癇癪を起こした翌日、鳳は今回こそは流石に部下に見放されたかと思ったが、彼が時間通りに登庁すると、神人二人は何事も無かったように、昨日台無しにしてしまった仕事をやり終えていた。彼は自分のことが情けなくなったが、少しでも感情的になるとまたおかしくなりかねないので、書類の束を受け取ると機械的にそれにサインを続けた。
昨日癇癪を起こして気が晴れたのか、その日は前日ほど酷い幻聴に悩まされることはなかった。魔王化の影響は確かにあるが、それを差っ引いてもストレスの影響の方が大きいのかも知れない。あまり根を詰めず、たまには何かで発散したほうが良いのだろうが……誰かと一緒に行動するのもまたリスクだから、中々いい方法は思い浮かばなかった。
ともあれ、昨日の遅れを取り戻さなければならない。領内の街道整備は文字通り道半ばで、勇者領との折衝も中々厳しいものがあった。どちらにせよ、ヘルメス卿を辞めたいのであれば、これらの仕事を終えねばならないのだから頑張るしかないが、問題なのは後継候補であるロバート派がこれらを邪魔していることだった。
現状を確認しよう。
ロリコン院長のせいでクレア派が勢いを失った後、領内ではロバート派が息を吹き返してきてしまった。一時は完全に死に体だったくせに、本当にしぶとい男である。
ヘルメスは現在、復興による景気回復が続いているのだが、景気が良くなる反面、格差も生まれていた。街道整備が完全ではない今、改革の恩恵が受けられているのは、主に首都周辺の限定的な地域ばかりであり、それ以外の地域は依然苦しいままだった。
隣の芝生は青く見えるもので、恩恵を受けられない庶民が、以前の方が良かったと口にする傾向が強くなっているようだった。そしておかしなことに、彼らは改革前、もっと言えばヘルメス戦争前の時代に戻って欲しくて、ロバートに期待しているみたいであった。
なんやかんやロバートはこの国の王侯貴族であるわけだから、縋りたくなる気持ちもわからなくはない。だが、彼らが指をくわえて見ている芝生は、それこそロバート派の貴族ばかりなのだから、彼がヘルメス卿になったとしても現状が変わるわけがないだろう。と言うか、彼らが住んでいる東部への進出を阻んでいるのがロバート派なのだが、彼らは自殺願望でもあるのだろうか。
ロバートの台頭で勇者領もヘルメスとの関係を見直しているわけだし、戦争以前に戻ることは不可能だ。このまま行けば、相変わらず東部は苦しい時代が続くだろう。それどころかヘルメス全体が不景気に逆戻りしかねない。それでも庶民は何も考えず、支配されることを選ぼうとするのだから、現代人としては理解し難いものがあった。
とは言え、それは貧すれば鈍するという類のものではなく、単純に、テレビもラジオもない時代では、庶民はこういう風に行動するということなのだろう。
マスメディアは世論を誘導するという負の側面もあるが、情報を共有するという点では非常に強力な武器である。無論、この世界にだって新聞くらいはあるのだが、電信が無いせいで東部と西部では書いてある内容があまりにも違った。生活が苦しい中で、少ない情報しか得られない庶民が何を基準に判断するかと言えば、パッと上を仰ぎ見て、それに任せてしまっても何ら不思議ではないだろう。
せめて領内の風通しがもう少し良くなれば、得られる情報の質も上がってきて、彼らの行動も変わるかも知れないが……現状ではロバート派の妨害が酷くて、街道整備すら進まないというジレンマがあった。
大森林の工事も滞っていた。勇者領側からの工事がストップされ、再開の見込みが立たないのだ。こちらから強引に進める事は出来るし、今後のためにもせめてガルガンチュアの村辺りまでは進めておきたいが……領内の街道整備と同時に行うのは流石にリソース不足であり、また資金面にも不安があった。
鳳の改革はとにもかくにも勇者領との連携を基準にしており、資金もあちらに頼ることが多かったのだ。まずは勇者領との関係修復が成されなければ、当初の予定通りには事が進まないだろう。
