ラストスタリオン   作:水月一人

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めちゃくちゃ好きどころの騒ぎじゃねえ

 時を遡ること一ヶ月前。もう一組の鳳捜索隊であるギヨーム、ミーティア、アリスの3人は大森林へ入る直前の村にいた。

 

 帝都へ向かったジャンヌたちと別れてから数時間後、ようやくの思いで乗合馬車に乗り込んだ3人は、ほぼ丸1日のあいだ混雑する車内で押しつぶされながら街道を進み、どうにかこうにか大森林に入る直前の村までたどり着いた。

 

 ここに来るまでで既にクタクタになってしまったミーティアは、ギヨームの提案もあって一泊だけその村に泊まって、次の日に大森林へ入ることにした。彼女は、こうしている間も鳳はどんどん先へ進んでいると思うと気が急いたが、体が動かなくてはどうしようもない。諦めてギヨームの勧めに従うと、宿屋のベッドに沈み込むように身を横たえ、その日はぐっすりと眠ってしまった。

 

 翌朝、昨日の疲れが十分に取りきれてない中、体に鞭打って起きだすと、彼女は遅れを取り戻すつもりで市場へ向かった。冒険者と違って何の取り柄もない彼女は、せめて道中の食事係を買って出たのであるが、その食材の買い出しのためである。

 

 アリスの方はといえばギヨームと一緒に、朝から近隣の牧場に馬を探しに出掛けていた。同じ馬車に乗っていたのに、アリスはまったく疲れを見せていないのは、普段から体を使っている者と、事務仕事ばかりの自分との差であろうか。初日からこんなに足を引っ張ってしまっては先が思いやられる。彼女はため息を吐いた。

 

 買い出しから戻っても、二人はまだ帰ってきていなかった。ミーティアより前に出掛けたはずだから、結構な時間が経っているはずだが、なにかトラブルで起きたのだろうか? 彼女は荷物を宿に預けると、彼らを探しに村の入り口まで歩いてきた。街の入口には見張り台みたいな櫓が立っていて、ここからなら遠くも見渡せる。

 

 彼女がそうして辺りを眺めてみると、二人はあっさりと見つかった。彼らは村からほんの少し離れた農家の軒先で、馬を前にしながら何やら口論をしているようだった。

 

 従順なアリスがあんなに嫌がってるのは、きっとギヨームが無茶を言ってるに違いない。彼女は櫓から降りると、アリスを助けるつもりで小走りに彼らの方へと駆けていった。

 

「あ! 丁度よかった。おまえ、ちょっとこいつに何とか言ってくれよ」

 

 ミーティアが二人の口論を仲裁すべく駆け寄っていくと、思いがけずアリスではなくてギヨームの方がうんざりした表情で助けを求めてきた。対するアリスの方は眉を吊り上げプンスカしながら口を尖らせている。

 

「一体何があったんです?」

 

 彼女が尋ねると、ギヨームはため息交じりに、

 

「朝から馬を探していたんだが中々見つからなくて困っててよ。そしたら運のいいことに、以前に依頼で世話した金持ち農家が、ラバを売ってくれるって言うんで、ちょっと割高だが買うことにしたんだよ。ところが、いざ買おうとしたら、こいつが高すぎるから駄目だってゴネだしてよ」

「最初に決めた予算をオーバーしているんだから、絶対駄目です!」

「だから、これが掘り出しモンだっつーのは分かるだろう!? 朝からそこら中歩き回ってようやく見つけたんじゃねえか。金だって、おまえ、鳳の小切手持ってんだから、いくらでも出せるだろうがっ!」

「ですから、これはご主人様と奥様にお預かりした大事なお金だから、自分勝手に使うわけにはまいりません!」

 

 アリスは一向に引く気配がない。ミーティアは、気が弱そうに見えて彼女も意外と頑固な面があるんだなと驚きつつ、ギヨームに助け舟を出すつもりで、

 

