俺は、廊下で血を流し傷を負って倒れている母の姿を前に、呆然と立ち尽くしていた。
「……は?…………え、母さん?…………おいっ、大丈夫か?」
俺は、棒になった足を叱咤して、母のもとに駆け寄った。
「おい、しっかりしろ」
声をかけてみるが、反応はない。肩を揺すってみるが、やはり反応がない。揺する時に触れた母の肩は、冷たくなっていた。
まさかと思って母の首元に指を当てると、生きていれば感じるはずの拍動がなかった。
もう、死んでいた。
「そうか、死んじゃってるか」
俺は、母が死んだというのに意外にも冷静だった。俺は、そんな自分が薄情に思えて仕方がなかった。そして、その薄情さに嫌気がさして、自分に怒りを覚えた。気が付けば、自分の頬をたたいていた。
「何が冷静だ。……動揺しまくってるじゃないか、俺」
自分を叩いて改めて冷静さを取り戻した俺は、母の死体を跨いで、廊下の先にあるリビングへの扉に向かった。
リビングにも、他の家族の誰かの死体が転がっている可能性がかなり高い。
俺は扉の前で脚がすくんでしまった。ここで俺が扉を開けなければ、他の家族は死んだことにならない。
誰も彼らの死を観測していないのだから。しかし、死した姿だとしても家族を見ておきたいという気持ちの方がやはり大きかった。
俺は覚悟を決めた。ドアノブに手をかけ、腕を下ろし、そして、ゆっくりと扉を開いた。
少しずつ全貌が見え始めたリビングには、やはり死体があった。父と、姉と……弟の死体だった。
弟は随分と大きくなっていた。顔立ちは父に近づき始め、身長は同じ時期の俺よりは少し高かった。俺は母に似たから、残念ながら俺と弟はあまり似なかった。
姉も立派な女性なっていた。顔もスタイルもそこらの芸能人には引けを取らないレベルだった。もしかしたら、読者モデルくらいならやっているのかもしれない。
父は、随分と老けていた。5年でここまで変わるのかというぐらい、老けていた。
原因は、容易に想像できた。ストレスのせいだ。父は俺のことを母以上に可愛がってくれた。俺の命の危機に誰よりも深い悲しみを味わったことだろう。
俺は父の側にしゃがみ、うつ伏せになっていた父の体を仰向けにしてあげた。父は確か、うつ伏せだと熟睡できなかったはずだ。
父の体を楽にしてから、俺は立ち上がってリビングの様子を調べた。
壁には点々と血が飛び散り、窓や電球が割れ、ものが錯乱していた。一家心中というわけではなく、間違いなく何者かの襲撃を受けたのだろう。
だが、襲撃者の目的がわからない。見たところ、何かが盗まれた形跡はないし、殺したいだけならこんなに荒らす必要はない。
何より疑問を抱いたのは、母たちが受けた傷だ。表面の傷だけに限らず、内臓はぐちゃぐちゃになって体の中で血液とスープのように混ざり合い、骨も至る所が砕けているのが傷口の奥に見える。明らかに、並の人間の仕業ではなかった。
「じゃあ、一体誰が……?」
その後、他にも何か手がかりはないかと家中を調べたが、どこも同じようにものが錯乱したり割れたりしているだけで、特にめぼしいものはなかった。
折角家に帰ってきたが、こんな場所では過ごしようがないので、俺は家を出ることにした。
家族の遺体は、移動はさせず楽な姿勢にするだけに留めておいた。中身がぐちゃぐちゃすぎて、動かす方が可哀想だったからだ。
俺は、全員の頭を撫でてそれぞれにお別れを言ってから、玄関に向かった。
靴を履き家を出ようとした瞬間に、後ろから俺がずっと聞きたかった声が聞こえた気がした。
『ーーーーごめんね』
俺はその声に振り返るが、そこにあったのは母の死体だけだった。
気のせいだろうと思って扉に向き直り、扉を開いて家を出ようとした時、俺は無意識に眼から涙を溢していた。
俺はどうにか涙を止めようと唇を思いっきり噛み締めたり、瞬きを止めたりしたが、涙は際限なく溢れてくる。
「ーー何が……ごめんだ。…………俺は、俺……は……」
その続きは言葉にならなかった。病院から抜け出してまでここに来たことが無駄になった絶望感が、独り取り残された孤独感が、生きる意味を失った虚脱感が、それら全てが鳴咽となって俺の口から溢れた。
俺は、ドアを開けた姿勢のまましばらく咽び泣いていた。そろそろ落ち着いたかと思う度に感情の津波は押し寄せてきて、中々泣き止まなかった。
それでも、俺はどうにか涙を止めようとした。失ったものは仕方がない。どうやったって返ってこない。大切なのは、これ以上失わないことだ。冷静になってそう思い始めると、次第に心は落ち着いていった。
完全に涙が止まると、俺はようやく家を出た。非常食と水は家に常備してあったものを弟のものと思われるリュックに詰め込んだ。これで、しばらくは独りでも生きていける。
玄関を抜け、とうとう家の敷地から完全に出た。俺は最後に家を振り返って、半ば独り言のように呟いた。
「俺は……生きていくよ。独りでも、皆の分まで……とはいかないけど、少しでも長く生き続けるよ。だから……バイバイ」
そして俺は、家に背を向け住宅街を歩き始めた。目的地はない。探すのはどこかにあるであろう安住の地だ。
俺は、住宅街を行く先も定まらぬまま歩きながら観察していた。先ほども思ったが、やはり全く人の気配がない。住居やブロック塀の破壊状況を見ると、他の家も俺の家の中と同じような状態になっている可能性が高い。生存者は……いないと考えて差し支えないだろう。
ーー本当に、どうしたらこんなことになるんだ?
