ラストスタリオン   作:水月一人

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神弓

「私は、かの者に年老いた蛇と呼ばれたものです」

 

 それを聞いた瞬間、ギヨームはほぼ無意識に動いていた。これまでに経験したことのないスピードで、いつの間にか自分の手には魔法の拳銃が握られており、腰だめに構えたそれを高速で全弾撃ち尽くしていた。

 

 物凄く集中すると、時折人は物が止まって見えることがある。例えば交通事故の瞬間だとか、勝利を決める試合の最中だとか、ギヨームも今、世界が止まっているかのようにスローモーションで見えていた。

 

 その射撃が余りも速く、発射音はたった一発にしか聞こえなかったが、コルトM1877サンダラーの銃口からは6発の弾丸が発射されていた。それは正確に、真っ直ぐに、カナンに向かって飛んでいた。

 

 いける……彼は勝利を確信した。それは所詮豆鉄砲だから、即死はしないだろう。しかし、一瞬でも足止め出来れば、少なくともここから逃げることは出来るはず。ギヨームは拳銃を投げ捨てるように消し去ると、背中を向けて診療所の中から一目散に逃げ出そうとした。

 

 しかし、次の瞬間、彼は信じられないものを見た。

 

 たった今、カナンに向かって真っ直ぐに飛んでいった秒速235mの弾丸が、あろうことか標的の目の前で曲った(・・・)のだ。それは何らかの力によって曲げられたというよりも、最初からカーブが掛かっていたかのように自然な軌道を描き、カナンの身体を避けるように通過した後、まるでそうなるのが当然であるかのように、元の軌道へと舞い戻り、彼の背後の壁へ突き刺さった。

 

 背を向けようとしていたギヨームは、あり得ない光景を目の当たりにして固まった。カナンはそんなギヨームに向かってにこやかな笑みを浮かべると、

 

「あなたが今『見』ようと努力している空間の歪みとは、つまりこういうことなのです。この世界はどこまでも広がる余剰次元の宇宙の一部分でしかありません。我々は荒野の中に無数に存在する井戸の一つに住む蛙のようなもので、井戸の外に荒野が広がっていることに気づかないのです。ですが、その荒野にはエネルギーが溢れており、我々は第5粒子によってそれを感知できる。そこにエネルギーがあれば例えそれが三次元以上の空間であっても曲がるのです。これを利用して空間を曲げ、あたかも瞬間移動したように見せかけるのがいわゆるタウンポータルの原理ですが……って、聞いてます? ああ、もう、せっかく説明してあげているというのに……」

 

 ギヨームは得意げに語るカナンに背を向けて、今度こそ逃げ出した。カナンは、まるで崖を飛び降りるかのように必死になって丘を駆け下りていくギヨームの背中を見送りながら、やれやれと肩を竦めた。

 

「ヤバい……ヤバい……ヤバい……」

 

 突然現れた怪しい連中を探りに来たのだから、ある意味正解だったのは事実である。だが、手を出したものがここまでヤバいとは思いもよらなかった。ギヨームはたった一人で乗り込んできた己の浅はかさを後悔していた。

 

 創世記、アダムの肋骨から作り出された最古の女性イヴは、年老いた蛇に唆されて禁断の知恵の実を食べた。その罪により楽園を追い出された人類は、その後も度々その蛇によって苦難を強いられた。神に名指しで許さないと宣言されたその蛇こそが、6対12枚の羽を持つ元最高位の天使長だったものだ。

 

 もちろん、ブラフの可能性は否定できない。何しろ、こんなのにビビるのなんて、聖書の知識がある放浪者しかいない。カナンがそれを知っていて騙している可能性はある。

 

 だが、あの時、ギヨームの放った弾丸がすり抜けた現象は本物だった。手を出しちゃいけない相手に手を出したのは確かなのだ。

 

 逃げよう……なんとしてもここから逃げて、鳳やレオナルドにこのことを伝えるのだ。正直、連中が何をしようとしているのか分からないし、あんなのから逃げ切れる気もしなかったが、とにかくその存在だけでも伝えなくては……

 

 ギヨームは村を駆け抜け、一目散に周縁の森へと向かった。そこには予め荷物を減らしておいたリュックがある。それを回収してからなんとか山を下りるのだ。山を下りてもこの辺には村もないが、街道まで出れば誰かしらが通りかかるだろう。それまで足を止めるな。振り返るな。このまままっすぐ突き進むのだ。

