ギヨームは村を監視していた木から飛び下りると、出来るだけ人に見つからないように姿勢を低くし、茂みから茂みを経由しながら村の外縁部まで忍び寄った。そこから先は遮蔽物のない休耕地が広がっており、カナンの診療所まで身を隠しながら近づくのは不可能のようだった。
ならば、暗闇に乗じるために夜を待つのもいいだろうが……彼は覚悟を決めると、結局そのまま村へと足を踏み入れた。そもそも村には明らかに人気が無く、誰かに見咎められる心配はないのだ。寧ろ、どうして誰も居ないのか、翼人に直接確かめるつもりでここに来たのだから、これ以上コソコソする必要はないだろう。
ギヨームは森から村へ姿を晒すと、まずはすぐ近くにあった民家へと近づいていった。案の定、家の中からは人の気配は感じられず、戸を叩いても返事はかえってこなかった。思い切って戸を引くと、田舎の民家であるからか戸締まりはされておらず、中を覗き込んでもそこには誰も居なかった。
そこから数十メートル行った先の隣の民家も同じようなもので、物置に土が付着した鍬が立てかけられている以外には、何も変わりはなかった。だが家の周りの畑を見れば、作物は植わっていなかったが、ちゃんと畝が立てられており、もしかすると土の中には種が撒かれているのかも知れなかった。するとこの家の者は、畑をほったらかしてどこへ行ってしまったのだろうか。
そこからカナンの診療所までには、まだ数軒の家があったが、どこも似たりよったりで、何となく人が居るように見えるが、実際には人っ子一人居ない状況が続いていた。それは村全体が神隠しにあったような感じというよりは、最初からそう見せかけるために、カモフラージュされているような印象であった。
考え得る限り、それをやったのは例の翼人たちだろうが、何故そんなことをする必要があるのか、その理由は見当もつかなかった。
段々畑の横を抜けて、村の中央にある小高い丘へと登っていく。ギヨームはカナンの診療所の前までやってくると、そこからさっきまで自分が隠れていた森を眺めてみた。彼にはハンモックのある位置が大体どの辺りか分かっていたが、やはりと言うべきか、そこから彼の荷物はまったく見えず、自分の隠蔽は完璧だったと確信出来た。
なのにあの時、あの女は彼の目を見た……ような気がした。それはただの偶然だったと思いたいが、万が一のことを考えて、彼は退路をしっかりと確認しておくことにした。あの木の下には最低限の荷物を詰めたリュックが隠してある。いざとなったら、それを引っ掴んで山から下りるのだ。
そして退路確認に暫く時間を割いた後、彼はいよいよ診療所の戸口に立った。ここから先は一発勝負だ。いきなり襲いかかってくるようなことはないだろうが、絶対に警戒は怠るな。彼はそう自分に言い聞かせながら、診療所の戸をノックした。
それはただの木戸にしか見えなかったが、思ったよりも硬い感触がして、少し甲高い音がした。なんだか奇妙な感覚を覚えつつ、もう一度ノックすると、中からパタパタと誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。
緊張が走り、彼は自分が間違ったことをしているんじゃないかと少し後悔しかけていた。本当はこんなことせず、さっさと山を下りるべきでは……だがその時にはもう、診療所の戸は開けられており、
「帰れ」
そしてパタンと閉じられた。
ギヨームはその場に立ち尽くした。
……というか、何が起きたのか考えが追いつかなかった。なんか、戸が開いてあの女が出てきたと思ったら、ゴキブリでも見るような嫌そうな目つきで彼のことを見下ろした後、一言いって戸を閉じてしまったような……
「って、おい! てめえ! 何いきなり閉じてんだよ!」
なんでいきなり締め出されているのだ。彼が頭にきてドンドンドン! っと戸を叩いていると、また中からドスドスと床を踏み鳴らす大きな音が近づいてきて、
「なんですか、あなたは! 人の家の戸を何度も何度も! 失礼な人ですね」
「門前払いしておいて、どっちが失礼だっ!」
「はあ? アポイントメントもない者を相手に面会拒否して何が悪いんですか。ここは私の家ですよ」
「はあ? アポイントって何言ってやがんだ、おまえ。いいから翼人に会わせろよ。俺はお前じゃなくてあいつに会いに来たんだよ!」
「カナン先生なら尚更ここを通すわけにはいきませんよ。どうしても会いたいのであれば、ちゃんと手順を踏んで出直してきなさい」
「なんだそりゃあ! もうここまで来ちまったんだから、そんな悠長なことやってられるか。いいからそこをどけっての!」
ギヨームが強引に中に入ろうとすると、女性はそれを阻止しようとして、二人は戸口を挟んで押し相撲みたいに揉み合い始めた。戸口がガタガタと音を立てて、こころなしか診療所全体が揺れるような感じがする。
きっとそれがうるさかったのだろう。二人が押し合いへし合いしていると、暫くして診療所の奥に続く暖簾をかき分けて、中からカナンが出てきた。
