耳をつんざく咆哮が、戦場に轟き大地を揺らす。人間はその声を聞いただけで、震え上がり足がすくんで動けなくなった。たった今まで敵味方に別れて殺し合っていたはずなのに、みんなそんなことは忘れてしまって、ただ南の森から現れた巨大で緑色をした異形を呆然と見つめていた。
オークの軍団は森から飛び出してくると、そこに待ち構えていた人間たちに向かって、まるでデザートを見つけた子供のように無邪気に飛びかかってきた。何が起こっているかわからない哀れな人間が、そのまま何が起こっているか分からないまま死んでいった。
オークの群れが満員電車から溢れ出す人混みのように、続々と森の中から飛び出してくる。飛び出すと言うより、噴き出してくると言ったほうが正しいだろうか、なぎ倒された森の木々の間でひしめき合い、弾けるようにポンと勢いよく平原に飛び出して、それは半円状に広がっていった。
ドドドドド……っと山津波のように鳴動し迫りくる魔族の群れを前にしても、両軍は未だ一歩も動けずにいた。今起きていることは明らかに尋常ではないのに、お互いにまだこれは相手の罠なんじゃないかという考えが捨てられなかったのだ。その判断の遅れが犠牲者を増やしたのは言うまでもない。間もなく、オークの群れが人間たちの軍勢へ到達すると、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられた。
オークに捕まった人々の悲鳴が飛び交い、怒号が響き渡る。オークは人間を捕らえるや、まるでか細い花でも手折るかのように、ポキポキと脊椎を折り曲げ、皮膚を切り裂き、四肢を引き抜いた。一瞬で死んだものはまだ良く、内臓を引き抜かれてまだ生きている者たちの泣き声が轟く。
強烈な殺人劇を目の当たりにした兵士たちの背筋は凍りつき、それでようやく事態の重さを知るのであった。彼らは、これはもう戦争なんてしてる場合じゃないと悟ると、我先にと争うように逃げ出した。
もはや陣形など留めていられるわけもなく、押し合いへし合いする兵士たちで戦場はぐちゃぐちゃになり、あちこちでドミノ倒しが起きた。逃げ遅れた人々に、容赦なくオークの豪腕が振り下ろされ、猛禽のようにあっという間に人をたいらげていく。
勇敢なものが辛うじて踏みとどまり、手にした武器で反撃を行おうとするが、所詮、人間を殺すための武器なんかでは歯が立たず、無惨にもその生命を散らしていった。
後方でそれを目撃していたヴァルトシュタインは、ようやく我を取り戻すと、混乱に混乱を極めた前線に向けて続々と伝令を送った。と言っても、とにかく今は逃げろとしか言いようがない。彼は青い顔をしている伝令将校たちに向かって、
「伝令!! 前線に伝えろ! 今はもう帝国軍なんて気にしてる場合じゃない! オークから離れて、とにかく逃げろと伝えるんだ!!」
ヴァルトシュタインの戦場でもよく通る野太い声が響き渡ると、伝令たちもハッと我を取り戻し、気を引き締めるように復唱してから、前線に向かって駆けていった。
ヴァルトシュタインは、とりあえず逃げろと言ったが、逃げた後どうやって巻き返せばいいのかと頭を悩ませていると……それを横で見ていた参謀のテリーが、何故か困惑の表情を浮かべながら言った。
「ヴァルトシュタイン将軍……質問していいですか? あれは……あの魔族はオークなんですか?」
「なにい!? こんな時になんだ! 見てわからないのか!?」
次の作戦に脳のリソースを全振りしていたヴァルトシュタインは、テリーの些細な疑問に苛立ち、怒鳴りつけるように声を荒げた。しかし司令官の癇癪に慣れていたテリーは臆することなく、
「見てわからないから聞いたんです! 確かに私は取り立てて魔族とか魔物の種類に詳しくない。けど、オークというのは確かネウロイにだけ住むという、伝説の生き物でしょう? 司令官はそんなのものを見たことがあるんですか? 何故、あれがオークと断言出来るんですか!?」
そう言われてヴァルトシュタインはハッと気がついた。
テリーの言うとおりだ。彼もあんな化け物を見るのは始めてなのに、ほとんど迷うこと無くあれをオークと断言出来たのは、事前に鳳とアイザックの3人で情報交換をしたからだ。
