ある日、鳳が熟練左官工の如く壁にうんこを塗りたくっていると、ゴトッと音がしてキッチンの後ろの辺りに扉が出現した。金粉を伸ばすような繊細な作業に没頭していた彼は、不意に鳴ったその音に一瞬ムスッと顔を上げたが、すぐにまた集中して作業に戻り……そして今度はハッと顔を上げた。
最近は壁にうんこを塗る作業にすっかり慣れてしまって忘れていたが、そもそも自分たちがそんなことを続けていたのは、迷宮に閉じ込められたからだった。この迷宮は注文が多くて、部屋ごとに置かれている立て看板に書かれていることに従わなければ先に進めないのだ。そして今回は壁にうんこを濡れという有り得ない指令だったわけだが……ついにその有り得ない指令を、やり遂げたのだ! やったぜ!
……と、普通なら諸手を挙げて喜びそうなものだが、その時の鳳は恐ろしいほど冷静だった。と言うのも、そもそもその前のセックスしないと出られない部屋からして、ビギナーの彼にしてみればハードルが高すぎたのだ。なのに、それをクリアした先に待っていたのがこの部屋なのだから、ここを抜けられたからといって、それで全てが終わるとは限らないではないか。
彼はぬか喜びしてはならないと、まずは一人で偵察してこようかなと思い、扉の前まで移動してきた。果たして扉を開けて覗き込んでみたら、その先は真っ暗な通路となっており、一つ前の部屋みたいに入ったが最後、また閉じ込められるような気がして、彼は二の足を踏むのであった。
やはり、ここはミーティアに報告してから、二人で進んだ方が無難だろうか。しかし、本当に彼の不安が的中し、この先に進んだらまた有り得ない指令が待っていたとしたらと思うと、憂鬱だった。何しろ、うんこを濡れの後なのだ。それを上回る指令なんて、それこそ、うんこを食えとか言い出しかねないではないか。流石にそれは嫌すぎる。
鳳がそんな風に、どうしよっかな~……とクヨクヨ悩んでいると、すぐ傍にあった立て看板の文字が焦れったそうにスーッと変わり、
『大丈夫です。これで最後です』
「……本当に?」
『本当の本当です』
「そんなこと言って、本当は僕たちの反応見て楽しんでるんでしょう?」
『疑り深い人ですね。そんなことしないから早く進んでくださいよ』
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ……」
鳳は看板とナチュラルに会話してからため息を吐くと、手を爪の間まで熱心に洗ってから寝室にしているラブホ部屋へと戻った。
「え!? 扉が出現したんですか?」
部屋に入るとミーティアはピンと綺麗にベッドメークしているところだった。他にやることもないからこの一ヶ月ですっかり磨かれてしまったスキルだったが、どうせ一晩でグシャグシャになるのだから、そこまでなくていいのに、彼女は毎日洗濯機を回してはシーツを清潔に保っていた。
この世界には洗濯機が無いから、こんな便利なものがあるのが嬉しいんだと彼女は言っていたが、多分それだけじゃないだろう。なにしろやってることが不衛生過ぎるから、逆に普段の生活が几帳面になるのだろうか、鳳もそうなのだが、この生活を始めてから二人はびっくりするほど規則正しい生活を続けていた。
ともあれ、今日も一仕事をやり終えて、あとは二人カウチでチュッチュしながら盛り上がって来たところでベッドに入るだけと思っていたミーティアは、思わぬイベントが発生して少し思考停止してしまったようである。自分で扉が出現したと言っておきながら、それが意味することが分からなかった様子で、暫く腕組みしてから、ようやく気づいた感じに、
「あ、出口が現れたんですね!? でも……どうせ続きがあるんでしょう?」
「俺もそう思ったんだけど、看板がこれで最後だって言ってる」
「本当に~?」
