ラストスタリオン   作:水月一人

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エディプスコンプレックス

 生きる屍という言葉があるなら、その頃の鳳ほどそれが似合う男はいなかった。

 

 事件を起こしたあと、彼は学校へは戻らなかった。行ったところでどうせ腫れ物扱いだろうし、同級生たちの姿を見れば嫌でも事件のことを思い出さずにはいられなかったし、先輩たちは卒業していなくなったとしても、殆どが同じ町内に暮らしているのだから、どの面下げて表を歩けるのかと思っていた。

 

 かと言って家で引きこもってもいられなかった。その頃の彼は父親の家で暮らしていたが、事件後に折り合いが悪くなった父とどうやって接していいか分からず……父は忙しい人だったから滅多に会うことはなかったのだが、それでも家の中でばったり出会ってしまったら、あの時の言葉を思い出してしまって、針のむしろだったのだ。

 

 何故、仕留めそこなった。どうして、殺さなかったんだ。

 

 それは喉に突き刺さる魚の骨のように、彼に反論を許さなかった。どんなに後悔しても悔やみきれない胸の痛みと、どうしようもない無力感が襲ってきて、彼の生きる気力を根こそぎ奪っていくのだ。

 

 だから彼は耐えきれなかった。父親に保護されている自分が嫌だった。そして彼は逃げ出したのだ。本当は、自分の心の弱さが原因だったのに、それを価値観の違いに転嫁して、父を憎んだのだ。

 

 しかし、家を出たところで、たかだか中学二年生でしかない彼には行く場所なんてどこにもなかった。せめて一目でいいから会いたいと思い、会いに行ったエミリアの家では、彼女の家族に追い返されてどうにもならなかった。彼らは鳳がしたことを知っていたのだ。それが仮に、彼女のためだったとしても、そんな言い訳は通用しなかった。

 

 そして行くあてのない彼は彷徨い歩き、結局、東京のどまんなかを流れる川の河川敷という、中途半端なところに漂着した。

 

 その頃の彼は今ほど生きる力は無かった。道端の草が食えるなんてことは知らなかったし、魚を三枚におろすことも出来なかった。ただ、河川敷に並んでいるブルーシートテントを見ていたら、あいつらが生きてられるんだから、自分もなんとかなるんじゃないかと思っただけだった。そしてそれは正解だった。それからおよそ半年間……彼はそこでホームレスの真似をして、食っていく方法を学んだ。

 

 やってみれば案外簡単なことだったのだ。都会には、その日世界で餓死する人たち全員を助けられるくらいの、廃棄食品が溢れていた。それはホームレス対策として、わざと水浸しにされていたり、鍵のかかった倉庫に厳重にしまわれていたりしたが、中には無造作にポリ袋に突っ込んで捨てられている物も、探せばわりと見つかった。

 

 仮にそんなことをしなくても、100円200円も出せばスーパーの見切り弁当なら普通に買えた。そしてその100円200円も、自販機の下を覗き込んだら結構な頻度で見つかるものだった。

 

 そしてその日のカロリーを摂取したら、あとは河川敷に帰ってダンボールにくるまって寝るだけだった。水は近くの公園で好きなだけ飲めるし、雨が降ったらその公園の遊具の中で眠った。

 

 そうこうしているとおかしなガキが紛れ込んでいるということで、ホームレスの一人が脅かしに来たが、一目じろりと睨んでやったらすぐに帰っていった。縄張りを主張したかったのだろうが、そんなことをしたら何をされるかわからない、そんな野生の勘が働いたのだろう。その時の鳳はもう、脅せば逃げていくような普通の子供とは、何かが根本的に違っていたのだ。

 

 そうしてホームレス生活をしていると、そのうち彼を気遣って声を掛けてくれる者も現れた。最初は近所の教会で炊き出しがあるから一緒に行こうと誘ってくれたおっさんで、次はスマホを貸してやるから一緒に商売しようぜという怪しげな兄さんだった。

 

 おっさんはホームレス歴が長く、立派なブルーテントを持っていた。工事現場でもらった角材の柱に、梁までしっかり渡してあり、屋根に乗っかってもびくともしなかった。中は拾ってきた様々な物で溢れており、梁に張った紐にかけたハンガーには何着かの古着が吊るされていた。かなり清潔にしていて、ホームレス特有の嫌な匂いは全くしなかった。