 

 彼は酸欠に喘ぐ脳で、爆音を鳴らす心臓の痛みを必死に堪えながら、ようやく目の前に迫った森の中へと飛び込んだ。

 

 すると、突然、周囲の光景が暗転し、バランスを崩したと思ったら、ゴロゴロゴロゴロ……っと彼は軋む木の床の上を転がって、ズシンッ! っと、漆喰の壁にぶつかってから止まった。その衝撃で、家全体がグラグラと揺れるような感覚がする。天井からは砂のような埃がパラパラと落ちてくるのが見えた。ギヨームはそれを見ながら、暫し呆然としていた。

 

 今、彼は確かに森の中へと駆け込んだはずだった。なのに何故、天井が見える? 明るい場所から暗い場所へ入ると、一瞬目が見にくくなることはある。そんな感覚がしたかと思ったら、いきなり森がどこかの室内に繋がっていた。まあいい、ここは異世界だ。迷宮なんてものもあるし、今更驚いたりしない。だが、ここはどこだ? 自分はどこへ飛ばされてきた?

 

「空間の歪みを捕らえられていないから、ここから出られないのですよ。入ってきた時の感覚を思い出すのです。案外、また夜を待つのもいいかも知れませんね。目を開けていると、どうしても視覚に釣られてしまいますから」

「うわ……うわ……うわあああああああーーーーっっっ!!!」

 

 ギヨームは叫び声を上げた。床に転がっている彼の頭上から、ひょっこりとカナンが顔を出した。仰天して周囲を見渡せば、そこはあの診療所の中だった。視線の先には開け放たれたままの玄関の戸が見える。彼はさっきそこから飛び出していったはずなのに、あろうことか、今度はそこから中に飛び込んでいた。

 

 全く、自分の意思とは無関係に。

 

 ショックで子供みたいな甲高い叫び声を上げていると、それが五月蝿かったのか、診療所の奥に続く暖簾をかき分けて、迷惑そうにアスタルテが顔を覗かせた。彼女は床に転がっているギヨームを見下ろすと忌々しそうに、

 

「こいつ、まだ居たんですか? うるさいからさっさと帰してくださいよ」

「彼はまだ空間の歪みが認知出来ないらしく、出ていったつもりが戻ってきてしまったようです」

「そんなの、あなたが連れ出してあげればいいだけでしょう?」

「それでも構いませんが……アスタルテ。せっかくの機会ですし、少し指導してあげてくれませんか?」

「何故、私が……」

「彼がここへ来たのは、元はと言えば、あなたが挑発したからでしょう?」

「うっ……」

「彼には言葉で説明するより、実地で訓練した方がいいと思うのです。あなた、そういうの得意でしたよね?」

 

 アスタルテは憮然とした表情でカナンのことを見ていたが、暫くするとため息を吐いて、

 

「はぁ~……私は先生と違ってスパルタですよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ギヨームの背筋にゾクリとした悪寒が走った。

 

 根拠はないのだか、このままここにいたらマズイと判断した彼が咄嗟に身を捩って飛び上がると……次の瞬間、たった今彼が寝転がっていた地面に彼女の腕が突き刺さっていた。まるで鋭利な刃物のように、手刀が床板をぶち抜いて。予備動作も、彼女の移動も、腕の動きも何もかも全く見えなかった。ただ気がついたら、最初からそこにあったかのように、彼女の腕が床に突き刺さっていた。

 

「ちっ……勘の鋭いやつですね」

 

 アスタルテは露骨に舌打ちすると、ギヨームを捕らえる視線を動かさずに腕を引き抜いた。もしも彼がそのままそこにいたら、確実に致命打を与えられていたであろう深さだった。

 

 また、ゾクゾクとした悪寒が走って、彼は飛び退くように開け放たれた玄関から外へ飛び出した。肩を戸口にぶつけて強烈な痛みが走ったが、そんなことを気にしている余裕は無かった。アスタルテの第二撃が、またも見えない動作でギヨームに肉薄していたのだ。

 

「な、なんだこれ!?何をやった!?」

 

 ギヨームが叫ぶ。その疑問には答えず、翼人たちは自分勝手に会話を続けている。

 