彼女は疑り深そうにこっちを見ている。まあ、その気持ちは分からなくもない。たった今、鳳もまったく同じように思っていたのだ。
ところで、壁にうんこを塗りたくっていたのは自分たちのくせに、どうして二人とも、それがもうじき終わるということに気づいていなかったのかと言えば、それはもちろん、二人ともちゃんと壁を見ていなかったからだ。
何しろやってることがやってることだけに、そんなものを正視していたら、とっくに頭がどうかなっていただろう。だから二人とも、うんこがすげえことになってきた段階で、意識的にあまり壁を見ないようにしていた。そして目的も理由も忘れ、ただ機械的にスペースを見つけてうんこを塗ることに集中し、たまに思い出して発狂しそうになったら、ひたすらセックスして発散した。
そんなストレスフルな生活が終わろうと言うのに、二人ともなんだか気分がもやもやしているのは、その先に待ち受けているものがあまりにも未知過ぎたからだ。
元々、ここへは鳳の魔王化を阻止する方法を探しに来たわけだが、閉じ込められてしまい、すったもんだの末に、目的がここから脱出することに変わってしまっていた。
そしてそれがようやく終わると分かった時、彼らは当初の目的を思い出してホッとするよりも、不安の方が強くなったのだ。
アマデウスの迷宮を見つけた時は、かつての勇者パーティーのリーダーである彼のクオリアに期待していた。
だがこの一ヶ月でそんな考えは消し飛んでしまった。何故って、こんなアホで馬鹿でドラえもんな男が残した迷宮なんて、たかが知れてるではないか。
だからこの先に進んでも大したお宝があるとは思えず、そしてそれが確定した時……自分たちが、ただ、ネウロイまでうんこを塗りに来ただけと確定してしまった時……頭がどうにかなってしまうんじゃないかと思って、二人はあまり気乗りしなかったのだ。
「……まあ、先に進むにしても今すぐじゃなくていいよね?」
「……そうですね。私、まだ作ってない料理も有るんで、どうせ最後なら、ここの冷蔵庫が使えるうちに、作れるだけ作っちゃいますね」
「手伝うよ」
そうして二人はその日はドアに背を向け、キッチンに並んで料理した。それはここに来て一番豪勢な夕食だった。食事を終えた後は、カウチに座って冷蔵庫のお菓子や飲み物をつまんだり、おしゃべりしたりした。いつもならこの後、どちらからともなく激しく求め合うのだが、その日はそんな気が全く起こらず、二人は遅くまでお酒を交えながら将来のことを話し合ったり、愛を語り合ったりした後、手をつないで同じベッドで眠った。
翌朝、すっかり健康なうんこを生産する機械と成り果てていた鳳が、起きてすぐトイレにいくつもりで隣の部屋に向かうと、キッチンでミーティアが、シャーコシャーコと音を立てながら包丁を研いでいた。何してるの? と尋ねれば、今までお世話になったから、最後に綺麗にしておくのだと言っていたが、一心不乱に包丁を研いでいるその瞳が不穏すぎて、出そうと思っていたものが引っ込んでしまった。
記念に一本くらい持って帰ってもいいだろうか? と聞かれたが、やめておいたほうがいいと諭した。もしも彼女が包丁を持ち歩いている時、この迷宮の主に出くわしたら何が起こるかわからない。自分もコンドームを持ち帰るつもりだったが、彼女にそう言ってしまった手前やめておいた。
朝食をパンとサラダで済ませ、一ヶ月ぶりに水洗便所で用を足して、なんだかすっきりしない気持ちを抱えたまま、いよいよ二人は部屋から出て先に進むことにした。出掛けに、今度こそ最後だからしっかり見ておこうかと思い、二人の一ヶ月の集大成とも呼ぶべき壁の前に立ってみたが、きっと色んな感情が渦巻くに違いないと思っていたのに、実際には何の感慨も湧いてこなかった。よくもまあ、こんなアホなことをやり遂げたものだなと、それくらいのものである。一体、アマデウスは何をやらせたかったのだ?
