自分の魔王化を阻止する方法を見つけるため、鳳がネウロイに旅立とうとした時、彼は不思議な違和感を覚えた。まるで自分の体重が倍増したような錯覚に、まさかと思って腰の辺りをひっぱたくと、彼の腰にしっかとしがみついていたルーシーが、痛みに悶えて地面にゴロゴロ転がり出てきたのであった。
どうやら彼女は鳳がフェニックスの街から旅立つ前から、ずっと彼のことを尾行していたらしい。鳳がポータルに入ってしまう前に大胆にもそこを潜り抜け、その後、マニの母親にも、レイヴン達が大勢集まる大通りでも、村の中央広場の騒動の間も誰にも気づかれず、完全に姿を消していたのだ。
今となっては彼女も相当の現代魔法の使い手だと分かっているつもりだったが、それにしてもここまで完全に姿を眩ませられるとは……鳳もこれにはさすがに驚いた。
そう言えば、レオナルドの座学をサボるために、何度も彼を出し抜いたと聞いていたから、もしかすると逃げることと隠れることなら、あの天才以上なのかも知れない。
鳳はその事実に舌を巻きながら、少し呆れ気味に言った。
「つーか、何やってんの、君?」
「何やってるじゃないよ! 鳳くんが黙って一人で居なくなろうとするから、こうしてこっそり着いてきたんじゃないのっ!!」
ルーシーは涙目になりながらも、どうにかこうにか痛みを耐えきると、ボケーッとした表情で彼女のことを見下ろしていた鳳の胸ぐらをつかんで立ち上がった。鳳はその剣幕に恐れをなして一歩引き下がりながら、
「え? いや、居なくなろうなんてしてないよ? ちゃんと帰ってくるって手紙に書いておいたじゃない」
「あんな遺書みたいな手紙読んで、安心する人なんて居ないよ!」
「遺書!? いやいや、そんなつもりは……俺は一生懸命、思ってることを書いたつもりだったんだけど……ちゃんと伝わらなかったのかな? もしかして、家に帰ったら、ミーティアさんたち呆れちゃってるのかしら?」
「……っていうか、何? 鳳くん、本当にそんなつもりなかったの……?」
「ああ。手紙にもそう書いたつもりだが……」
鳳はそう言ってポッと顔を赤らめた。きっと今頃、ミーティアと、クレアと、アリスがあれを読んでるだろう。そう思うと何だか気恥ずかしくなったのだ。
実を言うと、鳳は本当に彼女らの愛を受け入れるためにここに来ているつもりだった。ネウロイで魔王化阻止の方法が見つかるとは限らないが、もしも首尾よく見つかれば、家に帰った後には、彼女らとのバラ色の未来が待っているのだ。
ミーティアは、あんな間違いを犯してしまった彼のことを今でも好きだと言ってくれた。クレアに至っては今すぐ子供が欲しい、それも何人も! と言っているのだ。アリスはその……本当に申し訳なく思ってるからあれだけど、ともかく帰ったらウハウハだ。
だから彼は居ても立っても居られず飛び出してきてしまったのだが、そんなのあのタイミングであの手紙を読んだ者にはわからないから、ルーシーは心配してこっそり着いてきたのだが……
「じ、じゃあ、なんでさっきマニくんにあんなこと言ったの? もし帰ってこなかったらみんなに知らせてくれだなんて……」
「そりゃネウロイは危険だし、死ぬ可能性もあるから」
「ほらみたことか! やっぱり無茶なことしてるって自覚があるんじゃないの! なのにどうして自分勝手に、一人でそんな危険な場所に行こうとなんてするわけ!? 私言ったよね!? これからは何でも一人で決めずに、ちゃんとみんなに相談しなさいって!」
鳳は頭ごなしに怒鳴られて、亀みたいに首を引っ込めつつ恐る恐ると言った感じに言い訳を始めた。
「そりゃ、ちゃんと相談しようとは思ったよ。けど、結局、一人のほうが好都合だと思ったんだ」
「好都合ってなにそれ!? そんなに私たちは頼りないの!?」
「いやいやいや、誤解だって! そうじゃなくって、一人で来たのにはちゃんと理由があるんだよ」
「理由……? 言ってごらんなさいよ」
「うん、ほら、ネウロイって遠いだろう? この惑星の反対側だ。そのくせ道があるわけでもないし、もちろん航路も無いから、正攻法で近づくことはまず無理なんだよ。だから大掛かりな調査をしようと思ったら、とてもじゃないが時間がかかり過ぎてしまう。それこそ、数年単位になるんじゃないかな」
「……うん」
「でも、俺一人なら話は別だ。俺は空を飛べるから、空路でパッと様子を見に行って、帰りはポータルを使って帰ってこれる。これなら、一ヶ月もあれば、そこそこ調べられるんじゃないかと思って、そんで一人で出てきたんだよ」