だが、それでもまだ完全に詰んでるというわけでもなかった。
クレア派への嫌がらせの意味もあり、ロバート派は東部への進出こそ露骨に妨害してくるが、実は首都周辺の街道整備に関しては一切手を出してこない。そりゃ自分たちの領地の整備を、国が代わりにやってくれるのだから当然だろう。ただ、それだけではなく、ヘルメス北部の湖へ向かう街道に関しても、同じように妨害はなかった。
ヘルメスの北方には、ボヘミアとセト国に囲まれた大きな湖があった。これは戦時には北方からの侵入を防ぐ防波堤になっていたが、平時の今はセトへ向かう水路として活用出来る期待があった。そのため、街道整備は湖にある漁村にも向かっていたのだが、どうも彼らはフェニックス~セト間の交易を重視しているようだ。
それは恐らくセト国がバックについていると言うことだろう。ヘルメスの後継者問題で、鳳の後をロバートが継げば、勇者領との関係がギクシャクすることは間違いない。セトはそれを見越して、先手を打ってロバート派に近づいてきたのだ。
彼の国は、ヘルメスとの戦争の際には、帝国と勇者領とを繋ぐ唯一の国でもあった。それが国交正常化が成されたあとは、ヘルメスの影に隠れて影響力を落としていた。しかし、ロバート派が台頭すれば勇者領との関係が悪くなり、必然的にセトが勇者領の窓口に返り咲くことが出来る。
また、ロバートを支援しておけば、ヘルメスとの関係改善にも役立つという腹積もりがあるのだろう。このような構図をロバートが描けるとは思えないから、恐らくは彼の取り巻きの中にセトと通じている者がいるのだろう。
セトは新生ヘルメスとの交易に乗り気である。ではヘルメスとしてはどうだろうか?
あそこはボヘミア北部の銀山を独占しており、金だけは持っているから場合によっては勇者領から乗り換える手もある。計画が潰され、利益誘導されるのは癪だが、景気さえ良くなれば問題はないから、妥協するのもありだろうか……
ただ、その場合はロバートが後任になるわけだが、彼に任せてしまっても本当に良いのだろうか。正直なところ、クレアだって未知数なのだから、勇者領とセトを天秤に掛けて考えるという手は悪くはない。
どちらを選ぶにせよ、その後、この大陸がどのように動くだろうか? 一度、五大国のトップで集まって話し合いがしたい……書類の束にサインをしながら、そんなことを考えている時だった。
「鳳、ちょっといいか!?」
ドンドンと叩きつけるように執務室の扉がノックされて、ヴァルトシュタインが入ってきた。額には玉のような汗をかいており、息せき切って余裕のない表情を見るからに、余程切羽詰まっているらしい。何があったのかと訪ねてみると、
「ついさっき、オルフェウス国境付近を巡回中のテリーから、早馬が送られてきたんだ。それによると、現在、我軍はオルフェウス国境を挟んで、帝国軍と睨み合い状態になっているらしい!」
「はあ!? 帝国軍がなんでまた……?」
「詳しいことはわからんが、多分、ヘルメス軍が国境付近を通過したことで、隣国を刺激したんじゃないか。テリーは、とにかく緊急を要する案件であるから、至急、上の判断を仰ぎたいって言ってきた。おまえなら、今すぐにでも現場に飛んでいって指示できるだろう?」
鳳は一も二もなく頷いた。このまま放置してまた戦争なんてことになったら、今までの苦労が台無しである。彼は神人二人に後を任せると、ヴァルトシュタインには念のために後詰を集めておくように指示し、ポータルを使って東部の都市を目指した。
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東部国境付近、孤児院を一度視察した際に訪れた街へやってくると、鳳は即座にレビテーションの魔法を使って空へと舞い上がった。突然ヘルメス卿が現れたと思ったら、そんな奇跡を目の当たりにして、街の人々が驚愕の声をあげていたが、今はそんなことに構っていられなかった。
