「我思う故に我ありとデカルトが言った時から、僕たちの肉体と精神は二つに分けられた。科学の進んだ世界ではそんなキリスト教的善悪二元論は評判が悪いけど、僕たちが物事を考えたり、体を動かそうと脳が命令する時、精神とか魂というものが現れてそれを実行していると思うのは、経験則としてそれほど間違っちゃいないだろう。
僕たちは、脳みその中であれこれ思索するわけだけど、その時、脳みそが計算機のように無機質に結果を叩き出しているというよりは、脳の中にある『心』があれこれ思い悩んでいるように感じるのが普通だ。
で、この心がどこにあるのか? と考えた時、僕たちは肉体を超越した魂というものを想像する。だからデカルトが肉体と精神を分けて考えたのも、もっと遡ればプラトンが物質界と精神界を分けたのも、自然な成り行きだったろう。
けど、そのせいで僕たちは、いつか滅びる肉体と、永遠不滅の魂というものを作り出してしまった。肉体が滅びた後、魂はどこへいくのか? そう考えた結果、僕たちは天国とか、精神世界とかいう架空の世界を作り出してしまったというわけさ」
ミッシェルは滔々と話し続けた。その内容の殆どはルーシーには理解できなかったが、ただ少し気になることもあり、その点だけを尋ねてみた。
「今の話だと、ミッシェルさんは天国とか、精神世界の存在を信じてないんじゃないの? そしたら今、私達がいるこの不思議な空間はなんなの?」
するとミッシェルは我が意を得たりとにやりと笑い、
「良い質問だ。その通り、普通の人が考えるような天国や精神世界というものは、もちろん存在しない。だが現に、ここに精神世界は存在している。大いなる矛盾だ。何故、こんなものが生まれてしまったのか……それは人間の正体が情報だからさ。人間の肉体が滅びる時、精神も同じように滅びる。でも、情報は消えないから、このような仮想空間が許される。ではまず、僕たちの精神がどのように生まれるのかを考えてみよう」
彼はそう言うと、まるで子供みたいに椅子の足をカタカタ鳴らしながら続けた。
「知らない人同士が一つの空間に閉じ込められると、まずは天気の話題を口にすることが多いらしい。お互いに相手のことを知らないから共通の話題がない。だから何か無いかと考えて天気に行き着く。どっちも今日の天気くらい知っているし、今日は寒いねとか、暑いのは苦手だとか、いま肌で感じていることなら話題にしやすいのも選ばれる理由だろうね。
ところでこの温度ってのは、実は存在しないものなんだ。温度の正体は分子運動の
他にも例えばバッタは単独で行動している時は、草原の風景に溶け込むような緑色をしていて、それぞれの個体が避けて行動している。ところが、飢饉なんかで食料が乏しくなると集団を形成し始め、わずか1~2世代でまったく別の黄色くてゴツゴツした体に変化する。そしてそれまで避けて行動していた個体は、軍隊みたいに一糸乱れぬ動きをするようになり、時に集団で動物を襲撃したりするようになるのさ。
孤独なバッタと群れのバッタはまるで別の昆虫かというくらいに違う。蟻や蜂なんかもそうだ。彼らはあたかも、群れ全体で一つの生き物になったかのように振る舞う。
人間の心もそれと同じさ。神経網を形成するシナプスは、動物によって違いがあるわけじゃない。牛も馬も猿も人間も、みんな同じだ。なのに人間だけが特別なのは、人間が形成するシナプスの群れが、一人の人間という現象を創発しているからだろう。これが精神の正体なわけだ。故に、人間の肉体が滅びれば精神も滅びる。
でも、肉体が滅びても情報は消えない。例えば岩に刻まれた大昔の絵画は、何万年だって生き残る。そういった、人間が生きていたというような情報は消えない。
そして実は、人間に限らずあらゆる生命は、誕生すると同時に宇宙の果てにあるアーカーシャにその情報が記述されるようになっている。アーカーシャとは、宇宙の果ての境界領域のことで、僕たちの宇宙にある、ありとあらゆる情報はそこに刻まれていて、その写像が物質として現出しているのがこの世界なんだ。
人間が生まれてから死ぬまでの一生は、肉体や精神が滅びても、情報だけがそこに残る。だから何らかの切っ掛けで肉体が復活すると、アーカーシャの情報がそれとリンクして精神も復活する。それがこの世界に現れるという
「よくわからないけど……人間の記憶は頭の中にあるんじゃなくて、実は宇宙の果てにあったってこと?」
