ラストスタリオン   作:水月一人

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死んだ魚の目のような

 ヴァルトシュタインは不機嫌だった。昨日、待ちに待った援軍が到着した。救援物資を運び込むためのルートを確保するために、勇者領から険しい山道を通り抜けて、ついにこの砦まで辿り着いたという鳳たちのパーティーだった。なのに何故、彼が不機嫌だったかと言えば、そのリーダーである鳳が挨拶に来なかったからだ。

 

 かつて、国境の街で一戦交え、ヴァルトシュタインに一泡吹かせたという連中だった。彼らのせいで、ヴァルトシュタインは総司令官の座を追われ、難民に肩入れせざるを得なくなり、ついにはこんな場所で古巣(ていこく)相手にドンパチやっているのだ。

 

 その元凶である鳳と会うことは、ある意味、彼にとって楽しみだった。軍師、利休に言わせれば、戦乱の続いた彼らの母国では軍略に長けた将軍が数多くの書物を書き残しており、恐らく鳳はそれを学んだ者だろうと言うことだった。

 

 そのような人間が、膠着が続くこの状況下で、どんな献策をしてくるか非常に興味があった。仮に戦況を覆すような案は出なくても、きっと自分の助けになる。彼はそう思って、鳳の到着を心待ちにしていたのだが……

 

 ところが、彼の仲間はすぐに挨拶に来たのに、肝心のリーダーはいつまで経ってもやってこなかった。何をしているんだろうかとギヨームに尋ねてみれば、大方今ごろ部屋でアヘンでもやってるに違いないと言って肩を竦めていた。

 

 普通そんな話を聞いたらガッカリするものだが、ヴァルトシュタインはそうではなかった。このように、部下に軽んじられていながらも結果を出す人間には食わせ者が多い。論功行賞に上がることが殆ど無いくせに、どの戦場にも顔を見せるような人間は、生き残る術を知っているからだ。だからここへ来ない理由はどうあれ、ヴァルトシュタインはますます鳳に会うことを楽しみにしていたのだが……

 

 ところが、本丸に帰ってスカーサハから彼が軍議に出席しないことを聞かされると、流石のヴァルトシュタインも非常に落胆した。放浪者であるという彼はこの世界の戦争に関わりたくないと言うのだ。

 

 その理由は分かるし、ある意味正当だろう。だが、楽しみにしていた自分としてはそんなのどうでも良いことなので、ヴァルトシュタインはつべこべ言わずに出てこいと、直接彼のことを呼びに行くことにした。

 

 しかし、こうしてヴァルトシュタインがわざわざ出向いてきてやったというのに、彼は疲れて眠っているようだった。山歩きごときでだらしないと、叩き起こそうかと思ったら、思いがけず救護室の医師に止められた。

 

 聞けば鳳は砦に到着するや否や颯爽と救護室に現れ、人手が足りずに困っていた医師たちを助け、更には現状のままでは効率が悪いからと、魔法のような手法であっという間に薬の改善まで行ってしまったのだ。

 

 そのお陰で患者に劇的な変化が現れた医師は、驚いて彼に感謝しようと追い掛けたのだが、彼は名前も告げずに去っていってしまった。そしてたった今、ようやく彼の居所を突き止めたのだが……

 

 長旅の疲れからか、救護室での壮絶な戦いのためか、疲れ切って眠ってしまった彼を、どうかこのまま寝かせて欲しいと、医師はヴァルトシュタインに告げるのだった。

 

 ヴァルトシュタインも、まあ、そう言う事なら、急ぐわけでもないし、また朝になったら出直せばいいかと、そのまま寝かせてやることにした。しかし翌朝、彼がまたいそいそと宿舎にやって来たら、今度は鳳は『ちょっくらアヘン吸ってくらあ』となぐり書きのメモを残して、どこかへ消えてしまっていた。

 

「なんなんだこいつは! 自由(フリーダム)すぎんだろ! 戦争やってんだぞ、俺たちは!?」

 

 たった今も、目の前には三万の帝国兵がこの砦を攻略しようと気勢を上げている。そんな、いつどこから敵が飛び出してくるかわからないような場所を、何故当たり前のようにホイホイと出入りする事が出来るのか。いや、出てくだけならまだいい。彼は帰ってくる時に、下手したら射殺されても仕方ないということがちゃんとわかっててやってるんだろうか?

