ラストスタリオン   作:水月一人

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アリスの決断

 今日も半ばを過ぎ、気がつけば大分日が陰ってきた。明かり取りのために付けられた窓から見上げれば、いつしか空はどんよりと曇っており、今にも雨が降りそうだった。いや、室内でさえ吐く息の白いこの気温では、もしかすると雪になるかも知れない。そうならない内に、早く産まれてくれればいいのに……アリスは熱いお湯の入ったヤカンを両手に抱えながら、パタパタと廊下を駆けていた。

 

 ヘルメス卿の仮設庁舎のすぐ脇には、これまた仮設の職員のための宿舎が建てられていた。かつてのヘルメス卿の居城が壊されてしまったから、暫定的な措置であるが、その宿舎の一番奥の部屋で、今日は朝から苦しげに喘ぐ、女性のうめき声が廊下中に響いていた。

 

 昨晩の未明、陣痛が始まったルナの子供が、いよいよ産まれそうだったのだ。アリスは長年……と言ってもまだ子供の彼女にしては、であるが……長年仕えた主人の出産を前に、朝からてんやわんやの大忙しであった。何しろ、助産師を除けば、ルナの出産に立ち会っているのは、彼女一人だけだったのだ。

 

 ルナ・デューイと使用人アリスの境遇については、改めて言う必要はないだろう。一応、軽く説明すれば、かつて鳳たちがこの世界に呼び出された時、勇者のために充てがわれたのがルナだった。

 

 彼女は、勇者と子供を作れば確実に神人を産むことが出来るという、アイザックの言葉を鵜呑みにし、妊娠したのであるが、その後状況が変わってしまい、一転して追われる立場になってしまった。やがて生家からも裏切られた彼女は行き場をなくし、ついに帝国によって捕らえられてしまうが……その捕らえられた先の帝都で、紆余曲折を経てアイザックに復讐を果たし、鳳に保護されたという経緯があった。

 

 騙したアイザックが悪いとは言え、そのお陰でヘルメスは非常に微妙な立場に立たされていた。だから、本来ならば神人で貴族でもある彼女の出産は、大勢の人に祝福されるはずであったが、こんな場所でたった一人の使用人だけを頼りに出産に挑んでいたのである。

 

「アリス……アリス、いないの!」

「はい、お嬢様! ここに!」

 

 アリスが助産師に頼まれたお湯を取って戻ってくると、ベッドの上で苦しみに耐えるルナの呼び声が聞こえてきた。彼女はいつの間にかいなくなっていた唯一の身内を探して、さっきから必死に叫び続けていたようだ。

 

 ヤカンを置いて慌てて駆け寄ると、主人は戻ってきたばかりの使用人の冷たい手を引ったくるように、ぎゅっと握りしめた。その手がブルブルと震えているのは、力を込めすぎているからだけではなく、恐らく不安の表れだろう。

 

 握りしめられた手は正直痛いくらいだったが、アリスは主人の手を優しく握り返した。ルナはまるで藁にでも縋るように両手でそれを引き寄せ、助産師に言われたとおりに腹式呼吸をしながら、必死にその手を抱きしめていた。神人である彼女はアリスなんかよりもずっと年上だったのだが、その姿はまるで母に捨てられた赤ん坊のように儚げである。

 

 本当なら、彼女にはもっと相応しい場所があるはずなのに……神人である彼女の出産は、非常に稀な慶事だった。少なくとも、アリスが生まれてから神人が子供を産んだという話は聞いたことなく、本当なら縁のない遠くの偉い貴族でさえ、駆けつけてくるくらいの出来事だった。

 

 それがこんな寒風の吹きすさぶ公務員の宿舎で誰からも祝福されること無く、家族にすら見捨てられ、一人ひっそりと子供を産むなんて……ルナが一体何をしたというのだろうか。アリスは悔しくてならなかった。

 

 だが、そんな不満顔を主人に見せるわけにはいかない。今誰よりも不安なのは、間違いなく彼女なのだから。アリスはそう考えると、気を取り直し、必死に彼女の手を握りしめる主人に向かって頑張ってと声援を送り続けた。

 