「何ですか、騒々しい……おや? お客さんですか?」
「いいえ違います、先生。いま追い返しますから」
アスタルテはすぐに否定したが、するとカナンは苦笑交じりに、
「そう何でもかんでも追い返さずとも構いませんよ。えーっと……確かあなたは……以前に一度、ここへ来たことがありましたね、ヘルメス卿と一緒に」
「あ、ああ……そうだよ」
「私に何か御用でしょうか……? まあ、立ち話もなんですので、どうぞお上がりください」
「いいのか?」
「ちっ……私は奥にいます」
カナンがギヨームを招き入れようとすると、アスタルテは露骨に舌打ちしてから、忙しそうに奥へと引っ込んでしまった。なんであんなに嫌われてるんだろうと思っていると、カナンが申し訳なさそうな表情で、
「ああ見えて、意外と仲間思いなのですよ。さ、どうぞ」
ギヨームは何を言われているのか理解した。以前、フェニックスの酒場で目の前の翼人の悪口を言っていた時のことだろう。するとカナンは既にギヨームが疑っていることを知っていることになる。彼はバツが悪くなって、中に入る前に一言謝罪をしておいた方が良いだろうかと考え……はっと我に返った。
そもそも自分は、ここへカナンと馴れ合いに来たわけじゃない。先程の彼女とのやり取りで気が抜けてしまい、当たり前のように勧めに従って家の中に上がろうとしていたが、無策で敵のホームに入るなんて危険過ぎるだろう。
彼は慌てて室内に入ろうとしていた足を止めて、すぐに飛び出せるように出口を背にしながら言った。
「いや、長居するつもりはないから、ここで構わない」
「そんな遠慮なさらずに。彼女のことなら気にしないでください」
「そんなんじゃない。ここでいいってだけの話だ」
「……別に、取って食ったりなんかしませんよ?」
こちらの心境を知ってか知らずか、カナンは飄々と言ってのける。
「………………」
ギヨームが彼を正面に見据えて黙りこくっていると、カナンはやがて諦めたように肩を竦めてから、手近にあった椅子を引っ張ってきて、
「では、失礼ですが私は座らせてもらいますよ? 羽なんて生えてるもんだから、立ちっぱなしだと段々腰が痛くなってきましてね……それで、今日はどうされたのですか、一人でこんなところまで」
ギヨームは深呼吸をすると、
「その前に……あの女はどうしてここにいるんだ。今はまだフェニックスの街にいるはずだろう」
「いえ、たまたまこちらへ帰って来たタイミングであなたが来ただけですよ。寧ろあなたの方こそ、どうしてここへ? まさか、彼女を追いかけて来たんじゃないですよね」
「……しらばっくれるな。こんなのはフェニックスに帰ればすぐに裏が取れる話だぞ」
「なるほどなるほど。それは困りましたねえ……」
カナンは、でも帰らなければわからないだろうとでも言いたげに涼しい顔をしている。ギヨームは不愉快そうに眉をひそめながら、
「ここへ来る途中、村の様子を見てきた。どうして人っ子一人見当たらないんだ。誰も居ないのに、何故か畑は丁寧に手入れされている。これは一体誰がやったんだ? おまえたちか?」
「そんなことないでしょう。村人たちはいますよ。畑が手入れされているのがその証拠です」
「嘘つけ! 俺は家の中に入ってまで調べてきたんだ。その結果、この村には暫く人が居た形跡がないと言っているんだよ」
これにはカナンも流石に憮然とした表情を浮かべてから、
「人の家に勝手に入るなんて、困った人ですね……もし誰か居たらどうするつもりだったんですか」
「だから居なかったんだよ。居ないから俺は次々と家の扉を開けて、中を調べてきたんだと言ってるんだ!」
するとカナンはため息交じりに、
「でもねえ、あなた……ギヨームさんでしたか。それでも村人たちはいますよ。ちゃんといます。私には見えます。それでもあなたが見えないのは、あなたがそれを見ようとしていないからじゃないですか?」
「なんだと? そうやってはぐらかそうとしても無駄だぞ。現に今、村に人は一人も居ないんだから」
「本当に……?」
「あのなあ。そんなのちょっとそこまで見に行けば、すぐわかることだろうが」
ギヨームが呆れたようにそう言い返す。しかし、カナンはじっと彼の顔を見つめながら、
「もしかして、居ないのはあなたの方なんじゃないですか?」
「な、なに!?」
「例えばあなた……ここへ来る時、どういう道を通りましたか? 案内も付けずに、一人で山に入りませんでしたか? 外は暗く、道なき道をあなたは進んだ……その時、道を間違えたりしませんでしたか?」
その言葉にギヨームが顔をしかめる。目の前の男が何を言っているのかわからない。頭がおかしくなってしまったのか、それともそんな振りをしているのだろうか。どちらにせよ、このまま話をはぐらかし続けられてはたまらない。もはや強硬手段も辞さないつもりで、ギヨームが表情を強張らせると、カナンはふっと表情を和らげてから、