「アリスさん。こういう時はあなたの判断で使っていいと思いますよ。鳳さんも事情を知れば文句を言わないでしょうし、事後承諾でも私に言って貰えれば、私からもお願いしますから」

「いいえ、駄目です。それならまずは奥様にお伺いを立てるのが筋です」

「さっきからずっとこれなんだよ。こっちは旦那を待たせてるっつーのによ」

 

 ギヨームが呆れ顔で肩をすくめる。隣にはラバの手綱を握った農家の旦那さんらしき人物が苦笑いしながら見ていた。きっと二人が口論している間、困惑しながら見守っていたのだろう。ミーティアは彼に申し訳なく思いながらも、

 

「アリスさん、その場で決断しなければならないことは、これからもやっぱりあると思いますし、私もこういう時はあなたの判断で行動して欲しいと思うんですが……」

「いえ、そういうわけにはまいりません」

「どうしてそう頑ななんですか?」

「それは、こういうことをなし崩しにしては、主従関係が壊れてしまうからです」

 

 アリスはぴしゃりとそう言い切った。主従関係……ミーティアは、彼女がそんなことを気にしていたのかと少々面食らいながらも、

 

「言いたいことはわかりますけど、でも、あなたももう鳳さんの奥さんなんでしょう? だったら私たちは対等じゃないですか」

 

 アリスはミーティアから『あなたも奥さん』と言われて、顔を赤らめもじもじし始めたが、すぐにハッと我を取り戻した素振りで、

 

「それとこれとは話が別なんです。私はご主人様の、つ、つ、つ、妻である前に、下僕でもありたいんです! この気持ちは、ご主人様にお仕えすると決めた時から変わりません。ご主人様が私の帰る家、守るべき領土、そして法なのです。ですから、絶対にご主人様、奥様の信頼を裏切るようなことはしたくないんです」

「うーん……それは良くわからないです。もしアリスさんが私のことを信頼してくれると言うのなら、私を信じて自分の判断を優先して欲しいと思うのですが……これは詭弁でしょうか」

「いえ、奥様のおっしゃることは正しいと存じております。ですが、それでもお金の取り扱いに関しては、私は引くつもりはありません」

 

 アリスは、奥様と仰いでいるミーティアの説得にも応じず、頑として自分の考えを曲げようとしなかった。これには流石のミーティアも辟易して、どうしてここまで拘るんだと、半ば呆れながら問いかけた。すると彼女は真剣な表情で、

 

「お金の魔力というものは、私たちの常識では決して測れないものですし、測ってはいけないものなんです。真面目だと思っていた人が、信じられない額を着服したりすることもあれば、主人のただの勘違いで数十年来仕えてきた使用人が、理不尽に罪を着せられ命を落とすことだってあります。

 

 たかが十数年でしかありませんが、貴族の従者としてお仕えしてきた私が知る限り、信頼関係が壊れるのは必ずお金からでした。ご主人様、奥様からしてみれば端金でしかないものに、悪魔のようになれるのが人間なんです。

 

 私はルナお嬢様の従者として、長年お嬢様の財産を管理しながら、いつも恐々としていました。お嬢様の従者になるために生まれてきた私には、この関係が壊れてしまったら、どこにも行く場所が無かったんです。

 

 だからある時、私はお嬢様にお願いしたんです。お金を使用する時は、必ずお嬢様の許可を頂きたいと。そうでない時は、どんな理由があろうともお金は使わないと。お嬢様はそれを受け入れてくれました。それで私は心の底からホッとしたんです。

 

 ですから奥様。私はこれからもあなたのお金を使う時は、必ずあなたの許可を頂きたいのです。どうかこればっかりは、わがままをお許しください」

 

 ミーティアは思わず黙りこくった。今までもルナの財産を管理していただけあって、アリスの言葉は説得力があった。草を食って生きていたような男だから、お金持ちのイメージは全くないのだが、ヘルメス卿となった今の鳳は相当の金持ちだった。彼の小切手は、下手すると国庫に直結している。アリスは、たかがお金と言えるような額を管理しているわけではないのだ。

