ラストスタリオン   作:水月一人

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第六章・今からそいつを殴りに行こうぜ
ブラックホールに落ちた人はどうなってしまうのか?


 今は近未来。あなたは国際宇宙ステーション(ISS)の乗組員だとしよう。ISSは当初の予定を大幅に過ぎても運用され続け、ついに今年で100周年を迎えようとしている。まるでテセウスの船のように、始めに打ち上げられた部品は殆ど残されておらず、その船体は継ぎ接ぎだらけだ。

 

 だから今日もNASAから、船体のどこぞに穴が開いているから、行って塞いできてくれと指令が下った。あなたは毎日のように穴が開く船に辟易しながら、やれやれと宇宙服に着替えて、ダクトテープとマイナスドライバーを持って船外に出た。

 

 船外活動に慣れっこになっていたあなたはスイスイ宇宙遊泳しながら問題の箇所へと飛んできて、船体から空気が噴射している箇所を見つけた。穴はとても小さいから、こんなのはダクトテープで塞いでしまえばそれで終わりだ。そう思ったあなたは腰のホルダーにぶら下げたテープに手をやった。

 

 ところがその時、あなたはテープを取ろうとした拍子に、うっかりドライバーを手で弾いてしまった。ドライバーはホルダーから外れて宇宙空間をスーッと飛んでいく。このままじゃデブリになってしまう。あなたは慌ててそれを取り戻そうと手を伸ばして……今度はあなた自身がその反動で船体から飛び出してしまった。

 

 手の届く範囲には何もない無重量の中で、あなたはふわりふわりと浮かびながら、目的のドライバーに追いついた。それを腰のホルダーに回収したあなたはホッとしたのもつかの間、船に帰ろうとして振り返り、それに気づいた。

 

 宇宙服にはしっかり命綱が取りつけられていたが、なんとその先端が船体に繋がっていないではないか! 命綱はまるで蛇みたいにうねりながら、あなたの後ろにくっついてくる。どうやらあまりにも船外活動に慣れすぎていて、安全確認を怠ってしまったらしい。あなたは大慌てで仲間の乗組員に緊急事態を告げた。

 

「メーデー! メーデー! 助けてくれ! 命綱をつけずに、うっかり宇宙空間に飛び出してしまった!」

「なんだって? まったく、しょうが無いやつだなあ……いま手が離せないから、そのまま5分ほど待っててくれ。終わったら助けに行くよ」

「はあ!? 5分!? 何を言ってるんだ。船体からどんどん離れていってるんだぞ? このままじゃ地球に落っこっちまう!!」

「そんなの自業自得だろう。こっちは手が離せないんだからそのまま待ってろよ。ところで穴はちゃんと塞いだのか?」

「穴のことなんてどうでもいいだろう!? それより早く助けてくれ!!」

「人命が掛かってるのに良いわけあるか! ああ、クソ、まったく……仕方ないから穴を塞ぐことを最優先とする。おまえはそこで反省してろよ。通信を切るぞ」

「おい! ちょっと! なに言ってんだ!? 冗談だろ……? 助けろ! 助けてくれよ! いや、助けてください!! ねえってばっっ!!」

 

 あなたは必死に助けを求めた。しかし通信回線はもう二度と開くことはなかった。顔面蒼白のあなたの前に、地球がぐんぐん近づいてきている。振り返ればISSは小さな点になっていた……

 

 SF漫画の1シーンにありそうなシチュエーションである。

 

 尤も、そっちでは仲間が必死になって助けてくれて、ハラハラドキドキの展開の末に主人公が助かり、友情が芽生えるのが定番であるが……現実に起きても、案外こんなものなのかも知れない。

 

 と言うのも、我々の常識では、宇宙船から飛び出してしまった宇宙飛行士はそのまま地球に落下してしまうと思いがちだが……実際には宇宙船から飛び出た宇宙飛行士もまた、宇宙船と同じ速度で慣性飛行しているわけだから、放っておけばそのうち元の軌道に戻ってくるはずなのである。

 

 ISSはおよそ秒速11kmで上空400キロメートルを飛んでいるわけだが、ずっと飛んでいられるのは、ISSが地球から離れようとする速度と、地球の引力が釣り合っているからだ。

 

 落下した宇宙飛行士もまた同じ速度で慣性飛行をしているわけだが、彼が地球に近づけば近づくほど(落下するほど)、地球の重力加速度を得て速度が上がる。速度が上がれば地球から遠ざかる力のほうが強くなるわけだから、たったいま地球に落っこちそうになっていた彼は、今度は逆に地球から遠ざかって(上がって)行き、最終的には元の軌道に戻ることになる。

 

