ラストスタリオン   作:水月一人

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虎よ

 そして帰ってきた河川敷は、以前とはまるで別物になっていた。伸び放題だった雑草は綺麗に刈られて、ところどころ地面がむき出しになっている。一番の違いは、そこにあったブルーテントが一つもなくなっているいることであり、警察が現場検証をしているのだろうか、ロープが張られていて中に人が入れなくなっていた。

 

 鳳がロープの前で立ち往生していると、新聞記者らしき男がやってきて事件について何か知らないかと聞き込みをしてきた。知らないから見に来たのだと断り、逆にここに住んでいたホームレスたちはどうしたのか? と聞いてみた。記者は金になりそうもないと肩を竦めながら、暴走族に襲われた人は病院に運ばれ、他の人たちは保護施設に連れて行かれたと教えてくれた。事件を機会に、河原からホームレスを一掃したのだ。

 

 なんてことだ……鳳はショックで頭が回らなくなった。河川敷をただ呆然としながら歩いていると、近所の小学生たちがギャーギャー騒いでる場面に出くわした。何をそんなに驚いているんだろうかと思って見てみれば、そこに数匹の猫の死骸が転がっていた。内臓が飛び出し、蛆が湧いて、原型を留めていない、まるで何かに踏みつけられたような、そんな死に方だった。

 

 鳳は土手の階段に腰掛けて、もうそこから動けなくなった。立ち上がろうと思っても力が入らず、ただそこで項垂れていることしか出来なかった。やってきた時はもう午後だったが、間もなく日が暮れて暗くなり、ジョギングをする人や買い物の自転車が後ろをひっきりなしに通り過ぎたあと、人気はどんどんなくなっていった。

 

 やがて満月が中天に達し、日付が変わろうとしていた。それでも彼はまだそこから動けなかった。頭の中では後悔の念が渦巻いていた。

 

 何故、仕留めそこなったんだ……どうして、殺さなかったんだ……

 

 と、その時、後悔に苛まれる彼の耳に、小さな猫の鳴き声が飛び込んできた。はっとして顔を上げれば、遠くの茂みの方で小さな影が踊っている。あれは爺さんの猫だろうか。せめてこの猫だけでも保護をしなければと思い、鳳はもつれる足を叩きながら声のもとへと駆け寄った。そしてその茂みの奥に、猫だけではなく、人も転がっていることに気がついた。

 

 茂みをかき分けて中を覗けば、ダンボールの上に横たわっている爺さんがいた。全身傷だらけで服はボロボロ、顔はアザで青くなっている。辛うじて胸が上下しているから生きているのが分かるが、高齢なこともあって、今にも死にそうで見ているのが怖かった。

 

「爺さん! 爺さん!」

 

 鳳が声をかけると爺さんはゆっくりと目を開き、ぼんやりとした視線で彼のことを見上げた。

 

「……君か。ちょっと待っててよ。猫に餌をあげる時間なんだ」

「そんなこと言ってる場合か。すぐに救急車呼ぶから」

 

 鳳がそう言って電話をかけに走り出そうとすると、思いがけず素早い動きで、爺さんが彼の足首を掴んで制止してきた。

 

「やめてくれ……救急車は呼ばないでくれ」

「はあ!? そんな怪我して、何言ってんだよ。つーか、どうしてみんなと一緒に病院にいかなかったんだ。今からでも遅くない、何なら俺が呼んでこようか?」

「駄目だ。みんなと一緒に行きたくないから、こうして逃げ回ってるんだよ」

 

 爺さんは、焦点の合わない弱々しい目つきで、わけのわからないことを言っている。

 

「病院へ行けば、そのまま保護施設に入れられてしまう。そしたら、ここへ帰ってこれなくなる。ここから出てしまったら、もう帰る場所がなくなってしまう。ずっと一人で頑張ってきたと言うのに、もう自由には生きられないんだ」

「……何言ってんだ? 爺さんは施設じゃなく、もっと別のどこかに、実家かなんかに帰りたいのか?」

 

 爺さんは首を振った。

 

「違う、そうじゃない。君だってそうだろう。君にだって帰る家はある。でも帰りたくない。どこにも帰る場所がないから、だからここにいるんだろう。それはどうしてだ? 誰にも迷惑をかけたくない。一人で生きていきたいと、そう思ったからだろう」

 

