ラストスタリオン   作:水月一人

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トビアスと天使

 フランスのプロバンス地方で誕生したミッシェル・ド・ノートルダムは、ユダヤ人の子孫だったが、曽祖父母が14世紀にユダヤ教からキリスト教に改宗し、それに伴い名前もノートルダムと改めた。ノートルダムとはフランス語で聖母マリアを意味する言葉で、曽祖父はイタリア風にサント=マリーも名乗っていたが、彼以外の一族は主にノートルダム姓を好んで使った。そんな一族の中で、後に予言者として成功したミッシェルは、自身の筆名をしばしばラテン語風に変えて、ノストラダムスと称することがあった。

 

 ミッシェルの祖父は占星術と医術に長けた人物で、プロヴァンス伯に侍医として仕えていたことで、ミッシェルは物心つくと跡取りとして育てられることとなった。祖父から占星術とカバラを学んだミッシェルの占いはよく当たり、彼はすぐに引っ張りだこになった。けれど彼自身は、自分の占いがどうして当たるのかさっぱり分からず、疑問に思っては、いつもそんな自分の評判を恐れていた。

 

 こんな大昔に書かれた数字をこねくり回したり、星を見たくらいの占いで、一体何が分かるというのだろうか……?

 

 彼はそれでも当たってしまう自分の予言を不安に思い、より一層占星術にのめり込んでいった。

 

 自分の占いには何か秘密があるはずだ……そう確信しながら、一心不乱に夜空を見上げて星の研究していたミッシェルは、そしてある時、偶然にも地動説にたどり着いてしまった。

 

 もしかして、この星空が回っているのではなく、太陽を中心に大地のほうが回っているのでは?

 

 彼はそう考えたが確証はなく、当時、そんなことを考えている人など殆ど居なかったから、彼はそんな馬鹿げた考えを誰にも言えずに、ずっと胸に秘めたまま過ごしていた。

 

 ところがそんな不安だらけの少年時代を過ごしていたミッシェルの元に、レオナルドが同じようなことを考えていると言う、風のうわさが流れてきた。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチと言えば、当時の欧州の大スターで、特にミラノの最後の晩餐は彼の数少ない完成作品として、貴族の子女がバカンスになるとこぞって見学に行く定番コースでもあった。

 

 ミッシェルの周りにも壁画を見に行った者たちがおり、バカンスから帰ってきた彼らが一様に目をキラキラさせながら、その凄さを語っていた姿は幼い彼の目に焼き付いていた。

 

 まさかそのレオナルドが自分と同じことを考えているとは……それを知った時から、彼はなんとしてでもレオナルドに会いたいと思うようになっていった。

 

 その最初のチャンスが訪れたのは、彼が大学に入学する前年のことだった。

 

 1515年。従伯父であった前王の崩御によりフランス王に即位したフランソワ一世は、イタリア戦争を継続しミラノ公国へと侵攻した。ミラノ公スフォルツァ家を追放したフランス王は、翌年、停戦協定のために訪れたローマで、そのスフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチを口説き落としてフランスに招聘する。

 

 是非、あなたの知っているルネサンス文化をフランスにも伝えて欲しい。フランソワ一世の熱意に打たれたレオナルドはその要請に応じると、フランス王の用意した馬車に乗ってアンボワーズを目指し、その途中でミッシェルの住んでいるアビニヨンを通り過ぎた。

 

 その噂はあっという間に広まり、物見遊山の見物人で道がごった返す中、レオナルドを乗せた馬車はゆっくりと進んだ。人垣に揉まれながらそれを遠くの方から見ていたミッシェルは、なんとかして彼に近づけないかと四苦八苦していた。

 

 と、その時、彼の願いが天に通じたのか、偶然にも彼のすぐそばで馬車が止まり、中からレオナルドがひょっこりと姿を表した。

 

 恐らくは、長旅に疲れて外の空気でも吸いに出てきたのだろう。もしくは人気者である彼は、少しでも姿を見せてやれば群衆が落ち着くことを知っていたのかも知れない。

 

 彼が出て来た瞬間こそどよめきが起きたが、すぐに辺りは和やかな雰囲気になった。通せんぼしていた群衆も、御者の要請に応じて自然と脇に寄り、レオナルドはそんな人々にお礼をするように手を振ると、馬車の中へと帰っていった。

 

