ヘルメス卿の居城を臨む丘の上に、一人の老人が佇んでいた。
頭頂が禿げ上がり、側頭部には真っ白なカリフラワーみたいな白髪がゴワゴワと生え揃っている。胸の辺りまで伸ばした長い白ひげが風が吹く度に靡いている。白いローブを着込み、サンダル履き、杖をついているのは、足腰が弱いからではなく、彼が魔法使いだからだった。
その丘は周囲の平原の中では一際高く、その稜線が国境のような役割を果たしていた。峠の上には大きな樫の一本木が生えており、老人はその太い幹にもたれ掛かるようにして、眼下に広がる城下町を見下ろしていた。
城の南側にある広場を起点として放射状に伸びた美しい街並みは、どこまでも広がる平原の中でオアシスのような彩りを添えていた。その中で暮らしている人々は、神人、人間を問わずみな笑顔が絶えず、幸福そうな笑い声が、この遠く離れた丘の上まで聞こえてきそうなほどだった。
その美しい城下町から伸びる街道は、丘を避けるように弧を描き、反対側まで続いている。その道を目で追って、ぐるりと稜線の反対側を見やれば、城と丘とを結ぶ延長線上にまた別の街が見えた。
日中でありながら夜と見間違うくらい、上空には煙突から漏れ出た黒煙が広がり、バラック小屋のトタン屋根は、どれもこれも酸性雨で赤茶色をしていた。道を覆う石畳はところどころ剥がれてしまっており、下から覗く地面の茶色と雑草の緑がまるでモザイクのような模様を描いていた。
行き交う人々の顔はみな真っ黒く煤けており、ボロボロの服を羽織り、中には素足で歩いている者もいた。人の往来は激しく、街道を進む人々は馬車を使っていたが、道路事情が最悪のせいか、街内に乗り入れることは嫌って、みんな自分の背丈ほどもありそうな大きな荷物を背負っていた。
とその時、積み荷を下ろしていた人足の一人が、盛大に荷物を地面に落としてしまった。ズシンという大きな音と共に砂埃が舞う。御者が駆けつけてきて、その男をムチで叩くと、彼は悲鳴を上げてからペコペコと謝った。そしてまた虚ろな瞳で巨大な荷物を背負うと、仲間たちの列に混じって街内へと歩いていった。
その顔は毛でビッシリと覆われ、前方に突き出した口からは牙が覗いている。頭の上では大きな獣の耳がぴょこぴょこと動いており、上半身裸の胸板は毛むくじゃらだった。獣人を従えた御者がムチを地面に叩きつけながら何かを怒鳴ると、彼らは怯えるような表情でその後に続いた。
老人はその光景を見ながら、やれやれと肩をすくめると、また綺麗な城下町の方へと眼差しを向けた。あの美しい街で暮らす人々は、この黒煙の上がる蒸気の街のことを何も知らない。あの街に獣人が入ることは禁じられているからだ。
嘆かわしいことである。
老人はため息を吐くと、くるりと方向転換し、みすぼらしくて猥雑な街の方へと足を向けた。一陣の風が舞い、穀倉地帯の麦穂を揺らす。風の匂いは鉄の香りがした。
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石炭が燃える黒煙と蒸気で、まだ昼だというのに街は薄暗かった。道行く人々はみんな目を細め、伏し目がちに歩いていた。街のあちこちで肩がぶつかったの何なのと喧嘩が起きる。たまに女が通りかかると卑猥な罵声が飛び交ったが、まるで耳がついていないかのように彼女は素通りした。
誰も彼もがこの街では、他人のことなど気にしない。もしする時があれば、それは相手の悪口を言うときくらいのものだろう。そこは辺境の村のくせに、大都会みたいに孤独な街だった。
そんな街の片隅にひっそりとその安宿はあった。素泊まり銭貨10枚……数百円程度の、閑古鳥がアクビするような場末の宿屋だ。たまに街に商隊が訪れるかなんかして、行き場を失ったはぐれものが転がり込む、穴蔵みたいな宿である。
もちろん、食事など出すはずもなく、チェックイン以外で宿主が近づくこともない、風が吹くたびグラグラと揺れる、ブルーシートハウスの方がまだマシであろう、そんな姉歯建築も真っ青な建物の戸口から、筋骨隆々な偉丈夫がひょっこりと現れた。