「う、うーん……」
ルーシーは、わりとまっとうな理由が出てきて返事に困った。彼女は鳳が暴走しているのだと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。彼女はうんうんと唸りながら、
「それでも、私たち仲間くらいには頼るべきだよ。一人で勝手に行かれたらみんな心配するでしょう?」
「いやまあ、そうなんだけどさあ……ちょっと誰にも相談しづらくって」
「どうして?」
鳳は困ったぞと言った感じに、ポリポリと指先でほっぺたをかきながら、
「やっぱこういう時、一番頼りになるのってジャンヌなんだけど、あんなことがあった後じゃ、ちょっと頼りにくいだろう? ……後は、ギヨームが居たら絶対相談してたと思うけど、居なかったし」
「私が居るじゃない! 私じゃそんなに頼りにならない!?」
ルーシーは、仲間だと思っていたのに、まさか自分がスルーされていたとは思いもよらず、目くじらを立てて彼に迫った。鳳はその勢いに気圧されながらも、必死に首を振りながら、
「違うって! だってルーシー、空飛ぶの嫌がってたじゃないか!?」
「……え?」
「オークの群れを追いかけていた時、一人だけ最後まで慣れなくって、キャーキャー騒いでいたじゃないか。なのにネウロイまで飛んでこうだなんて言ったら君、ついてきてくれただろうか?」
「……そ、そうだね」
「こっからネウロイまで、まだ何千キロもあるんだよ。俺のMPも無限にあるわけじゃないから、空路っつっても日に200キロ進めればいいとこで、MP回復してる間は、下に降りて戦闘したりを続けてると思うんだよね。そんな旅にルーシーを誘うなんて、ちょっと思いつかなくってさあ」
そう言われてしまうとグーの音も出なかった。ものすごく軽く言ってるが、彼がこれからやろうとしていることは、ちょっと常識では考えられないような過酷な旅だ。それは彼だからこそ出来ることだが、足手まといが混ざると話は変わる。
ルーシーはなんだか自分の方が間違っていたような気分になって、頭が痛くなってきたが、
「う、うーん……ダメダメ! 悪気がなかったのはわかったよ。でも、やっぱり誰にも言わずに出てくるのは駄目だと思うな。せめてミーさんには絶対に相談すべきだった。それが誠意ってものじゃない?」
「まあ、そう言われちゃ、そうなんだけどさ、言いづらいっつーか、なんつーか……」
鳳はなんだか歯切れが悪い。ルーシーは彼の顔を覗き込むように見ながら、
「何かどうしても彼女には言えない理由とかあったのかな?」
すると鳳はもじもじしながら、
「だって……恥ずかしいじゃん?」
「……はあ??」
ルーシーは彼が何を言っているのか分からず、呆れた感じに首をひねった。鳳はその顔を見て更に顔を赤らめもじもじしながら、
「だってさあ……ミーティアさんに相談したらきっと反対するよ? 今、俺、彼女に行かないでなんて言われたら、絶対決心が鈍ると思ったんだよ。そんで目的を忘れて抱きしめてしまう……ほら! 魔王化って一応、アレすれば緩和できるじゃん? ミーティアさんもそのためなら何でもしてくれるって言うし、なんでもって、おまえ、それ、有り得ないっていうか、嬉しいっていうか、辛抱たまらんていうか、そしたら俺! 彼女のことしか考えられなくなって、そのままどうでも良くなっちゃうと思ったんだよ!!」
「えー……」
「だって、あんなに可愛いんだよ!? 可愛いだけじゃなくって、綺麗で、お茶目で、おっぱいも大きいんだよ!? そんな人が俺のことが好きだなんて、普通に考えたら絶対耐えられないよ……それにクレアも凄いんだぜ! あいつ、お金持ちで、優秀で、絵から飛び出してきたような容姿してるくせに、滅茶苦茶エロいんだぜ!? すげえ勢いで誘惑してくんの。もうセックスのことしか考えてない野獣って感じで迫ってきてさ、俺もあと一歩のところまで、先っちょが入るくらいまで追い詰められたんだ……それがこれからは我慢しなくてもいいってなったら、俺、絶対歯止めが効かなくなると思うんだよね! 多分、ひたすら肉欲に溺れて、今頃セックスしまくってると思うよ。魔王とか、ヘルメスとか、もうどうでも良くなって、ひたすら種付けするマシーンになってる。その自信ある。そして精を吐き出しながら、アリスのことを思い出して、ああ、ごめんごめん、ごめんよってなって、憂鬱になって、それでも許してくれる彼女に甘えてると思うんだ……」
