ラストスタリオン   作:水月一人

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だからこそ

 騒動から一夜が明けて、孤児院には子供たちの笑い声が戻っていた。ここに避難していた官庁街の人々も、少しずつ家へと戻り始め、街は日常を取り戻そうとしていた。

 

 彼らは自分たちが戴く勇者の力を目の当たりにして、そしてその両肩に伸し掛かる責任の重さを知らされて、このままにしておいて良いのかと考え始めたが、誰も結論は出せなかった。

 

 力を持てば幸せになれる。人は誰しもそう思うから努力をするのだろう。だが魔王をも凌駕する過ぎたる力が、ただの人間にどんな影響を与えるかは誰にも想像できないのだ。誰だって、立ち向かうより逃げ出すほうがずっとマシなのだから。

 

 孤児院の多目的室には人が集まっていた。ペルメル、ディオゲネス、クレア・プリムローズ……ヴァルトシュタイン、ルナ・デューイ、ルーシー、ミーティア、そして部屋を提供しているベル神父。そんなメンバーがもう一人の勇者の片割れ、ジャンヌを囲んで深刻な顔を向けあっていた。

 

 罪悪感に打ちひしがれる鳳を連れ帰ってきたジャンヌは、この期に及んで隠し事はしていられないと、関係者を集めて彼の身に起きていることを話すことにした。彼女は既に、昔の仲間であるソフィアからすべてを聞いて知っていたからだ。

 

 この世界の住人は、実は四柱の神ラシャの影響を受けていて、戦闘力が強いものほどそれに影響されやすい。魔族はそのせいでお互いに殺し合い、ひたすら強い個体を生み出す種族となっているのだが、人間や神人であっても、魔王を超える力を手に入れてしまえば、ラシャは種族間を越えて魔王を生み出そうとしてくる。

 

「300年前の魔王の正体は、そうしてラシャの影響を受けて魔王化した真祖ソフィアだったのよ。でもその魔王が勇者に倒されたことで、今度は勇者がラシャの影響を受け始めてしまった。勇者はその後、忽然と姿を消すわけだけど、帝国はその事実を隠して、魔王の遺伝子を持つ勇者の子孫を駆逐して回ったの。もしかしたら、彼らの中から新たな魔王が生まれるんじゃないかと恐れてね」

 

 室内にどよめきが起きる。彼らはジャンヌの話をすぐには信じられないようだったが、これが帝国の最高機密であると言われては納得せざるを得なかった。帝国と勇者派の戦争は、無駄に長く続きすぎたのだ。そのくせ、鳳が現れたと思ったら一瞬で終わってしまったのだから、他にも何かあったと考えざるを得ない。

 

 しかし、その何かのせいで、あれだけ冷静に見えたヘルメス卿が、実は四六時中攻撃を受けていたとは思いもよらず、神人二人は自分たちの行動を振り返り、青ざめながら尋ねた。

 

「勇者ジャンヌよ。それでその魔王化というのは避けられないものなのですか? もし、今すぐ職務を放棄して養生すれば、治るものなのでしょうか?」

 

 ジャンヌは首を振って、

 

「多分、無理。病気とか、そういうものじゃないのよ。どうも、魔王化が始まると、優越欲求が強くなって攻撃的になるらしいの。元々、魔族ってものは、神人や獣人に対して劣等感を抱いた人間がなってしまった種族だから、他人より優れたいという気持ちが強いらしいのね。

 

 優越感を満たすために、魔族という種族は他者を攻撃し、殺し、その屍肉を喰らい形質を奪う。そうやって勝ったものがどんどん強くなっていき、最終的に誰も勝つことが出来ない魔王が生まれる。

 

 その魔王を生み出すシステムそのものがラシャ……つまり魔族という種族なのよ。システムは、人間が元から持っている感情を利用しているから避けようがない。誰だって、多少は他人より優れたいって思うのは当然じゃない?」

 

 その欲望を無くさない限り、現時点ではこのシステムから逃れる術はないということだ。それを聞いた神人二人は意気消沈している。そんな二人を横目に見ながら、ルーシーが不思議そうに尋ねた。

 

「でも、もしそんなシステムが存在するなら、人類はとっくに魔王に滅ぼされてなくちゃおかしくない? そして人間がいなくなってしまった星では、魔王であっても生きて行けなくなって、いつか何もかもが消滅してしまうんじゃないかな」

