鳳がヘルメス卿に就任したのは、それもこれも、身重のルナを助けたいためだった。かつての仲間の子を身ごもった彼女を、見捨てることが出来なかったからだ。
しかし、そのルナの子供が産まれたからと言って、これで何もかもが終わったわけではなかった。アリスの打算的な就職活動もさることながら、寧ろこれからどうやって生きていくのかが問題なのだ。その目処が立つまで、結局鳳はヘルメス卿を降りるわけにはいかなかった。
明けて翌朝、言われた通りに執務室へと出勤したアリスは面食らった。なにはともあれ新たな上司にやる気のあるところを見せようと、まだ誰も登庁していない早朝にやって来たと言うのに、そこにもう鳳の姿があったからだ。
と言っても、彼女が来る前に既に来ていたというわけではなく、昨日、仕事をしたままそこで眠ってしまった感じであった。しかし、昨夜はルナの見舞いに来たときはもう夜も更けていたはずだ。すると彼はあの後、またここへ戻ってきたということだろうか。アリスは恐る恐る、彼の顔を覗き込んだ。
うず高く積まれた書類のタワーに隠れるように、備え付けのソファの上で丸くなっていた鳳の顔は驚くほど白くて、まるで死人のようだった。実際、近づいてその寝息を聞くまで、アリスは彼が死んでいるんじゃないかと、自分の目を疑ったほどである。
それにしても、いつもこんな風なのだろうか。執務室の中は散らかり放題に見えて書類の束だけは几帳面に積まれており、それでいてどことなく生活感が溢れていて、この部屋の主がほとんど家にも帰らず仕事ばかりしている様子が窺えた。そう言えば、ルナの世話をしている時に、鳳のことはいつもこの庁舎で見かけていたが、彼がすぐ隣りにある家に入っていく姿を見たことは一度も無かった。
まさかここに住んでいるんじゃないだろうか……そんなことを考えつつ、アリスが彼の顔を覗き込んでいた時だった。聞こえていた寝息が急にピタッと止まったかと思えば、パチっと鳳の目が開いた。
「……おはよう」
「お、おはようござますっっ!!」
びっくりして心臓が飛び出そうになっているアリスに対し、鳳は寝起きだと言うのに妙に冷静な表情で挨拶を交わした。そして、ぐいと上半身を起こすなり、戸惑っている彼女を尻目に懐から何やら取り出して、
「……未だ早朝じゃないか。どうしてこんな早くに?」
彼は懐中時計で時刻を確認するなりそう尋ねた。彼女はこんなに小型の時計を生まれて初めて見たことに驚きつつも、
「その……起こしてしまって申し訳ありません。初仕事だから、絶対に先に来ておきたくて」
「なるほど」
鳳は懐中時計の蓋をパチンと閉じると、ゼンマイを巻いてからそれをまた懐にしまった。彼女の言いたいことは分かった。これから世話になる上司に、やる気があるところを見せたかったのだろう。彼は一定の理解を示しつつも、
「気持ちは分かるけどね。でも、ここまで気合を入れて早く来る必要はないよ」
「申し訳ございません。勇者様はよくここに泊まってらっしゃるのですか?」
「いや、そんなこともないんだけど……昨日はちょっと、食べすぎてしまってね。お腹いっぱいでうつらうつらしていたら、そのまま眠ってしまったようだ」
てっきり仕事が忙しいのかと思いきや、思ったよりもしょうもない理由にアリスは苦笑を漏らした。
彼はそんな彼女の顔をまじまじと覗き込みながら、何か異質なものでも見るような目つきでジロジロと見つめた。そのプラスチックみたいな目玉が、まるで爬虫類のように見えて、アリスはもしかして気分を害してしまったのかなと思い焦ったが、
「……あんなに食べるつもりは無かったんだけどね。何故かどうしても食欲が収まらなくて……いや、そんなことはどうでもいいか」
彼はそんな具合に一人で勝手に納得すると、
「それよりも、こんなに早くに居るんなら、もしかして君はお嬢様がまだ眠っているうちに出てきてしまったんじゃないか?」