そのガチガチに固めた鉄板みたいに暑い胸板、女子供の腰回りくらいあるんじゃないかと思わせる二の腕、一度駆け出せば目にも留まらぬ速さで敵を屠るその足腰、STR23と聞いては誰もが逃げ出す、†ジャンヌ☆ダルク†である。
彼は安宿から一歩外に出ると、うんと背伸びをして汚い空気を胸いっぱい吸い込んでは、ゲホゲホと咳き込んだ。ついうっかり深呼吸なんかしてしまうとこうなることを思い出し、げんなりと項垂れる。
と、戸口からもう一人、鳳白が出てきて黙って彼の背中を擦った。ジャンヌはそんな鳳に向かって苦笑いすると、懐から給料袋を取り出し、
「ありがとう、白ちゃん。はい、これ今日のお小遣いよ」
「いつもすまないねえ……ジャンヌ。俺が役立たずなばっかりに……」
「気にしないで。こんなの今だけの話じゃない。私、きっとあなたなら、いつか前世みたいに、世界に名を轟かす大魔法使いになれるって信じてるわ」
「お世辞でもそんな風に言ってくれるのはジャンヌだけだよ。俺、嬉しいよ」
「ううん! お世辞なんかじゃない。女の勘は当たるのよ。男だけど」
キラキラとした瞳で鳳を見つめるジャンヌ。彼はそんなジャンヌの瞳を真剣な目で受け止めると、
「期待に応えられるように努力するよ。俺……ジャンヌが女だったら、きっと好きになってたと思う」
「いやん! 白ちゃんったら、そんな風に言ってくれるなんて、お世辞でも嬉しいわっ!!」
ジャンヌは顔を真っ赤にして腰をくねくねしている。彼はひとしきり照れた後、むんっ! っと気合を入れて、
「さあ、今日もジャンジャンバリバリ働いて、白ちゃんのためにお給料いっぱい稼いでくるわ。期待しててね」
「無理はしないでよ。俺は君が元気で帰ってきてくれたらそれでいいんだ。今日もジャンヌが好きなビーフ・ストロガノフ作って待ってるからさ」
「嬉しい! その言葉だけで元気が出るわ。今日は何でも成功しそうな気分よ。それじゃ行ってくるから、白ちゃんも訓練頑張ってね」
「ああ、今日こそステータスアップしてみせるさ。そっちも頑張って」
「あなたなら出来るわ~!」
ジャンヌは満面に笑みを浮かべて、腕をブンブンと振りながら往来を駆けていった。何度も何度も振り返る笑顔が眩しい。方や、鳳は手を振り返しながら、そんなジャンヌ後ろ姿をじーっと見守り続け……
角を曲がったジャンヌの姿が消えるや否や、
「ペーッ! ペッペッペッ!! 糞がっ、何が俺、君が女だったらきっと好きになってたと思う……だっ!! 気持ち悪いんじゃあああああ!!」
自分で言ったセリフでダメージを受けた鳳は、自分の首を締めながら地面をのたうち回った。そんな毎朝の光景を、宿屋の前で寝起きしていた浮浪者が能面みたいな無表情でじっと見ている。
鳳は背筋に走る悪寒を擦り付けるように、気の済むまでゴロゴロと地面を転がってから、はあはあ言いながら壁に手をつき立ち上がった。彼は手にした給料袋を逆さまにし、出てきた2枚の銀貨を手のひらで転がしながら、
「ちっ……たった2枚か。これじゃあ酒代にもならないぜ」
と、うそぶきながら宿屋の戸口を閉めると、さっきまで無表情だった浮浪者が何かを期待するような目つきで見上げているのをガン無視して、ジャンヌとは反対方向へ歩き始めた。
その萎びた背中は、まるで新橋のガード下辺りでゲロを吐いてるサラリーマンみたいにやさぐれていた。口をついて出てくる言葉は、ほとんどが相棒に対する悪口ばかりで、一言の感謝もなかったが、
「あいつばっか、毎日充実してて羨ましい」
本音は、ジャンヌに頼らないと生きていけない無能な自分を直視しないための、代償行為であることに彼は気づいていなかった……
……アイザックの城から逃げ出してから二か月が経過していた。
その間、いろんなことがあったのだが、とにもかくにも二人は城からほど近い、この黒煙に巻かれた街の安宿に棲息していた。
ジャンヌは冒険者として身を立てて……鳳はそんなジャンヌに養われながら、ステータスアップをするために職安……もとい、訓練所に通っていた。