 

 ジャンヌは軽く頷いて、

 

「そうね。それで300年前、この星は滅びかけたわけじゃない。その時はどうにかなったわけだけど、今度はどうなるかわからない。この星は、まだ魔王に滅ぼされる前の状態ってだけの話よ」

「あ、ああ……そういうことか」

「本来、生物というのは、環境に適応したものが生き残っていくものなの。ところが、幸か不幸か、人類は環境の方を変えてしまうほどの、大きな力を手に入れてしまった。だからこんな『強者生存』なんて、無茶な進化をすることが可能になっちゃったのね。そして誰かがそのパンドラの箱を開けてしまった。

 

 本当なら理性的であるはずの神人たちが、この世界ではやけに高圧的で人間臭いのも、ラシャのせいなんでしょう。神人は人間よりも強くてその影響を受けやすい。食料が尽きてしまったカリギュラは、ネウロイで魔族を食べてしまったせいでその形質を取り込んでしまい、理性のタガが外れてしまった。

 

 でも、ソフィアはそんなことはなかったそうよ。彼女はある時から優越欲求が強くなり、最後の数年間はとにかくずっとイライラし続けていたらしいわ。なんでこんなに自分の欲望に耐えられないんだろうと思っていて……ある時、ついにそれが爆発してしまったみたいね。

 

 白ちゃんも、いずれそうなる可能性はあるわ。でもソフィアの時と比べれば、彼はまだ冷静で、その段階には至っていないはずよ。だからすぐにでも、このラシャの影響を食い止める方法を探しに行った方が良いんだけど……彼は義務感から、ヘルメス卿を辞められずにいるのね」

 

 ジャンヌの言葉を聞いて、今度はルナが青ざめていた。

 

「きっと、私のせいですわ……ヘルメス卿は、私の赤ちゃんを守るために、犠牲になっていたんですね」

「いいえ、それを決めたの彼なんだから、あなたの責任ってわけじゃないわよ。あなたの赤ちゃんは、私たちの仲間の子でもあるの。もしも同じ立場だったら、私も彼と同じことをしたでしょうね」

 

 ジャンヌのそんな慰めの言葉に、ルナは多少気分が落ち着いたが、それで罪悪感が消えたわけではなかった。彼女は子供を産み育てるということが、どれほど周囲の手助けを必要としているかを痛感して胸が苦しくなった。

 

「ジャンヌさん。質問してもいいですか?」

 

 ミーティアが沈黙を破るように手を挙げていった。ジャンヌがどうぞと促すと、

 

「今の話を聞いてて思い出したのですけど、鳳さんと以前お会いした時、妙な感じだったんですよ。何ていうか、異常な食欲だったっていうか、もうそんなのを通り越して人間の限界を越えてご飯を食べ続けていたんです。私は物理的にどこに入ってるんだろうって、そんなことばかり気にしていましたが……今にして思うと、これが魔王化の影響だったんでしょうか?」

 

 魔族は他者を食べることによって、その形質を得ようとする。鳳の異常な食欲はそれに起因したものだったのだろうかと、彼女は言いたいのだろう。しかし、ジャンヌは首を振って、

 

「いいえ、魔王化の影響であることは確かだけど、それは多分、性欲が食欲に変換されて現れていたんだと思うわ」

「……性欲?」

「魔族という種族は、同性は殺して喰らい、異性は犯して遺伝子を残そうとするのよ。彼はあなたの前に立った時に強い性欲を感じていたはずなんだけど、持ち前の我慢強さでそれを抑え込んでいたから、それが別の形になって現れたのね。

 

 人間の欲求っていうのは、元々生物の生きようとする本能のことだから、性欲も食欲も、自分は特別だと思い込みたい承認欲求なんかも、実は全部根っこで繋がっているのよ。仕事のストレスを抑え込みすぎて過食症になる人もいるでしょう? そういうことよ。

 

 ソフィアも魔王になる前は、異常にお腹が空いていたと言っていたわ。その頃は常にイライラしていたから、怒るとお腹が減るんだと思ってたなんて言ってたけど……」

 

 ジャンヌの言葉を聞いて、ルナとクレアも思い当たる節があると頷いていた。

 

