ラストスタリオン   作:水月一人

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そろそろ限界が近いようだ

 墨をぶちまけたような真っ黒い雨が降っていた。キィキィとガラスを爪で引っ掻くような不快な音が頭の中に反響して、彼の心をかき乱した。歯を食いしばってそれに耐えようとしていたら、ジャリジャリと砂を噛むような感触がして、口の中に血の味が広がっていった。

 

 今目の前には子供が画用紙に描いたみたいな12階建てのビルがあって、さっきから彼はそこへ登ろうとしているのだが、真っ黒なシルエットのどこにも階段が見つからなくて、どうやったって登れなかった。

 

 そうこうしている内に屋上から何かが投げ出されるように飛び出てきて、地面に落下してぐしゃりと音を立てた。恐る恐る近づけば、それは四肢があべこべの方向へ折れ曲がった幼馴染の成れの果てだった。

 

 彼女はそこから何度も落ちた、ぐしゃりぐしゃりと音を立てて。そうして彼女の死体が積み上がっていく。手足がもげたり、頭が半分吹き飛んだり、どれ一つとして同じものは無かった。

 

 彼が呆然とその積み上がる死体を見つめていると、やがてそれは一塊の混沌となって渦を巻くように彼を闇に包み込んだ。闇は光を通さず、彼は何も見えないはずなのに、彼女の気配だけがまるで輪郭を持っているかのように、手にとるようにわかるのだ。

 

 そして闇は一斉に目を開いた。幼馴染の顔をして。そして彼に囁きかけるのだ。殺して、殺してと……それは今彼の目の前で苦しみ悶える幼馴染に止めを刺せということではなく、憎いアイツを殺せという恨みの言葉だった。

 

 彼の前には今核兵器のスイッチがあって、それを押せば全てが終わるのだが、彼はそれを押すことが出来ずに、いつまでもいつまでも煩悶していた。やがてまた墨をぶちまけたような雨が降り、彼はどうやったって見つからない上り階段を探して走り回った。幼馴染の死体が降り注ぐ闇の中で。

 

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 ドンッ!!

 

 ……っと強い衝撃が走って、鳳はカッと目を見開いた。散らかり放題の自室の埃が舞い上がり、カーテンの隙間から漏れる光の帯を浮き立たせていた。ハァハァと自分の荒い呼吸音が耳に届いて、まるで全力疾走してきたかのようにバクバクと心臓が鳴っていた。耳たぶが焼けそうなくらい熱く、額から流れる汗が目に染みた。

 

 腕で拭うと、まるで風呂上がりみたいに大量の汗が滴り落ちてきた。どうやら昨日も、浴びるように酒を飲んで、そのまま寝落ちしてしまったようだった。手の届く範囲に何本ものワインの空き瓶が転がっており、鳳はソファに凭れ掛かるように眠っていた。胸がヒリヒリと痛むのは、きっと寝ぼけて自分で叩いたからだ。どうもさっきは、その衝撃で起こされたらしい。

 

 未だふらつく体を起こし、よじ登るようにして、どうにかこうにかソファに腰掛けた。二日酔いと尿意のせいで、おそらく殆ど睡眠とは呼べないものしか取れなかったのだろう、体は疲れ切っていて、頭はどんよりと重かった。

 

 それでも取り敢えず、今日も朝日は昇ってくれたようである。ならば早く庁舎にいかねばならなかった。まだ積み残した仕事が残っている。あれもこれもやらなくては……

 

 こんなに辛いのに、どうしても仕事のことばかり考えてしまうのは、仕事をしている間は考えないで済むからだろう。そんな自虐的なことを考えつつ、体を拭いて服を着替えようとした時だった。

 

 コンコンとドアがノックされる音がして、

 

「勇者様? 勇者様? 起きてらっしゃいますか? 今、中からすごい音がしましたけど、大丈夫ですか……?」

 

 アリスの声が聞こえてきた。どうやら彼を起こしに来たらしい。ドア越しなのは、彼女が部屋に入られないように、最近は鍵を掛けているからだった。アリスには悪いが、寝起きに彼女の顔が飛び込んでくると、安心するより寧ろドキリとするのだ。だからもう起こしに来なくていいと言っているのだが、今日も鳳が起きるまでドアの向こうで待っていたらしい。

 

 自分はそこまで傅かれるような人間ではない。鳳は少しイライラしながら、

 

「何でも無い! ちょっと寝起きが悪かっただけだ。それより、俺のことはもう起こしに来なくていいって言っただろう!?」

「え? ……でも」

「言い訳はいい! 用意できたらすぐ執務室に向かうから、先に行っててくれ」

「は、はい! 申し訳ありませんでした」

 

 アリスの逃げるような足音がパタパタと遠ざかっていく。鳳は少し罪悪感を感じながらそれを聞いた後、はぁ~……っとため息を漏らした。

 

 あんな怒鳴りつけるような言い方をする必要なんてなかったはずだ。体に不調が起きてから、何かに付けてイライラする事が多くなった。このままでは、いつか彼女に取り返しのつかないことをしてしまいそうだったから、鳳は敢えて彼女を遠ざけるような態度を取っていた。