「概ね正しいね。実際には人間そのものが……なんだけど、まあ、すぐに理解しなくってもいいよ。死んでも、宇宙の果てに記憶が残っていたから、君の師匠であるレオナルドは復活できたって風に覚えていればいい」
「ふーん……」
「さて、ここからが神の秘密のおでましさ……物質である肉体の情報はアーカーシャに存在する。そして肉体が復活すれば精神も復活する。となれば、実はアーカーシャの情報さえあれば、生命はいくらでもコピーが出来るってことになる。そしてそのコピーは、何も4次元時空の物質界だけに縛られている必要はない。我々の宇宙にはまだ他にコンパクト化された6つの次元が存在するのだけど、その中でなら、肉体を持たない精神体という形で人間が存在することも可能だろう。
実はそうやって、アーカーシャの情報から肉体と同時に精神体をも形成している生命体が、唯一人間なんだよ。だから僕たちは、肉体の他に精神……魂というものの存在を感じられるというわけさ。現実にはアーカーシャに情報があるだけなんだけどね」
「……ちょっと待って? さっきミッシェルさんは、精神世界のような場所は存在しないって言ってなかったっけ?」
「その通り、そういった世界は存在しないよ。この現実世界に、肉体と精神が同時に存在しているんだ。じゃあ、その精神はどこにあるんだ? と言えば、それは物質である人間には絶対に見えないところなんだけど。だからまあ、ある意味そこが精神世界と言っても間違いじゃないかも知れないね」
「……ごめん、複雑すぎてちょっと何を言ってるのかわからない。とにかく、生きている人間には、肉体と精神の二つが存在しているのね? それは間違ってない?」
「ああ、間違いない」
「……でもさっき、ミッシェルさんは肉体があるから精神が生まれるって言ってなかったっけ。創発現象だっけ? なのにアーカーシャにある情報とやらも精神体を作るんなら、それじゃあ人間には精神が二つあることになっちゃうんじゃない?」
「そう! その通りなんだよ」
「え……?」
まさかそんなにあっさりとした答えが返ってくるとは思わず、ルーシーはぽかんと口を開けた。ミッシェルは自分のこめかみの当たりで指をクルクルさせながら、
「人間には速い思考と遅い思考の二つがある。本能と理性と言い換えてもいい。肉体のシナプス結合が生み出しているのは本能の方で、これは人間以外の動物も持っている、生存のために必要な状況判断力のことだ。
対して、遅い思考……理性は未来を予測し行動を変える力のことだ。人間は、目の前に美味しそうなご飯があっても、将来の飢饉を見越して蓄えることが出来る。例えば出掛けに空を見上げて、傘を持っていこうとすることも出来る。他にも、ただの石から綺麗な彫刻を削り出したり、新しい音楽を作ったりも出来る。いわゆる創造性と言うものを持っているのが、唯一人間という動物だけなんだ。
10万年前、神は二足歩行する猿に創造性を与えるために、アーカーシャにあった彼らの記述を書き換えた。それにより、人間は肉体を持つと同時に精神体を併せ持つハイブリッドな生命体に生まれ変わったんだ。
どうしてそんなことをしたのかといえば、人間が未来予測をするにはイデアが必要だったからさ。人間は新たな物体や現象に遭遇する度に、イデアという理想像を参照することで、それが何であるかを判断している。未だこの世には存在しない新たな芸術作品を生み出す時も、自分の頭の中にある理想像=イデアに近づけることで、それを生み出すことが出来る。
僕たちの創造性は、イデアから生まれる。だから神は二足歩行する猿にイデアを与える必要があったんだ。
でもイデアは物質界に用意することは出来ない。そんなことをしたらすぐに地上が溢れちゃうからね。だから神はイデアを収めるための世界を作った。それがエーテル界。そしてそのイデアにアクセスするために、人間の精神体が収められている世界を用意した。それがアストラル界。
精神世界が二つに別れているのは、イデアに人間の精神が混ざらないようにするためだ。人間の精神は不完全だから、完全なイデアのあるエーテル界には存在できないわけさ。そしてこの精神世界が二つに別れているという仕組みによって、面白い現象が生まれる。
おさらいしよう……人間があらゆる事物、現象を正確に捕らえることが出来るのは精神体がイデアを参照しているからだ。僕たちは、新たな現象に遭遇する度に、何度も何度もイデアを参照する……
