ついカッとなった……新聞の社会面でよく見掛ける言葉だ。今までの鳳にとってそれは、そんな他人事みたいなセリフだった。しかし今の彼にとっては違った。
彼の足元には、ブーメランパンツにネグリジェ姿の、マッチョのおっさんの死体が転がっていた。その体はありえない方法に折れ曲がり、既に息絶え動かなくなっていた。
慌ててリザレクションの魔法を掛けたが、彼は神人ではないため意味がなかった。見様見真似で蘇生術も試みてみたが、心臓マッサージをしても肺に溜まった血が吹き出るだけで、彼が生き返ることはついになかった。
鳳はその場にへたり込んだ。
「……俺は、たかだかこんなことで、人を殺してしまったのか……?」
彼は元々、倫理観が常人とは少し違うところがあった。魔物と戦争だらけのこの殺伐とした世界で、いつか人殺しを経験することもあるだろうと覚悟もしていた。と言うか、この世界に来たばかりの頃、フェニックスの攻防戦で弾幕を張っていた時に、きっと流れ弾で誰かを殺していただろう。多分、そうだろうと思っている。
だがそれは不特定多数の中の誰かであって、こうして自分の意思で人を殺したのは初めてだった。しかも理由が奮っている。ホモが襲いかかってきたので、ついカッとなってなんて、何の冗談だ?
彼は暫くの間、ショックでピクリとも動けなかった。
それからどのくらいの時間が経過しただろうか……
それでも自分のやったことの始末をつけねばなるまいと、彼はとにかく人を呼びにいこうと立ち上がった。フラフラと外へ出れば、すぐ隣の庁舎から明かりが漏れていた。そう言えば、さっき部下の二人が残っているのを確認したと思った彼は、自分の執務室の窓の方へと歩いていった。窓を叩くとそれに気がついた神人たちが駆け寄ってきた。
「ヘルメス卿! おかえりなさい。それで首尾はどうでしたか? そんなところに立っていないで、入ってきてくださいよ」
二人はクレアとの会談がどうなったのか、勢い込んで尋ねてきた。しかし鳳が何度も口を開いては、まるで声が出なくなってしまったかのように、すぐに口を閉じてしまうのを見て、恐らく失敗に終わったのだろうと察した。
彼らは鳳になんて声を掛けたらいいのかと言葉を探していたが、そんな彼らが言葉を見つけるよりも先に飛び出してきた鳳の言葉は、まったく予想外過ぎて理解するのに時間を要する代物だった。
「すまない。人を殺してしまったようなんだ」
「……は?」
「ちょっと来てくれないか」
二人は最初何を言っているのか分からずポカンとしていたが、徐々にその言葉の意味を理解すると、今度はそれが信じられないと言った感じに、
「えーっと、冗談ですよね? 我々をからかっているんですか?」
「いいや、嘘じゃないんだ。とにかく、今は黙ってついてきてくれないか」
二人はまだ信じられなかったが、それでも鳳の醸し出す雰囲気から何かが起きたことを察して、彼の言う通り黙ってついていくことにした。執務室を出て玄関へ回り、急いで窓の外までやってくると、鳳はまだ部屋の中をぼんやり見ながら立っていた。
息が届くくらい近づいたところで、ようやく彼は神人二人がやって来たことに気がつくと、そのまま黙ってすぐ隣の自宅へと歩いていった。二人がその後を追って玄関をくぐり、鳳の自室へと入っていくと、そこには言われた通り死体が転がっていた。
ディオゲネスは死体に近寄るとしゃがみこんでその脈を取り、
「……これは、死んでいますね」
「ああ。俺がやっちゃったんだ」
「なんでこんなことに……」
神人二人は顔を見合わせて言葉に詰まったが、ペルメルのほうが先に何かを思いついたように気を取り直すと、
「すぐに死体を片付けましょう。ディオゲネス、憲兵に命じて酔っぱらい同士の喧嘩で死んだことにしよう。ここで何も起きなかったことにするんだ」
「わかった」
「いや、そんなことしたら駄目だ。罪はちゃんと償わなければ」