 

「ごめんなさい……本当にごめんなさい! 彼はちょっとこういう常識はずれなところがありまして……決して悪気があってやってるんじゃないのよ!?」

 

 ヴァルトシュタインがイライラして怒鳴り散らしていると、ジャンヌが申し訳無さそうに頭を下げてきた。国境の街の戦いで、信じられない大暴れをしている冒険者がいると聞いてはいたが、昨日、一緒に戦ってみて改めて良くわかった。これは勇者と呼ばれるだけの豪傑である。これだけの剛の者を従えているという鳳という青年は、本当に何者なんだろうか……

 

 彼は情けないやら呆れるやらで、こんな分けの分からないのにやられたのかと思うとだんだん腹が立ってきた。とにかく、居ないものは仕方ないので、ここはジャンヌの顔に免じて黙っていようと引き下がったが、しかし帰ってきたら一言言ってやらねばすまないぞと、密かに決意していたところ……

 

 午後になって鳳が当たり前のように帰ってきたと聞いたヴァルトシュタインは、早速、鼻息を荒くして彼の元へと向かった。前線の指揮を妹弟子(おもちゃ)を見つけたと言って喜んでいるスカーサハに任せ、一足飛びに本丸のある頂上まで駆け上がる。

 

 途中、行き交う部下たちが立ち止まって敬礼してくるのを、軽く顎を引くだけの会釈で返して、俺は偉いんだぞと肩を怒らせながら、彼が泊まっている宿舎へとやってきた。

 

 なんとなく嫌な予感が的中し、案の定彼は宿舎にいなかったが、その場で捕まえた兵士に尋ねたところ、すぐ近くの物見櫓で見かけたと言うので、今度こそとっ捕まえてやるぞと意気揚々とやってきたのであるが……

 

 こうしてようやく出会えた彼は、確かに言われた通り物見櫓に居たが、その上ではなく、何を思ったかすぐ近くにある板塀の上に腰掛けて、腕組みをしながらぼんやりと遠くの方を眺めていたのだった。

 

 グラグラと揺れる板塀の向こう側は、5メートルはある断崖絶壁になっている。背後から声をかけて、うっかり落ちてしまったら命の危険があるだろう。それどころか、今はまだ平気だが、もしも戦闘になって敵が上がってきたら、飛び道具で十分に狙える位置だ。

 

 なんだこいつは、死にたいのか?

 

 ……ヴァルトシュタインはそんな彼に声をかけることが出来ず、渋い顔をして見上げていたら、その時、ふいに鳳の顔がこちらを向いて、下にいたヴァルトシュタインの姿を当たり前のように捉えた。

 

 それは濁ったガラス玉のような瞳だった。何も期待していない、そんな目だ。今まで多くの死に行く者を看取ってきたが、その中にこんな目をしたものが何人もいた。それは自分の未来を悟り、諦めた者のような目だった。

 

 こいつはなんでこんな死人みたいな目をしてるんだろう……そんなことを考えていたら反応が遅れた。

 

「あんたがヴァルトシュタインか」

 

 彼がぼんやりと見上げていたら、鳳のほうが先に声を掛けてきた。一言文句を言ってやらねばと意気込んでいたのに、先手を取られてしまったヴァルトシュタインは、慌てて取り繕うように返事をした。

 

「そ、そうだ……何故わかった?」

「あんただけ身なりが違うし、いかにも軍人っぽい。それに、俺は以前、遠巻きにだけどあんたのことを見たことがあるから」

 

 それは以前、国境の町でギルド長フィリップと交渉をしていた時のことだろう。あの時はまだ鳳白という放浪者の存在は誰にも知られてしなかった。彼は全てが終わった後、難民たちに話を聞いて、そんな人間がいたことと、そしてそいつが街に火をつけて派手に暴れまわって逃げていったことを知った。

 

 その時は、何故こんなことをするのかと思ったが、今の自分の状況を見れば理由はわかった。ヴァルトシュタインは、うまくこの男に乗せられたのだ。カリギュラの登場までは予想していなかっただろうが、彼はあのままヴァルトシュタインが難民たちを保護してくれると期待し、そしてその通り自分は動かされたわけである。