「そう言えば……ヘルメス卿と会う時、あの方はいつもお腹を空かせていましたわ」

「言われてみれば……私はヘルメス卿をお食事に誘ってばかりいましたわ。普通に考えれば、彼の興味を惹くためには、一度断られたなら食事は避けそうなものなのに……何度も同じことを繰り返していました」

 

 ジャンヌとミーティアも加わり、四人が自分たちの前で起きた出来事を確認しあう。そんな中でルーシーは一人だけ、

 

「あの……私はそんなことなかったんだけど?」

「それは多分、彼があなたに、それほど性的な欲求を持たなかったからじゃないかしら……?」

「うっ……そこはかとなくバカにされてる気分だよ」

「まあ、会うといつも喧嘩ばかりしていたからかも知れないわね。きっと、アリスちゃんに対してもそうだったのよ。だから他のみんなが避けられている中で、彼女だけは傍に置いてもらえた……もらえたからこそ、今回被害者になってしまったんだけど……」

 

 気まずい沈黙が辺りを包み込む。クレアはそんな雰囲気を打ち破るように頭を抱えて嘆きながら、

 

「ああっ! それじゃ性的なアプローチは全部逆効果だったのね!? なのに私は、嫌がるヘルメス卿を、あと少し、もうひと押しと迫りに迫って、ずっと彼を追い詰めてしまっていたんですわ」

「そうだ。おまえが悪い、反省しろ」「まったく、ろくなことをしない女だ」

 

 神人たちが容赦なくツッコミを入れる。

 

「で、でも、あなた達だって止めなかったじゃないですか! 私は寧ろ応援してくれてるんだと思ってましたわ」

「うーむ……少しでもヘルメス卿のストレス発散のはけ口になればいいと思ったのだ」

「言い方っ! 言い方ってものがあるでしょう!?」

 

ジャンヌはそんな三人に向かって苦笑しつつも、後悔を乗せた声色で言った。

 

「それは私も同じだから。私は彼に自分のことを愛して欲しいと願った……事実を知っていたからこそ、余計に性質が悪いわ。でも……人を好きになることは、誰にも止められないじゃない」

 

 彼女のその言葉に、自分も思い当たることがあった女性陣がバツが悪そうに口を結ぶ。まるでお通夜のように深刻な雰囲気であったが、そんな中で一人黙って話を聞いていたヴァルトシュタインは、結局のところ、彼がモテるのが悪いんじゃないかと、半ばバカバカしいと思いながらも、

 

「それで……大将は今どこにいるんだ?」

「医務室よ」

「なに?」

「アリスちゃんが起きるのを待っているのよ。とにかく、まずは謝罪しないと始まらないから」

 

 ヴァルトシュタインは、それは酷じゃないのかと言いかけたが、結局は黙っておいた。自分とは違って、まだ汚れていない若者たちにはこういう儀式が必要なのだろう。

 

「そう……医務室ね」

 

 そうしてヴァルトシュタインが押し黙る中で、代わりにルーシーが立ち上がった。彼女はその場にいる全員から、どうしたんだろう? という視線を浴びながら、

 

「ちょっと確かめたいことがあるんだ」

 

 と言って、部屋を出ていった。

 

*******************************

 

 孤児院の子供たちが、きゃあきゃあと遊んでいる、笑い声が聞こえた。

 

 幼い頃、近所の子供たちのそんな幸せそうな声を聞いて、いつも羨ましいと思っていた。

 

 生まれた時からルナの使用人になることが決まっていた彼女には、同年代の子供たちと外で遊んだ経験がなかった。彼女にとってはルナが全てであり、他には何も必要ないと聞かされて育ったから、それが当たり前だと思っていた。ここの子供たちは、親に捨てられ、つらい思いをしてここまで流れてきたのだろうけど、それでも今はあんな風に笑えているのだから、羨ましいなと彼女は思った。

 

 ぼんやりしていた頭が覚醒してくると、消毒液の臭いがして鼻がツンとなった。アリスは今まで一度も見たことのない天井と、周りを真っ白なカーテンで仕切られたベッドの上で目が覚めた。

 

 自分がどうしてこんな場所にいるのか分からなかった彼女は、ここがどこなのか確かめようとして体を起こした。しかし、その瞬間、全身にズキズキとした痛みが走って殆ど動かすことが出来なかった。

