ボヘミア南部には家族に見放された老人たちが集まる姥捨山がある。
ヘルメス領は都市部の景気回復とは裏腹に、冬が越せない農民たちによる口減らしが始まっていた。そんな弱者救済に動き出した鳳は、何かのヒントになるかも知れないと思い、かつてポポル爺さんと共に訪れたその村を再訪した。
そこにあった診療所……と言うか阿片窟の主であるカナンは未だ健在で、相変わらず老人たち相手の終末医療に従事しているようだった。神も仏もいないようなこの世界で、何の得にもならないだろうに、どうして彼はこんなに慈悲深いのかと不思議に思っていたところ、ポポル爺さんの墓参りをしている最中にとんでもない事実が判明した。
彼は死者のために祈りを捧げていたのだが、その神とはイエス・キリストのことだったのだ。
まさかこの世界にキリスト教が伝来しているとは思いもよらず、一体どこでそんなものを知ったのかと尋ねてみたら、彼は鳳こそどうしてそんなことを知っているのかと驚きつつも、診療所に帰ると聖書を片手に理由を教えてくれた。
「ああ、なるほど、そうでしたか。あなたは放浪者の方でしたか。ならば主イエス・キリストを知ってらしてもおかしくないですね。元はあなたの世界の宗教ですから」
「カナン先生は、どうしてキリスト教徒になったんです?」
「簡単です。新大陸の翼人はみんなキリスト教徒だからですよ」
カナンが言うには、概ねこういうことらしい。昔……と言っても勇者以降の話であるから、今から二百数十年前、宣教師らしき放浪者が現れて熱心にキリスト教を布教していたそうだ。
しかしこの世界は魔物が跳梁跋扈し魔王と勇者が戦うようなファンタジー世界。つい最近魔王が現れ、精霊と共に戦った記憶も新しい彼らに、世界は唯一神がお作りになられたのだと言ったところで誰も信じやしなかった。
失意の宣教師はそれでもめげずに布教に励んでいたのだが……そんなある日、海を渡った彼は、そこで翼人を発見し狂喜乱舞した。鳳も何度もそう思った通り、背中に翼の生えた彼らは天使にしか見えなかったからである。
宣教師からしてみれば、死んで異世界にやってきたところ、そこに天使が存在したのだから、これ以上嬉しいことはないだろう。一神教が存在せずに悲嘆に暮れていた彼は、この出会いを経て逆にこの世界こそが
すると、天使と呼ばれて、彼らもまんざらでもないから、翼人のコミュニティではあっという間にキリスト教が広まっていった。宣教師は布教のために聖書を著し、翼人たちに慈愛の精神と、賛美歌を授けた。そして布教を終えると、彼は自分の信じた天使に囲まれながら、満足そうにこの世を去ったのだという。
さて、こうしてキリスト教は翼人の間に広まった。めでたしめでたし……と言いたいところだが、これには後日談があった。
キリスト教徒となった翼人たちは、宣教師がそうしたように、新大陸にやってきた勇者領の人々に布教しようと街へ下りていったのであるが、彼らもまた同じように勇者と魔王、それから神人を引き合いに出されて、
「神様だって? だったら奇跡の一つも見せてくれよ」
と言われては黙るしか無かったのだ。何しろ神人は
殺伐としたこの世界にキリスト教の慈愛精神もなかなか馴染まず、翼人は説教臭いと人々から敬遠された。そして傷ついた彼らは現在では布教を諦め、山奥でひっそりと暮らしているらしい……
「まったく嘆かわしいことです……」
カナンはため息交じりにそう言いながら、手にしたお茶をズズズイと啜った。口では残念と言っているが、実はそんなに気にしていないのだろう。まあ、もう昔の話だから、慣れっこになっているのかも知れない。
それに、布教は全く上手くいかなかったわけでもなく、カナンが言うにはこの山の人々はみんなキリスト教徒らしい。
元々この山の人々は、不治の病に侵されて先が長くない老人や、勇者領の競争に負けて逃げてきたいわくつきの人が多いから、彼らには縋り付くための神が必要だった。そんな袋小路に追い詰められたような人にとっては、五精霊や四柱の神より、キリストの教えのほうが受け入れやすかったのだろう。
「でも、ここでいくら布教しても、みんな山から下りていかないんじゃ、これ以上広まらないでしょう。それじゃ意味ないのでは?」
鳳がそう指摘するも、カナンはまるで表情を変えずに、
「そうですね。布教という点ではその通りでしょう。しかし、それで私たちが弱者救済というキリスト教本来の目的を忘れるようでは、本末転倒というものではないですか?」