「は、はい。昨晩は私もお嬢様も、赤ちゃんに何度も起こされていたので、お嬢様もきっとまだ眠いだろうと思いまして」
「そう。なら、頼んでおいた乳母にもまだ会ってないね?」
「え!? 乳母?」
全く想定外の言葉が出てきて、アリスは素っ頓狂な声を上げてしまった。鳳は戸惑う彼女と対象的に、相変わらず冷静な態度で、
「昨日、君と別れた後、冒険者ギルドに行って頼んでおいたんだ。日中、君が仕事をしている間、君のお嬢様が一人では大変だろうと思って」
「そんな……そこまでしていただく理由はありませんわ。昨日話し合って、お嬢様もそのつもりでいらっしゃるのですが……」
「そう言うと思ったけど。言っちゃ何だが、君たちは赤ちゃんを産んだことも初めてなら、そのお世話をするのも初めてだろう? その大変さがどれほどのものか知らないはずだ」
「は、はい……」
「だったら、経験者に手伝ってもらったほうが良いだろう。じゃないと、君がここにいる間、赤ちゃんが元気かどうか、俺が気になってしょうがないじゃないか」
鳳は冗談めかしてそう言ったが、アリスは額面通りにそれを受け取ってしまって恐縮しきりに、
「す、すみません、そこまで考えが至らずに……この御恩もまた別の方法で返させていただきます。出来れば、夜もここで働かせていただけませんか? ……乳母の方のお給金は、そこから建て替えさせていただければ」
鳳はその言葉に慌てて首を振ると、
「いや、俺がしたくてやってることだから。君が責任を感じることじゃないよ。忘れているかも知れないが、あの赤ちゃんは俺の友人の忘れ形見でもあるんだ。だから厚意を素直に受け取って欲しい」
「……申し訳ございません」
「謝るようなことじゃないんだけどね……」
鳳は肩をすくめると、これ以上この話は無しだと言わんばかりに、
「それじゃ最初の命令だ。まずは宿舎に戻って、やってくる乳母に挨拶してくること。これからお世話になる人だから、失礼のないようちゃんと話を聞いてきてね」
「はい。挨拶が済み次第、すぐにこちらへ戻ってきます。何から何まで、本当にすみません」
アリスは真っ赤になりながら、何度もペコペコお辞儀して部屋を出ていった。気合を入れて早朝に来たのに、かえって鳳に気を使わせてしまった。反省しなければ……彼女は踵を返して部屋のドアをくぐると、そのドアが閉まる直前に見えた部屋の光景を思い出しながら、そう肝に銘じた。
去り際見えた部屋の中では、もう執務机の前に座った鳳が仕事を始めていた。話でしか知らないが、戦場の彼はどんな魔物も物ともしない、屈強な戦士であるらしい。なのに全く偉ぶったりもせずに、あんな熱心に仕事までするなんて、世の中には凄い人がいるのだなと彼女は思った。
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乳母に挨拶をした後、アリスは改めて庁舎へ出勤してきた。赤ん坊はまだ生まれたばかりで目が離せず、実際、ルナ一人では手に負えなかっただろう。鳳の機転がなければどうなっていたことか……アリスはそのことに改めて感謝しつつ、再び執務室へと戻った。
室内に入ると昨日会った神人二人も既に登庁していて、鳳と顔を突き合わせて難しい話をしていた。新ヘルメス卿となった鳳の元へは陳情が続いており、彼らはその一つ一つを聞いて慎重に吟味しているようであった。
戦争が続いたヘルメス領内は、今は見た目以上にボロボロらしい。
まず、この国が抱えている最大の問題は、なにはともあれ飢饉であった。戦争のせいで農繁期に労働力が不足したため、国内は現在深刻な穀物不足に陥っているらしい。また、昔ながらの農奴制を取っているため経済も停滞しており、おまけに戦後のどさくさに紛れて野盗が横行し、治安の悪化も著しかった。