 だからまあ、ISSなり宇宙船なりから、例え誰かが落下したとしても、すぐに追いかけたりせずに、慌てず騒がず戻ってくるのを少し待ってから助けたほうが賢明だろう。尤も、戻ってくるまで、酸素ボンベがもてばの話であるが……

 

 因みに、筆者がこの話を知ったのは野尻抱介のロケットガールであったが、これを読んで以来、似たようなシチュエーションを見ても、全然楽しめなくなってしまった。SF界隈ではわりと定番な話なのだろうが、普通に生きていたら知らないほうが良いということは往々にしてあるものである。今頃あなたもあの漫画とかこの映画を思い出していることだろう。同じ沼へようこそ。

 

 それはさておき、さっきさらっと流してしまったが、ISSがおよそ秒速11キロメートルで飛んでいるのは、それが地球の脱出速度だからである。第一宇宙速度とか第二宇宙速度とか聞いたことあるだろうが、その第二宇宙速度がこれにあたる。

 

 意味としては、地球の重力を振り切って衛星を打ち上げるのに必要な速度は、どのくらいか? というものなのだが、意外と簡単に導くことが出来るのでちょっとやってみる。

 

 まずは手始めに地球の引力について考えてみることにしよう。

 

 ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔から鉄球と鳥の羽を落としたら、二つ同時に地面に着地したという有名な話があるが、そんなわけあるかと言うツッコミはさておき、重力加速度が物体の質量に依存しないことは周知の事実であろう。

 

 質量を持つものは皆、万有引力で引っ張り合っているわけだが、その力は非常に微々たるもので、例えば人間同士の間では殆ど引力を感じられない。だが、惑星ほどの規模になるとそれは無視できないくらい大きな力となる。

 

 とにかく分かっているのは、質量が有る物体同士が近づくとお互いに引っ張りあう力が発生する。その力の大きさは、引き合う二つの物体が持つ質量mとMに比例し、距離rの2乗に反比例する。式にすると大体こんな感じだ。

 

【挿絵表示】

 

 これはrメートル離れた、物体mと物体Mの間に何らかの力Gが掛かっていることを意味する関係式である。この物体Mを地球と仮定して、実際の数値を当てはめて計算すれば重力定数Gが導ける。正確な数値はウィキペディアに書いてあるから、今は気にせず話を続けよう。

 

 肝心なのは、地表にある物体mは、特に何もしていなくても常に上記の引力を地球から受けているということである。この力を受けている物体を、地球の半径Rから地球の重力の影響を受けない無限遠∞にまで持っていくエネルギーを計算すると、この式を積分して、

 

【挿絵表示】

 

 になる。なんでって思われるかも知れないが、微分積分ってのはそういうもんだと思って欲しい。筆者も受験生のときに一生懸命やったはずだが、さっぱり覚えてない。そんなんじゃ駄目だ、ちゃんと意味を理解しなきゃという向きもあるだろうが、というか筆者も昔はそうだったんだけど、現在は一番スマートな方法は電卓を叩くことだと思っている。

 

 話を戻そう。ともあれ、地球から飛び出すには、この力に打ち勝たねばならない。それにはどのくらいのエネルギーが必要だろうか? ニュートン力学で運動エネルギーは1/2・mv^2で表せるから、これと先程の式が釣り合えば良い。

 

【挿絵表示】

 

 これを速度vについて解けば、

 

【挿絵表示】

 

 となる。重力定数も地球の半径と質量も既に判明しているから、これを計算すると地球の脱出速度は秒速約11.2キロメートルとなるわけだ。

 

 さて、こうやって式に表してみると分かるのだが、ロケットが地球を脱出するには、自分自身の重さmは関係ないようだ。スペースシャトルのような大きなロケットも、ホリエモンロケットみたいな小さい物も、脱出速度に達すれば等しく宇宙に飛び出して人工衛星になれる。

 

 他にも気になるところがある。この式を眺めていて、実は左辺には限界があることに気づいただろうか?

 

 一般相対性理論は、万物が光速を超えることが出来ないことを示した。だから脱出速度が光速を超えるような天体があったら、それはブラックホールなわけである。

 

【挿絵表示】

 

 この式で天体の質量Mは分数の分子にあるから、天体の質量が重くなればなるほど脱出速度は大きくなり、やがて光速を超えてしまい、ブラックホールになるわけだ。

 

 ところで、この式には質量の他にも変数が存在する。それは天体の半径Rである。半径Rは式の分母にあるから、今度は小さくなればなるほど脱出速度は大きくなる。

 

 これから分かることなのだが、実はブラックホールは質量だけに依拠してはいない。地球も何か物凄い力でゴルフボールくらいの大きさになるまでギューッと圧縮してしまえば、ブラックホールになってしまうのである。そんな莫大なエネルギーをどこから持ってくるんだと言われたら現状無理そうだが、理論上は可能だからいつかそう言うことも出来るかも知れない。