 やがて、どれくらいの時間が過ぎただろうか……気がつけば主人と一緒になって、ヒッヒッフーと腹式呼吸を続けていたアリスは、いつの間にか酸欠みたいに頭がボーッとしてしまっていた。出産の立ち会いが、思いのほか緊張を強いていたのかも知れない。食事を摂るのも忘れて励まし続けていたせいもあるかも知れない。

 

 ともあれ、そんなぼんやりとしていた彼女の耳に、突然、赤ん坊の大きな泣き声が聞こえてきた。ハッとして目をやれば、いつの間に取り上げたのだろうか、助産師が赤ん坊を抱いて嬉しそうに差し出していた。まるで時が止まってしまったかのように、アリスは固まった。

 

「元気な男の子ですよ」

 

 もしかして、助産師は彼女に赤ん坊を抱っこしろと言っているのだろうか? 見ればベッドの上でいきんでいたルナはぐったりしており、とても赤ん坊を受け取れるような状態ではなかった。かと言って、いつまでも助産師に赤ん坊を預けておくわけにはいかないだろう。

 

 アリスはゴクリとつばを飲み込むと、おずおずと手を差し出した。助産師は手慣れた様子でパッと彼女に赤ん坊を渡すと、にこりと笑って片付けを始めた。抱きしめた赤ん坊はびっくりするくらい熱くて、猫みたいな声を上げていた。

 

 それからまた時が過ぎた。

 

 出産の疲労でぐったりしていたルナもようやく落ち着きを取り戻し、助産師は片付けを終えると去っていった。これから数日は大変だろうが、まあ辛くても死にはしないからと、彼女はあっけらかんと去っていった。

 

 出産のために鳳が見つけてきてくれたのだが、事情が事情だけに誰もやりたがらない仕事を、彼女は嫌な顔ひとつ見せずに買って出てくれた恩人であった。二人はいつか彼女にもお礼をしなきゃねと言いながら、今はすやすやと眠っている赤ん坊の顔を覗き込んだ。

 

 赤ん坊は、籐で編んだ揺り籠の中で、シーツにくるまれて眠っていた。ルナが起きてからはずっと母親の彼女が抱いていたのだが、まだ首の座ってない赤ん坊をいつまでも抱いていた緊張からか、少し疲労の色を見せ始めていたので、赤ん坊が眠った頃合いを見計らってベッドに移した。

 

 彼女は手放すのを惜しんだが、揺り籠の中に収まっていたらいたで、それはそれで可愛いらしく、ずっと上から赤ん坊の寝顔を見つめていた。その微笑ましい姿に、アリスは今までやってきた苦労が全部吹っ飛び、なんだか救われたような思いがした。

 

 思えば生命を狙われて家を飛び出してきてから、彼女の主人がこんなにも柔らかい表情を見せたのは、これが初めてかも知れない。それもこれも、本来なら殺されても仕方なかった主人を助けてくれたヘルメス卿のお陰である。アリスは胸の中で感謝の言葉を呟いた。

 

 と、その時だった。

 

 コンコン……っとドアをノックする音が響いて、部屋にその鳳がやってきた。

 

「まあ! ヘルメス卿!」

 

 お付きの神人二人を引き連れて、暫定ヘルメス卿である鳳が部屋に入ってくると、さっきまで自分の赤ん坊をうっとりと眺めていたルナの顔が輝いた。

 

「お疲れのところ、押しかけて申し訳ない。先程、助産師さんから報告を受けて、気になったんで少し様子を見に来ました。なにはともあれ、おめでとうございます。大変なお仕事でしたがよく頑張りましたね」

「まあ、なんて嬉しい。ありがとうございます。私はいつもお世話になるばかりで、あなたに何もして差し上げられないのに、そんな嬉しいことを言っていただけるなんて、これ以上無い喜びですわ」

「いや、そんな畏まられても困っちゃうんですけどね」「おめでとう」「おめでとう」

 

 苦笑気味に口端を引きつらせている鳳の背後で、お付きの神人たちも祝辞を述べていた。ルナは昔の仲間たちにお礼を返しながらも、その視線はずっと鳳に釘付けだった。と、その時、彼女は自分が少し汗ばんだ寝間着であることに気がついて、恥ずかしそうに毛布を引き上げると、まるで少女みたいに顔を赤らめた。アリスはそんな主人のために慌ててカーディガンを差し出しながらも、おやっと悪戯心が湧き上がった。

 

 もしかして、ルナは鳳のことが好きなんだろうか?