鳳が言うには、現在、大森林の中でオークが大繁殖しているらしい。本来ならそれは、獣人が食い止めるはずだったのだが、ピサロが邪魔をしたせいで対応が遅れ、魔族の侵入を許してしまった。彼はその露払いのために大森林に向かったようだが……
「あの野郎……」
ヴァルトシュタインはギリギリと奥歯を噛み締めながら、帝国軍の本陣を睨みつけた。オークの大繁殖はピサロが引き起こしたことだ。それは間違いない。だが、彼がそれを面白半分にやったとは思えなかった。ピサロが獣人社会を引っ掻き回したのは、多分、帝国軍総司令官であるオルフェウス卿カリギュラに命じられたからだ。
カリギュラが何故そんなことをしたのかは分からないが……彼と最後に会った時の会話を思い出す。魔王復活の兆候がある。人類は一つにならなければならない。そのために帝国が潰れるなら、潰れてしまえばいい……
「……この事態は、あいつの思惑通りだってのか? しかし、何故……!?」
困惑するヴァルトシュタインのことを、テリーがじっと見つめている。彼は正しい命令を待っているのだ。
どうする……? もしこの事態を引き起こしたのがカリギュラなら、彼がこのまま見逃してくれるだろうか。オークとともに、勇者軍を追撃してくるのではないか。それとも、帝国軍が犠牲になることすら彼の狙いなのか……
ヴァルトシュタインは思い悩む……と、その時、突然前線の方から、彼の迷いを吹き飛ばすような歓声があがった。
こんな絶体絶命の状況で、歓声が上がるなど不可解だ。慌てて声のする方を見れば、そこにはまるで人間たちを守るかのように、前に出てオークと戦う帝国神人兵たちの姿があった。
彼らが友軍である帝国兵を守るのは当然かも知れない。しかしよく見れば、神人たちは敵味方関係無く、弱い人間を守るように迫りくるオークと対峙していた。
それは単に、プライドの高い神人たちが魔族に背中を見せるのを嫌っただけかも知れない。だがそれ以上に、帝国本陣からそういう命令があったと考えるほうが、よほど妥当と思えた。
帝国神人兵に助けられた勇者軍の兵士たちからも歓声があがる。その歓喜に満ちた声を聞いていると、ますます分からなくなっていった。
カリギュラは、オークを呼び寄せて、それを神人に守らせているのか? だが、なんのために? 帝国のマッチポンプか? わからない……ヴァルトシュタインには分からなかった。
だが、カリギュラが何を考えているか分からなくても、ただ一つ、誰にでも分かることはあった。帝国が味方であろうがなかろうが、相変わらず魔族は人類の敵である。
「伝令! もう一度前線に伝えろ! 余力のあるものは、神人たちの援護に回れ! ありったけの銃弾を撃ち続けろ! 意味がないと思うな、豆鉄砲でも当たりゃ痛いんだよ。オークどもに気持ちよく攻撃させるな!!」
ヴァルトシュタインの命令を受けて、たった今帰ってきたばかりの伝令将校たちが、また慌てて駆け出していく。彼はその背中を見送ると、テリーにはスカーサハ隊への伝令を任せ、自分はありったけの銃弾をかき集めるために、後方の補給線へと駆けていった。
神人がオークと戦い出すと、にわかに前線が落ち着き出した。
元々、彼我の戦力差は圧倒的に人類が上だったのだ。オークは大軍と言えども、統率はされておらず、散発的に森から現れるだけの烏合の衆だった。慣れてしまえばそれは猛獣狩りをしているのと大差なかった。
人間たちが神人に守られながら、十字砲火でオークの進撃を食い止める。帝国も勇者軍も関係なく、お互いに背中を預け、足りない銃弾を都合しあっていると、不思議な高揚感のようなものが生まれてきた。とてもさっきまで両軍に別れて殺し合いをしていたと思えないような連携で、人類は魔族を押し返していった。
遅れて勇者軍の精鋭であるスカーサハ隊が合流すると、その傾向はますます顕著になった。スカーサハのバトルソングによって、神人に匹敵するような実力を得た冒険者たちは、人間の身でありながらオークと互角に戦い、そして彼女の現代魔法はただでさえ強い神人を更に強化した。
いつも以上に漲る力を得て、神人たちが一騎当千の兵に変貌する。そんな神人の古代呪文エンチャントウェポンを受けた冒険者の剣は、やすやすとオークの硬い皮膚を切り裂いていった。すると、それまで一方的に押し込まれていた勇者・帝国連合軍は、逆にオークを押し返しはじめ、ついに魔族を森へと追い返し始めたのであった。