キッチンの後ろにあった扉をくぐると、その先は真っ暗な通路だった。
それまでは扉をくぐるとすぐ次の部屋に繋がっていたが、今回は違った。真っ暗なのに、何故そこが通路だと分かったのかと言えば、それは遠くの方に小さく出口が見えたからだ。長さにして百メートルはありそうな長い廊下の先から光が漏れていて、そこからピアノの音が聞こえてくる。なんだろう? と思って耳を傾けたら、背後でドアが勝手に閉まる音がして、振り返ればそこにはもう何も見えなかった。
あの、ある意味、苦楽を共にした狭い部屋にはもう戻れないのだ。なんだかちょっと寂しい気もしたが、今更後戻りするつもりもなく、二人は自然に手を繋ぐと、狭い通路をゆっくりと歩き始めた。
それはきらきら星変奏曲だった。通路の先から煌めくようなピアノの音が聞こえてくる。普通ならこんな暗くて細くてどこに繋がってるのかもわからないような道は、不安になりそうなものなのに、まるで演奏者が遊んでいるかのようなメロディを聞いていると、不思議と恐怖を忘れてしまった。二人はその音に惹きつけられる虫のように、ふらふらと通路を進み、やがてその先にあった大きなホールへと辿り着いた。
それはオペラなどに使うコンサートホールのようだった。一階に整列する数百のシートを取り囲むように、まるで蜂の巣みたいに5階建てのボックス席がずらりと並んでいた。高い天井を見上げれば豪華なシャンデリアが吊り下がっており、そこから発せられる光がボックス席に散りばめられた金糸に反射してキラキラ輝いていた。
鳳たちはそんなホールの最後方、中央の出入り口に立っているようだった。舞台を見ればそこには大きなグランドピアノが一台置かれていて、どうやら曲はそこから流れてきているようだったが、演奏者の姿はどこにも見えなかった。
代わりに、舞台中央の指揮者の位置に例の立て看板が立っており、すぐ脇には一台の竪琴が置かれていた。今度こそ最後の指令か? と緊張しながら近づいていくと、看板にはコングラチュレーションの文字が踊っており、二人がその前に立ち止まるのを待ってから、それはまたスーッと消えて新たな文字を浮かび上がらせた。
『ここまで来てくれて嬉しいよ。私が遺したこの迷宮をクリアする者がいるとすれば、よほどの馬鹿か、変態か、君くらいのものだろうと思っていた』
「それらと同列に並べないでくれる……? つか、おまえ、やっぱり意思を持っていたんだな。この迷宮の主なのか?」
『ああ、今更名乗る必要があるとも思えないが、一応名乗り出ておこう。私はかつてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと呼ばれた者……オルフェウス卿アマデウスと言った方が、こちらの世界では通りがいいだろうか』
その言葉に二人は歓喜のため息を漏らした。やはりここはアマデウスの迷宮で間違いなかったのだ。恐らくそうだと思ってはいても確信は出来ずに、これまでアホなことを続けてきたわけだが、これで報われたというものである。
だが、逆に言うとそれが判明したところで、あの馬鹿げた行為を一ヶ月も続けさせられた理由にはならない。鳳は憮然とした表情で、何故、彼がこんな迷宮を後世に残したのかと尋ねてみた。
『趣味だ』
「叩き割るぞ!」
『まあ、待ちたまえ……半分趣味であることは事実だけど、まったく意味が無かったわけじゃないだろう?』
「……どういうことだ?」
『例えば今君には、命に代えても守りたいものがあるだろう。そこにいる彼女のことを、今一生を懸けて幸せにしたいと、そう思っているだろう』
鳳が隣に立つミーティアのことを見ると、彼女の方も彼のことを見つめていた。自然と、彼女の手を握る手に力が入った。