「ああ、もう、優しくしろとは言いませんが、絶対に殺しちゃ駄目ですよ?」

「分かってますって」

「本当に分かってるんでしょうねえ?」

「腕の一本や二本もぎ取る程度で許してあげますよ」

「何も分かってないじゃないですか……」

 

 翼人たちが不穏な会話をしている間に、ギヨームはまた一目散に村へと駆け出した。さっきは森を抜けられなかったが、もう一度やればなんとかなるかも知れない。しかし、彼のそんな淡い期待は、すぐに脆くも潰え去った。

 

「ぐっ……!?」

 

 診療所を飛び出し、丘を駆け下りて畑に差し掛かろうとした時だった。一瞬だけ、目の前で何かが通り過ぎたと思ったら、腹部にドッとした強烈な痛みが走って、彼はその場に崩れ落ちた。肺の酸素が全部吐き出されて、酸欠の脳が思考を奪われる。

 

 何が起きたのかと思えば、背後に引き剥がしたはずのアスタルテが、何故か、彼の前方から飛び出してきて、その拳を彼の腹へと突き立てていた。

 

 胃液が喉までこみ上げてきて、堪らずギヨームは吐瀉した。

 

 すると、たった今目の前に立っていたはずのアスタルテが何故か背後に回り込んでいて、今度はそんな彼の背中を蹴っ飛ばし、彼はそのまま自分の吐瀉物の中に倒れ込んだ。

 

「汚い野郎ですね。ゲロがかかってたら死んでましたよ、あなた」

 

 自分のゲロにまみれながら分けがわからず呆然としていると、今度は彼女が蹴る動作をしたかと思ったら、何故か地面に転がっているギヨームの下から強烈な蹴りの振動が伝わってきて、暴力的なその衝撃に彼はそのまま空中に蹴り上げられた。

 

 理解が追いつかず、無防備になった彼の顔面にアスタルテの拳が突き刺さる。すると、右の頬を殴られたと思ったのとほぼ同時に、何故か左の頬にも衝撃が走り、左右から圧迫するような殴打を食らった彼の脳みそが振動して、目眩がした。

 

「ぐぎっ!?」

 

 意識が持っていかれそうな衝撃を必死に堪え、フラフラになりながらなんとか体勢を整えようとすると、アスタルテは軽く一回転しながら回し蹴りを放った。その蹴りがグロッキー状態のギヨームに到達すると、どう見ても緩慢な動きだったくせにあり得ない衝撃が走り、彼は信じられないスピードで吹き飛ばされ……何もない空中にぶつかって(・・・・・)そのまま地面に叩きつけられた。

 

「ほらほら、死ぬ気で避けないと死にますよ」

 

 ギヨームは唾液に混じった血を吐き出し立ち上がると、それこそ死ぬ気になってアスタルテから距離を取った。ところが10メートルは離したと思ったその距離を、まるでだまし絵を見ているかのように、彼女はたった一歩で詰め寄ると、驚愕しているギヨームの顎をアッパーカットで撃ち抜いた。脳が振動し、またフラフラになりながら彼女から距離を取る……

 

「弱いですね。さっき避けてくれちゃったのはマグレですか?」

 

 あり得ない……あり得ないのだ。彼女の動きは緩慢そのもので、全部ちゃんと目で追うことが出来た。ところが、ほんの一瞬、緩急をつけるかのように何かテンポのようなものがずれて……ずれたかと思うともう目の前にいる。女性なのに、見た目も軽そうなのに、放たれるパンチもキックも一撃の重みが異常で、時には複数回分の衝撃が同時に襲ってくる。

 

 明らかに何か魔法的なことをしている。だが、それが分かったところで何が起きているか分からなければ対処のしようがない。

 

「見るんじゃなくて、感じるんですよ」

 

 ギヨームが絶望感に打ち震えていると、すぐ横からカナンの声が聞こえてきた。まったく気配を感じさせないその接近にギヨームは驚き、バッタみたいにパッと飛び退いた。カナンは柔和な笑みを浮かべながら、

 

「空間を『見る』という表現はあくまでイメージです。実際には五感をフルに使って、直感的に感じるんですよ。ダ・ヴィンチとの対話で、あなたもある程度知っているでしょうが、3次元空間に縛られた人間に4次元空間は見えません。見えないものを見ようとしても何の意味もないでしょう?