 

 なるほど……とミーティアは感心した。もしもそれが自分なら、生きた心地がしないだろう。いや、それどころか、とっくに着服しててもおかしくない。その自信すらある。彼女はう~ん……と唸り声をあげると、キラキラとした目で彼女のことを見上げているアリスの肩を叩いて、

 

「……あなたの気持ちはわかりました。これは私のお金というわけではありませんが、これからは何かあった時は必ず一緒に考えて使いましょう」

「はい、奥様」

「面倒くせえなあ……」

 

 二人のやり取りを見ながら、ギヨームがうんざりするようにぼやいていた。

 

 ともあれ、馬がなくては移動すらままならないので、その後、ミーティアの判断で目的のラバを購入することにした。ギヨームはうんざりしていたが、農家の旦那さんの方は感心した様子で、この話を自分の使用人も聞かせてやると言って帰っていった。アリスの管理する財布の紐の固さもさることながら、彼女の鳳への忠誠心も固く、もはや愛を越えて崇拝に近いようだった。

 

 ラバを手に入れた一行は、出発の遅れを取り戻すつもりで、宿をチェックアウトするとすぐに大森林へと入った。森は夜が訪れるのが早いので、少しでも距離を稼ぎたい一心で急いだわけだが、大変だろうと思われた移動は信じられないほどスムーズで、初日にも関わらず結構な距離を進むことが出来た。

 

 と言うのも、例のオークが作り上げた通り道は思いがけず交通量が多くて、非常に歩きやすかったのだ。ギヨーム達は大体30分くらいの間隔で、行商人のキャラバンに出くわした。彼らは景気の良いヘルメスで一儲けしようと、新大陸から渡って来た商人たちだった。

 

 道は全然整備されていないというのに、どうしてこんなにひっきりなしに商人が通るのかと言えば、実は勇者領は13国ごとに関税があって、既存の街道を通ろうとすると、ヘルメスに到着するまでにかなりの税金を支払わねばならなかったのだ。

 

 それが、大森林を通れば一切税金を払わずに済むので、新大陸から来た商人たちは多少リスクを負ってでもこっちを通りたいわけである。

 

 おまけに、これだけ多くの人間が通れば野生動物も警戒して近づかないから、道は思ったよりも安全であり、更にはヘルメスに入れば、鳳が実行した関所撤廃の恩恵を受けられるから、一攫千金を狙う中小規模の行商人が多数利用していたのである。

 

 ある意味、この物流がヘルメスの好景気の正体であり、勇者領が関税を取るためには、両国間で街道を整備して協定を結ぶしかないのであるが、連邦議会はロバート憎しで身動きが取れなくなっていた。

 

 それは両国にとってあまり良いことじゃないので、出来るだけ早く是正した方が良いのだろうが、弱小商人は今のほうがよっぽど稼げるので、ロバートにはもうちょっと頑張ってほしいというのが本音だろう。

 

 ともあれ、街道を整備すればヘルメスへの物流が一気に改善するという鳳の目論見は正しかったわけであり、アリスはそれを知るとまるで自分のことのように喜び、さすが御主人様ですと胸を張っていた。ミーティアはそんなアリスの姿を見て、彼女は本当に心の底から彼のことを信頼しているのだなと、微笑ましく思っていた。

 

 その夜……一行は川沿いから少し離れた森の中でキャンプを張ることにした。水場を避けたのは虫が多いのと、なんやかんや人通りがあるのであまり落ち着かなかったからだ。

 

 ギヨームは手頃な木にタープを渡して簡易なシェルターを作ると、夜の間の見張り番を決めてさっさと寝てしまった。休める時に休めないと道中が大変になると言う彼の言葉は良くわかっていたが、あまり旅慣れていないミーティアは彼のようにすぐに眠ることが出来ず、最初の見張り番を買って出た。

