入らない指で思いっきりインターホンのボタンを押した。

 

 ーーピンポーン……ピンポーン……ピンポーン。

 

「…………………………」

 

 いくら待っても、返事どころか足音すら聞こえなかった。

 

「……あれ?」

 

 念のため、もう一度押してみる。

 

 ーーピンポーン……ピンポーン……ピンポーン。

 

 やはり、反応がない。留守の可能性もあるが、ただ単に寝ているだけかもしれない。

 

「家族だし、別に何の問題もないよね?」

 

 そう言って、恐る恐るドアノブに手をかけ腕を引くと、簡単に扉が開いた。どうやら鍵がかかっていなかったようだ。

 

「なんて不用心なんだ」

 

 そう文句を言いながら、俺は当たり前のように家に入った。

 

 そういえば、5年前まではこれが当たり前だったんだ。

 

「懐かしいな。皆、元気にしてるかな?」

 

 玄関の床を見ると、靴が散乱している。その煩雑さにため息をこぼしながらも、小さな幼児用の靴に替わってカッコいい男児用のスニーカーがあったことが少し嬉しかった。

 

 俺も靴を脱いで廊下に上がり、リビングに向かおうと視線を上げたその時だった。

 

「ただいま………………は?」

 

 俺の視線のその先には、廊下を赤色に染め上げて、背中を横一文字に切り裂かれて倒れている母の姿があった。




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