 

 まあ、今までの経緯を考えると、彼女が惚れてしまうのも無理はないだろう。ヘルメス卿は下手をすれば処刑されていてもおかしくない自分たちを救うどころか、こうして住むところまで提供し、身重のルナをサポートまでしてくれたのだ。これ以上何を望むというのだろうか。

 

 アリスは、赤ん坊の親は別人だが、ヘルメス卿がこの子の義父に……ひいてはルナの旦那様になってくれたら嬉しいなと思い、ふと思いつきを口にした。

 

「そうだ! 勇者様? もし良かったら、赤ちゃんを抱いてみませんか。こんなにお世話になったあなたに抱いてもらったら、きっと赤ちゃんも喜びますよ。ねえ、お嬢様?」

「え? しかしご迷惑では……」

「え? いいの?」

 

 アリスが突然そう提案すると、ルナは驚いた様子を見せたが、思いがけず鳳の方は乗り気なようだった。普通、男性は赤ん坊を抱くことを嫌がるそうだが、彼はそう言うことをあまり気にしないらしい。

 

 アリスがこれ幸いと、少し強引に主人に勧めると、戸惑っていたルナも鳳の反応が好意的なことに気がついたらしく、すぐに願ったり叶ったりだと言わんばかりに破顔し、

 

「え、ええ、良かったら。是非、この子も喜びますわ」

「なら、せっかくですし」

 

 鳳が返事をかえすと、ルナは嬉しそうにベッドのすぐ脇に置いていた揺り籠に手を伸ばした。バランスを崩したら大変だと、慌ててアリスが主人を手伝う。二人はそうして、揺り籠の中で眠る赤ん坊を起こさないよう、慎重に籠を持ち上げると、ソワソワしている鳳にも顔が見えるように、そっと揺り籠を傾けた。

 

 と、その時だった……

 

 母親であるルナが息子をうっとりと見つめているその頭上から、籠の中を覗き込んだ鳳の顔が、ほんの一瞬、妙な感じに歪んだように見えた。

 

 アリスはその彼が一瞬だけ見せた表情に、「あれ?」っとした違和感を感じたのだが……そう思った瞬間にはもう鳳の表情は普段どおりに戻っており、彼女は気のせいかなと疑問を引っ込めた。しかし、

 

「さあ、どうぞ、ヘルメス卿」

 

 ルナが揺り籠の中を指しながら、赤ん坊を抱くよう笑顔で鳳に勧めるも、ところが彼は急に余所余所しそうにそこから離れだし、

 

「あー……やっぱりまたの機会にするよ」

「え!? でも……せっかく来てくださったのですから」

「いや、よく眠ってるし、起こしちゃうのも可哀想だなって」

「はあ……」

「ごめんよ、せっかくの厚意を……あー……おっと、そうそう、そんなこと言ったら、女性の部屋に男が大勢で押しかけるのも失礼でしたね。ペルメル、ディオゲネス、俺たちはそろそろお暇するとしようか」

 

 鳳は突然矢継ぎ早にそう言うと、やたら居心地が悪そうにバタバタと踵を返してしまった。その変化があまりにわざとらしかったから、お付きの神人も怪訝に思い、

 

「……よろしいのですか? ヘルメス卿」

「いや、だから俺はヘルメス卿じゃないよ。今日はルナさんもお疲れだろう、機会はまたいつでもあるから」

 

 彼は振り返りもせずにそう言うと、不思議がる神人たちを置いて部屋から出ていってしまった。あっけにとられた彼らは、暫し沈黙をした後、

 

「……では、我々も帰るとしよう。ルナ、まずはしっかり養生しろよ」

「我々はすぐそこの庁舎にいる。必要なものがあれば言ってくれ」

 

 二人はそう言うと、先に出ていった鳳に追いつくために、少し足早に部屋から出ていった。

 