 

 そう考えると腹立たしくも思ったが、あまり不愉快には感じなかった。彼は今の自分の境遇を後悔していなかった。結局、軍人である自分は、戦場を渡り歩くしか他に生き方を知らないのだ。あのまま帝国にいたにしろ、どうせここにはやってきただろう。だったら、より面白い陣営についていた方が、楽しめると言うものだ。

 

「そうか……一方的に知られているというはあまり気分が良いものじゃないな」

「俺の仲間も似たようなこと言ってたよ。有名人の税金だなんて言う奴もいるけど、有名になるのが目的で無い限り、それは負債だ」

「おかしなことを言う男だな……まあいい。それより、救護室での話は聞いたぞ。昨日は魔法みたいな方法で兵士を助けてくれたそうだな。感謝しよう」

 

 すると鳳は苦虫を噛み潰したような表情で、

 

「……あんなのは魔法じゃないし、本当の意味で助けたわけじゃないよ。アヘンもモルヒネも対症療法でしかなくて、結局は本人の体力次第だ。ちぎれた人間の腕が繋がるわけでもないし、無くなった足が生えてくることもない。そして爺さんはもう帰ってこない……」

「爺さん……? なんのことだか分からんが。どうせ死ぬにしても、苦しんで死ぬか、楽に死ねるかでは大違いだろう。おまえがやったことは無駄じゃない。卑下することはないんじゃないか」

「そうかな……そうかも……みんな苦しみたくないだけで、生き続けたいってわけじゃないからな」

 

 おかしなことを言うやつだとヴァルトシュタインは思った。何も期待していないような表情をしていながら、どことなく感情的なことを言う。

 

 情緒不安定というか……もしかして何かあったのかと思った時、鳳はまた話し始めた。

 

「この砦のすぐ裏にある、カナンの村は、あれは死出の村なんだ。あそこに住んでいる人たちは、みんな何かしら問題を抱えていて、もう何をやっても助からないから、死ぬためにあそこに集まっている。痛みを和らげるためにアヘンを吸う以外には、これと言って目的をもっていない。だから、俺たちが物資を運ぶためにうろついても、軍隊がやってきて協力を求めても、みんなニコニコするだけで、何も抵抗しないんだ。単純に、人恋しいのもあるだろう……あそこにいる人達は、みんな家族に捨てられた人たちだから」

「そうだったのか」

「ああ……だから俺は、そんな彼らを戦争に巻き込みたくない。ヴァルトシュタイン。あんた、軍人なんだろう? 早く戦争を終わらせてくれないか?」

 

 ヴァルトシュタインはウッと息を呑みこんだ。一言言ってやるつもりが、逆に言われてしまっていた。軍人は戦争が起きなければ役に立たない。だから中には戦争を継続することだけを目的とするような輩もいる。おまえもそう思われたくないのなら、さっさと片付けろと彼は言っているのだろう。

 

 ヴァルトシュタインは渋面を作り、小指で耳の穴をほじくりながら、

 

「……耳が痛いな。俺だって、こんなところにいつまでも籠もってなんかいたくない。だが、俺の持つ兵力だけでは、帝国を追い返すことは出来ない。今回のおまえらの活躍で、増援は期待できるだろうが、砦に籠もる兵が増えたからって、それで終わるほど戦争は簡単じゃないんだ。敵は増援を阻止するために動き出すだろうし、まだまだここでの戦いは続くだろう」

「そうか……まあ、そうだろうな」

 

 すると鳳はそんなことはわかってると言いたげに、さっさと会話を切り上げてしまった。彼は視線をまっすぐ外に向けて、もうこっちには気を配っていないようだった。それがまるで、おまえには出来ないと言われているみたいで、ヴァルトシュタインのプライドは思いのほか傷ついた。

 

 正直なところ、こんな分けのわからないやつは、もう放っておきたかった。見たところ、彼はまだ大人になりきれてない青年といった年頃で、人生を知らなければ、成功も失敗もろくに経験をしたこともなかったろうし、何かを成し遂げられるような力も感じなかった。だから向こうが興味を失ったのなら、こっちもさっさとどっかに行ってしまえば良いと思った。

 

 だが、それでもヴァルトシュタインはこの青年から目が離せなかった。何がそんなに気になるのだろうか……我が事ながら呆れていた時、彼はふと思った。鳳はこっちへの興味を失ってしまったようだが、じゃあ、今は何を見ているんだ?