 

 ところで、万物はほぼほぼ質量を持っているから、惑星のような天体に限らず、例えば電子なんかの素粒子もやろうと思えばブラックホールになりうる。これがいわゆるマイクロブラックホールというやつである。

 

 と言うか、そっちの方が簡単だからやってみようぜと科学者が言い出して、世界中が大騒ぎになったのはLHCが稼働する前、ゼロ年代初頭のことだった。多分その関係者がジョン・タイターとなり、後にシュタインズ・ゲートという名作が生まれたのだと思うと、実に感慨深いものである。尤も今では、実は落雷の中でマイクロブラックホールは日常的に生まれているらしいという研究もあって、それじゃあの騒ぎは何だったのかと言いたくなるが。

 

 さて、先程の式を半径Rについて解くと、

 

【挿絵表示】

 

 となり、これがいわゆるシュヴァルツシルト半径と呼ばれるものである。この半径Rの内側に入ってしまったものは、光であってももう外には出られない。そしてブラックホールの中心から、Rの距離にあるのが、いわゆる事象の地平面だ。

 

 ところで、さっき地球もブラックホールになりうると言ったが、実際にブラックホールになってしまったら太陽系はどうなってしまうんだろうか?

 

 我々の常識では、ブラックホールは何でも吸い込んでしまうから、地球がブラックホール化した瞬間に太陽系は消滅してしまうように思えるだろうが、実際にはなんにも変わらない。

 

 万有引力はあくまで質量に比例して大きくなるものだから、質量が変わらなければ地球の引力は根本的には変わらないはずだ。そしてその引力は距離に応じて減衰していくわけだから、今までと同じ条件で運動している天体には何の影響も及ぼさない。

 

 だから最初のたとえ話みたいに、もしもあなたがISSの乗組員だとして、ある日突然地球がブラックホールになってしまったとしても、相変わらずISSは同じ軌道をぐるぐる周り続けている。もちろん、その中で働いているあなたに突然強烈なGが発生したりはしない。相変わらず無重量状態でふわふわ浮いているはずだ。

 

 また、あなたがうっかりドライバーを落として宇宙空間に投げ出されたとしても、暫くすれば元の軌道に戻ってくるだろう。問題があるとすれば、あなたが帰還するための地球がもうないことだけだ。

 

 さて、ここまで読んできたら、あなたがブラックホールに抱くイメージも大分変わってきたのではないだろうか。我々はなんとなく常識的に、ブラックホールが近くにあったらもうお終いだと思いこんでいるが、実はそんなこともないわけである。

 

 実際、我々の住んでいる、この天の川銀河の中心部には、いくつもの巨大ブラックホールがあることが判明しており、我々の太陽系はその周りをぐるぐる周っているのだ。詩的な表現をすれば、我々は既にブラックホールに落ち続けているわけである。

 

 ところで、誰でも一度は考えたことがあるだろうが、実際にブラックホールに落ちてしまったら……事象の地平面の向こう側に行ってしまった人間は、一体どうなってしまうのだろうか?

 

 おあつらえ向きに我々の銀河の中心にはブラックホールがあるから、ちょっとロケットで飛んでいってみよう。

 

 いくつもの恒星をスイングバイして、あなたのロケットはブラックホールに近づいていった。いよいよブラックホールの重力に捕まったロケットは、事象の地平面に落ちないように、ブラックホールの少し上で周回軌道に入る。このときのロケットの速度は、光速に限りなく近い亜光速だ。

 

 ところで特殊相対性理論によると、光速に近づくほどそのロケットの中の時間の流れは遅くなるはずだ。だから地球からこの様子を見ている『私』がいたとすれば、そのロケットに乗ってるあなたの姿は殆ど止まって見えるだろう。

 

 私はこう思うはずだ。あいつ、『ちょっとブラックホールに行ってくんよww』とか息巻いてたくせに、なんで直前で足踏みしてるんだ? それどころか私の目には、あなたの乗っているロケットが、平べったく引き伸ばされて見えてるはずだ。あんなにペシャンコになっちゃったら、とてもじゃないが中の人は生きていられないだろう。

 

 しかし、あなたにしてみればどうだろうか? あなたの乗ったロケットは確かに光速に近い速度で飛んでいるが、それは私から見た場合の話だ。あなたからすれば、ロケットは相対速度ゼロで飛んでるわけだから、ペシャンコになったりせず何も変わらない。そしてロケットは亜光速といっても、慣性飛行しているわけだから、その中に乗っているあなたは重力を感じられない、無重量状態である。