 そうかも知れない。鳳はそう思ったが、口には出せなかった。爺さんが、何を言わんとしているのか、さっぱりわからなかった。彼はハアハアと喘ぎながら続けた。

 

「僕はただここに居たいだけなんだ。ここでひっそりと暮らしていたいだけなのに、どうしてそっとしていてくれないんだ……どうして、彼は死ななければならなかったんだ……どうして……僕たちが何をしたと言うんだ?」

「ごめん……俺が、余計なことをしたばっかりに……」

「違う! 君のせいじゃない。あんなの、君のせいであってたまるか……」

 

 爺さんはそう言いながら、ゆっくりと体を起こすと、唸り声を上げながら傍にあった釣り竿を掴んだ。胡座をかいた上半身がゆらゆらと揺れていて、視線も定まっていなかった。彼はそのまま餌もつけずに釣り針を川に投げ入れた。猫たちがミィミィと甘えるような声をあげながら、彼の膝に乗っかった。

 

 そんなんじゃ釣れるわけがない。爺さんに指摘して、釣り竿を貸してもらおうと思った時、信じられないことにその釣り竿がピクピクと動いた。水面をバシャバシャと叩いて、魚が暴れている。しかし握力が殆どなくなっていた爺さんの手から釣り竿が持っていかれそうになり、鳳は慌てて釣り竿を引ったくると、爺さんの代わりにそれを釣り上げた。現金な猫たちが爺さんの膝から降りてきて、鳳の足元にすり寄ってくる。彼が釣り竿を爺さんに返そうとすると、爺さんは無色透明な瞳でじっと彼の目を見つめながら言った。

 

「君は、虎みたいな人だ。強く、気高く、孤高だ。君という一個だけで完結している、そんな人だ。だから人の中では生きてはいけない。人の中に虎がいれば、誰かを傷つけてしまうから。だから君は飛び出してきたんだろう、自分一人で羽ばたくために。君という生き方を認めてくれる人がいたならば、君はここにはいなかったはずだ。なのに今更、人の中になど帰れるものか」

 

 そして彼が噛みしめるようにして吐き出した言葉は、まるでこの社会への憎悪全てを乗せたような、そんな重みがあった。

 

「虎は、人の中で生きていくために、自ら檻の中に入らねばならない。君はそうやって自分を殺して、一生過ごせるのか」

 

 それは鳳になぞらえて、多分、自分のことを言っているのだろう。彼はここから出て誰かに頼ることで、自分が失われてしまうかも知れないと怖がっているのだ。それは非常に滑稽だ。棺桶に片足を突っ込んだジジイの言うようなことじゃない。青臭く、薄っぺらい言葉だった。

 

 でもだからこそよくわかった。鳳も、その皮を一枚剥けば、中身は空虚だったから。だから虚勢を張って、自分を虎だと思い込むことでしか、上手く生きられなかったのだ。

 

 何故って社会に負けてしまったら、彼には帰る場所がないからだ。彼には生まれつき母がなく、生まれたときから施設で暮らしていて、誰かの顔色を窺うことでしか、人とのつながりを築けなかったのだ。そんな彼が自由を手に入れようとしたら、破壊するか、逃げ出すしかないだろう。

 

 鳳はため息を吐いた。

 

「だけどな、爺さん。ここに居たいのは分かるけど、あんたそのままじゃ死んじゃうかも知れないじゃないか」

「それならそれで構わないじゃないか。体の傷は死ねば消える。でも心の傷は死んでも消えることはない。どっちの傷がより痛いか」

「……爺さんは、どうしてもここから出て行きたくないんだな?」

「ああ、御免こうむる」

 

 爺さんはそう言って鳳から釣り竿を奪うと、魚から釣り針を外そうとして、プルプル手が震えて全然うまくいかないでいる内に、突然、パタリと倒れた。魚が地面に投げ出されてビチビチと跳ねた。猫がそれをパチパチと手で叩いている。

 

「おい、爺さん!」

 

 それから鳳がいくら呼びかけても、もう爺さんは返事をかえさなかった。ダンボールの上で眠っているのではなく、失神しているようだった。抱き起こそうとしたら、信じられないほど軽く、その体は骨と皮だけで出来ていた。その体の軽さが事態の深刻さを物語っているようだった。このまま放置しておけば、爺さんは明日の朝には冷たくなっているだろう。

 