入院中はニュースのひとつも見られなかったので、俺は外で何があったのか全く知らない。
戦争やテロの類だろうか?……いや、母や父の死体の様子からもわかるように、これは到底人間の行える所業ではない。
ーーでは、何が原因だ?
再びその疑問に思考が辿り着いた瞬間、背後から気配を感じた。こちらの身体を引き裂かんとする冷たく鋭い殺意だ。
俺は、咄嗟に背後を振り返って、距離を取るように一歩バックステップを踏んだ。
刹那ーー俺が立っていた地面を何者かの腕が抉った。その怪力を見せた腕は、トカゲの脚のようにゴツゴツとしていてドス黒く、4本の指には鋭く伸びた鉤爪が生えていた。
その腕から着地した何かは、こちらをじっと見つめながらその足を地に着けた。
ようやく見えた何かの全貌は、今までに見たことのないようなものだった。体の大きさは人間の男と同じ程度だが、腕と同じようにゴツゴツして4本の鉤爪を持つ二足で立ち、腹と背中には頑丈そうな鱗が並んでいる。顔は前に尖るように細くなり、歯は剥き出しで顎が鋭く突き出していた。瞼はなく目玉が露出していて、それ以外の部分は男心を燻るがその目だけで奇妙に見えた。
俺がじっくりとその人型の生物を観察していると、人型は前屈みになりながら、ニヤリと醜く顔面を歪めた。
ーーまさか、来るのか?
そう思った瞬間には人型は地面を蹴っていて、一気に距離を詰められていた。人型の気味の悪い顔が肉迫する。
俺は咄嗟に横に跳ぶが、脇腹を切り裂かれた。必死で避けたので、跳んだ勢いそのままに横にあった壊れかけのブロック塀に背中から突っ込んだ。
「ーーかはっ。何だよ、あれ。くそっ」
まずは脇腹の傷を確認。……幸い、傷口は浅く血も殆ど出ていなかった。次いで、立ち上がって人型の動向を確認しようとした。
俺が人型の姿を捉えるために、僕の突進で崩壊しなかった部分のブロック塀から顔をひょっこり出そうとすると、眼前を人型の鉤爪が高速で縦に通過した。
「ひゃっ!」
思わず変な声が出たが、どうにか当たらずに済んだ。当たっていたら、人型と同じように目玉が剥き出しになり、頭蓋骨の断面も露出していただろう。
「本当に、なんだよその攻撃力」
俺の文句も全く意に介さず、再び人型は俺の目の前に立った。再び相対した俺と人型の距離はさっきよりもさらに近い。
次、攻撃を繰り出されれば、今度こそ避けきれないし、避けようとすればそこを狙い撃ちされてしまう。
そう、詰みだ。
迫る命の危機を逃れる方法が思い浮かばず、諦めていた俺の前で人型がその左腕を振り上げる。
ーーもうダメだ。折角生きようと決断したのに、こんなところで終わるのか。
俺は来る衝撃と痛みに怯えて目を瞑った。それと同時に、ドンと衝撃音が聞こえた。
しかし衝撃はやって来ず、俺に届いたのは右から吹き抜ける風だった。恐る恐る目を開けると、目の前から人型が消え、左の遠くの方でドサッという音が聞こえた。
人型の代わりに、俺の正面には水色の髪の少女が立っていた。俺よりは2歳くらい年上だろうか。女子にしては高身長でおそらく160センチくらいだろう。
肩甲骨あたりまで長く結ばれたポニーテールがなびき、膝丈くらいの赤のスカートを風にはためかせている。
「ーー何が……起こったんだ?」
「ふう、何とか間に合ったね。桜花くん、大丈夫だった?」
その少女は、俺の無事を確認して太陽のような笑みを浮かべた。
「私の名前は海希。あなたを助けに来ました!」
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