 

 一体、どうしちゃったんだろう? 彼女がベッドの中で困っていると、その気配に気づいた部屋の主がパタパタと足音を立ててやってきた。

 

「目が覚めましたか?」

 

 女性はベッドの上で目をパチクリさせているアリスに近寄ってくると、背中に手を回して上体を起こし、それから手にしたロウソクの炎を見るように言った。彼女はそのロウソクを近づけたり遠ざけたりしながら、

 

「うん……問題ないですね。気分はどうです? 吐き気はありますか?」

「いいえ……あの、ここは? どうして私はこんなとこに?」

「ここは孤児院の医務室ですよ。あなたは、明け方に運び込まれたんですが……覚えていませんか?」

「明け方……?」

 

 アリスは首をひねっている。アスタルテは、もしかして彼女がショックで忘れようとしているのかと思い、ほんの少し探る感じで、

 

「……ヘルメス卿に運ばれてきたのですが」

「勇者様に……? あっ」

 

 アリスはその一言で昨日何があったか思い出したらしく、慌てて両手で体をペタペタと触って怪我がないか確かめ始めた。ところどころ擦り傷はあったが、ちゃんと手当されていて、今はもうなんともないようだった。下腹部の辺り……というか足の付根の辺りに痛みを感じていたが、起き抜けに体が動かなかったのは、そのせいだろうか。

 

 それを意識しだすと、彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていった。アスタルテは、それが乱暴された汚辱のせいだと思ったが、案外そうでも無かったらしく、

 

「あの、勇者様は執務に戻られたのでしょうか?」

「いいえ。街もあんなですし、今日はまだ仕事にならないでしょう」

「では、今どちらに? 早く行って差し上げなければ」

「は……? あなた、彼に会おうと言うのですか?」

「え? はい」

「怖くはないのですか?」

「怖い……? どうしてですか?」

 

 アリスはキョトンとした表情でアスタルテを見つめていた。その純真無垢な瞳を見つめていると、彼女は段々と自分が悪いことをしているような気分になってきて、何も悪くはないのに視線を逸らしてしまった。

 

 どうやらこの少女は、自分を乱暴した男のことを恨んではいないようである。だったら、早めに会わせてやったほうがお互いのためだろうか……アスタルテは、ちょっと待っててと言い残すと、ドアを開いて医務室を出ていった。

 

 それから暫くすると、バタンとドアが閉じる音がして、二人分の足音が近づいてきた。アリスがぼんやりとその音の方を見ていると、カーテンの向こうからさっき出ていった女医と一緒に、真っ青な顔をした鳳が現れた。

 

 その顔を見た瞬間、アリスの心臓がドキンと跳ね上がり、火が出るくらい顔が熱くなっていった。それを意識しだすと、彼女は信じられないくらい恥ずかしくなってきて、まっすぐ彼の顔を見ることが出来なくなってしまった。

 

 彼女は膝に掛けていた布団を、顔が半分隠れるくらいまで持ち上げると、パタンとベッドに横になって目だけを出して二人の方に目を向けた。紅潮する顔は耳まで赤く、目も真っ赤に充血している。

 

 その姿を見たアスタルテは、やっぱり会わせるのはまだ早かったかと後悔したが、もはや後の祭りであった。彼女はもう一度出直した方が良いと隣に並ぶ鳳に言いかけたが、そんな彼女よりも先に一歩踏み出して、彼はベッドに横たわるアリスに向かって頭を下げていた。

 

「ごめん! 本当に、本当にごめん!」

 

 恥ずかしさから布団に隠れてしまったアリスは、それを聞いて、あれ? っと布団から首を出した。鳳は、そんなアリスの表情には気づかずに、相変わらず死刑宣告でも受けたかのように、目の下にくまを作り真っ青な顔をしながら、

 

「いくら酒を飲んでいたとは言え、俺は君に取り返しのつかないことをしてしまった。許してくれとは言えない、謝って済む問題とも思っていない。君の心に付けてしまった傷を、俺は癒す方法を知らない。本当に最低な行為だと思う。顔も見たくないと思う。だけど、せめて謝らせて欲しいんだ。ごめん。ごめんなさい。すごく身勝手なお願いだけど、君がまた日常に戻れるよう、どんな償いでもするから、だからどうか……どうか……また元気になって欲しい」