ただ考えもなしに森から出ようとして半円状に広がっていたオークの群れが、人間たちによる半包囲陣形によって左右から挟撃を受けて、次々と倒れていく。ついに、神人でも冒険者でもない、ただの一兵卒の銃弾の前に倒れたオークを見て、誰もが勝てる……そう思った。
だが、災厄というものはいつもこういう時に現れるものである。
人類が最初の混乱から正気を取り戻し、魔族を押し返しはじめた正にその時だった。
ズシン……ズシン……ズシン……と、地響きを立てて、森の奥から何かが近づいてきた。それは大群が立てるざわついた音ではなく、たった一つの何者かが立てているような、ゆっくりとして、そして信じられないくらい強い振動を伴った、足音だった。
ズシン……ズシン……地面が揺れる度に、嫌な予感が人々の背筋を凍らせる。そしてそれまでは目の前の人類を、ただ捕食することしか考えていなかったようなオークたちが、音が近づくたびにまるで恐怖しているかのごとく、メチャクチャに暴れだしはじめた。
そんな死にものぐるいで暴れるオークを抑え込もうと躍起になっていた時……人類はそれを目の当たりにした。
夕日に照らされて真っ赤に染まった巨大な影が、森の木々の上からにゅっと突き出してきた。
それは強烈な口臭を放ち、ギョロギョロとよく動く目を持った、巨大な顔だった。
緑色の皮膚に、狭い額。鼻はぺちゃんこでただそこに2つの穴が開いている感じであり、悪臭を放つ口からは犬歯が四本突き出しており、下の2本が上の2本よりも長く伸びている。それは一見すると目の前にいるオークそのもの……巨大オークのものとしか思えなかった。
だが、そんなことはあり得なかった。外縁部の森の木々は低いとは言え、それでも10メートルないし15メートルはあった。その顔はそんな木々を上から見下ろしながら、ズシン……ズシン……音を立てて近づいてくる。
もしそれが本当なら下手なビルよりも大きいだろう。そんな巨大生物がこの世に存在していいはずない。ここは海の中ではなく、地上なのだ。
なのに、それは確かにそこに二本の足で立っていた。体長20メートル近くはありそうな緑の巨人が、思いのほかしっかりとした足取りで、森の中からヌッと姿を現した。
それはブクブクと肥え太った巨大な肉の塊みたいで、自らの肉の重さに耐えきれず、あちこちの皮膚がベロンと垂れ下がっていた。両足は短く、とは言え、人の背丈の倍はあり、対する腕は長く、直立したまま地面に触れそうだった。
見た目はオークに見えるその巨体は、オークキングとでも呼べば相応しいだろうか。
その奇妙な巨人を前に、人類は完全に思考停止に陥った。
何故こんなものがここにいるのだ? 俺たちは夢でも見ているのだろうか? 夢なら早く覚めて欲しい。何故ならこんな悪夢、とてもじゃないが正気ではいられない!
その時、突然、何者かが悲鳴を上げて吹き飛んでいった。何が起きたのだと、虚を突かれた兵士たちが我に返る。みんなその巨人を見上げていて、目の前にオークが迫っていることを忘れていたのだ。慌てて応戦しようとするが、ショックのあまり力が入らず、多くの兵士がそれで犠牲になっていった。次々と兵士たちが血祭りに上げられる。
すぐに神人や冒険者達がそんな兵士たちの救援へと駆けつけた。それで崩壊しかけた前線は一時的に持ち直したが、しかし、それはほんの気休めに過ぎなかった。
兵士たちをなぶり殺したオークを蹴散らした神人が、怒りに任せてそのままオークキングへと突っ込んでいく。
どうせあんな巨体がまともに動けるとは思えない。俊敏な彼は、敵の攻撃をかいくぐり、その懐へと忍び寄れば、いくらでも勝機があると考えたのだ。しかし、それは考えが甘すぎた。
次の瞬間、オークキングの脳天に剣を突き刺してやろうと飛び込んだ彼の体が、突然、水風船のようにパンと弾けとんだ。もはや原型すら留めておらず、血液のスープとなった彼の体が、シャワーのように辺り一面に降り注いだ。と、同時に衝撃波のような突風が辺りに渦巻き、人もオークも関係なく、立っている者全てをなぎ倒していった。
オークキングはその見た目に反し、信じられない速度で飛びかかってくる神人を払い除けたのだ。鋼鉄ででも出来ているのだろうか、人一人を一撃で粉砕したというのに、その拳は傷一つ負っていなかった。