「人の寝静まる深夜、月の明かりも届かないような暗闇を歩いている時、たまにこの世の理から離れて、どこかへ消えてしまう人がいると聞きます。我々はそれを神隠しにあったなどと表現しますが……あなた、つい最近、そんな誰にも見えないような暗闇の道を歩いていませんでしたか」
それなら身に覚えがあった。昨日、ここへ来るまでに通った山道が正にそうだった。彼は村人に見つからないよう、松明の明かりもつけずに道なき道を進んだ。
だが、それが何だという話である。ギヨームの見た目が少年だから、怪談でもしておけばビビるとでも思ったのだろうか。彼はイライラしながら、これ以上はぐらかすなと口を開きかけたが……
そんな彼を制するように、先にカナンがこんなことを言い出した。
「あなた、最近、空間の歪みを探そうとしましたよね。故意にせよ、無意識にせよ。この世の理の裏側を見ようとしていたんじゃないですか?」
「なっ……!?」
空間の歪み……その言葉にギヨームの心臓がドキリと高鳴った。それは図星と言うかなんと言うか……いやそもそも何故目の前の翼人の口から、その単語が出てくる事自体がわからなかった。
「この世界はわりと歪んでいて、色んな所にその綻びみたいなものがあるんですよ。意識してそれを見ることが出来るようになれば、その人にとってこの世は一つではなくなる。あなたはつい最近、そういった体験をしたのではないですか? 例えば……とある城の地下牢で光に触れたら、まるで別の空間へと転移していたとか……例えば、とある装置で人が分解されたり元に戻ったり、例えば、魔法の力で街から街へと瞬間移動したり……」
「お……まえ……は……何を、言って……」
「我々はそのようなスキマのことをワームホールと呼んでいるのですが、ヘルメス卿のお仲間であるあなたなら、タウンポータルと言った方がわかりやすいでしょうか。あなたはそのスキマを通って、知らず識らずのうちにこの空間に紛れ込んでしまったのですよ。そのせいで、ここはあなたの認識上ではカナンの村であってカナンの村でなくなってしまった」
ギヨームはショックのせいか、立ち眩みがして体勢を崩した。背にした玄関の戸がガタガタと音を立てた。今目の前にいる翼人のことが怪しいと思ってここまで来たが、怪しいどころの騒ぎではなかった。彼はこちらの手の内を知っている。この男は少なくとも、レオナルドや鳳クラスの放浪者か何かだ。
「おまえ……何者だ?」
ギヨームはよろける身体を腕で支えながら、いまいち焦点の合わない視線でカナンを見つめた。彼の柔和そうな顔がいくつにもブレて気持ちが悪い。机の上の蝋燭の炎が大きくなったり小さくなったり、明るくなったり暗くなったり。まるで催眠術にでも掛かっているかのようだ。思考が忙しすぎて頭が混乱しているのだろうか、どうしてこんなに立ち眩みがするのかと思った時、彼はようやく室内に充満する阿片の匂いに気がついた。
彼はそれに気づくと、慌てて脳内に特大ライフルを思い浮かべて、
「ほう……変わったことをしますね、あなた。今のは何ですか?」
「うるさいっ! そんなことより質問に答えろ。おまえは何者だ!?」
「一方的な人ですね。会話はキャッチボールと言うでしょう? 答えてくれてもいいでしょうに……」
カナンは不服そうに口をとがらせた。その態度に苛立ちながら、ギヨームはまだぼんやりとする頭で必死に考えながら続けた。
「いや、そもそも翼人とはなんだ? 新大陸の先住民だと言うのなら、何故北方に引き篭もっている。本当に、おまえらは最初からあそこにいたのか? 本当はどこから来たんだ。こっちの大陸の人間との関連性は? キリスト教で言う天使の姿に酷似しているのはどうしてなんだ? あまつさえ、そのキリスト教を布教するなんて、なんの冗談だ」
するとカナンはそんな一度に質問されても答えられないと言わんばかりの困った表情を浮かべながら、
「そう焦らずとも、質問には答えましょう。ただ……その前に少し考えてください。あなたは私たちがどこから来たのかとおっしゃいますが、あなたたち人類の方こそどこから来たのですか?」
「……なに?」
「ここはかつてあなたが生まれ落ちた地球ではない。この世界には何故か最初からP99があった。それを用意したのは? 1000年前ソフィアはこの地に降り立った。その彼女が神人を作る前に、既に魔族は存在していた。何故か? ここは宇宙のどこら辺にあるのでしょうか。物理法則は地球と同じなのでしょうか。あなたはそういったことを今まで考えたことがありますか?」
ギヨームはその問いに答えられなかった。いや、きっとこの世界に住む人の誰一人として、その疑問に答えることは出来なかっただろう。それは、この世界がいかにして作られたのかと聞いているようなものではないか。
カナンは何故、そんなことを聞くのだろうか……? 彼はその理由を知っているとでも言うのだろうか? その存在のあやふやさ、何故か鳳に付きまとっている怪しさ、そういったことも含めて、ギヨームは新たに沸いてきた疑問に戸惑いを感じていた。