 ただ、そんな中でただ一人、ミッシェルだけが未だ道のど真ん中で、どこか慄然とした表情でレオナルドの姿を凝視していた。いや、彼が見ていたのはレオナルドではなく、その背後に見える、奇妙な男の姿を見つめていたのだ。

 

 輪郭線の無いその男は宙に浮かび、まるでレオナルドを守護するかのように彼の後ろに付き従っている。あれはなんだ? と驚いた彼は、群衆に引きずり出されるまで、道のど真ん中で唖然とそれを見つめ続けていた。

 

「まるでトビアスと天使みたいだったよ。レオナルドの背後に居た男は、明らかにこの世のものではないオーラを放っていた。実際、空飛ぶ人間なんて居やしないんだから、ただの人間でないことはすぐに気づいた。だけど、気づいたからってそれで納得できるわけじゃないからね。

 

 僕は少し取り乱しながら、あれはなんだ? って周囲の人に聞いて回った。でもみんなにはそんなものは見えなかったから、きっと僕が興奮しすぎて気が狂ってしまったとでも思ったんだろうね。気の毒そうな顔をしたり、嘲り笑ったり、やがて熊みたいな大男が腕まくりながらやって来て、早く道を開けろって怒鳴って僕を引きずり倒した。

 

 レオナルドが僕らの街を通り過ぎた後も、僕は友人や知り合いを捕まえては、その時のことを尋ねてみた。誰か一人でも良いから、僕と同じものを見た人は居ないかと思って……そんなのは一人も居なかった。みんなから否定されているうちに、段々、僕は自分の方がおかしいんじゃないかと思い始めた。

 

 でも誰も信じてくれないそんな中で、家族だけは僕の言うことを信じてくれた。みんな敬虔なクリスチャンだったから、きっと僕が天使を見たんだと言って、逆に喜んでくれたんだ。僕にはそれが救いになったよ。

 

 それから暫くして、僕はあの時に見たのは興奮しすぎた僕の頭が作り出した幻想だったと言って、日常に戻ることにした。家族に迷惑をかけたくなかったからね」

 

 レオナルドの背後に天使を見たミッシェルは、翌年、大学に進学すると、すでに故人となっていた祖父の後を継ぐべく医学を勉強しはじめた。流石、学問の府だけあって、大学にはいろんな人がいた。その中には、ミッシェルと同じように地動説を唱える変わり者もいて、彼はそんな仲間たちと議論したり、小旅行したりしながら充実した大学生活を送っていた。

 

 二度目のチャンスが訪れたのは、大学二年目のことだった。見習い医師であるだけではなく、占星術師としても名の知れていたミッシェルは、ある日、王族に伝のある貴族からバカンスに誘われた。

 

 貴族はミッシェルがレオナルドの大ファンであることを知っていて、占いのお礼に彼と会わせてあげると言った。ミッシェルは一も二もなく同意すると、バカンスをアンボワーズで過ごすべく旅に出た。

 

 こうして訪れたアンボワーズのクロ・リュセ城は、しかし厳重な警備に包まれていた。その頃、ドイツ北部で起きたルターによる公開質問状騒動のせいで、カトリック教会は揺れていた。そんな中で無宗派を公言していたレオナルドは、教会の悩みのタネだった。教会は彼をなんとかして改宗すべく、彼を城に缶詰めにしていた。

 

 そのせいでレオナルドに気軽に会えなくなってしまった貴族は、落胆しているミッシェルに謝罪したが、しかし彼は諦めなかった。ミッシェルは僧服に身を包むと、レオナルドを改宗すべく集まった神父たちの中に紛れ込んでしまった。

 

 貴族の誤魔化しもあって、首尾よく城の中に入った彼は、こうして念願のレオナルド・ダ・ヴィンチとの対面を果たした。それは神を信じぬ頑固者と、若き神父という偽りの姿ではあったが、ミッシェルは非常に満足していた。

 

 彼は、レオナルドに改宗を迫るふりをしながら、かの天才の考えを拝聴する機会を得た。そうしてレオナルドの世界観や宗教観に触れ、生命の神秘や宇宙の構造について学んだ。それは教会の教義を信じている手前、否定するしか無かったが、どれもこれも若いミッシェルには斬新で魅力的に思えた。

 

 レオナルドもミッシェルの理解が早く、他の神父たちとは違って頑なに否定するだけではなく、質問したり相槌を打ったりする態度に気を良くし、二人の間には奇妙な友情が芽生えていった。ミッシェルはそんなレオナルドに、お礼にと言って教会の秘術カバラを披露し、レオナルドはそれを気に入って、やがて、おまえみたいなのもいるなら改宗するのも悪くないと言い始めた。