 

 鳳は苦悶に歪む表情のまま頭を下げて、まっすぐ医務室の床を見ていた。横になっていたアリスは彼の脳天を見ながら、なんでこの人は自分なんかに頭を下げているんだろうと思った。

 

「俺はこのまま君の前から消えるから、またお嬢様と一緒に静かに暮らして欲しい。もちろん、彼女と、彼女の子供の生活も、俺がなんとかするから。だからもう俺にされたことは忘れて、元の生活に戻って欲しい。君が自分の人生を歩めるようになるなら、本当に何でもする。本当に申し訳なかった……」

 

 どうしてそんなことを言うのだろうか。アリスはその言葉を聞いた瞬間、今は恥ずかしがっている場合ではないと思った。彼は彼女の前から消えると言っている。彼女は被っていた布団を跳ね上げると、またベッドに腰掛けるように体を起こした。その瞬間、下腹部に鈍い痛みが走ったが、もうそんなことは気にしていられなかった。

 

「あの、顔を上げてください、勇者様」

「いいや……このままで許してくれ。俺は君に恨まれても仕方ないことをした。すまなかった」

 

 アリスは彼女に向かって何度も頭を下げる鳳の肩をグイグイ押して、無理矢理顔を上げるように促した。しかし彼の体はびくともせず、彼は相変わらず地面を見つめたままで動かなかった。アリスはそんな彼の脳天を困惑気味に見下ろしながら、

 

「あの……私はあなたのことを、少しも恨んでいませんよ?」

「……え?」

「なのにどうして、勇者様みたいな偉い人が、私なんかに頭を下げるんですか?」

「どうしてって……」

 

 鳳はその疑問にようやく顔を上げた。久しぶりに見た彼女の顔は、本当に意外そうで何が何だかわからないといった表情をしていた。実際、その通りだったのだ。彼女には、どうして彼がこんなにも苦しそうに謝罪しているのかその気持ちが分からなかった。

 

「あの、その……勇者様にされたことは、とても痛かったし怖かったです。でも、私は自分の立場なら、いつかそういうことが起きるかも知れないと、初めから覚悟していたんです。だから突然だったけど、あの時のことは仕方ないなと思っていました」

「いや、だからこそ駄目だろう? 俺は自分の立場を利用して、君を無理矢理犯したんだぞ……」

「いえ、だからこそです!」

 

 するとアリスはそんな彼の言葉をかき消すように言った。

 

「私はお嬢様の使用人になるために生まれてきました。生まれる前からそう決められていて、それが不服だったわけじゃありません。家には他にも同じような境遇の使用人たちがたくさんいて、私達はとにかく主人に絶対服従で、自分の意見なんて持ってはいけないと言われて育ちました。

 

 ですが貴族の中にはひどい人もいて、使用人を性のはけ口にするような人もいました。中には貴族社会の上下関係を持ち出して、私たちのような者を気まぐれに抱いては、家名に傷がつくからと堕胎を迫るような人たちもいます。それが当たり前だったんです。

 

 私はお嬢様にお仕えしていましたが、そのお嬢様でも逆らうことの出来ない者はおります。お嬢様自身がそうして赤ちゃんを産んだんですし……私たち女を、道具のように扱う者はいくらでもいました。だから私も年頃になったら、そういうこともあるんだろうなと、漠然と思っていました。

 

 だから帝都で勇者様に助けを求めた時、私はいずれあなたにこの身を捧げるんだろうと思っていました。あなたに呼ばれたら、いつでもこの体を差し出そうと、ずっと覚悟しながら暮らしていたんです。だって何の打算もなく、他人を助けるような人がいるなんて思わないじゃないですか。

 

 なのにあなたは私利私欲なく私たちのことを助けてくれて、いつも気を使ってくれました。どうしてこんなに良くしてくれるんだろう? って思ってたら、あなたは私たちだけじゃなくて、生活に困った人たちや、親に捨てられた孤児も無償の奉仕で助けていたんです。

 

 ああ、こんな人がいるんだなって、私はすごく驚きました。そしてわかりました。きっとこれからも、この人は私たちに何も求めないんだろうなって。

 