ルーシーはドン引きして一歩二歩……三歩四歩……更に、五歩六歩と、ジリジリ後退していった。鳳は、そんな彼女が能面みたいな顔になってることに気づかずに、なおもクネクネしながら言った。
「だからこのままここに居たら駄目だって思ったんだよ。ここにいたら、彼女らのことしか考えられない……だからせめて彼女らを苦しめないように、魔王化のことだけは片付けておかなきゃって、そう思ったんだよ。俺……人を好きになると、こんなにも世界が違って見えるなんて知らなかった!」
鳳から十分に距離を取っていたルーシーは拳を振りかぶると、助走をつけて思いっきりそれを振り下ろした。
「乙女かっっっ!!!!」
「痛いぃぃーーっ!!」
バチコン! っと景気の良い音が響いて、紙切れのように鳳が吹っ飛んだ。ルーシーはハアハアと荒い呼吸を弾ませながら、ジンジンと痛む拳を手で擦った。
「私の手のほうがよっぽど痛いですぅ、このおバカ!」
「ぶったね……親父にもぶたれたことないのに!」
「いいお父さんだねっ! ああ、もう、いいよ! 話はよくわかったよ! 鳳くんが街に残らなくってよかったって、お姉さん、今痛感してます! こんなキモい人が国のトップだったなんて知ったら、ヘルメスの人たちも嘆くよ!」
「君、わりと辛辣だね」
「辛辣にもなるよ。心配してついてきたら、このザマだもん。本気でこの人これっぽっちも悪気が無かったなんて……」
ルーシーは、長い長い溜息を吐いた。そう言えば、鳳は元々アホみたいに果断なのだ。必要とあれば躊躇なく街に火をつけるし、低レベルのくせに獣人に喧嘩をふっかけるし、アヘンが欲しいって理由だけでボヘミアまで行ってしまうのだ。思い立ったが吉日で、その時にはもう行動を起こしているのだ。
まあ、それで上手く行ってるわけだし、彼の思いつきがあったからこそ、彼女も勇者パーティーの一員としての今があるわけだから、そんなに責めることは出来なかいのだが……ただ、それでも全て納得出来るわけじゃないから、
「はぁ~……話は分かったよ。でも鳳くん、やっぱり一人で行くのは違うと思うな。一人で行動したほうが身軽かも知れないけど、何か決断を迫られる度に一人で決めちゃうわけでしょう? それで今回、散々な目に遭ったばかりなんだから、ちゃんと人の意見を聞ける環境を残しておかないと駄目だと思う」
「うーん。そっか。そうだね……」
「だから、私を連れて行きなさい。私はあまり役に立たないかも知れないけど、何か決めなきゃって時に、一緒に考えるくらいは出来るから」
「良いの? 飛ぶよ?」
「う、うん……」
「じゃあ行こうか?」
ルーシーが提案すると、鳳はあっさりとそれを受け入れてしまった。彼女としては、もう少し嫌がるだろうと思っていたのだが、驚くくらいすんなりと決まってしまい面食らった。どうやら本当に鳳は、ネウロイにちょっと行って帰ってくるだけのつもりで居たらしい。
まあ、実際、話を聞いた限りでは、彼は街に残るよりも、さっさと魔王化の問題を片付けた方が良いように思える。彼女は心配してちょっと損したなと思いながら、二人のやり取りを遠巻きに見ていたマニの方へ顔を向けると、
「それじゃあマニ君。聞いての通り、私たちはちょっとネウロイまで行ってくるから、それを冒険者ギルドに報告しておいてくれないかな? きっとヘルメスのみんなが心配してると思うから……心配は無用。寧ろこの男は死んだほうがマシなくらい元気だったと伝えておいて」
「わかりました」
「いや、わからないでよ」
鳳はまだ尻もちをつきながらぶつくさ言っている。ルーシーはそんな彼を引っ張り上げると、まるで年下の子にするように、彼のお尻についた泥をパンパンと手で払いながら、
「ほら、いつまでも地面に転がってないで、ちゃっちゃと起きなさいよ。まったく手がかかるんだから」
「ちぇっ、なんだよ……そっちの方が年下のくせにさ」
「ならもう少し年上らしく振る舞ってよね。みんなのこと、あんなに心配させて」
鳳は肩を竦めて、直ぐ側に置いてあった荷物を背負うと、既に準備万端で待っているルーシーの手をむんずと掴み取り、
「へいへい、すみませんでしたね。それじゃあ、行くぜ。レビテーション!」
「あ、やっぱちょっと待って! 心の準備が……あっ……きゃっ……きゃああああーーっっ!!!」
そんな叫び声を残し、マニが見守る前で彼らは砂煙を巻き上げて、あっという間に数十メートルの高さまで飛んでいってしまった。そのびっくりするような速さからしても、鳳が以前よりもずっと強力な力を得たことが窺える。