 

 ですが安心しなさい。あなたは既にその感覚を持っているはずです。あなたは頭の中に思い浮かべた幻想を、高次元から引き出す事ができる。その拳銃を使って1キロ以上先の標的に、ピンポイントに当てることが出来る。その気になれば、地平線の向こう側にいる見えない標的すら狙うことが出来る。

 

 普通、そんなことは不可能ですよ。なのに、あなたは殆ど意識すること無く、直感的にそれが出来る。この空間認識能力こそが、高次元を『見る』ことの正体なんですよ」

 

「あなたどっちの味方なんですか……?」

 

 ギヨームにヒントを与えるカナンに対し、アスタルテが不満を漏らす。彼女はその話を聞いて何かを掴みかけているギヨームに向けて、何かを気づかれる前に追撃をお見舞いした。

 

 アスタルテの姿がまた奇妙に揺れ動き、手刀を振り上げながら、あり得ない経路を通ってギヨームに迫ってくる。

 

 ギヨームは五感をフル稼働し『見るのではなく感じる』ということを意識しながら、敢えてそれを『見』た。

 

 瞬間……ドドドドッと、獣の群れにでも轢き逃げされたかのような衝撃が走り、ギヨームの身体の至るところに打撃が突き刺さった。彼はその衝撃によって重力を失い、まるで紙切れのように吹き飛んでいった。

 

 10メートルは飛ばされたであろう彼が、背中からドッと音を立てて地面に落ちる。

 

 アスタルテは今までで一番抵抗もなく飛んでいった彼を苦虫を噛み潰したような目で見送りながら、血に染まった自分の手刀を見て忌々しそうに言った。

 

「先生、これ以上は危険です。彼には才能がないんですよ」

 

 するとカナンはニヤリと笑い、

 

「でも、彼はまだ諦めてない様子ですよ」

 

 アスタルテがその声にハッと振り返ると、さっき吹き飛んでいったギヨームが、膝をつき、手をつきながら立ち上がろうとしていた。彼は膝をガクガクさせながら立ち上がると、額からポタポタと滴り落ちる血を腕で拭いながら、もう片方の手に虚空から光の礫を集めていた。

 

 それが拳銃の形を取ろうとした時、彼女はなんとなく今日一番の殺気のようなものを感じて、本能のままに後ろに飛び退いた。

 

 その瞬間、パンっと乾いた銃声が聞こえて、彼女の頬を掠めて弾丸が通り過ぎていった。

 

 彼女には、ギヨームが撃った瞬間も、そしてその弾丸がどういう経路を通ってやって来たのかも分からなかった。

 

 まさかと思い、彼女が空間の歪みを意識すると、またパンっと銃声が聞こえ……あろうことかその弾は、彼女の予想通り、空間の歪みを通ってあり得ない方向から飛んできた。

 

 ドンッ! っと衝撃が走り、彼女の肩に弾丸が食い込む。考えに気を取られて対応が遅れた。彼女は苦痛に顔を歪め、悔しそうに舌打ちすると、今まさに三発目の引き金を引こうとしているギヨームの銃撃から逃れようと身を翻した。

 

 パン! パン! パン! っと小気味よく連続した銃声が村中に響き渡る。ギヨームは今までに経験したことのない集中力と高揚感に包まれながら、逃げ惑うアスタルテの動きを追った。それは今まで何度も驚かされた、あり得ない動きであったが、彼にはもう彼女が不思議な経路を辿っているようには見えなくなっていた。

 

「見える……見えるぞ……」

 

 空間の歪みを『見』るとはこういうことだったのか……

 

 ギヨームには今、この世界にポコポコと泡のように現れては消えていく空間の歪みが感じられていた。それはこの3次元空間を歪め、通常ではあり得ない方法で2つの空間を繋げていた。だがそれはランダムで、自分の思い通りには繋げられない。

 

 ところが、その原理も理屈もさっぱり分からなかったが、彼女はこの空間の歪みを自在に操り、トリッキーな動きを実現していたのだ。それが分からなかった時は、ギヨームは一方的に狩られる側だったが、しかし一度分かってしまえばなんてことはない。彼女が空感の歪みを作ろうとした時、先回りして銃撃してしまえば、彼女は一生彼には近づけないだろう。

 

「ちっ……厄介ですね」

 