神人二人が死体を隠蔽しようと動き出すと、すぐに鳳がそれを止めようとした。しかしペルメルはそんな上司を諭すように、
「いいえ、ヘルメス卿。この程度の事件なんて、この世界じゃざらにあることです。あなたにくだらない経歴がつくよりは、何事もなかったことにして今まで通り職務に励んでいただいた方がこの国のためと言えるでしょう」
「いや、国のためとかじゃないんだ。俺が間違いを犯したことは、俺が一番良く知っているんだから、それを隠したままではいられないだろう。それに、その人を送ってきたのはクレアなんだ」
「……クレアが?」
「隠しても彼女には俺がやったことがすぐにバレるだろう。つい先日、その彼女の失敗を厳しく追求したくせに、自分の罪は隠すなんて、そんな卑怯な真似は出来ない」
「しかし……」
ペルメルはそれでもまだ隠蔽できないかと臍を噛んでいたが、ディオゲネスがそんな彼の肩を叩き、
「ペルメル、いくら俺たちでもクレアの口を封じることは出来ない。仕方ないからここは一旦引き下がって憲兵を呼ぼう。それに、ヘルメス卿がどうして殺人を犯してしまったのか、その理由を聞いていない。それを聞いてからじゃないと、判断を下すにはまだ早いんじゃないか」
「……それもそうだな。ヘルメス卿。まずは落ち着いて何があったのか話して貰えませんか?」
「ああ、憲兵が来たら話すよ」
鳳はしょんぼりと項垂れている。二人は頷きあうと、今度は事情を聞いた上で隠蔽工作が出来ないか考えようと心に誓った。しかし隠蔽なんて必要なかった。どうして鳳が殺人を犯してしまったのか、そのくだらない理由を知ったら誰でもそう思ったろう。
間もなく憲兵隊がやってきて、彼らは驚きながらも室内の死体を外に運び出してしまった。普通なら現場を保存しようとしそうなものだが、この国にそんなちゃんとした警察組織など存在せず、ヘルメス卿の屋敷にいつまでもこんなものを置いてはおけないという理由で死体は運び出された。
鳳の自宅は宿舎にも近かったから、異変に気がついた職員らが通りに出てこちらを見ていた。これはもう隠しようがないと判断したペルメルは、それならいっそ自分が殺したことにしてしまおうと、憲兵に口裏合わせをしようとした時、それは起きた。
ディオゲネスに促されて鳳が玄関から出てきた時だった。突然、騒ぎを遠巻きに見ていた野次馬の中からクレアが飛び出してきた。彼女は真っ直ぐに鳳の前まで駆けつけると、驚いて彼女を止めようとしている憲兵を振りほどいてその場に土下座した。
「ヘル、ヘル、ヘル、ヘルメス卿! お、おお、お、お許しを!!」
憲兵も野次馬も、突然飛び出してきた美女が額を地面に擦り付けている姿を見て呆気にとられている。神人たちも最初は戸惑っていたが、すぐにそれがクレアだと気づくと、
「クレア・プリムローズ。一体なんのつもりだ? 事情を説明してくれ」
「ああ! なんてこと! まさかこんなことになるなんて……その男娼を送りつけたのは私なんです」
「あ、ああ、そう言えばヘルメス卿もそうおっしゃってたが……?」
するとクレアは額に泥をくっつけながら顔を上げると、惨めったらしく涙を流しながら、
「私、今日、いつまでも靡いてくれないヘルメス卿に、かなり強引に迫ったんです。会食も上手くいってムードもよくて、ヘルメス卿もその気になってくれてると思いました。でも、駄目なんです。それでもヘルメス卿は私のこと抱いてくれないんです。だから焦った私は強引にヘルメス卿を押し倒したんですが、彼はそんな私のことを押し退けて飛び出していってしまったんです!」
クレアの声は意外と大きく、野次馬たちにも聞こえたようで、為政者たちの醜聞を聞いて辺りは一瞬騒然となった。しかし神人たちはそれに気づかず、
「それでどうしたんだ?」
「それで私、思い出したんです。以前、城にいた時、ホモと駆け落ちした勇者がいたってことを。だから私、てっきりヘルメス卿がホモなんじゃないかと思って、彼好みのマッチョを厳選して謝罪のつもりで行かせたのです。でも違ったみたいです。ヘルメス卿はそれに怒って、侵入者を殺してしまったみたいなんです」