尤も、さっき旅立とうとしていた時は、もっとふんわり浮かぼうとしていたから、多分、今のはルーシーが驚くと分かってて、わざとやったに違いない。ルーシーの言う通り、鳳も案外子供っぽいなとマニは思った。
それにしても、会話に入りづらくて黙っていたが、さっきの話から察するに、鳳はマニの知らない内にギルドの職員だったミーティアと結ばれていたらしい。彼はまだ10歳だから色恋沙汰はよくわからないが、確かに二人は仲が良かったしお似合いだとも思ったが、鳳が一番仲が良かった女の人は、てっきりルーシーだと思っていたから、彼は少し意外に思った。
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河原から飛び立って数十分が過ぎ、ギャーギャー騒いでいたルーシーもようやく静かになってきた。空を飛ぶのに慣れてきたのか、それとも叫び疲れたのか、ちらりと横目で盗み見た表情は相変わらず優れなくて、少々気の毒にも思ったが、ついてきたいと言ったのは彼女なんだから我慢してもらうしかないだろう。
眼下は一面に森が広がっていて、遠くの山を見なければ自分がどっちに進んでいるのかわからなかった。以前は川を辿ったり、オークの群れを追いかけたりしていたから目印には困らなかったが、これからはもっと太陽や星の位置を意識したほうが良いかも知れない。
鳳は今、MP回復用のクスリを調達するために、以前見つけたコカの木が自生している山を目指していた。
出来れば今日中に辿り着ければ良いのだが、流石に距離がありすぎて無理そうだった。だから目的地には明日目指すことにして、今日はそんなに無理せず、途中にある元レイヴンの村に寄っていくのも悪くないかも知れない……
鳳がそんなことを考えていると、鳳の手を握りながら隣を飛んでいたルーシーが声を掛けてきた。
「ねえ、鳳くん? 一人でネウロイに行こうとしてたけど、もしも魔王化が進んだり、その影響が出たらどうするつもりだったの?」
「ええ?」
「そうならないように、ミーさんとかアリスちゃんとかが、体を張ってくれるって言ってたわけでしょう。その好意を無碍にして出てきちゃったら、ミーさんたちも悲しいんじゃないかな」
なるほど、そんな風に取られてしまう可能性もあるのか……彼としては、彼女らの体に溺れたり、ましてや義務的に抱くようなことは嫌だなと思って先走ったわけだが。鳳は少々気まずくなりながら、思っていたことを口にした。
「そうならないよう、すぐに戻るつもりだったし、それに……多分、影響は出ないんじゃないかな?」
「……なんでそう思うの?」
「魔王化の影響ってのは要するに、魔族みたいに闘争本能をむき出しにする力、強制的に本能を刺激してくる不思議な力なわけじゃない? それは俺の脳を直接揺さぶるわけだけど、アリスのお陰でその影響は、欲求を満たせば一時的に緩和することが分かった」
「うん」
「で、その欲求ってのは性欲や食欲、殺人衝動なんかだけど、それならあそこにはいくらでも殺す相手がいるじゃないか。ネウロイは魔族の棲家なんだから」
「あ~……戦ってれば、欲求が満たされるってこと? でも、そんなに上手くいくのかな? 300年前の勇者は女性を抱いていたんでしょう? もしかして性欲じゃないと駄目ってことはないかな」
すると鳳は少し間を開けて、少し言いにくそうに続けた。
「……それは俺も、ちょっと考えたんだ。でも多分、そんなことないんだと思う」
「どうして、そう言い切れるの?」
「……あの時、理性を失っていてもアリスを殺さずに済んだのは、本当は直前にクレアが送ってきた男娼を殺してしまっていたからじゃないかって。あの時、俺は全然自分の力が制御出来なくて苦労してたんだ。執務机を壊して、クレアを吹き飛ばして、そしてツッコミのつもりの裏拳が、あの人を殺してしまったんだけど……たまたま、彼を殺してしまったから、その後に起きた間違いの時に、俺は力をセーブできていたんじゃないかって、そう思うんだよ……だとしたら、あの人には本当に顔向けが出来ないなって……どうすれば償えるのか分からないんだけど」
「そっか……」
彼女のその短い返事を最後に、二人の間に会話は無くなった。日は高く、夜はまだ遠かった。上空の冷たい風に吹かれながら、二人は少し沈んだ雰囲気のままで、ひたすら東の山を目指して飛び続けた。