空高く昇って周囲を見渡すと、街から数十キロ先の国境に両軍が対峙している姿を発見した。両陣営は共に千人規模で、交戦状態にはなく、互いに距離をとって睨み合っている……というかキャンプしている。
鳳がそのまま滑空するように空を進んでいくと、やがて近づいてくるその姿に気がついた陣営の中から、テリーが手を振っているのを見つけた。
「ヘルメス卿! よく来てくださいました。やはりあなたにかかれば、移動はあっという間ですねえ! たった1週間前に伝令を出したばかりだと言うのに」
テリーは感嘆のため息を吐いている。その落ち着きっぷりは、さっき執務室に駆け込んできたヴァルトシュタインとは対照的だ。それもこれも彼の言う通り、東西の移動には、早馬を乗り継いでも1週間かかるせいだろう。テリーが事態に直面し、鳳がやってくるまでにそれだけの時間が経っているのだから、最初の緊張も解れてしまったというわけだ。
それは国境の向こう側にいる帝国軍も同じようで、鳳が飛んできても彼らは銃を構えたりはせず、非武装状態でこっちの様子を窺っていた。多分、お互いの指揮官同士で停戦協定が成っているのだろう。
ともあれ、何があったのかと尋ねてみれば、
「我々がこの付近に出没するという野盗を取り締まっていたら、国境の向こうに帝国軍が現れたんです」
ヘルメス戦争が終わり、領内では現在急ピッチで復興が行われているわけだが、戦争の被害を受けたのは、ヘルメスだけではない。司令官がオルフェウス卿だったために、隣国の領民もかなりの数が徴兵されており、現在この国でも農村を中心に飢饉が起こっているようだった。
ところがついていないことに、オルフェウスの方はトップが不在なために、帝国から最低限の人道支援くらいしか受けられていなかった。そのため領民は食うに困って体を売ったり、自殺したり、家を失ってヘルメスへと流れたりしていたようだが、やって来たのは難民だけではなく、国境付近では野盗に身をやつした者たちが暴れまわっていたのだ。
ヴァルトシュタインはその報告を受けると、早速とばかりに討伐軍を派遣し、テリーを将軍につけ国境へと送った。ところが、国交が回復したとは言えまだ戦争の記憶も新しい今、理由があっても国境に軍を並べられては、隣国も堪ったものではない。そんなわけで帝都、オルフェウス、そしてカインから抗議の軍が送られて来たというわけである。
「どうやら我々がここに駐屯しはじめてから、向こうの領民が不安がっているようです。早急にどっか行ってくれと」
「そりゃごもっともだね」
「しかし、我々が引き下がれば、それが野盗となって入り込んでくるわけですから、引くに引けず……こちらからも事情を話して抗議をしているのですが、向こうには野盗が現れていないのだから取り締まりようがないと言われ、困ってしまってるのです」
「野盗も盗るものがある方に来るだろうからね。しかしまいったな……この程度で刺激されちゃうんじゃ、今まで国境警備はどうしていたの?」
「それが、今まではやってこなかったのですよ。国境警備のために軍隊を送れば、今回みたいに帝国側を刺激するので、双方ともに有事以外はあまり近づかず……お互いに領民が行き来するような間柄でも無かったので、今まではそれでなんとかなっていたんですけど。国交正常化された今は、そのザルな警備の隙をつかれてオルフェウス領からドンドン人が流れ込んできているようで……」
この近辺の領主は、ただでさえ勝手に入ってくる難民に手を焼いていた所、野盗に領内まで荒らされてお手上げ状態であったらしい。そんなところに駆けつけたテリー達のことを神だ救世主だと喜んでいたのだが、これが引き上げてしまったらたちまち不満が爆発するだろう。
領主たちは国境封鎖を主張して、いっそのこと壁で囲ってしまえと言ってるようだが、しかしそんなことをすれば野盗を防ぐだけでなく、難民たちを窮地に立たせてしまうことにもなる。そんなの知ったこっちゃないと言えばそうであるが、鳳は出来れば彼らのことも助けたかった。