 

 彼の視線の先は壁の向こう側にあり、ヴァルトシュタインからは見えなかった。だが、ここは自分の砦なんだから、もちろん、その先に何があるのかは承知していた。鳳は、砦の前方に広がる平原に布陣している帝国軍を見ているのだ。熱心に、こちらに目もくれずに。

 

「……おまえならどうする?」

 

 ヴァルトシュタインが板塀に背を預けて、その上に座る鳳に聞こえるか聞こえないかと言った程度の声音で尋ねると、さっきまで眼中にないと言っていたその目が、スッとこちらへと向いた。ヴァルトシュタインは、なんだ、やっぱり戦況に興味があるんだな……と判断すると、ゆっくりと話し始めた。

 

「戦況は膠着状態だ。帝国は勇者領を降伏させるためには、首都ニューアムステルダムを攻めなければならない。しかし、俺たちのボヘミア砦がある限り、背後を突かれる危険があるから、奴らはここを動けない。

 

 俺たちを抑えるためだけに、帝国からの増援があるかも知れないと思っていたが、今の所それがないのを見ると、どうやら帝国総司令官はこれ以上の増員を認めない方針のようだ。

 

 だからこのまま帝国軍を引きつけ、勇者軍が再編成を終えるまでここをもたせれば、俺たちにも勝ちは見えてくるだろう。その自信はある。しかし、困ったことにそれで確実に勝てるとも言えない。勇者軍は帝国軍よりも数が多く、物量で押し切れる兵力があるのだが、練度も足りなければ将兵も足りない。前回の大敗で分かる通り、勇者領にはろくな将兵がいなくて、おまけに戦意も低いんだ。

 

 冒険者ギルドの派遣する、冒険者指揮官というのには期待しているが未知数だ。スカーサハは相棒で信頼もしているが、信頼で戦争が勝てるなら世界はもっと愛で満ち溢れているだろう。また決戦を挑むのであれば、戦場も選ばなければならない。敵も馬鹿ではないから、前回のリブレンナ川のように、こっちに有利な地形に誘い込むのはもう無理だろう。

 

 俺たち、義勇軍を遊撃隊として使う戦術は効果的だろう。しかし、砦を留守にして、もしここが落ちるようなことがあったら、勇者領にもう抗う力は残っていないだろう。この状況で、おまえならどう動く? 降伏するというのは無しだ」

 

 すると鳳は殆ど考えることもなく、

 

「何故、後方連絡線を絶たないんだ?」

 

 即答と言っていい早さだった。恐らく、状況を説明するまでもなく、彼の頭の中ではとっくに答えが決まっていたのだろう。ヴァルトシュタインは少々気圧されながら、

 

「後方……? 兵站のことか? もちろん、それなら真っ先に考えた。だが、帝国から運び込まれる物資を襲うには、大森林の出口を押さえなければならない。しかし、ここが弱点だってことは帝国だってわかっているから、奴らはここに附城(つけじろ)を作って既に防衛戦を張っているんだ。少数でならこっそりと近づくことは出来るかも知れない。だがそれくらいの戦力では到底落としきれない。

 

 例えば、勇者軍を再編成して、ここを決戦の地とするというのであれば、それはいいアイディアだ。もしもこれに勝てば、帝国軍は退路を絶たれる前に撤退を余儀なくされるだろう。だが、その場合は攻撃側と防衛側が入れ替わることになる。今度は俺たちが敵の城を落とさなければならないわけだが……今の勇者軍に、それが出来るほどの力があるかは未知数だ」

 

 ヴァルトシュタインは、自分たちが何もしていなかったわけじゃないこと、これで十分に説明できたと思った。ところが、鳳はそんな彼の言葉を聞いてもまるで意見を変えず、イライラしながら言うのであった。

 