 ふと見れば、いつの間にか釣り上げられた魚は死んで、少し離れたところで猫の餌食になっていた。鱗が付いたまま胴体に歯を立てて、前足を上手く使ってその肉を食いちぎっていた。この猫も、爺さんがいなくなったら、あっちで死んでいた猫と同じ運命を辿るんだろうか……鳳が飼えばいいという問題じゃない。その時、爺さんは死んでいる。やることはもう、はっきりしていた。爺さんの意思なんか無視して、すぐに救急車でもなんでも呼ぶべきだ。

 

 だが、彼はそうすることが出来なかった。そうしたら、なんだか自分の中にある大事なものも、一緒に連れて行かれそうな気がしたのだ。でも、現実問題、このまま放置したら爺さんは死んでしまう。それは避けねばならない。なら、どうすればいいと言うのだ……? どうすれば……? どうすれば……?

 

 そして彼は走った。深夜の街を、ひたすらに、一秒でも早く。やれることがあるならもうこれしかないと、最初から分かっていた。だが、そうしたら自分の心が死んでしまうから、どうしても避けたかったのだ。でも、このままじゃ爺さんは死んでしまう。爺さんの死と、自分の死、どちらが大事かと考えたとき……彼は躊躇なく前者を選んだ。それが結局、鳳白という男のパーソナリティだったのだ。

 

 荒い呼吸音を響かせて、肩を上下しながら息を整えた。頭がガンガンと痛んで、視界が霞むようにぼやけていた。ずっと遠くに逃げたつもりで居たのに、いざ帰ろうとしたら、ものの十分程度の距離でしかなかった。久しぶりに帰ったその家は、飛び出した時から何も変わっていなかった。鳳の……父親の家だった。

 

 彼は覚悟を決めるとその呼び鈴を押した。ハウスキーパーは通いだから、今は父しかいないはずだ。こんな深夜にすぐに出てきてくれるわけがない。何度も押すことになるかも知れない。インターフォンから声が聞こえてきたら、なんと答えればいいだろうか。何しろ半年間も家出していたのだ。冷たく突き放されるだけならともかく、相手すらされないかも知れない。元々、何人もいる腹違いの兄弟の一人でしかない自分のことなど、もしかすると忘れているかも知れない。

 

 でもそれじゃ駄目なのだ。今は自分のプライドなどかなぐり捨てて、なんとしてでも爺さんを助けねば。そしてそれが出来るのは自分ではない……頭を下げよう。頭を下げて、父にすがろう……それしか、爺さんを助けられる方法はないのだから。自分のチンケなプライドなんて、この際どうでもいいだろう?

 

 ……と考えていた時だった。思いがけず一発でオートロックの門が開いて、玄関に父親が立っていた。

 

「帰ったか。さっさと入れ」

 

 抑揚のないフラットな声だった。何気ない日常の中で聞いたら、聞き逃してしまいそうな、淡白なセリフだった。でもそれがかえって胸に突き刺さった。およそ半年ぶりに見た父親の顔は、恐ろしいほど無関心で無表情のままだった。彼は昨日出ていった家出息子が、今日帰ってきたような、そんな顔をしていた。鳳には、ほんの十メートルくらい先にいるその人が、とても近くて、恐ろしいほど大きく見えた。

 

「助けて下さい……お願いします。助けて下さい……お願いします……助けて……」

 

 彼はその顔を見るとすぐに頭を下げた。そして何度も何度も同じことを繰り返した。他に言うことがいくらでもあるはずだろうに、他に何の言葉も出てこなかった。代わりに涙がポロポロポロポロと溢れてきて、あっという間に視界を海の底へと沈めてしまった。

 

 一人で生きていけると勘違いしていた。結局、人は一人では生きていけないのだ。困ったときには父親に頼ることしか出来なかった。彼は虎でもなんでもなく、ただの子供でしかなかったのだ。それが悔しくて、悲しくて、辛くって、どうしようもなく自分に腹が立つのに……それと同時にどうしようもなく、ホッとしていたりもするのだ。

 

 そのホッとする気持ちが余計に彼の心を傷つけて、いよいよ涙は止まらなくなっていった。こんな奴のところには帰ってきたくなかったのに、なんでこんなに安心しているんだ。彼のしゃくりあげるような声が深夜の街に響いて、近所の家の窓から次々と明かりが漏れ出した。そこら中の家々の番犬が連鎖的に遠吠えを始め、木枯らしが吹いていた。季節はもう秋を越えて、過酷な冬が始まろうとしていた。

 


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