 

 だが、そんな楽しい日々はいつまでも続かなかった。間もなく、ミッシェルの滞在中にレオナルドが体調を崩してしまった。大学で医学を学んでいた彼は病床のレオナルドの下に駆けつけたが、手の施しようがなかった。

 

 教会の神父たちは、今際の際のレオナルドにまだ改宗を迫っている。もう休ませてやればいいのに……ミッシェルが歯がゆく思っていると、その時、死にかけのレオナルドが何故かミッシェルを指差して、こっちへ来るよう手招きした。

 

 彼が慌てて駆け寄ると、レオナルドは口をパクパクして何かを言いたげにしていた。ミッシェルがそっと耳を傾けると、レオナルドは死の瞬間、彼にだけ聞こえる声でこう言った。マイトレーヤと。

 

「マイトレーヤというのがなんなのか分からなかった僕は、それをレオナルドの遺言として胸に刻みつけ、それからずっと気にかけていた。その後、またペストが流行りだすと、僕はペスト医として欧州を駆け回り、あちこちで知己を得た。流行病がようやく収まった後は、その時の縁を頼りに占星術師として身を立てて、気がつけば僕は予言者と呼ばれフランス王に招かれるまでになっていた。

 

 でも、その頃になってもまだ、僕は僕の占いがどうして当たるのかがわからなかった。求められるままに占いをして、予言を残してきたけれど、それが的中する度にいつも不安になった。こんな偶然、いつまでも続くはずないと思っているのに、何故、僕の占いは当たり続けるのか……

 

 そんな心配とは裏腹に、僕の評判はどんどん上がっていった。やがてそれが欧州中に響き渡った時、僕は僕の信奉者の中から、マイトレーヤという言葉を知っている人を見つけた。そしてそれが、遠い異国……インドの神様のことだと知ったんだ」

 

 マイトレーヤという言葉の意味を知ったミッシェルは、東方(オリエント)の宗教に興味を持ち調べ始めた。しかし当時は対抗宗教改革の真っ最中で、ユグノーに苦しめられていたフランス王国でそんなものを研究するのは難しく、彼は非常に苦労させられた。

 

 それでもめげずに、あらゆる伝を頼って東方の文献を読み漁った彼はやがて、それがレオナルドがかつて語っていたプラトニズムと似ていることに気がついた。時代も文化も、言葉も人種も違うのに、これらはどうしてこんなに似ているのだろうか?

 

 まるで人間には何故か共通の宗教観のようなものがあるみたいだ。これは何故なんだろう……? そう考えた時、彼は天啓のように閃いた。

 

 もしかして、人間の魂には共通点があるのではないか? 例えば、自分の頭の中には、肉体を持つ自分とは別の自分が存在する。肉体の自分はそいつによって支配されていて、頭の中のそいつ……つまり精神によって命令し動かされている。

 

 ところでこの精神体とも呼べる自分は一体どこにいるのだろうか? この世界とは違う見えない世界があって、もしかして、そこに居るんじゃないか? もしかして、宇宙は空にあるのではなく、心の内にあるのではないか……?

 

 万物は目に見える物質だけではなく、目に見えない精神も必ず持ち合わせている。そしてその精神は、どこか見えない世界で全てが繋がっているのだ。

 

 そう考えるとミッシェルは、自分の占いがよく当たる理由も分かる気がした。彼はいつも祖父に習った占星術やカバラを行いながらも、ちっともそれが当たるとは思っていなかったのだ。だからいつも、その結果を見ながらも、最後の最後に自分の良心に問いかけていた。

 

 この占いの結果は本当に正しいのだろうか? もしかして間違ってるんじゃないか? そう自分自身に問いかけて、時に彼は占いの結果を変えていた。なんてことはない。彼は占星術をやっているようで、実はいつも自分自身の心に問いかけていただけなのだ。

 

 そして、自分自身の中にある、見えない何かに問いかけて、彼はいつも正しい答えを導き出していた。これは自分の心の内に、見えない何かが潜んでいる証拠ではないのか……?

 

 そう考えた時、彼は自分の目の前に何かが居ることに気がついた。

 

 ハッとして顔を上げれば、そこにはかつてアビニヨンを通り過ぎたレオナルドの背後に見えた、輪郭の不確かな存在が宙に浮いていた。

 


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