「貴様……何てことしてくれるんだ! 完璧におまえが悪いんじゃないかっ!!」
「申し訳ございませんっ!!! だって私……わからないじゃないですか! まさかヘルメス卿が女に興味がなく、男にも興味がなくて……まさか不能者だったなんてっ!!」
クレアのヒステリックな叫び声が、夜の庁舎街に響き渡る。
「もうやめてくれっっっ!!!」
その余りにも失礼な言い分に堪らず鳳は怒鳴り声を上げた。
「俺は不能じゃない! ホモでもない! 平気で人を傷つけるようなこと言うなよ!! なんでお前は俺にそんなにつきまとうんだよ。普通にしてればお前が後継者だったのに……どうして大人しくしてられないんだ! 頼むからもう来ないでくれよ……」
鳳の視界が涙でじんわりと滲んでいく。
「俺はこんな……こんな……勇者だなんだと言われてるけど、ちょっと人を小突いただけで、殺してしまうようになっちまったんだぞ!? 自分で制御するのさえ難しいのに、それなのに理性をふっ飛ばしてお前を抱いてしまったら何が起こるかわからないじゃないか! もうたくさんだ! 何もかも……こんな地位、欲しけりゃ誰にでもくれてやる。つーか、俺はずっとそう言い続けてるじゃないかっ!!」
彼の瞳からはボロボロと涙が溢れ出した。神人二人は普段は冷静沈着な鳳が取り乱す姿を見て仰天した。クレアは目の前で男がメソメソ泣く姿を見せつけられて狼狽えた。彼らを取り巻く衆人たちが唖然としている。鳳はそんな彼らに向かって叫ぶように言った。
「何故、お前らはどっかからやってきたよそ者でしか無い俺に何もかもを押し付けるんだ! 自分の国なのに、どうして自分で良くしようと考えられないんだ! 何故、ロバートは自分の領民を苦しめても上に立ちたがるんだ! そんなに破滅したいなら、勝手に破滅してくれよ……俺は万能じゃない。何でも出来るわけじゃない。勇者の力なんて、人殺し以外に何が出来るって言うんだよ!!」
突然取り乱す勇者を見て、野次馬たちがまるで珍しい動物でも見るかのように目を丸くしている。鳳はそんな野次馬を睨みつけると、何を見ているんだこの野郎と言わんばかりに、
「ライトニングボルト!!」
彼が古代呪文を叫んだ瞬間、目が眩むようなまばゆい閃光が走り、ビシャン! と耳をつんざく音が轟いた。いや、それはもはや音という生易しいものでは無く、目の前に落ちた雷の衝撃のせいで、地震のように地面がグラグラ揺れていた。
その一撃で数人が吹っ飛び、気絶した人々を見た野次馬が、悲鳴を上げて逃げ出していく。憲兵隊が失神している者、腰を抜かしている者を引きずって、慌てて現場から遠ざかっていく。鳳はそんな衆人を追い立てるように、何度も何度も魔法を連発した。
「ライトニングボルト! ライトニングボルト! ライトニングボルト!!」
轟音が夜の官庁街に轟き、もうもうと煙が立ち込める。すぐ側にあった庁舎でまだ残業をしていた職員が、驚き飛び出してきて、鳳の形相を見て逃げ出していった。見れば庁舎の二階の窓からも、我先にと飛び降りる職員の姿が見える。
神人二人は癇癪を起こした鳳に驚いてずっと固まっていたが、ペルメルはそれを見てハッと我に返ると、
「ヘ、ヘルメス卿! もう、おやめください! 庁舎が壊れてしまいます」
「うるさいっ!! 俺をヘルメス卿と呼ぶなっ!!」
鳳が振り返りざまに拳を振り下ろすと、その一撃を食らったペルメルが吹き飛んでいった。彼はまるで水切りの石のように地面を何度もバウンドしながら転がっていって、やがて遠くの宿舎の壁に激突して気絶した。
その衝撃に驚いた宿舎の住人が身の危険を感じて飛び出してくる。その中に赤ん坊を抱えたルナとアリスの姿を見つけると、鳳は何故か余計にむしゃくしゃするものを感じて、古代呪文を滅多矢鱈と打ち続けた。
ドーン! ドーン! ドーン!