ところで同じことを何度もするのは効率が悪いから、その内そのイデアの情報を、精神体に
それが
つまり、現代魔法とはそのゆらぎを突いて、対象の認識そのものを誤認させてしまう力の事なんだよ。
そして僕たちの魂は、もともとアーカーシャに記述された情報なんだから、その記述を変えることによって一度に不特定多数の誤認を引き起こすことも出来る。
これが
神人の使う古代呪文や神技もこの系統にあたる。ただし、神人の魔法は予め神に用意されたものだから、レオナルドの幻想具現化と比べると、お話にならないくらい自由度が低いけどね。
ともあれ、大昔から神はこうやって奇跡を起こしてきた。故に、僕たち人間でもアーカーシャにアクセスする術さえ見つければ、いくらでも奇跡を起こすことが出来る。世界そのものを変えることだって原理的には可能だろう。これがこの世界の秘密。
「神々の秘技……?」
また知らない名前が出てきた……情報過多で、いよいよルーシーがげっそりした表情のままで固まっていると、それまで楽しげに語っていたミッシェルは、ちょっとやりすぎたかなと言った感じに肩を竦めてから、話をまとめはじめたようだった。
「誰かがそう名付けたってだけの話しさ。だから、忘れちゃっていい。話を戻そう。この宇宙に住む人間の正体は全て、アーカーシャに記述されている
でも、逆に言えばこれは都合のいいことでもある。僕たちはアーカーシャという場所で一つに繋がっているから、他人に影響を与えることも出来、因果を越えた力、魔法という神の奇跡を起こすことも可能だって言うわけさ。
古代呪文も現代魔法も、やり方が違うだけで、実は同じ現象を起こしているに過ぎない。その違いってのは、古代呪文は機械を用いて行使される秘技。現代魔法は術者のアストラル体を通じて行われる秘技だって、それだけのことなんだ。
だから君が古代呪文を使いたいのであれば、機械のサポートを受ければいいってことになる」
ルーシーは首を捻った。
「でも、神人たちは機械を使ってないんじゃない? 彼らが何か特別な道具を使ってるところは見たことがないよ」
「いや、帝都のど真ん中にあるじゃないか。神人たちが『神の揺り籠』と呼んでいるのが」
「あー! ……そっか。そう言えば、鳳くんもあれが何かしてるんじゃないかって言ってたけど、そういうことだったんだね。機械は手元になくてもいいんだ……あれ? でも、それじゃあ、あれを使えなきゃ古代呪文は使えないのかな……」
ルーシーが期待はずれの結果に落胆していると、
「そんなことはない。君は既に持ってるじゃないか」
ミッシェルは首を振って、彼女が手にしている杖を指差し、
「カウモーダキーは神の兵器。形而上存在が奇跡を行使するために作り出した機械だ。それを使うことで、君にも古代呪文を模倣することが出来るだろう」
「そうか! おじいちゃんが古代呪文を使えたのはそういうことだったんだね……」
「君はたった今、この世界の理を学んだ。まだ消化不良かも知れないけど、いずれ君の身になれば、自ずと杖を使いこなすことも出来るようになるだろう。そうしたら古代呪文を使うことも可能だ。でも、神人とはやり方が違うから、まったく同じってわけにはいかないだろうけどね」
「どうやって使えばいいのかな? 何かスイッチがあるようにも見えないし……」
「使い方はシンプルだ。神でも仏でも何でもいいから願えばいい。それだけさ」
「願う? ……たったそれだけ?」
ルーシーが目を丸くして驚いていると、ミッシェルは簡単だろうと言いたげにウインクしながら、
「そもそも、奇跡ってのは人の願いのことだろう? 神はそれを人間に使わせるために作ったのだから、それが妥当さ。ただし、使いこなすには、この世の理を理解し、奇跡がどのように起こるのかをトレースできなきゃいけないんだけど、君には既にその素養が身についているはずだよ。
君は今、アストラル体として物質世界と切り離されてここにいる。カウモーダキーは君のアストラル体と、物質世界に取り残された肉体との位置情報を割り出し、その中間のどこかにあるアーカーシャの空間座標をインプットしたはずだ。
今後、君が願えばカウモーダキーがアーカーシャの記述を書き換え、奇跡を行使することが出来るようになるだろう。そしてその代償はMPによって支払われる」