 

 彼女は鳳に対する負い目があるから、身を粉にして働きすぎる。だからあれくらい強く言わないと中々分かってくれないのだ。彼は自分に言い聞かせるようにそう言い訳すると、取り敢えず早く庁舎へ行かなければと、いつも身につけている懐中時計を取り出した。

 

 時計は午後を指していた。

 

 彼女はいつからドアの向こうに立っていたのだろうか……? あんな言い方するんじゃなかったと後悔しつつ、鳳は慌てて服を着替えると、取るものも取り敢えずすぐ隣の庁舎へと走っていった。

 

 登庁すると、当たり前だが執務室では神人二人がとっくに働いていた。鳳が息せき切って入っていくと、彼らは苦笑いしながら、

 

「重役出勤とは珍しいですね、ヘルメス卿? お疲れのご様子ですが、大丈夫ですか」

「遅れてすまない。悪かったよ」

 

 謝りながら執務机の上を見れば、昨日頼んでおいた仕事が全部、とっくに終えられていた。あとは鳳の決済待ちであり、二人は彼が来るまで手持ち無沙汰で待っていてくれたようである。鳳が申し訳ないと思いつつ、すぐに取り掛かろうとすると、

 

「中々いらっしゃらないのでアリスに迎えに行かせたのですが、それにしても遅かったですね。昨日はいつごろ就寝なされたんですか?」

「だから悪かったって言ってるだろう!?」

 

 アリスを向かわせたのは彼ららしい。それを聞いた瞬間、鳳は頭に血が昇っていた。自分が間違いが起こらないようにと必死になって遠ざけようとしているのに、この空気を読めない神人どもは、寧ろ彼女を近づけようとしたのだ。

 

 許せない……この野郎……鳳はまるで瞬間湯沸かし器のように、憎悪の炎が燃え上がりかけたが……その瞬間、ハッと我に返った。見ればペルメルもディオゲネスも無表情のまま固まっている。鳳は慌てて首を振ると、

 

「……すぐに取り掛かるからちょっと待っててくれ」

 

 二人はそんな彼の言葉に沈黙で答えた。彼らには鳳が何故怒っているのか理解不能だっただろう。怒ってる張本人からして、自分が何故こんなに苛立っているのかわけがわからないのだ。

 

 何もかも、遅刻してきた鳳が悪いのだ。責められこそすれ、怒鳴り散らすなんてありえなかった。反省すべきは反省すべきだというのに、なのに鳳はアリスにすら一言も謝ることが出来なかった。

 

 重苦しい沈黙が室内に流れる。

 

 ペルメルもディオゲネスも、下げなくてもいい頭を下げて、静かに鳳の仕事が終わるのを待っている。

 

 アリスは部屋の隅で一ミリも動かず畏まっている。

 

 鳳が書類にサインするペンの音だけが響いていた。

 

 そろそろ限界が近いようだ。

 

 今までは、多少違和感を感じても抑えつけられていた。本当はもうとっくに自分はおかしくなっていたのだ。鳳は、際限なく湧き上がってくる憎しみの炎に抗えなくなりつつあった。変化は徐々に、だが確実に起こっていたのだ。

 

 多分、これが300年前にソフィアの身に起きたという、魔王化の影響なのだろう。

 

 夢を見始めた。

 

 最初は声が聞こえるだけだった。元々、映像がつくような夢はあまり見ない方だったから、暫くはそれが夢なんだか現実なんだか良く分からなかった。真っ暗闇の中でただひたすら声が聞こえるのだ。あいつらを殺せ、殺してよ……と。それが誰の声であるかは、すぐに分かった。あいつらと言うのが、例の先輩たちのことだということも。

 

 エミリアが耳元で囁くように、憎悪を投げつけてくるのだ。それはちょっと気を抜いた時や、ウトウトしかけた時、はっとするようなタイミングで聞こえてきた。正直、そのせいで眠れなかった日もあった。だがそれは常に自分が抱えている負の感情でもあったから、わりとどうにかなっていた。

 

 だからだろうか、そのうち夢は次のステップへと進んだ。

 

 今度は鳳が知らない未来の出来事だった。鳳はその世界で父親の企業を継いで、世界のトップに君臨していた。その世界の人類は、リュカオンとの戦いを経て、高度な科学文明を築いており、ついには過去の人間を復活させる技術まで手に入れてしまったのだった。

 

 鳳は、その技術を使ってこっそりエミリアを復活させた。早逝してしまった彼女に、せめてひと目でも逢いたいという身勝手な願いからだった。だが、彼はすぐにそれを後悔した。復活したエミリアは事故ではなく、実はクラスメートに殺されたというのだ。彼女はその悪夢に怯えて死にたがっている。鳳はそんな彼女の姿を見て哀れに思うよりも、寧ろ怒りに駆られ、そしてラシャを作り出してしまう。そして地球はメチャクチャになった……

 