っと、魔王が現れたときのような巨大な振動音がいつまでも続いた。こうなってはもはや彼を止められるものなどこの世にはおらず、ディオゲネスは腰を抜かしているクレアの首根っこをつまみ上げると、同じく宿舎の壁に激突して気絶しているペルメルを抱えて避難していった。
その後、鳳の凶行は、彼のMPが尽きるまで続いた。その間に街の人々は全員逃げ出していて、彼が肩で息をしながら周囲を見渡した時には、もう街は無人になっていた。
「静かだ……俺は自由だ……誰にも邪魔されない……自由で……静かだ……」
彼は誰も居なくなった街を見て、清々しい表情でそんなセリフを口走った。だが家に入ろうとして振り返った時、すぐ足元の地面に男娼の死体が転がっていることに気づいて、その場に崩れ落ちるように腰を落とした。
「ごめん……ごめんよ……ごめんなさい……」
彼は死体に向かって涙を流しながら、何度も何度も謝罪の言葉を口にした。だが、いくら謝ってももう生命は戻ってこない。彼はその儚さを知ってますます罪の意識を深めていった。
それからどれくらいの時が経っただろうか。声が掠れてガラガラになるまで謝罪を続けた彼はようやく立ち上がると、これ以上死体が晒されないように、憲兵が用意した筵を彼にかけてから、花を摘んでその横に置いた。
両手を合わせて、とにかく安らかに眠って欲しいと、何度も何度も祈りを捧げると、彼は無表情のまま自室へと戻っていった。
今晩はもう誰もこの街に戻ってくることは無いだろう。明日になったら神人二人が様子を見に来るかも知れないから、そうしたら彼らにヘルメス卿を辞めると伝えて、この街を出よう。
さっき、ペルメルをぶっ飛ばした時、もはや力の制御が出来なかった。それが怒りによるものなのか、魔王化のせいなのか分からなかったが、クレアに対する欲情を考えても、いい加減限界を迎えているのは間違いないだろう。
魔法を連発していた時も、彼は一発も人に当てることは無かったが、途中からはもしこれを当ててやったらどれだけスカッとするだろうかと、そんなことばかり考えていた。もしも人々が逃げずにここに留まっていたら、きっと今ごろ彼は罪を重ねていたことだろう。次、いつそうなるか分かったもんじゃない。もう潮時だ……
部屋に入ると彼は空っぽになったMPを回復するためにモルヒネを探した。本当はそんなものここには無いと分かっていながら、彼は部屋中のあらゆる物というものをひっくり返してクスリは無いかと探して回った。途中からはむしゃくしゃして、まるで投球練習みたいに掴んだ物を壁に向かって投げつけていたが、やがて部屋がその残骸だらけになると虚しくなってやめた。
残骸を部屋の片隅に押しやってから、彼はワインの瓶をひっつかむと、炭酸飲料みたいにごくごくとそれを飲み干した。それを二本、三本と立て続けに飲んで、途中からは浴びるように飲むというか、本当に頭から浴びるようにしてワインを飲んだ。服がびしょびしょに濡れて気持ち悪いから、全裸になろうとしてズボンを脱いだらプンと栗の花の臭いが漂ってきて、腹が立ってワインの瓶を叩き割った。
「誰が不能者だ。くそっ……バカにしやがって」
やはりあの時、犯せばよかった。犯して殺してやればよかったのだ、あんなやつ。あいつがそれを望んでいるのだから。誰がホモだ。子作りしたい? どんだけ自分に自信があるんだ、あの女は……
鳳はむしゃくしゃする気分を紛らわせようと、ワインを立て続けに飲み続けた。だが、いつまで経っても酔いはこず、口を突いて出る怒りの言葉と人を殺してしまったという罪悪感とで、彼の気分は台風に翻弄される船のように激しく浮き沈みし続けた。
もしかして自分はもう魔王になってしまったから酔えないのでは? などと思いながら、鳳はひたすら肝臓をイジメ続けていたが、いくら魔王でも体内に入ったアルコールを分解しようとする生命の安全装置はちゃんと機能していたらしく、彼はそのうち自分の正体が分からなくなるくらい酔っ払っていった。
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深夜。街は静まり返っていた。癇癪を起こした鳳の凶行によって、官庁街に住む人々は避難を余儀なくされていた。その時、宿舎にいたアリスもルナと共に街の外れにある孤児院に避難してきて、不安な夜を過ごしていた。