 

 森の中はしんと静まり返っており、フクロウの鳴く声くらいしか聞こえてこない。パチパチと焚き火が爆ぜる音を聞きながら、じっと炎を見つめていたら、いつの間にか時間が経っていたのであろう、交代番のアリスが寝床から起きてきた。

 

「奥様。そろそろ交代いたします」

「もうそんな時間でしたか……寝覚めにコーヒーでもどうです?」

「でしたら私がお淹れします」

「いえ。このくらいのことで遠慮しないでください。私たちはもう家族なんですから」

 

 ミーティアが何気なくそう言うと、アリスはハッとした表情をしてからモジモジと顔を赤らめた。ミーティアは思わず口をついて出た言葉だったけど、ちょっと臭かっただろうかと反省したが、その言葉はわりとアリスには好評のようだった。

 

 彼女はミーティアからコーヒーの入ったカップを受け取ると、それを両手で持ちながらフーフーと息を吹きかけて、

 

「……家族って、暖かいものだったんですね」

「……え?」

 

 ミーティアが首を傾げて彼女を見ると、アリスはほんの少し遠い目をしながら、

 

「私には生まれた時から家族というものが居なくって……本当はちゃんとお母さんも居たんですけど、お嬢様の従者になることが決められていた私には、家族というものが初めからないことにされていたんです」

 

 どういうことだろうか? いまいち判然としない言葉に戸惑っていると、アリスは何から話せば良いのかと言った感じに言葉を選びながら、自分の身の上を話し始めた。

 

「私のお母さんは、いわゆるお手つきだったんです……お母さんも私と同じように、貴族の従者になるために生まれてきた人で、子供の頃から主人に尽くし、そして年頃になったら、当たり前のように貴族に抱かれました。そうして生まれたのが私だったんです。

 

 だけど、普通、使用人は貴族と結婚することは出来ません。だから私は初めから父親が居ない子供として生まれたんですが、困ったことに使用人であるお母さんに子供が居ることがわかったら、誰が父親であるかも大体分かってしまうから、私にはお母さんも居ないことにされてしまったんです。

 

 お母さんは使用人をやめたら、一人では生きていけなかったから、泣く泣く私を手放したそうです。それで私はデューイ家に貰われて、お嬢様の使用人なるためだけに育てられたんです」

「……そうだったんですか」

「私は物心ついた頃には、もう仕事を覚えるために教育係をつけられたんですが……多分、その人が私のお母さんだったんだと思います。でも、それを何度確認しても、彼女は一度もそうだと言ってくれたことはありませんでした。彼女は私に根気よく仕事を教えると、ルナお嬢様だけが家族だと思って、彼女のためだけに生きなさいと言って去っていきました。その後、彼女とは会っていません」

 

 それでアリスは死ぬかも知れないと分かっていても、帝国軍に追われるルナを見捨てず一緒に逃げ続け、その後、帝都でアイザックを殺してしまった彼女を庇って、殺されるかも知れないにも係わらず、必死に鳳に縋り付いたのだろう。彼女にとって、ルナが全てだったのだ。ルナがいなくなってしまえば、アリスにはもう生きる理由も術もなかった。

 

「でも、それは今までの話です。家族のいない私は、主人を失えば今までなら死ぬしかありませんでした。ですが、ご主人様がそんな私の境遇を変えてしまったんです」

「変えた……?」

「はい。今までのヘルメスなら、従者の子に生まれたなら、従者以外の仕事をして生きていくことが許されませんでした。私はルナお嬢様の物とされ、彼女がいなくなってしまえばそれまでです。ところが、ご主人様がヘルメス卿になられてからは、それが許されるようになったんです。

 

 農家の人達が商売をしたり、誰でも自由に領内を移動しても良くなりました。外国から大勢の人たちが訪れて、色んなものを提供してくれて、私も自分の意思でお給金をいただけるようになれたんです。女性が働きに出るなんて、勇者領に住まわれていた奥様からすれば当たり前のことかも知れませんが、これって凄いことなんですよ?」