 バタンとドアが閉まって、部屋に沈黙が訪れた。彼らが来る前は、曲がりなりにもそれなりに会話があったというのに、今はどちらも口を開きたくない気分だった。赤ん坊は揺り籠の中ですやすやと眠っている。

 

 ルナは揺り籠の中からそっと自分の息子を抱き上げた。まだ首が座っていないから慎重に、ゆっくりと腕で包むように胸に抱くと、ぐっすりと眠るそのプニプニとした額をそっと指でつついた。赤ん坊はまるで天使のように穏やかな表情で眠っている。鳳は起こしちゃ可哀想だからと言っていたが、そんなのはきっと杞憂だったに違いない。

 

「……ヘルメス卿は赤ちゃんがお嫌いだったのかしら」

 

 そんな主人のため息交じりの声を聞いて、アリスはいたたまれない気分になった。自分が彼に赤ちゃんを抱いてみてと持ちかけなければ、きっと彼女はこんな気持ちにはならなかったに違いない。アリスはどうにか彼女を元気づけられないかと、そんな彼女の姿をじっと見続けていたが……ふとその時、アリスはその赤ん坊を抱えて寂しげにしている主人の姿を見て、急にもやもやとした不安を感じた。

 

 ルナも自分もひと仕事を終え、ホッとするばかりで忘れていたが、考えてもみればこれから先、子供を抱えた自分たち二人は、どうやって生きていけばいいのだろうか。

 

 家を飛び出してきたルナに帰る家はない。そもそも、赤ん坊を殺そうとした人たちのところになんて、帰ってこいと言われたところで戻りたくないだろう。かと言って、お嬢様のルナが子育てしながら逞しく生きていけるほど、この世界は優しくも甘くもない。

 

 恐らく、何も言わなくても、鳳は自分たちに便宜を図ってくれるに違いない。だが、だからといって、その厚意に甘んじていても良いのだろうか。

 

「そうだ! お嬢様。あまりに突然のことでうっかりしましたが、私はまだ勇者様にお礼を言っていませんでした。まだ追いつけそうですから、少し待っていてくださいませんか?」

 

 アリスはそう言うと、主人の返事も待たずに部屋を飛び出した。背後からルナの制止の声が聞こえていたが、彼女は意識的に無視して、パタパタと廊下を駆け出した。

 

 どちらにせよ、お礼を言いたいのは本当だった。彼女は鳳たちがまた隣の庁舎へ戻るために玄関に向かったと当たりをつけると、一直線にそちらへ向かった。

 

 果たして彼女の予想は正しかった。間もなく、玄関前の広間に差し掛かる廊下の隅っこに、ずんずんと進む男三人の姿を見つけた。彼女は待ってくださいと大声で呼びかけると、おやっとした表情で振り返った鳳の元へと駆け寄った。

 

「お呼び止めして申し訳ございません。お忙しいところ、せっかく来てくださったのにお茶も出さずに、気が利かず、それどころかお礼すら言い忘れていたことに気づいて、慌てて追いかけてきました」

「そんなこと気にしなくていいのに」

「そんなわけには参りません」

 

 アリスはきっぱりと首を振って否定すると、お仕着せのスカートの裾をつまんで恭しく鳳に向かってお辞儀をした。

 

「この度は本当に何から何まで、お嬢様のために尽くしていただき、ありがとうございました。あなたのそのお慈悲がなければ、私たち二人は今ごろ野垂れ死んでいるところでした。こうして無事に赤ちゃんが生まれたのも、全てはあなたのお陰です。お嬢様に代わって感謝いたします。ありがとうございました。私も肩の荷が下りました」

「そう、良かったね」

「はい。それで……勇者様」

 

 アリスはおずおずと上目遣いに続けた。

 

「つきましては、早速、この御恩を返させていただきたく思っております。ですが、私もお嬢様も、これと言って財産がありません。ですから、どうかこれからは、あなたの手足と思って私をお使いくださいませんか?」

「ええ!? いいってそんなの、大げさだな」

 

 鳳が面食らっていると、横で聞いていたペルメルが一歩踏み出して、

 