「いや、そんな必要はない。大規模な決戦なんかしなくても、ここを叩くにはせいぜい20人もいればいい。多くて50人ってところだろう」

「……は? 50人……? 500人の間違いじゃないのか? それでも少ないくらいだぞ……」

 

 ヴァルトシュタインは絶句した。今までの自分の立場から、出世のために大言壮語する輩とは、ごまんと会ってきた。だが、ここまで大風呂敷を広げたやつは初めて見た。

 

「おまえはたった50人で敵の城を落とせるというのか?」

「いや、城は狙わない。敵が待ち構えているところに、わざわざ行くのは馬鹿のやることだ。狙うのはその前、森の中で襲撃するのがベストだろう」

 

 ヴァルトシュタインは少々面食らいながらも、

 

「……なるほど、森の中で移動中を狙うのか。いい考えだ。特に、冒険者は一人ひとりが信じられないくらい強いらしいからな。だが、おまえは相手がどのくらいの用意をしているのかを知らないんだな。斥候の報告によると、ここを通るのは輜重(しちょう)隊とは言っても千人規模、全てが正規兵という念の入れようだ。帝国はここを落とされたら撤退もあり得ると考え、非常に慎重な準備をしているわけだ」

「だから……?」

「だからって……」

 

 鳳には全く意に介する気配はなかった。そんなの、自分なら当たり前だとその顔が言っていた。こういう、自信過剰な若者は何人も見てきた。そしてそいつらがどのような末路を辿ったかも。ヴァルトシュタインは話にならないと鼻で笑いながら、

 

「馬鹿馬鹿しい……スカーサハがあの街を救った英雄だと言うから、少しは期待していたんだが……蓋を開けてみれば、まあ、こんなものか。おまえはただの博打打ちだ。おまえの言ってることは、たしかに考えさせられる物もあるが、殆ど単なる机上の空論に過ぎん。そんなものに命を預けられるほど、俺も純粋じゃないんでね」

「そうか」

「悪かったな、つまらないことを聞いて。おまえはさっさと砦を出て、ギルドに報告したらもうこの戦いからは手を引け。元々、そのつもりだったんだろう?」

「そうだな」

「おまえの言う、後方連絡線……だったか? 俺たちの救援ルートを確保してくれたことは感謝する。これでまだ暫く、ここに踏み留まることが出来るだろう。それじゃな。会えて嬉しかったぜ」

「ああ」

 

 鳳はもうヴァルトシュタインは眼中にないようだった。その瞳が退屈そうに戦場を見つめていて、こんなの簡単に片付けられるのにと言っているようだった。ここまで自分のことをコケにしたガキには初めて会った。彼は鳳の座っている板塀を蹴り倒してやりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて踵を返した。

 

 会うまではどんなやつがやって来るのかと楽しみで仕方なかった。だが、実際に会ってみればそれは死んだ魚のような目をしたおかしなガキだった。人のことを小馬鹿にして、全く話にならなかった。ヴァルトシュタインはドスドスと地面を蹴立ててその場から離れていった。

 

 それなのに……どうして自分はこんなに落胆しているのだろうか? これじゃまるで恋する乙女みたいじゃないか。

 

 馬鹿馬鹿しい。さっさと忘れよう。彼は努めて冷静さを取り戻そうと深呼吸をしてから歩き出した……宿舎に帰ったら、気を静めるためにお茶でも飲もう。軍師に貰ったやつがまだ少しだけ残っていたはずだ……彼は軍師のことを思い出し、そして彼もまた放浪者だったことを思い出した。

 

 ヴァルトシュタインは踵を返すと、もう一度、鳳の座っている板塀の方へと歩き出した。彼は自分に言い聞かせた。落ち着け、どだい放浪者という連中は、常識で計っても仕方ないのだ。彼らは自分とはまるで違う世界からやってきた人間だ。

 

 それに落ち着いて考えればそれほど悪い話でもない。いくら輜重隊とは言え、50人で敵兵を追い返すことなんて出来っこない。だが、逆に言えば失敗しても50人の犠牲に過ぎないのだ。

 

「本当に、50人でいいんだな!?」

 

 なら、賭けてみるのもありじゃないか。彼はそう思うと、まだ板塀の上で退屈そうに戦場を眺めている鳳に声をかけた。

 


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