 

 ミーティアは頷いた。恋破れてヘルメスに来た時から、それはずっと感じていたことだった。この国では女性が働くことなんて普通ならありえず、仮に働く女性がいたとしたら、それは大体が水商売だった。後は家族の手伝いで、店番をしているくらいのものだろう。

 

 だから、こっちに来てから貴族のパーティーや、農家の集団お見合いなんかに参加する度、いつも閉塞感のようなものを感じていた。そして彼女がギルド職員として働いていることを知ると、例外なく男性たちは及び腰になった。

 

 ところが、鳳がこの国の領主になってから、たった数ヶ月のことでその空気が一変してしまったのだ。今の彼女は以前のような閉塞感を感じなかった。何となくだが、この国が、ようやく自分のことを受け入れてくれたんだなと、そんな風に思っていた。

 

 ミーティアがそんな感想を呟くと、アリスは薄く笑みを浮かべながら、

 

「もし、もっと早くご主人様がこの国を変えてくれていたら、私は今頃お母さんと一緒に暮らしていたかも知れません。でも、そしたら私はご主人様に出会うことも出来なかったでしょうから、こっちの方が良かったかも知れません……」

「……そう考えると、不思議な縁ですね。私たちが、こうして森の中で焚き火を囲んでいるなんて」

 

 二人はコーヒーを飲みながら、暫くの間そんな会話を交わしていた。

 

********************************

 

 アリスに火の番を代わってもらって、ようやく寝床についたミーティアは、それでも暫くは眠ることが出来ずに、ハンモックの上で色々考えごとをしていた。

 

 と言うか、考えなしに飛び出してきてしまったが、この旅の終着点に本当に鳳が居るのか、彼女は信じきれていなかったのだ。何しろこっちは地べたを這っていくしかないのに、相手は瞬間移動したり、空を飛んだりして行動するのだ。だからもし、彼とどこかで再会することが出来たとしても、その時はこっちが追いついたというよりは、あっちが見つけてくれたと言った感じの再会になるのではないか。そんな旅に、彼女らを巻き込んでしまって本当に良かったのだろうか。

 

 案外、自分はギヨームが止めてくれるのを期待して、わがままを言っていただけなんじゃないだろうか。何故か今回は皮肉屋の彼が止めなかったためにこんなことになっているのなら、今からでも遅くないから、やっぱりフェニックスで待とうと言いだし方が良いんじゃないだろうか……少なくとも、アリスをこんな危険な旅に付き合わせるよりはそっちの方が良いのかも知れない。

 

 彼女はそんな後ろ向きなことを考えては、ますます眠れなくなっていた。

 

 それにしても、アリスの鳳への想いは凄いと言うか、少し圧倒されるものを感じていた。彼女は鳳のことを尊敬しているだけでなく、ちゃんと愛を持って向き合っているのだ。彼女の見ている世界で、鳳はただ格好いいだけではなく、たくさんの恵まれない人々を導く立派なリーダーなのだ。自分みたいに、いつも一緒に居て仲が良かったから、なんとなく好きになっちゃったのとはわけが違った。彼女はなんというか、命を懸けて彼のことを愛しているのだ。そんなのに、太刀打ち出来るのだろうか?