職員に協力して泣いて怯える子供たちを寝かしつけたあと、アリスは乳飲み子を離せないルナを置いて一人で外に出た。いくら危険とは言え、鳳のことを放っておけないと思ったのだ。
避難所はヘルメス卿の大暴れの噂で持ちきりで、職員の中には怖いからもう仕事を辞めたいなどという者さえいた。
だが、彼があそこまで大暴れしたのは日々伸し掛かる責任の重さと、人々の勝手なふるまいのせいであり、追い詰められているのは寧ろ彼の方だろう。なのに、誰一人として彼を助けようとはせず、愚痴を言い合うなんてあんまりだとアリスは思った。
鳳は今ごろ、一人で塞ぎ込んでいることだろう。あの時叫んでいた彼の様子からしても、明日になれば気が晴れるようなものではないはずだ。もしかすると最悪の事態もありうるかも知れない。今は一人にしちゃいけない。誰かがそばにいてあげなければ……彼女はそう思うと居ても立っても居られず、怒られるかも知れないと思いつつ、鳳の様子を見に行くことにした。
街は文字通り人っ子一人居ないゴーストタウンになっていた。耳鳴りがするくらい静かな通りを抜けて鳳の家の前まで来ると、彼が殺してしまったという死体がちゃんと筵に包まれて、横には花が添えられていた。やはり自分がしでかしてしまったことに、相当傷ついているのだろう。アリスは死体に手を合わせると、音を立てないように慎重に家の中へと入っていった。
家には鍵が掛かっていたが、以前締め出されたことがあったから、その後もしもの時のためにと神人二人からこっそり鍵を預かっていた。彼女は悪いと思いつつもそれを使って家に入ると、息を潜めて鳳の部屋を覗き込んだ。
もしかして自殺してたりしないかと心配したが杞憂であった。鳳はそこまで馬鹿ではなく、ちゃんと生きているようだった。その代わり、部屋の中には酒の匂いがプンプンと漂っていて、その臭いを嗅いでいるだけで酔っ払ってしまいそうだった。
おそらく彼自身がやったのであろう、部屋の中はメチャクチャで足の踏み場もなかった。鳳はそんな中で何故か全裸でソファに寄り掛かるように倒れており、酒瓶を片手にハアハアと苦しそうな息を立てていた。
散らかった床には、怒りにまかせて割ってしまったガラスの破片がパラパラと落ちていて、彼の皮膚にいくつも突き刺さっていて痛々しかった。アリスはこのまま放っておいたらまた怪我をしてしまうと思い、慌てて手近にあった箒を取ると、恐る恐る部屋の中へと入っていった。
「勇者様……ご無礼をおゆるしください」
鳳は相当酩酊しているのだろうか、アリスが部屋に入ってきても気づいていないようだった。怒られるかも知れないと覚悟していた彼女はホッとしてため息をつくと、すぐにガラスの破片を箒で掃き集めた。
出来れば部屋の片付けまで行いたかったが、流石にそこまでやっては叱られるだろう。だからせめて鳳がこれ以上怪我をしないように破片だけを片付けると、彼女は散らばっていた酒瓶を集めて、彼がまた割ったりしないように廊下へと持ち去った。
また部屋に戻ってきて鳳を見ると、彼は最初に見た時と同じようにソファに寄り掛かってフラフラしていた。起きているのか寝ているのかわからない様子で、時折重力に負けそうになってビクリと体を震わせている。
何故か服を着ておらず、今は酒で体が温かいかも知れないが、このまま放置していたら明け方には風邪をひいてしまうだろう……いや、確実にひくし風邪で済むとも思えない。毛布を掛けてあげるつもりではあるが、せめてソファの上に移動してくれないかと思い、彼女は恐る恐る彼に近づいていった。
近寄って、顔を覗き込んでも彼はまだ気づかない様子だった。これなら大丈夫かなと思い、彼女は眠ってる子に話しかけるように静かに話しかけてみた。
「あの、勇者様? 肩をお貸ししますからベッドまで移動しませんか?」
すると鳳は思ったよりも素直にその言葉に頷くと、持ち上げようとするアリスに体重を預けてよろよろと起き上がった。どうやら本能的に寝床に向かおうとしてくれているらしい。彼女はホッとして彼をベッドまで誘導した。
細身とは言え男女の違いや身長差もあり、彼女にしてみれば鳳の体はかなり重かった。それでもどうにかベッドまでよろける彼を導くと、彼女はここに寝てくださいと彼をベッドの縁に腰掛けさせようとした。
ところが、酩酊している彼にはベッドの位置が分からず、そのまま地面に尻もちをつきそうになった。慌てたアリスが彼を持ち上げようとして抱きつくと、二人はそのままもつれ合うようにして転がった。