彼には相変わらず職業が無く、そのせいでジャンヌみたいに冒険者になれなかったから、まずはオール10のステータスをどうにかしようと、街の訓練所に通ってステータス向上を目指していたのである。
城でも話題になったとおり、この世界では職業がない者は居ないらしい。考えてもみればオークやトロルのような魔族に職業なんて無いだろうから、彼が無職だったのも仕方ないことかも知れないが、このままでは人間社会で暮らしていくのに不都合が出る。
そのため、早めになんらかの職業につこうと努力していたのであるが、この2ヶ月間訓練所に通い続けても、彼のステータスは一向に上がる気配はなかった。
彼はため息を吐きながら大通りを進んで街の中心にやってきた。この街はほとんどの店が街の中心に集中しており、その近辺は人でごった返していた。
外からやってきた出稼ぎの労働者たちや、その男たちに品を作る客引きの売春婦、行商人が道端に商売道具を所狭しと並べ、それを相手に値切り交渉する人や、軽食を売り歩く売り子の声、スリや喧嘩もあちこちで発生していて、とにかく落ち着く暇がない。
通り沿いには酒場や食堂、商店がずらりと並び、武器屋の軒先には鈍い光を反射する剣や鎧が展示されている。そんな商店街の一角には、一際大きな建物があり、それが街で唯一の訓練所だった。中からはダミー人形を叩く木剣の音や、授業中の教官が黒板にチョークを叩きつける音などが聞こえてくる。
鳳はその訓練所の玄関を
「いらっしゃい……って、デジャネイロ飛鳥の旦那じゃありませんか! 今日はお早いお越しで」
「よう、店主。今日はこれで、いいとこを見繕ってくれないか」
揉み手をしながらフレンドリーに近づいてきた店主に向けて、鳳は銀貨を一枚弾いてよこした。店主はそれをお手玉するようにキャッチすると、
「いつもありがとうごぜーやす、旦那! 旦那のために、今日も上物を用意しておりやすぜ」
彼はゲヒゲヒと下卑た笑みを浮かべながら店の奥に引っ込むと、すぐに大事そうにビンを1つ抱えて帰ってきた。ビンの中には乳白色の錠剤のような結晶が詰め込まれており、白はその1つを取り出すと、おもむろに持っていた千代紙の上で、手にしたハンマーでガンガンと叩き割った。
そして彼は粉状になった結晶でラインを作ると、懐の中に忍ばせていたストロー(麦わら)を取り出して徐に鼻の穴に突っ込み……
スーッ……
っと、鼻から結晶の粉を吸い込んだ。
「お? お? お?」
それが鼻の粘膜を通して体内に吸収されると、視界がぼーっと狭まってきて、異様に神経が研ぎ澄まされてきた。見るものの輪郭が全てマジックインキで描かれたように太く見え、脳に直接刻まれているような錯覚を覚える。突然、虹のような光がチカチカと乱反射しはじめ、母の腕に抱かれているような幸福感が体中を支配した。
「あ、あ、あ! キラキラ、キラキラするよ! すっごくする! あ~……きもちぃんじゃぁ~……」
「へへへ、どうです旦那? なかなかのもんでしょ?」
「すっごい、すっごいよ、このクスリ! 今までのと全然違うっ!!」
「旦那の教えてくれた製法で、薬効成分だけを抽出した結晶ですぜ。いつもとキマり方が違うでげしょ」
そう言う店主の表情も恍惚にとろけ、口の端っこからよだれが垂れている。
実は今、二人は魔力が無い者はラリってしまうという事実を逆手に取って、MPポーションをキメているのだった。
アイザックの城でMPポーションを飲まされた時、鳳はそのせいでラリってしまい、危うく死にかけた。だが、後になって思い返してみれば、あの時の気分は寧ろ爽快で悪くないものだった。なんというか、キマっていたのだ。だから、もし可能なら、彼はもう一度やってみたいと密かに考えていた。
そして城から追い出されてこの街に来た彼は、MPポーションが普通に売られているのを見つけると、早速とばかりにそれを手に入れ試してみたのだが……いかんせん、その青汁みたいな味は罰ゲームといって過言じゃないほど酷い代物だったのだ。
こんなんじゃ、気持ちよくキマれない!