「控えろ、人間。ヘルメス卿に近づきたいのはわかるが、打算がすぎるぞ」

 

 しかし、アリスは臆することなく前を向くと、

 

「打算も何も、私はこの身を差し出す以外に、何も持ち合わせていないのです。私は生まれた時からデューイ家の使用人となるべく育てられ、お嬢様の身の回りを世話する以外に、どんな仕事もした経験がありませんでした。そんな私が自信を持ってやれることは、炊事洗濯などの家事くらいのもの。もちろん、勇者様がおっしゃるならば、どんな仕事だって厭いませんが、どうか哀れだと思って一度チャンスを与えてはもらえませんか。きっと、お役に立ってみせます」

 

 鳳は、挑むようなアリスの瞳を受けて、迷惑そうに視線を逸らした。彼女はその仕草を見て、駄目だったかと諦めかけたが、ところが鳳は彼女から視線を逸らすと、少し伏し目がちに思案げな表情を見せ、

 

「別にそんなことしなくても、君たちをいきなり放り出したりなんかしないよ」

 

 アリスはぶんぶん首を振って、

 

「寧ろそうしていただいた方が気が楽なくらいなのです。勇者様の御恩に、何一つ返せないことのほうが、私には苦痛なのです」

 

 鳳はその言葉を受けてため息交じりに、

 

「……そうか。まあ、そうかも知れない。ならそうしなさい」

「よろしいのですか? ヘルメス卿」

 

 鳳が彼女の提案を受け入れると、それを横で聞いていた神人二人が困惑気味に確認してきた。彼はそんな二人に面倒くさそうに頷いて、

 

「俺が彼女の立場だったら、一方的に与えられる厚意なんて、気持ち悪くて仕方ないだろうよ。俺も、上から目線で、与え続けているだけでは具合が悪いんだ。どこかでこの関係を断ちたい。だからこれはギブアンドテイクみたいなものさ」

「はあ……そう言うものですか」

 

 鳳は少女に目線を合わせるように少しかがみながら、

 

「アリスって言ったね?」

「はいっ!」

「それじゃ、明日から君には俺の執務室で雑用をやってもらおう。朝になったら、隣の庁舎に出勤しなさい。定時まで務めたら、夕方にはお嬢様のところへ帰るように。それでいいね?」

「あ、ありがとうございます……ありがとうございますっ!」

 

 鳳はそんな彼女の元気な返事を受け取ると、また少し複雑そうな表情を見せてから踵を返して去っていった。二人の神人がその後に続く。アリスはそんな後ろ姿が見えなくなるまで、いつまでも見守っていた。

 

 やはり、鳳は優しい人だったのだ。そう確信し、アリスはホッと胸をなでおろした。そうでなくては、いくら事情があるとはいえ、アイザックを殺してしまったルナのことを助けてくれるわけがないではないか。彼は縁もゆかりもない、何の役にも立ちもしない身重の女性を、ただその道徳心だけで助けてくれたのだ。本当に素晴らしい人は居るんだなと、彼女は神に感謝した。

 

 それにしても……あの時、鳳がルナの赤ん坊を見た時の、あの表情は何だったのだろうか。あれはなんと言うか、まるで不倶戴天の敵でも見るような、もしくは汚物でも見るような、非常に棘のある顔だった。もしかして、本当は子供が好きじゃなかったのだろうか? それにしては、最初は嬉しそうにしていたのだが……

 

 アリスは少々気になったが、すぐに首を振るとそれ以上考えないことにした。こんなにも、自分たちに尽くしてくれる人なのだ。子供が嫌いだったら、そもそも助けてくれなかったに違いない。だからあれはアリスの見間違いだったのだろう。

 

 ともあれ、これからどうやって生きていけば良いのだろうかと不安に思っていたが、首尾よく仕事をもらうことが出来た。これで暫くは安泰だろう。きっとルナも喜んでくれるはずだ。彼女はそれを伝えたくて、いそいそと飛び出してきた部屋へと戻った。案の定、ルナはアリスの報告を聞くと嬉しそうにしていた。寧ろ、自分こそがヘルメス卿のお役に立ちたかったのにという彼女の顔は、まるで恋する乙女のようだった。

 


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