神人は超回復があるとはいえ、ここまで一瞬で全身をぺちゃんこにされては、そんなものが機能するわけがない。次の瞬間、無慈悲な仲間の死を目撃した神人たちから悲鳴が上がり……そしてそんな神人を頼りにしていた人間たちもまた、パニックに陥って情けない悲鳴を上げた。大の男が泣きわめき、命乞いをし、腰を抜かして糞便を垂れ流している。そこにはもう、ほんのつい今まで、オークの群れと互角に戦っていた軍勢の面影はなかった。
そんな帝国軍のパニックを受け、ここはもう持たないと考えたスカーサハは前線を維持することをやめて、冒険者達に撤退を命じた。逃げ惑う一般兵士たちを背後に見ながら、勇者軍の精鋭部隊が川の向こう側へと撤退を開始する。その背中を追って、勇者軍の逃げ遅れと、またそれを追うオークの群れが続いた。
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一方、遠く離れた帝国本陣では総司令官であるオルフェウス卿カリギュラが、森から現れた巨大なオークキングを真正面に見据えていた。その冗談みたいな巨体は、遠くから見れば騙し絵のように滑稽に見えた。だが、その足元で繰り広げられている殺戮劇は、冗談で済むようなものではなかった。
帝国本陣からため息が漏れた。このヘルメス戦争が始まってから、一体何人の神人が犠牲になったのだろうか。最初は勇者に、そして今度は魔族に……一体この戦争のどこにどんな利益があったというのか。ただ、
それにしても、あの巨大な魔族はなんなのだろうか。どこから現れたのか。あれもオークなら、オークとは放っておくとあそこまで大きくなるものなのだろうか。だとしたら、南方ネウロイでは当たり前のように、あんな巨人がうろついているというのだろうか。
いや、あんなのが沢山いるわけがない。もしもそうなら、300年前のように森を平らげ、とっくに人類を滅ぼしていてもおかしくないじゃないか。そう、300年前のように……参謀たちの脳裏に、最悪の言葉がよぎった……
魔王……もしかして、あれが魔王と呼ばれるものなのか?
「ここはもう駄目です、我々も撤退しましょう」
逃げ惑う神人兵を遠目に見ながら、不安そうに進言する参謀の声を受けて、カリギュラがゆっくりと頷いた。それを肯定の合図と見て、部下たちが我先にと蜘蛛の子を散らしたように散っていく。
カリギュラはそんな部下たちがバタバタと逃げていく音を背後に聞きながら、自身はそこから一歩も動かず、オークキングを真正面に捕らえたまま立ち尽くしていた。背中が曲がり、杖に掴まらなければ立てないような白髪の彼がそうしていると、まるでしょぼくれた老人が諦めて死を迎え入れようとしているようにしか見えなかった。
逃げようとしていた参謀の一人が、そんな彼に気づいて近寄ってきた。
「オルフェウス卿、ここは危険です。我々も早く逃げましょう」
しかし、カリギュラは振り返りもせずに首を振ると、
「いいえ、私はここに残ります。あなたは早く行きなさい」
「何をおっしゃってるんですか! あれがもうすぐここへ来てしまいますよ。まさか、卿は死ぬおつもりですか!?」
「死ぬ……?」
その言葉を聞いた瞬間、それまで誰が声をかけても身じろぎ一つしなかったカリギュラの体がカタカタと震えだした。参謀はそれを見て、オルフェウス卿が死の恐怖に震えているのだと思った。だが、そんな予想に反して、カリギュラは突然おかしそうに哄笑をあげると、
「ハハハハハ! 私が死んで済むのなら、この生命などいくらでも差し出しますよ。そうではなく、私はあれを食い止めるつもりなのですよ。あれを呼び寄せてしまったのは、私の責任ですからね……」
「オルフェウス卿……? 何を言って……」
「さあ、あなたは早く逃げなさい。このままここに留まっていては、命の保証はありませんよ」
笑いをこらえながら、カリギュラが涙を拭う。彼は深呼吸をして息を整えると、未だに彼の身を案じて立っている参謀をちらりと一瞥した。どうやら参謀は、カリギュラが逃げない限り、もうここから逃げる気は無さそうだった。
彼はこんな善良な男を死なせるのは忍びないと思ったが、もはや何を言っても聞きそうもないなと諦めると、
「……そうですか。ならば、そこで最後まで見届けなさい。これより始まる、二匹の巨大な化け物の戦いを……!」