「……確かに」
「布教も大事ですが、それ以上に、私たちにとっては、キリストの教えを守ることの方が大切なのです。その昔、私たちは新大陸の人々を教化しようとしていました。しかし、いくらやってもあちらでは根付かず、こちらでボヘミアの方々の手助けをしていたら、いつの間にか人々に受け入れられていたのです。無理に教えを広めようとするよりも、結局、教義を守ることが布教への近道だったのですね。これぞ神の教えというものでしょう」
「ははぁ~……なるほど」
鳳は感心した。結局、神だのなんだの言ったところで、人間食って行かなければならないのだから、宗教家というものはみんな布教に熱心だと思っていた。しかし、この天使みたいな翼人は違うようだ。まずは人々を救い、それから布教をすればいいという彼の考えに、鳳は共感が持てた。
「ところで、カナン先生? 実は相談したいことがあるんですが……」
鳳はカナンという人物が信用の置ける人物だと確信すると、ここへ来た本来の目的を果たすことにした。ここへ来たのは爺さんの墓参りのためではなく、孤児問題を解決するヒントがないかと思ったからだ。
カナンは最初は、紆余曲折を経てヘルメス卿になったという鳳の話を胡散臭げに聞いていたが、戦争のせいで領内に孤児が溢れているという話には、すぐに表情を曇らせて同情を見せた。
鳳が、出来れば孤児を助けたいのだが、孤児院を作ろうにもこの世界にはろくな宗教もなく、適任者がいなくて困っていると言うと、カナンはさもありなんと首肯してから、
「なるほど、それでここのことを思い出したんですね?」
「そうです。ここでは先生のような人が、死出の旅路を見送っていたり、当たり前のように村人同士が助け合って生きていました。老人たちはともかく、若い人らは山から下りてしまえば楽なのに……どうして上手くいってるんだろうか? って不思議に思ってたんですよ。それで来てみたら、まさか前世の世界の宗教が伝来してたとは」
「そうですね、ここでは家族を愛するように隣人を愛せという、キリストの教えが根付いているのですよ」
鳳はうなずき返すと、
「そこで相談なんですが、今ヘルメスでは増え続ける孤児のために、孤児院を作ろうと思っているんです。それで、もし出来れば先生に責任者をお願いできないでしょうか?」
「私がですか……?」
「はい。ここで終末医療を行っていた経験を生かして、そのノウハウをヘルメスの民に伝授して欲しいんです。お金の心配はしなくていいです。もちろん、布教も自由に行ってくれて構いません。寧ろ、キリスト教の奉仕精神なんかを説いてくれるとありがたいくらいなのですが……」
「なるほど。それは魅力的な提案ですね」
カナンはそう言いながら、うんうんと頷いてみせた。それを見た鳳は、良い返事が期待できるぞと思ったのだが、
「ですが、お断りします」
真逆の返事が帰ってきて、彼は面食らってしまった。
「何故です? 悪い話じゃないと思うのですが」
「そうですね。でも、良い話だからといってホイホイとついていくわけにもいきませんよ。ここには私を頼ってやってくる患者がいる。畑やお墓の管理もある。だから私はここを離れるわけにはいきません。それに、これは個人的な意見ですが、権力と結びついたら信仰はおかしくなりますよ。最初のうちはいいのですが、段々と信仰が政治のための道具になってくる。人は徒党を組むと、かならず争いを始めますからね。そうなるとおしまいです。だから孤児院も、やるんでしたら宗教とは切り離したほうがいい」
カナンはまるで地球の宗教戦争でも見てきたようなことを言いだした。鳳が驚いていると、彼は続けて、
「大体、私が行くまでもなく、あなたは既に孤児院を作ると決めてるようではありませんか。なら、どうしてあなた自身がやらないのです? きっと私がやるよりも余程みんなに喜ばれますよ」
「それは……俺は近い内に、ヘルメス卿の地位を譲ろうと考えているからですよ。俺は元々、ヘルメスの地を治めていた一族とは関係がありません。だからあくまで暫定的な措置でしかないんです」
するとカナンは目を丸くしながら、
「それじゃ、ますます私なんかの出る幕ではありませんよ。あなたがいなくなった後、後継者があなたの意思を継ぐとは限らないじゃないですか。きっと孤児院なんて、すぐに潰してしまうに決まってます」
「それは……そうならないように言い含めておきますから……」