ルーシーは自分の手にした杖を掲げ、まじまじとそれを見つめた。レオナルドに貰ったことが嬉しくて、ずっと大事にしていたから良かったものの、鳳とあの迷宮に閉じ込められた時、荷物と一緒にこれを置いてきたら今頃どうなっていたことだろうか……彼女は肝が冷える思いがした。
ともあれ、ミッシェルの話からすると、これでどうにか鳳のもとに戻る可能性が拓けたことになる。
「それじゃ古代呪文を使いたいなら、今からこれにポータルを出してって願えばいいのかな?」
「うん。物質界に戻ってからにした方が良いけど……それにしても、そうか……君が使いたかったのはポータルだったのか」
「何か問題でもあるの?」
ルーシーはミッシェルが少し歯切れが悪いと思って尋ねてみた。
「ポータルというのは空間転移のことだろう? それは思ったよりも難しい技術で、仮にポータルを出したとしても、それがどこに繋がるかわからないから、オススメできないんだよ」
「ポータル魔法って、一度行ったことのある街に繋がるんじゃないの?」
「それはタウンポータルという名の古代呪文のことだろう? あれは機械が転移先の空間座標を計算しているから、いつも同じ場所に繋がるんであって、人間がそれをしようとしても中々難しいものがあるんだ」
ルーシーは困惑した。それじゃここまで来た意味がまったくないではないか。
「困ったなあ……行方不明の人を探すためにどうしても必要だったんだけど」
「おや? 人探しに使いたかったのかい?」
「うん。実は、大切な仲間と遠い場所ではぐれちゃったんだ。私はどうにかしてそこに戻りたいと思ってたんだけど……」
するとミッシェルは打って変わって表情を綻ばせ、
「それなら、その人のことを思い浮かべたら案外上手くいくかも知れない。ポータルの出口が固定できないのは、人間が座標計算を苦手にしているからなんだ。でも、誰かを探したいという明確な意図があるなら話は別だ。人間は、アーカーシャで一つに繋がっているから、君の願いがそれを見つけ出す可能性は十分にある」
「本当に?」
「ああ。絶対にとは保証できないけど。ずっと可能性は広がったと思うね」
「そっかあ……よかった~……」
ルーシーはほっとため息を吐いた。これで死ぬ思いをしてまで、ここに来た甲斐があったというものである。彼女は自分の杖を見ながら、
「ポータルの件はそれで良しとして、これを使えば他の古代呪文も使えるようになるんだよね。出来れば攻撃魔法も欲しいんだけど……」
「君が願えばね。ただし、代償が必要だ。より大きい力、より多くの力を望めば、その都度支払う代償も大きくなっていく。それがMPで賄いきれなくなった時、別の何かで補わなければならなくなるだろう。最悪の場合、命を落とす危険性もある」
「うっ……それは洒落にならないね」
「まあ、やるなとは言わないけど、やるとしたら厳選した方が良いね。例えば、一つしか願わなければ代償は少なくて済むし、君は空間転移のエキスパートになれるかも知れない。僕としてはそっちの方をオススメするよ」
「そっか。私もその方が良いような気がしてきたよ」
ミッシェルはそんなルーシーのことをじっと見つめていたが、ふと表情を曇らせ、
「ねえ? 君はその杖をレオナルドから貰ったって言ってたよね。でも、その使い方は教えてもらえなかったって」
「うん。そうだけど」
「今、君と話していて思ったんだけど……もしかして、レオナルドは代償を支払ったんじゃないか? 何をしたかは知らないけれど、杖を使い続ければそういうこともあり得る。人間はアーカーシャに記述された情報と言っただろう? 情報ってのはつまり記憶のことだ。彼は強い力を行使した結果、記憶を失っている可能性があるんじゃ……」
ルーシーは、言われてはっと気がついた。
「そう言えば……そんなことを言っていたかも。おじいちゃんは何故か勇者のことに関しての記憶が曖昧なんだって」
「ふーん……それじゃあ、僕とここで会ったことも、もう忘れてしまったんだろうね。だとしたら寂しい限りだ。実は僕とレオナルドは同郷でね。それだけじゃなくて、同じ時代に生きていたから、彼とは何度か会ったことがあるんだよ」
「え!? そうだったの……?」
「ああ。彼の方はそれを覚えていなかったんだけどね……僕と彼にはちょっとした共通点があったんだ。それで僕はミトラ神から、彼に会ったらその杖を渡すように託されたのさ」
彼はそんな杖を見て、懐かしそうな目をしながら、自分の過去を語り始めた。