 

 カセットコンロで何でも料理するようだが、ボンベ代が勿体ないから、普段はカップラーメンで凌いでいることが多いそうだった。買い置きなんかしたらすぐ盗まれてしまうから、もっぱら現金を持ち歩いているようで、驚いたことに銀行口座とキャッシュカードまで持っていた。

 

 ホームレスとして脂が乗っている彼は、定番の空き缶拾いや雑誌拾いの仕事などを教えてくれた。他にもくず鉄を買い取ってくれる工場や、日雇い仕事を斡旋してくれる窓口まで教えてくれた。この手の仕事は身元なんて調べようともしないから、鳳が中学生だろうが家出少年だろうが全く興味を示さず、機械的に仕事をくれた。きつい仕事の割りに低賃金だったが、それでもなんとかなるんだなと、日当の五千円札を太陽に透かしながら思った。

 

 兄さんはそんな仕事すら嫌がるダメ人間で、いつも何台ものスマホを持ち歩いては、何かをポチポチやっていた。大抵はポイントの貰える無料アプリを大量に起動して小銭をかき集めているようだったが、他にも海外のオークションサイトからの転売や、闇金の使い走りみたいな仕事をしていた。連絡があったら金を持って依頼者の元へ行くのだ。いわゆる受け子の逆バージョンだが、こうすれば闇金は正体がバレないで済む。そうすることでどんなメリットがあるのか分からなかったが、需要があるからには何か意味があるのだろう。

 

 そんなにスマホを持っていて充電はどうしてるんだろうと思ったら、盗電出来るポイントをいくつも知っているらしかった。普段はファストフード店をオフィス代わりにしてるから、それだけでもなんとかなるようだ。怪しげな海外SIMを大量に持っていて、よく使い終わったカードがテーブルの上に散乱していた。多分、転売のついでに東南アジア辺りから仕入れているのだろう。

 

 ホームレスと言うより、正確にはネカフェ難民なのだろうが、ネカフェで寝てることはまずなかった。と言うか、寝てること自体が少なくて、公園やらファストフード店で一時間くらい仮眠したら、またすぐ起き出してスマホを弄っていた。食事の回数も少なく、青白い顔をして、吹けば飛ぶような体格をしており、どうしてそんなんで平気なのだと尋ねたら、眠らないでいい薬を持っていると言っていた。

 

 くれるというので試しに飲んでみたら、嘘みたいに頭が冴えて、本当にいつまで経っても眠くならなかった。あまりにも劇的なので、これはなんだ? と尋ねてみたら、ケロリとした表情で覚醒剤だと宣っていた。鳳が翌日、ぐったりして一日中眠っていたのは言うまでもない。

 

 そんな感じに、道徳性が悪い方向へ振り切れているような男だったから、最後もあっけないものだった。ある日、一緒に商売しようぜというから話に乗ってみると、スマホを一台渡されて、コールセンターの真似事をさせられた。コールセンターと言うか、チャットの返信なのだが、どうやら詐欺の片棒を担がされていたらしい。

 

 兄さんは闇金から手に入れた名簿やら、SNSの釣り懸賞なんかに登録していたアドレスに、手当り次第『芸能界に興味はありませんか?』というメッセージを送りつけていた。普通の人ならバカバカしいと無視するものだが、これが思ったよりも返事がかえってくるのだ。鳳は大量に送られてくるメッセージに返信し、脈がありそうなものをピックアップして兄さんに渡した。兄さんはそのアドレスに、レッスン代だとか登録料だとか、色々と理由をつけて金を引き出し、短期間の内に信じられないくらい巨額を稼いでしまった。本当に、普通に働くのが馬鹿らしいと思うくらいだ。

 

 しかしこれは詐欺である。良心の呵責はないのかと尋ねたら、どうしてだ? と真顔で返された。

 

「こんな手口に引っかかる奴は、よほどの馬鹿だけだろう。もしくは抱えきれない虚栄心に押しつぶされそうになってる奴だ。俺は彼らの承認欲求を一時的にしろ満たしてやったんだから、感謝されこそすれ非難されるいわれはない。政治家を見ろ、マスコミを見ろ。奴らが約束を守った例があるのか。綺麗事を並べて金を得る。俺とどこが違うんだ」