 

 そんなあなたがロケットの窓から外を見たとしよう。ロケットはスペースシャトルみたいな形をしていて、腹をブラックホールに向けてるとする。あなたが上を見上げると、そこには眩い星々の海が見えるはずだ。それは物凄い速度で流れていき、まるで長時間露光した写真のように見えるだろう。

 

 続いて目を下に向けてみよう。すると今度は、打って変わって光を通さない、真っ黒な暗闇がそこには広がっているだろう。それは信じられないくらい真っ黒で、あなたは何かヤバいものに近づいていると恐怖を覚えるに違いない。そして最後に前方を眺めてみると、光の海と、全く光を通さない暗闇とが、まるで地平線のようにくっきり別れているのが見えるはずだ。

 

 さて、いよいよロケットはブラックホールに突入しようと試み始めた。ロケットはゆっくりブラックホールに近づいていき……そしてある瞬間、まるでトンネルにでも入ったかのように、窓の外を見ていたあなたの視界から星々の煌めきが消えてしまった。ついに事象の地平面を通り過ぎたのだ!

 

 この瞬間、それを外から見ていた私の目には、あなたの乗ったロケットがボンと爆発し、炎となって消えてしまったように見えるだろう。私はこう思うはずだ、ああ、あいつ本当にブラックホールに突入して死んじまったと……

 

 しかし、ロケットに乗っているあなたはどうだろうか。あなたが事象の地平面を通過した瞬間、外の様子は見えなくなった。光であっても光速を超えることは出来ないから、もうこの中から外へ戻ることは出来ない。そこまではいい。

 

 だが、その瞬間に私が見たようにロケットは爆発するのだろうか? ロケットは単に高度を下げただけだ。例えるなら着陸態勢に入り、大気圏に突入しただけの話である。ブラックホールの中に大気はないはずだから、空気抵抗も存在しない。中に乗っているあなたからすれば、ロケットは相変わらず自由落下を続けており、無重量状態のままのはずである。

 

 ブラックホールの中では何でもありだから、タキオンなどの超光速粒子も存在しうる。だからロケットも光速を超えて飛び続けているかも知れない。それは分からない。ただ一つ分かってることは、ブラックホールの中に入った物質は重力に引っ張られて、みんな中心にある特異点に集まっていくということだ。だからロケットもいずれ特異点にたどり着いて、そしてボン! と爆発する。

 

 だが、そうなるまでの間はどうなんだろうか?

 

 あなたは相変わらずロケットの中で無重量状態のままふわふわ浮いている。その状態はロケットが特異点に辿り着くまで続くだろう。それはいつだ? 例えば、銀河系くらい大きなブラックホールがあったとして、その中心に辿り着くまでには、光の速さでも何万年もかかるはずだ。ロケットはまっすぐ中心に向かってるわけじゃないから、下手したら何億年ということもありうる。

 

 その間にあなたは寿命を終えて死んでしまうだろう。だから結果は変わらないが、その過程は大いに違う。外で見ていた私からすれば、あなたはブラックホールに吸い込まれた瞬間に、パッと死んでしまったように見えるが、現実のあなたは老衰して死ぬまで普通に生き続けていたのだ。

 

 それどころか、宇宙船の中が快適なら、もしかすると誰かとの間に子供を残すかも知れない。その子供もまた宇宙船の中で生き続けて、たくさんの子孫を作る可能性だってありうる。私にはパッと消えてしまったように見えたあなたの子孫は、一体どこから出てきたのだ?

 

 私が見たあなたと、実際にあなたに起きた出来事、どちらが真実なのだろうか?

 

 それはどちらも真実だ。どうも、そう考えるしかないらしい。

 

 相補性とはニールス・ボーアが20世紀初頭に初めて使い始めた言葉だそうだが、例えば、光の正体は19世紀までは波だった。ところがその後の研究によって、特定の状況では粒子として振る舞うことが分かってきた。じゃあ、光は波じゃなかったのかといえば、そんなことはない。光は波であり粒子でもあるのだ。

 

 それどころか、物質は全て波である。あなたのその手も、じーっとミクロのミクロまで近づいて見れば、波のようにうねっている。普通に生きている我々はそんなもの認識することも出来ないが、これはれっきとした事実だ。

 

 これと同じように、ブラックホールの外から私が見た結末と、あなたが実際に経験した結末は、どちらも真実なのだ。あなたは私からすれば、ボンと炎になって消えてしまったが、あなたからすればそんなことは起きずに、その後ブラックホールの中で天寿を全うしたらしい。

 

 そしてその記録は事象の地平面に記述され、ブラックホールが蒸発するまで残されている。そういう風に、この世界は出来ているようなのだ。

 


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