そう思った彼は行きつけの魔法具屋の店主に直談判すると、その材料から薬効だけを抽出する方法を編み出したのだ。
「旦那の編み出した、この高純度結晶……今この界隈じゃちょっとしたブームですぜ」
「そうだろそうだろ。MPポーションって飲みにくいと思ってたんだよね」
「効き目は確かですし、これが流通に乗れば、我々が天下を取るのも時間の問題でげす、ふひひひひ」
「うむうむ。そのためにももう少し純度を上げて、他社の追随を許さないように足場を固めなければ」
「純度が上がれば、もっと気持ちよくなれますし、やりがいありますしね」
「馬鹿、俺は純粋に使用者のためを思ってそう言ってるんだ……でも、その前に、もう一本いっとく?」
「へへへ、旦那も好きでげすね~」
「あー! きもちぃんじゃぁ~ キラキラ~キラキラ~」
「キラキラ~! キラキラ~!」
「キラキラ~! キラキラ~!」
「キラキラ~じゃなああああああーいっっ!!!」
ゴチンッ……っと、音がして、頭の中で本当にキラキラと火花が飛んだ。鳳は突然、脳天を思いっきり殴られ、脳みそをグラグラと揺さぶられた。
「うっぎゃああああー! いったい、いたあーいっ!!」
鳳が痛みと目眩で地面をのたうち回っていると、容赦なく追撃が飛んできた。みぞおちを蹴られてゴロゴロと転がり、涙目になりながら攻撃者を見上げると、そこには小さな少年が立っていた。
金髪の長い髪を無造作に束ねたお下げが背中で揺れている。オーバーオールのツナギの裾を安全靴に突っ込んでいる。身長は160にちょっと足りないくらい。半ズボンが似合いそうな年頃で、見るからに生意気そうな面構えをしていた。
少年は地面に這いつくばっている鳳を、まるで汚物でも見るような目つきで見下すと、
「ここんとこ訓練所で見かけないから、どこで油を売ってやがると思っていたら……まさかこんなところでヤクにおぼれてやがったとは」
「ヤクじゃない、MPポーションだ」
「俺はMPポーションをこんな使い方してるやつ初めて見たよっっ!!」
「そうだろそうだろ。俺はこれをアンナカと称して売り出そうと思ってる」
「まったく悪びれた様子がないとこが、逆に清々しいなっ!」
少年がキレのある突っ込みでバシバシと鳳の頭を叩いていると、見かねた店主が間に入ってきた。
「これこれ、少年。そうポンポン頭を叩くんじゃありません。旦那の脳には、俺たちには及びもつかない、夢がいっぱい詰まってるんだ。この金のなる木……もとい、全人類の救世主を、もっと丁重に……うひっ!?」
「黙れ三下」
どこから取り出したのか分からないピストルを鼻先に突きつけられると、店主は顔を引きつらせて手を上げた。少年がそんな店主を尚も睨みつけると、彼はおずおずと手を上げたまま後退していく。
少年はフンッと鼻を鳴らし、未だに地面で這いつくばってる鳳を乱暴に引っ張り起こすと、
「ほら立てっ、訓練所に行くぞ」
「え~……いやだよぉ~」
「登校拒否児かよ、おめえは。いいから立て。こんなこと知ったら、ジャンヌが泣くぞ」
鳳は少年にズルズルと引きずられながら店から外に連れ出された。店主がそんな彼のことをドナドナ言いながら見送っている。鳳を引きずる少年の力は強く、抵抗しても無駄のようだった。この世界はステータスが物を言うから、見た目では判断出来ないのだ。
この少年……ギヨームと出会ったのは二か月前。鳳とジャンヌが城から逃れて、この街にたどり着いたその日だった。以来、彼は冒険者稼業に忙しいジャンヌと共に、鳳の面倒を見てくれていた。
どうしてこうなったのか……物語は二か月前、二人が城から追い出された日に遡る。