 

 兄さんはそうして荒稼ぎした金を闇金の口座を通じて海外へ送金し、彼がもう一つの拠点にしている東南アジアの国へ飛ぼうとしたところ、張っていた捜査員に逮捕された。羽田でも成田でもなく、茨城空港で捕まったのは、何とも彼らしかった。その後、しばらくの間、ファストフード店に捜査員がよく来ては、鳳も職質を受けたが「僕、わかんなーい」としらばっくれておいた。

 

 兄さんはいなくなってしまったが、特に寂しいとは思わなかった。価値観の違う人だったから、逮捕されてもしょうがない、塀の中から出てきたらまた悪いことをするんだろうなといった程度である。鳳は空き缶拾いや雑誌拾いに戻ったが、それは長くは続かなかった。楽して稼ぐ方法を見てしまったからというわけではなく、単純にその作業に飽きてしまったのだ。ぶっちゃけ、お金はそんなに無くても食べてはいける。ホームレスの最大の敵は暇だった。

 

 そんな時に知り合ったのが爺さんだった。爺さんは河川敷に住むおっさんの知り合いで、何匹も野良猫を飼ってる人だった。昔、この辺で野良猫を保護したら、次々と人がやってきてペットを捨てていったらしい。以来、爺さんが面倒を見ているのだが、いつの間にか餌やり爺さんとして行政に目をつけられていたようである。一体、誰が悪いのか。

 

 行政は猫を保健所に連れていきたいようだが、それじゃ忍びないので、爺さんはなんとか里親を探そうとしていたが、ホームレスの猫など貰いたがる者もおらず、軽く詰んでいた。役所は保健所が見つけてくれますよと言って強引に引き取ろうとしたが、そうしたら十中八九殺処分だろう。そのため、爺さんは昼間は猫をテントに隠して、夜に行動していた。もうかなりの高齢で力仕事なんて出来ず、仲間の援助が無ければ生きられないようなそんな人だった。

 

 でも爺さんには知識があった。爺さんは夜になると、本当はいけないことなんだけどと言いつつ、ミミズを餌に川でぶっこみ釣りをして、釣れた魚を猫にやっていた。残ったものを河原で摘んできた野草と一緒に煮込んだり、栗やら柿やらビワやいちじく、そこらの公園で自然になっている実を収穫してきては、保存食を作ったりしていた。河川敷にこっそり畑も作っていた。鳳は、こんな都会のど真ん中でも、金を一切かけずに食べていけるんだと驚いた。それも廃棄食品に頼らずに自然の物が中心なのだ。

 

 感心した鳳は爺さんに弟子入りし、食べられる野草の種類や果物のなる木などを教えてもらった。釣りの仕方も習い、ぶっこみだけではなく、様々な仕掛けも教えてもらった。釣りはホームレス生活の暇つぶしには最適で、鳳はすぐにのめり込んでいった。言われるままにコンビニで遊漁券を買って、釣り竿も自分用のものを新しく揃えた。お礼に釣った魚は猫にやったし、爺さんのために年券をプレゼントしたが、結局、それを使うことは無かった。爺さんのようなホームレスが釣りをしていると目立つのだ。だから彼は人の寝静まった夜中にしか行動せず、それなら今までと何も変わらなかった。それでも、今までは気が引けていたからと言って爺さんは喜んでくれた。同じホームレスでも、どうしてこんなに倫理観が違うのだろうかと彼は思った。

 

 ともあれ、新たな趣味も出来て、鳳はホームレス生活を満喫していた。釣りや野草の収集で日々の糧を得て、たまに空き缶拾いや雑誌拾いに精を出し、時にはおっさんから酒を頂戴したり、怪しげな外人がこそこそと隠していた非合法な薬をちょろまかしては追い掛けられたりと……割りと充実した毎日が続いていた。お陰でエミリアや父親のことは殆ど思い出さなくなっていた。

 

 だから、油断していたのかも知れない。自分が何者であるのかを、彼は少し忘れていたのだ。

 


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