オルフェウス卿は、自分に後事を託して死んだようなものなのだ。彼のことを思うと、その領民をあまり無碍に扱いたくなかった。
「事情は良く分かった。取り敢えず、早急に対応するから、それまでもう暫くここに駐留させてくれって、向こうの指揮官に伝えてくれないか?」
「もう、なにか解決法を思いつかれたのですか?」
「300年前の勇者と同じ方法を使う。野盗を取り締まるなら、その野盗を使えばいいのさ」
300年前、全人類の総力を挙げて魔王を撃退した後、帝国内には解雇された兵士が溢れかえっていた。彼らが故郷に帰っても、魔族に踏み荒らされた畑に食べ物は無く、生きていくために今度は彼らは野盗に身をやつしたのだ。
そんな状況を憂えた勇者は、それを解決すべく冒険者ギルドを設立したのだ。誰だって悪事を働くよりも正義を行いたいはずだ。野盗をするより、その野盗を取り締まる側になろうと呼びかければ、きっと彼らも考えを改めるだろう。
そんな勇者のアイディアに賛同したレオナルドや、後の勇者領13氏族たちが冒険者ギルドに投資し、勇者はその資金を使って冒険者ギルドを切り盛りし、見事帝国領内の混乱を鎮めたのである。
「どうも戦争のせいで、この近辺には冒険者ギルドがないみたいだ。新たに支部を作って、国境の向こう側に呼びかければ、食い詰めた農民やそれこそ野盗が集まってくるだろう。これで難民も野盗も半減する。私兵を使って取り締まるのであれば、帝国軍も文句はないはずだ」
「なるほど、しかし上手く行きますかね……?」
「……どうしてそう思うんだ?」
テリーは難しそうに唇を結びながら頷いて、
「はい。我々がここへ来た時、この近辺の領主たちは皆、オルフェウスからの国境侵犯に手を拱いていました。それもこれも、国交正常化される以前から、領外からの襲撃に悩まされていたからです。そんな彼らはオルフェウスの民のことを嫌っています。これはもう理屈じゃありません。なのに難民を招き入れるような政策を、彼らが受け入れてくれるものでしょうか……」
「ふーむ……」
「恐らく貴族たちは、このまま軍に残ってくれと要請してくるはずです。何なら帝国軍との共同作戦でも、難民の侵入を阻止して欲しいと言ってくるでしょう。私としても、下手に双方を刺激するよりは、そちらの方が良いと思いますが」
「それじゃあ、難民はどうなっちまうんだ? 救われないだろう?」
「致し方ありません。彼らにはカインか帝都へ向かってくれとしか」
鳳が不満を漏らすと、テリーはわりとあっさりとそう言ってのけた。軍人として上官を立てるタイプの彼にしてはかなり辛辣な態度であり、鳳は少し戸惑ったが、よくよく考えてもみれば、彼もまたかつては難民だったのだ。
ヘルメス戦争が起こった時、テリー達にオルフェウスへ逃れるという選択肢は無かった。あまつさえ、フェニックスで逃げ遅れていた彼らは、帝国軍に捕らえられ、奴隷にされそうにすらなっていた。そんな彼にしてみれば、これくらいの苦労は自分でなんとかしてみろと言いたいのだろう。
「……分かったよ。テリーの言うことも考慮しよう。でもまあ、まずは当初の予定通りに、冒険者ギルドで対処出来ないか考えてみる。要は東部の貴族たちを納得させればいいんだろう?」
「はい」
それならば当てはある。東部と言えば、クレアの広大な領地がある地方だ。彼女は鳳の後継者候補というだけではなく、この辺一帯のリーダーでもあった。そんな彼女が言うのであれば、東部の貴族たちも渋々言うことを聞いてくれるはずだ。そしてこれが上手く行けば、クレアの復権にも役に立つのではないか。
問題は、鳳の魔王化の影響であるが……昨日癇癪を起こした分、今日は今のところ大分抑えられていた。これならばクレアに会ったとしても、余程のことが無い限り取り乱したりはしないだろう。彼はそう判断し、説得のためにまたフェニックスへと舞い戻った。