「他人にあなたの理想を押し付けることなんて、出来やしませんよ。それが出来るのはあなたが権力を握っている間だけです。もし、あなたが本当に孤児を助けたいのであれば、あなたは権力を手放すべきじゃない。でなければ、あなたに縋って集まってきた人々は肩透かしを食い、なんなら不幸にもなるでしょう。何故そんな簡単に、あなたはその地位を手放そうと言うのですか?」
それは耳が痛い言葉だった。カナンの言う通り、理想を掲げるのであれば、権力を手放してはいけないだろう。別に元の領主であるニュートン家に遠慮しているわけではない。ヴァルトシュタインや利休は、鳳だから手伝ってくれているのも知っていた。なのに、もし自分が爵位を譲ってしまったら……改革がストップしてしまう危険性があった。
だが、彼には辞めなければならない明確な理由があった。300年前の勇者の顛末を考えるに、自分がいつまでこのままいられるかどうか、分からないのだ。ソフィアの予想では魔王化は避けられない。そうなる前に、出来るだけ早くヘルメス卿を辞して、解決法を探しに行かなければならないのだ。
だが、そんなこと、目の前の翼人には言えなかった。鳳は自分がいなくなった後、すぐに潰れてしまうかも知れない孤児院経営をしてくれと頼んでいるようなものなのだ。鳳が返答に窮していると、しかしカナンはふっと表情を和らげ、
「ふむ。どうやら事情がありそうですね。それが何か気になりますが、まあ、この辺にしときましょうか。別に私は、あなたのことを追い詰めたいわけじゃありませんから」
カナンはそう言ってから、改めて鳳に向かって姿勢を正すと、
「さて……あなたがヘルメス卿を辞めるつもりであれば、私たちもそのつもりで動きましょう。孤児院を作るというのなら、せめてその経営が軌道に乗るまではお手伝いさせていただきます」
「……ええ!? 手伝ってくれるんですか?」
「はい。ちょっと脅かすようなことを言いましたが、初めからそのつもりでした。どの道、私は今、あなたから子供たちが犠牲になっていることを聞きました。助けに行く理由など、他に必要ないじゃありませんか」
鳳はそのきっぱりとしたセリフに、ぐうの音も出なかった。
自分はあーだこーだ考えすぎて雁字搦めになっていると言うのに、カナンの方は生き方にまるで迷いがないのだ。一本筋が通っているというか、これが宗教の力なのだろうか。
鳳が感心していると、カナンは続けて、
「ただし、さっきも言った通り、私はここを動くことが出来ません。ですから、ヘルメスへは別の人に行ってもらうことになると思います」
「別の人ですか……?」
「はい。私と同じ海を渡ってきた翼人なのですが、この近辺の村を回っている巡回神父で、名前をベル神父と言います。ちょうど今は出掛けていて、すぐには紹介できませんが、信仰に篤い方ですから、事情を話せば必ずオーケーしてくれると思いますよ。孤児院スタッフの人選も、彼に任せておけば大丈夫なはずです。顔が広いですから、信者の方が手伝ってくれると思います」
「本当ですか!? それは頼りになります。出来れば、その人が帰ってくるのをここで待ちたいところですが……」
しかし今やヘルメス卿となった鳳が、そんな悠長なことをしてはいられなかった。今日、ここへ来たのもかなり無理をしており、出来るだけ早めに帰らなければならない。カナンはそのへんの事情も察していると言った感じに、
「いえ。一度巡回に行ってしまったら、いつ戻ってくるかわかりません。そんなもの待ってはいられないでしょう。ですから、あなたは紹介状を残していってください。事情は私の方から説明しますよ」
「なんだか、何から何まで押し付けてしまって申し訳ない」
「構いませんよ。私にはそれくらいしか出来ませんから」
鳳が畏まっていると、カナンは軽く請け合いつつも、なお問い詰めるように目を覗き込みながら、
「ただ……もう一度、いえ、何度でも口を酸っぱくして言いますが、可能ならば権力は手放さないようにした方が良いですよ。私もベル神父を紹介する手前、孤児院には上手く行ってほしいのですが……あなたが居なくなった後、それがどうなるか責任は持てません。それが確実に上手く出来るのはあなただけなのです。それだけは肝に銘じておいてくださいね」
カナンは何度も念を押してきた。鳳はそれを頭では理解していたが、確証するわけにもいかず、曖昧な返事をかえすことしか出来なかった。