 

 ミーティアはため息混じりに体を起こした。さっきからどうもハンモックに慣れなくて、寝返りが打てずに苦労しているせいか、だんだん目が冴えてきてしまった。寝る前に飲んだコーヒーのせいで、心なしか尿意も覚えていた。これは一度、お花摘みのついでにアリスのところで焚き火に当たってこよう。彼女はそう思ってハンモックから降りた。

 

「あれ……?」

 

 ところが、彼女が寝床から出てアリスの様子を見に行くと、そこには飲みかけのカップがあるだけで、彼女の姿は見えなかった。薪はちゃんと焚べてあるから、そんなに遠くには行っていないだろう。

 

 どしたんだろう? と思いながら辺りを見渡すと、少し遠くの方で何やら人の気配がした。もしかしてアリスかな? と、彼女は気配のする方へ歩いていった。

 

 しかし、よくよく考えてもみれば、こんな暗がりで一人ですることなんて、自分と同じくトイレくらいしかないだろう。だとしたら、その様子を見に行くなんて野暮な話である。ミーティアはそう思い、やっぱり引き返そうとしかけたが……

 

 ところが、その時……何故か行く先からハァハァという、なにやら苦しげな吐息のような音が聞こえてきて、彼女は引き返そうとした足を止めた。

 

 女性のものらしき息遣いは断続的に聞こえてきて、いかにも何かに耐えている感じだった。昼間の様子からして、アリスに何か持病があるとは思えなかったが、もしかして隠しているだけで、本当はあったのかも知れない。

 

 ミーティアはそう思い、緊急事態かも知れないことを考慮して、悪いと思いながらも声のする方へと近づいていった。すると……

 

「ハァハァ……ハァハァ……ご主人様……ご主人様……お慕いしております、ご主人様……ハァハァ……」

 

 クチュクチュという水をかき混ぜるような音と、鼻にかかったアリスの声が、まるでピンク色の靄になって体にまとわりついて来るかのように、ミーティアの耳に届いてきた。何をしているかは一目瞭然、いや一聴瞭然だったが、考えが追いつかず、彼女は暫しその場で呆然と立ち尽くしていた。

 

「はわわわわわ」

 

 しかし、ようやく何が起きているのか理解が追いついてきた彼女は、じわじわとこみ上げてくる羞恥心から逃げるように、声を漏らさないよう必死に口を抑えながらその場を後にした。

 

 ようやく焚き火のところまで帰ってきたミーティアは額から流れ落ちる汗を拭い、はあはあと苦しげな喘ぎ声を漏らしながら、絞り出すようにつぶやいた。

 

「……めちゃくちゃ好きどころの騒ぎじゃねえ」

 

 気がつけば全身冷や汗でぐっしょりしており、そのせいか尿意なんてもう吹き飛んでいた。

 

 アリスのことを見ている限り、彼女が鳳のことを慕っているのはわかりきっていたことだが、その愛はミーティアの想像を遥かに越えていた。彼女は鳳を尊敬しているだけではなく、きっちり欲情してもいたのだ。

 

 と言うか、こんな森の中で一人で慰めちゃうくらい好きってどんだけなんだ……?

 

 ミーティアはドン引きした。彼女だって彼のことが好きだが、流石にそこまでしちゃうほど恋しくはなれない。かも知れない。いや、やろうと思えば出来なくもないが、普通はしない。ところがアリスはそれが我慢出来ないくらい、彼のことが好きなのだ。

 

「あ、あかん……あれはもしかして、相当のライバルなのでは?」

 

 いつもルナという神人と一緒にいたから目立たなかったが、アリスも普通にしていれば相当の美少女なのだ。と言うか、彼女の生い立ちから察するに、父親は神人に違いない。そのハーフであるアリスが可愛くないわけがない。そんな子が、好き好きオーラ全開にして迫ってきたら、果たして鳳は耐えきることが出来るのだろうか。

 

 ミーティアはこの期に及んでようやく危機感を持ち始めた。思えば、クレアといい、アリスといい、二人とも自分と違って処女でもなければ、滅茶苦茶エロいのだ。オボコの自分じゃ到底太刀打ちできないのではなかろうか。

 

 やはり待っていたら駄目だ。あの男を手に入れるには、追いかけていって無理やり所有権を主張するしか他に方法はないだろう。

 

 彼女はまた新たにそう決意すると、アリスに覗いていたことがバレないように、こっそり寝床に戻っていった。

 


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