 アスタルテは必死に頭を回転させながら逃げ回っていた。どうやらあの人間は、本当に空間の歪みを検出しているらしい。今まで通りそれを使えば、自ら弾丸に向かって飛び込んでいくようなものである。だから彼女はダミーの空感の歪みを作り、そこをギヨームに狙わせようと考えた。

 

 しかし、考えることはどちらも同じだった。ギヨームは両手に二丁拳銃を構えると、片方で彼女の空間の歪みを牽制しつつ、もう片方で通常空間を通って彼女を狙った。アドバンテージを封じられたアスタルテが舌打ちしつつ、ダミーを大量にばらまいていく。

 

 ギヨームはその全てに牽制の銃弾を撃ちながら、反撃の機会をじっと待っていた。空間の歪みは彼女が作り出しているものだけではない。たまにだが、自然に空間に穴が空くこともあり、それが彼女と射線を繋ぐのを待っていたのだ。

 

「見えた!」

 

 果たして、それは間もなく訪れた。彼女が空間の歪みを大量に作り出したせいで、自然とその歪みが発生しやすくもなっていたのだろう。ギヨームはそれを見つけると、彼女の攻撃に対処しながら、針の穴を通すような正確さで、一瞬だけ開いたその空間の歪みに弾を撃ち込んだ。

 

「きゃあぁぁーーっっ!!」

 

 次の瞬間、予期せぬ方向から銃撃を受けたアスタルテの足から血しぶきが上がった。彼女がその痛みに足をもつれさせると、それを待っていたかのように、次々と銃撃が襲いかかってきた。

 

 彼女はそれを空間の歪みを使って回避していたが、嵩にかかった攻撃を前に、間もなく対処しきれなくなった。

 

 バシバシバシッ! っと、嫌な音が身体の中から響いてきて、その身体のあちこちに激痛が走った。その強烈な痛みと、まさか格下の相手にやられたという事実に、彼女のプライドが刺激され、まるで瞬間湯沸かし器のように、彼女の顔が真っ赤に染まった。

 

光よ(ルクスシット)っっ!!」

 

 その瞬間、怒りに駆られたアスタルテの理性が一瞬だけ消し飛んだ。彼女は銃撃を受けるにも構わずに、血に飢えた獣のように立ち上がると、天に向けて手を翳し、まるで弓を構えるかのように腕を引き絞った。

 

「いけないっ!!」

 

 それを見ていたカナンが叫び声を上げる。だが、その声はもうアスタルテには届かなかった。

 

 その時、ギヨームは見た、アスタルテの背中に4枚の翼が生えているのを。それは先の方が白く斑になった、黒い翼だった。

 

「今いまし、昔いませる、全能なる神よ。その栄光と誉れと力によって、我が道を照らしたまえ。7つの封印より解かれし真実の炎。災厄を焼き尽くす鏑矢となれ。神弓(シェキナー)!」

 

 いつの間にか彼女の手に握られていた光の弓から、一本の光る矢が、天に向けて真っ直ぐに放たれた。

 

 それは間もなく花火のように虚空に消えてしまったが、ギヨームの目には、それが空間の歪みに入っていくのがはっきりと『見』えていた。

 

 どこへ行く? いや、どこから来る? あれがどんな攻撃かは分からないが、彼女の狙いは間違いなく自分だ。

 

 ギヨームはそう考えると、矢の行き先を見逃すまいと五感を研ぎ澄ませてそれを『見』ようとした。

 

 空間の歪みはポコポコと沸き立つ泡のようにあちこちで発生しては消えていく。矢はそのうちの一つを通って、こっちに飛んでくるはずだ。カナンはその空間認識力がギヨームにはあると言っていた。そしてついさっきまで、彼はそれを利用してアスタルテを追い詰めていた。

 

 だから『見』える、自分には出来るはずだ。彼はそう信じて、直感を働かせた。

 

 そして彼は見つけた。それがどこからやって来るかを、はっきりと感じ取ることが出来た。だがそれは到底考えられない場所だった。

 

 矢は間違いなくやって来る。自分の内から、外へ向かって……

 

「そんな軌道を描く矢があってたまるかっ!」

 

 その理不尽な軌道に焦りを感じつつも彼は、その時、どこか他人事のように冷静に、レオナルドの言葉を思い出していた。

 

 4次元の方向というのは、その理不尽な方向なのだ。

 

 ザシュッ!