ドスンと背中からベッドに落ちて、アリスはほんの少しむせ返った。自分より体の大きな鳳の下敷きになって、肺が圧迫されて苦しかった。慌てて押し返そうとしたが、彼の体は重くてびくともしなかった。仕方ないから横に転がるようにして抜け出そうとしたら、何故かその体をがっしりと掴まれた。
「あの……勇者様?」
彼はアリスの腕を強い力で掴むと、まだ半分床の上にあった彼女の体をグイとベッドに持ち上げた。ふわりとした浮遊感とともに、アリスはベッドの上に寝転がった。鳳はそんな彼女の体に覆いかぶさると、ぎゅっと背中に手を回して抱きついた。彼女は彼が寝ぼけているのだと思い、慌てて抜け出そうとした。しかし鳳の力は信じられないくらい強く、彼女がどんなに身を捩ってもびくともしなかった。
どうしよう。もしかして布団と勘違いされていて、このまま朝まで離して貰えないんじゃないか。彼女がそんな呑気なことを考えていると、その時、鳳が身を捩って彼女の首筋にぬるりとした感触が走った。何をしているんだろう? と戸惑っていると、今度は胸や下半身をまさぐるような感触がして、彼女は彼が何をしようとしているのかようやく気がついた。
「や……やめてください!」
それまで彼を起こさないように気を配っていたアリスは、ここに来てようやく本気で抵抗しはじめた。しかし、小柄な彼女が男の力に勝てるはずもなく、彼女の必死の抵抗は襲いかかる獣を一ミリすらも動かすことが出来なかった。彼女は彼に抱きつくように背中に回した手で、背中をドンドンと叩いたが、既に気がついているであろうに、彼はその振動すら無視して彼女の股間をまさぐっていた。
下着を引っ張られる気配がして彼女は内股に力を込めてなんとか抵抗しようとしたが、強引な彼の力に負けてそれは簡単に脱がされてしまった。あまりの恥ずかしさに、彼女は顔が紅潮していくのを感じたが、もはやそんな事を気にしている場合ではなかった。
その時、信じられないほど硬い何かが彼女の下腹部の辺りに触れた。男の怒張したペニスなど見たことのなかった彼女は、最初はそれが何だか分からなかったが、すぐに自分に何が起きようとしているかを察すると、もはやなりふり構わず叫び声を上げた。
「やだっ! やめてっ!! 助けてっ!!」
彼女の必死の叫び声と火事場の馬鹿力で、今度はほんの少し鳳の体が持ち上がった。だが本当にそれは一瞬のことで、すぐに彼女は力尽きると、鳳の体に覆い被さられて、今度こそ少しも身動きが取れなくなった。
腕を掴まれていては叩くこともかなわず、身を捩って抜け出そうとしても彼の体はびくともしない。
と、その時、鳳が彼女の足の間に下半身をねじ込もうとしてるのを察知して、彼女はまた必死に内股を閉めようとした。だがそれもまた一瞬のことで、すぐに彼女は力負けすると、間もなく脳天まで突き上げるような信じられない痛みが走った。
「痛いっ! 痛いっ!! 痛いっ!」
まだ幼く、そして何の準備もしていない彼女の体にはそれは快感でもなんでもなく、ただひたすらナイフを突き立てられるような痛みでしか無かった。体の中をザリザリとヤスリで削られているような痛みが走る。耐え難い苦痛から逃れたくて、何度も何度も鳳に懇願しても、もはや彼は自分が何をやっているのかすらわからない感じで、一心不乱に腰を動かし続けていた。
痛い。やめて。何度お願いしても、彼女に覆いかぶさる男はその動きを止めてくれなかった。それまでずっと信頼していた人に、自分がされていることを中々受け入れられず、彼女は痛みの中で懸命にその理由を探した。だけどそんなものいくら考えても見つからず、強烈な痛みに気が遠くなっていく中で、だから彼女は自分を責めることにした。
きっとこれは罰なのだ。
彼女が勇者に、お嬢様を助けてなんて、無理を言った報いなのだ。ずっと彼は、自分はヘルメス卿じゃないと言っていた。最初から、彼はこんなことなどやりたくなかったのだ。なのに、自分たちが転がり込んできたせいで、彼の人生が変わってしまった。あの時、自分が彼に助けを求めなかったら、彼はこんなに苦しむことはなかったのだ。だからこれは全部自分のせいなんだ。
彼女は突き抜けるような痛みと信頼していた人から受ける凶行の中で、必死にそんなことを自分に言い聞かせていた。やがて意識が薄れていって、彼女はついに痛みを感じなくなった。それでも彼女は最後まで、一度も彼を恨もうとは思わなかった。