『300年前の君にはそういう気持ちが欠けていた。いつ死んでも良いというような、そんな空気感を纏っていた。実際、君は死んでも何度でも蘇るから、そういう気持ちになりやすかったんだろう。でもそれじゃ駄目なんだ。君にはもっと、この世に生き残りたいという執着が必要だ』
「……あんたは、それを俺に教えるために、こんな馬鹿げたことをさせたっていうのか?」
『まあ、8割くらいは趣味だけど』
「さっき半分って言ったじゃんっ!!」
鳳が思わずツッコミを入れると、立て看板はパカーンと真っ二つに割れてしまった。鳳はしまったと青ざめたが、すぐまた別のところからにょきっとそれが生えてきて、
『そう興奮しないでくれ。趣味と実益を兼ねているんだ。ほら、ここには君以外にもやってくる者がいるかも知れないだろう? そういった連中を追い返すためのトラップが必要だったんだ』
「……もし、俺じゃなかったらどうなってたの?」
『命までは取らないさ。泣いて、ここから出してくださいって言い出すまで、全力でからかっていただろう』
鳳は迷宮のことは殆ど知らないが、それでもここがこの世界に存在する迷宮の中でも、屈指の高難度迷宮だと確信した。というか、最初から攻略させる気もないのに、トラップを仕掛けているところからして性質が悪い。実際、鳳たちも昨日、これ以上進んでも何もなくて、はいさいならと追い返されるかも知れないことを恐れていたのだ。立て看板の反応からするに、最悪の事態は避けられたようだが……
「あんた、そうまでして、なんでこんな辺鄙な場所に迷宮を遺したんだ? オルフェウスはあんたが不在なせいで、政治的にずっと混乱していたんだぜ? どうせ死ぬなら国に帰ってから死ねばいいじゃないか」
『そう出来れば良かったのだが、ここじゃなきゃいけない理由があってね』
「理由……? それってどんな?」
『もう一度、君に会うためだ』
鳳は面食らった。一応、彼とアマデウスは300年前の仲間らしいが、何しろ自分にはそんな記憶は微塵もないのだ。なのに相手が迷宮化してまでここで待っていたなんて言い出したら、驚くのも当然だろう。鳳は困惑しながら、
「俺に会うためって、そりゃどういう意味だ? あんたは俺がここに来るって確信していたのか?」
『いいや、君が来なければ来ないでそれで良かった。問題は、もし君が復活して、またここを訪れることがあるとしたら、その理由は魔王化を阻止するためでしかないと言うことだった』
「……え?」
『君たちは、魔王化を阻止しにここまでやってきたのだろう? きっと魔族の故郷のネウロイになら、何か手がかりがあるんじゃないかって。実は、300年前、私と君……勇者もそれを探しにネウロイにやってきたんだ』
もう殆ど期待していなかった鳳は目を見開いた。その方法を探していたというアマデウスの迷宮がここに残っていたということはまさか……彼はごくりと唾を飲み込み、
「まさか……あんたはその方法を見つけたの? 魔王化は阻止できるのか?」
『出来る』
その言葉に鳳とミーティアは歓喜の声をあげた。この一ヶ月の屈辱的な日々が、これで報われるというものである。だが、そんな二人に待った掛けるように、看板は新たな文字列を淡々と表示し続けた。
『待ちたまえ。喜ぶのはまだ早すぎる。魔王化は確かに阻止できるし、その方法を使えば、君は死ぬまで魔王にならずに済むだろう。だが、それは応急措置に過ぎないんだ。君が魔王にならなかったとしても、相変わらず誰かが魔王になる可能性は残っている。もちろん、君の子孫だってその候補者だ。その魔王が現れた時、誰がそれを倒すのか。根本的な解決を目指すにはまた別の方法を見つけねばならないだろう』
「そうか……」
『とは言え、君にはまだちんぷんかんぷんだろう。それは君が持っている情報が足りないからだ。まずは300年前に何があったのか。そしてこの世界に、本当は何が起きているのか。その真実をこれから語ろう』
看板の文字は絶え間なく流れていき、そしてピアノの音は軽やかに鳴り響いていた。