 

 ……っと、矢が突き刺さる音がして、彼の身体のあちこちから噴水のように血が吹き出した。

 

 大量の血を吐きだして、ギヨームがその場に崩れ落ちる。

 

「ああ! なんてことだ!」

 

 カナンが悲鳴を上げて、そんな彼の元へと駆け寄ってきた。

 

「アスタルテ! いくらなんでもやりすぎですよ! 人間がこんな力を受けてしまったら、死んでしまうに決まってるじゃないですか!!」

「すみません。つい、カッとなって」

「つい、じゃありませんよ……ああ、どうするんです? 彼はヘルメス卿の友達ですよ。きっと烈火のごとく怒り出します。今はまだ、下手に彼を刺激したくないというのに……ああ、本当に、どうしたらいいんだ」

「先生が作り直せばいいじゃないですか」

「そんなことして、バレたら一巻の終わりですよ……まいったなあ」

 

 しかし、カナンの心配は杞憂だった。

 

「……先生」

 

 その時、アスタルテはありえないものを見た。

 

 カナンの背後に、全身血だらけで真っ赤に染まった男が立っていた。

 

 彼は獣のような鋭い眼光で、彼女をじっと睨みつけていた。

 

 アスタルテはその目を見て、初めてカナンに出会ったときのような凄みを感じていた。

 

「立ち上がらないで! いま介抱しますからっ!!」

 

 カナンが仰天しながら、立ち尽くすギヨームを支えようと歩み寄る。しかし、彼はそんな翼人のことを邪魔だと言わんばかりにドンと突き飛ばすと、

 

「どけ。まだ終わってねえよ」

 

 それが思ったよりも強い力で、カナンは思わず尻もちをついてしまった。アスタルテはそれを見て、カナンがあんなに取り乱しているというのに、まだやる気である彼のことを初めて怖いと感じた。

 

「ありがとうよ……お前のお陰でよくわかったよ。四次元の方向ってやつがよ……俺のクオリアは、なんてことはない……ずっとここにあったんだな……ああ、そうだ。当たり前ってやつだったんだよ……」

 

 ギヨームの手に、どこからともなく光の礫が集まってくる。それはどんどんと密度を増していき、やがて一挺の巨大なライフルの形を取った。

 

 彼は自分よりも背の高いそのライフルを両手で握りしめると、まるで重力を感じさせない動作でその銃口をアスタルテに向けてピタリと構えた。

 

 ドンッ!

 

 本当に、拳銃の引き金を引くような気安さで、それは間もなく火を噴いた。至近距離でその音を聞いてしまったカナンの耳がキンキンと鳴る。彼の耳が聞こえなくなる最後の瞬間に、パシャっという音が聞こえたと思ったら、アスタルテの上半身が吹き飛んで無くなっており、残った下半身が血の噴水を上げていた。

 

 ギヨームは自分の銃撃の反動で吹っ飛びながらそれを見ていたが、間もなくその視界はかき消えるように真っ白になっていった。どうやら血を失いすぎて、視力が働かなくなってしまったようだった。

 

 ドンッと衝撃が走って背中から地面に落っこちる。ずっと悩んでいた現代魔法のヒントも得られて、これからだと言うのに、もう立ち上がる気力すらなくなっていた。

 

 どうして彼らと戦うことになってしまったのか分からないが、ともあれどうやら自分は勝ったらしい。まだカナンが残っているが、仲間をやられてタダで済むとは思わないので、今すぐここから逃げなければとも思ったが、もうどうにもこうにも体が動かなくて、彼はどうにでもしろと投げやりな気になっていた。

 

 しかし、そんな心配などする必要なんてなかった。

 

「ああ、すぐに輸血しなくては。だから立ち上がるなって言ったのに……それにしても、アスタルテ。指導するつもりが返り討ちとは、情けない人ですね」

「うるさいですね。可愛げがないこの男が悪いんですよ。まったく、とんでもないものを持ってましたね……私が人間だったら死んでましたよ」

 

 ギヨームは、薄れゆく意識の中で、アスタルテの悔しそうな声を聞いていた。たった今、上半身が吹き飛んで絶命したはずなのに……なんで彼女の声が聞こえるんだ? その理由はたった今、彼女自身が言っていた。

 

「……やっぱお前ら……人間じゃねえじゃん」

 

 ギヨームはそう呟くと、間もなく暗闇の中に落ちていった。

 


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