 彼はそれを知ってショックを受けた。人類が滅びたのも、この世界の人々が魔王の襲撃に悩まされているのも、元はと言えば全部自分のせいだったのだ。彼が怒りに任せてあんなことをしなければ、この世界はこんなことにはならなかった。そんな自分が魔王化に苦しんでいるのは、ただの自業自得ではないか。彼はどんどん自棄になっていった。

 

 だが、これはちょっとおかしい。鳳はこれまでミトラやヘルメスなどの精霊と邂逅し、P99の映像などを見ていたから勘違いしてしまったが、考えてもみれば、これが事実である証拠はどこにもない。そもそも現時点での彼は、父親の企業を継いですらいない、言わば過去の鳳白なのだ。未来の鳳白がしでかした事に責任を感じる必要はないではないか。ましてや、本当にやったかどうかすら分からないのだ。

 

 もしやこれも魔王化の影響なのでは……?

 

 そうやって勘ぐりだしたら、夢はまた別のものへと切り替わっていった。今度は先輩たちが鳳に命乞いをする夢や、エミリアがレイプされたり殺されたりする夢を見始めた。もはや幻聴は眠っている時だけではなく、何気ない日常の中ですら聞こえてくるようになった。

 

 例えばさっきみたいに、ほんのちょっとイラッとするだけでも、彼の頭の中で彼女が囁くのだ。

 

『殺せ……殺せ……殺してよ……私は殺されたというのに、どうして彼らは罰を受けない……?』

 

 ペルメルやディオゲネスが笑顔で冗談を言ってる時に、そんな言葉が頭の中に響くのだ。こんなのが頭の中で騒いでいるというのに、どうして普通に会話をしていられるというのか。

 

 だから鳳はひたすら仕事に集中することにした。ほんのちょっとでも、誰かにイラッとしたりしなければ、声は聞こえてこないのだ。仕事はそれを忘れさせてくれる良い逃避先になっていた。だから彼は昼も夜も忘れて仕事に熱中した。

 

 でもそうやって仕事に集中している時にこそ、不思議とあの父親のことを思い出すのだ。周囲を顧みず、仕事に没頭している自分の姿が、父に重なるからだろうか。ふとした拍子に彼のことを思い出し、そして聞こえてくるのだ。

 

『どうして止めを刺さなかった! 何故殺さなかったんだ!』

「うるさいっっっっ!!!」

 

 ズシンッ!!!

 

 ……っと、まるで大岩でも降ってきたかのような音が響いて、グラグラと本当に建物が揺れていた。ブワッと埃が部屋中に舞い上がって、積み上げられていた書類の束がひらひらと宙に踊っていた。

 

 鳳の仕事を側で見守っていた神人二人が、ぱっと飛び退き、身構えて目を丸くしながらこちらを見ている。部屋の隅にいたアリスは腰を抜かしていた。

 

 鳳はポカンと口を半開いた。見ればたった今自分が使っていた執務机が真っ二つに割れている。サインをしていた書類はビリビリに破れて、どちらももう使い物にならなかった。部屋の外から職員がざわついている声が聞こえてきて、騒ぎになる前にそれを落ち着かせようと、ディオゲネスが出ていって彼らに向かって何でも無いと告げていた。

 

 鳳がそれを呆然と見ていると、ペルメルがやってきて、

 

「ヘルメス卿、どうかなされましたか?」

「別に……少し考え事をしていて……」

「どうやらお疲れのようですね。暫く休憩にいたしましょう」

「いや、しかし、まだ来たばかりだし……」

「ですが、これでは仕事になりませんよ」

 

 ペルメルが苦笑交じりに部屋を指差す。鳳の足元には執務机の残骸と、使い物にならない書類が散乱していた。たった今サインしていた書類は、鳳に握りしめられグシャグシャになっていた。全部、鳳が遅刻してくるまでの、彼らの仕事の成果物だった。鳳は申し訳なくて涙が出そうになった。怒りが去ると、今度は悲しみが溢れてくる。感情の揺れ幅が、どうにも馬鹿になっていた。

 

 それが顔に出ていたのだろうか、ペルメルはそんな鳳を見て、

 

「書類はまた作れば元に戻ります。ですがヘルメス卿はそうじゃありませんから、休憩にしましょう。きっとまだ寝起きで頭が回ってないんですよ」

「……すまない」

 

 鳳がガクリと肩を落として項垂れていると、職員を落ち着けてから戻ってきたディオゲネスと共に、彼らはお辞儀をして部屋から出ていった。間もなく、別の職員が新しい執務机を運んできて、テキパキと部屋の掃除をしはじめた。

 

 鳳はそれをソファの上で体育座りをしながら見守っていた。その職員の顔が、まるで死刑執行人でも見るような感じに強張っている。彼のことを怖がらせるつもりはないのに……いつの間にか自分は人々の恐怖の対象になっているようだった。

 

 そりゃそうだろう。普通、重厚な作りの執務机は素手で破壊できるようには出来ていないのだ。どうやら自分は身も心も怪物になろうとしているようだ。鳳がため息を漏らすと、職員の肩がまたビクッと震えた。

 


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