 だからこそ、私はあなたに恩返しをしたいと思ったんです。あなたのお傍にお仕えして、あなたのお役に立ちたいと思ったんです。私は、あなたが思っている以上に、あなたのことが好きなんですよ? そんなあなたに何かされたからって、いきなり嫌いになったりしませんよ」

 

 鳳は、まさか罪を犯してしまった相手から許されるなんて……ましてやそんな自分のことが好きだなんて言われるとは思わず、とても信じられなかった。彼はもしかして、彼女が二人の立場の違いというものを考えて、わざとそう言っているんじゃないかと疑心暗鬼に尋ねた。

 

「しかし……俺はそんな君の期待を踏み躙ってしまったじゃないか」

「そんなことありません、私の勇者様への憧れは、何も変わってなんかいません」

「どうして……」

「どうしてって……あんなになるまで頑張ってきたんでしょう?」

 

 その言葉が胸の中にすっと入ってきた時、彼はどうしようもなく感情が揺さぶられて、視界が滲んでいくのを止められなくなった。

 

「あなたのお役に立ちたいと思った時から、ずっとあなたのことを見てきたんです。あなたが苦しみに耐え、みんなのために頑張っているのを、ずっと傍で見ていたんです。あの時の勇者様が普通じゃなかったのも、お酒のせいだってことも、いくら私だってわかりますよ」

 

 鳳はどうして自分が傷つけてしまった相手から、こんなに優しい言葉をかけられているのか、わけがわからなかった。ただ、自分の人生の中でも最悪の後悔になるはずの出来事が、彼女の言葉で一瞬にして解けてしまったことに、彼は魔法でも見ているような気分になった。

 

「ごめん……本当に、ごめん……謝るから、だから……どうか許して欲しい」

 

 目からは涙がボロボロと溢れ出して、口からは謝罪の言葉が止まらなくなった。でもその中にはさっきまで一度も出てこなかった、許しを請う言葉が含まれていた。アリスはそんな彼の手を握りしめると、

 

「あの……もう泣かないでください。ちょっと失敗しちゃっただけじゃないですか」

「ごめん……ごめんよ……ごめん……」

「でも良かった。ずっと避けられていたから、嫌われているんだと思っていました」

 

 アリスがいつまでも泣き止まない鳳に向かって、冗談めかしてそんな言葉を口にすると、そんな彼女に嫌われたくないと思った彼はハッと顔を上げ、

 

「そんなことはない。俺は一度も君を嫌いだなんて思ったことはないよ」

「でも、目も合わせてくれなかったじゃないですか」

「それは……」

 

 魔王化の影響があったから……そう言いかけた時、鳳は自分の身に起きている変化に気がついた。

 

 見れば今、自分の手はアリスにしっかりと握られている。彼女の顔はすぐ目の前にあって、くっつきそうなくらいだった。今までなら、こんなことをされたら、耐え難い苦痛が襲ってきたはずなのに……なのに今は彼女がこんなに傍にいても、空腹もやってこなければ性欲も刺激されていなかった。

 

 状況からして、そんなのを感じている場合じゃないというのは分かる。だが、それなら今までだってそうじゃないか。魔王化の影響は、例え深刻な話し合いの席であっても、絶えず彼を襲っていたのだ。なのに、何故今はそれを感じないんだろう……?

 

 そんなふうに、自分の変化に戸惑っている時だった。コンコン……とドアがノックされて、医務室に誰かが入ってきた。タイミングからして、恐らく、ドアの向こう側で中の様子を窺っていたのだろう。

 

「おっほん! お邪魔するわよ~?」

 

 乱入者……ルーシーはバツの悪さからか、わざとらしく咳払いをしながら入ってきた。鳳が、彼女にも恥ずかしいところを見られてしまったなと、涙を拭っていると、ルーシーはそんな彼に向かって続けて言った。

 

「えーっと……お取り込み中のところ悪いんだけど、鳳くん、ちょっといいかな?」

「……なんだよ?」

「単刀直入に聞くけど、鳳くん……今、どんな気持ち?」

 

 そんなもん、最悪に決まっているだろう……と言いたいところだったが、鳳には彼女の言わんとしていることがすぐに分かった。今、どんな気持ちかと言えば、それほど悪くなかったのだ。

 

 その時、彼からは、今まで散々悩まされてきた魔王化の影響が無くなっていたのだ。

 


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