他にも、一時的に冒険者ギルドが閉鎖されていたせいで、大森林から流れてくる魔物の退治が追いつかず、女子供に犠牲者が出ているようだった。更に戦場となった河川の近隣では、無数の死体が放置されたせいで疫病も発生しているらしい。
これらの諸問題だけでもまいってしまいそうになるが、鳳の後任を巡ってロバート派とクレア派の間でいざこざも尽きないらしく、陳情には鳳にこのままヘルメス卿として留まってくれというものもあった。
だが彼はこれらの言葉を一蹴し、いずれどちらかに後任を譲るつもりで居るようだ。世の中には権力を手に入れるためにいくらでも汚いことが出来る連中がいる一方で、どうしてそれを求められる人間の方は潔いのか。
ともあれ、いずれ権力を譲渡するという目標がある分、鳳の内政方針はある意味とても分かりやすかった。後任が困らないように、自分の影響力を極力排除することである。
例えば、現代人である鳳からしてみれば、工業化などの強力な改革はいくらでも思いつくし、ある意味では手堅い方法と言えた。だが、いずれいなくなる自分がそんなことをしたら、後々混乱を招きかねない。だからあまり時代を先取りしすぎることは避け、今あるもので堅実な成長を促すことを心がけたのである。
また、彼が動けば海外……特に勇者領から強力な援助を取り付けることも可能だろう。だが、そうすれば領民はますます勇者に依存しかねず、彼がいなくなり援助が打ち切られた時、果たして自ら歩き出せるだろうか。そうならないよう、今すぐにも自助努力を促したいのだ。
しかし、せいぜい中世の農奴社会であるこの国で、農民にやれることは少なかった。例えば、食べるのにも切羽詰まってるなら、普通なら家財道具を売ったり、家内手工業で食いつなぐことを思いつくだろうが……実はそうしたくても、この国の農民にはそうする権利がなかったのである。農奴社会において領民は領主の所有物であり、勝手に商売することは禁じられていたからだ。
簡単にこの国の政治体制を説明すれば、五大国の〇〇卿と呼ばれているのは、正確には侯爵のことであり、立場的には帝国に属する国王と考えればいい。彼らがそれぞれ統治する国には、大勢の神人貴族が小領主……いわゆる荘園主として存在している。そしてその貴族は自分たちの領地で奴隷を働かせ、そこで得た作物を租庸調として侯爵に献上していた。
こうして貴族のために働く奴隷に自由はなく、彼らは生まれてから死ぬまで土地に縛られ、畑を耕すことだけを生業として一生を過ごしている。そんな彼らが私財を持てるわけもなく、今回の戦争と飢饉のダブルパンチで、成すすべがなくなってしまったというのが、今の国内事情だった。
さて……鳳はこの状況を打破すべく、まずは関所撤廃を行った。領民に国内の自由な移動を許可したのである。
先も言った通り、帝国領内は神人貴族の荘園ごとに自治が行われており、領民の財産は領主のものとされている。だが、領民が飢えて死んでは元も子もない。死なない程度に稼がせてやる必要がある。そのためには移動の自由と、市場が必要だろう。
彼はそのことを強調しつつ、荘園ごとに市場を設けることを貴族たちに飲ませた。市場は座代を払えば誰でも好きに商売が出来、貴族はショバ代と売上金へ掛ける税で潤うという寸法である。要するに楽市楽座を取り入れ、国内の流通改革を促すのが目的であった。
貴族は領民が勝手に出歩くことを嫌ったが、座代で必ず自分たちが儲かるということで、最終的には折れた。いきなり商売をしてもいいことになった農民は面食らっていたようだが、座して死ぬくらいならと、やがて嫌でも動き出した。こうして自由な行動を保証することで、どうにかこうにか国内は経済活動を再開していったのである。
しかし、人の移動を自由にすることは良いことばかりでもない。人や物が移動すれば、それを狙った盗賊のような悪い連中も移動するからだ。
農民は商品を売るために、自分の住んでいる領地ではなく、出来るだけ遠くの領地まで売りに行く傾向が強かった。当たり前だが、自分が持っているものは隣近所も持っているので、そうした方が儲かるからだ。だが、そうして遠くまで行こうとする農民は、ある意味野盗からすればカモだった。間もなく、国内で強盗事件が頻発し、鳳はその対応に追われることになった。
しかしまあ、これもある意味予想の範疇であった。何しろ、そのために彼はヴァルトシュタインという将軍を得ていたのである。
国内で強盗が相次ぐようになると、彼はすかさず軍政改革を行った。盗賊を取り締まるために、憲兵ではなく、徴兵を基本とした軍を常設化したのである。
普通、軍隊は招集するだけでお金が掛かる。だから近代になるまで平時は軍隊を所有しない領主が多かったというのに、この飢饉の中でそれと逆行するような行動を取ったのはいささか不自然かも知れない。
だが、もちろんこれにも理由はあった。先に種明かしをすれば、のちのち検地……つまり戸籍調査を行うためだったのだ。
帝国は貴族による領地経営を認めているため、正確な人口と言うものがさっぱりわかっていなかった。戦争になったら帝国は貴族たちに、何人兵隊を出すようにと命じるだけで、それ以上のことはしてこなかったのだ。だから貴族は自領の人口を誤魔化すのが慣例となっており、国も人頭税のようなものを取っていなかったのである。
鳳はそれを是正するために、古代の中国に倣って伍を導入した。伍とは江戸時代や戦時の五人組制度のことで、日本では特に悪名高い政策であるが……要するに五世帯を一つのグループとして連帯責任を負わせ、必ずグループから一人の兵士を出すように制度を改めたのである。
もしも兵士を出さなかったり、やってきた兵士が逃げ出したりしたら、その五世帯が連帯責任で重い罰を受けることになる。こうすることによって、国は一定の兵を確保することが出来、また兵士も故郷の家族に対する責任があるから、軍を裏切らないというメリットがあった。軍でもまた伍を規準に分隊を作れば、最初から連帯責任を理解して行動する兵士の出来上がりという、おまけ付きである。
鳳はこうして得た兵をヴァルトシュタインに預け、彼はその兵士を訓練して屯田兵とした。ヘルメス軍は領内の盗賊を追って移動し、移動した先で畑を耕す。こうして不足していた人手の解消も出来るという一石二鳥の策だった。
問題は、やはり軍を動かせば金が掛かるということだったが、いずれ正確な戸籍調査が行われれば、それも税金で養えるようになるだろう。それまではひたすら野盗を潰し、畑を耕してもらって糊口を凌いでもらうしかない。
こんな具合に、出来るだけ無理のない改革を推し進めていた鳳であったが……困ったことに、いつも人手不足に見舞われていた。彼にはこれらの政策を理解し、内政を取り仕切る文官が必要だったのだが、それらしい人材を探しても、なかなか見つからなかったのである。
いつもの神人二人も戦闘力はすごいのだが、政治に関してはぱっとせず、いまいち任せきれなかった。そのため、鳳は一人で苦心していたのだが……そんな時、彼はそれこそうってつけの人材に心当たりがあることに、はっと気がついた。
鳳の改革は、あるものを生かして無理のない政策……というものを心がけていたが、要は故事にならって、鎌倉時代から江戸時代くらいまで、暮らしのレベルを切り上げようというものだった。だからその時代を生きていた人物なら当たり前のことばかりであり、それなら丁度いい人材がいるではないか。
鳳は帝都に居た千利休に白羽の矢を立て、彼を招集することにした。死して侘び数寄を続けていた彼は始めこそ難色を示したが、最終的には友人でもあるヴァルトシュタインの説得によって受け入れてくれた。
こうして利休を得た新生ヘルメスは、政治体制も固まり、徐々に落ち着きを取り戻していった。しかし戦争の爪痕はまだ残っており、予断を許さない状況がまだまだ続いていたのである。