ラストスタリオン   作:水月一人

268 / 384
ヘルメス内戦

 時は少し遡る。

 

 ヘルメス東部オルフェウス国境では、野盗討伐のために編成されたテリーの軍団を乗っ取って、もう一人の後継候補・ロバートが挙兵した。彼は自らを義勇軍と称し旗揚げすると、クレアの不正を断じる檄文を各地に飛ばした。

 

 現在、療養中と言われていたヘルメス卿は、実は調査のためにネウロイへ行っている。彼は国民を心配させないように、生きて帰れるかも分からないその旅のことを伏せていたのだ。ところが後を任されたクレアはこれ幸いと、ヘルメス卿はもう死んだものと吹聴し、今のうちに権力を奪取しようとして邪な試みをしている。忠誠を尽くすべき主の死を望むなど言語道断。こんな勝手が許されていいのか。ヘルメス卿が帰還するまでに、この悪事を正さねばならない。だから自分は仕方なく挙兵したのだ。どうかこの正義に力を貸して欲しい。

 

 その檄文にはまったく根拠がなかったが、実際にヘルメス卿が不在なことと、その彼がいつ帰還するかも全く不明であったために、中央政府は有効な火消しのための手段が何一つ取れず、かえってロバートの主張に正当性を与える結果となってしまった。

 

 そして鳳が不在という知らせに国内は動揺し、それまで好景気のために平穏を保っていたロバート派とクレア派の小競り合いが再燃した。今、勇者が居なくなったら、この国の将来を任せられるのは果たしてどちらだろうか。意外にもロバートはまだまだ庶民に人気があり、彼の下へと馳せ参じようと村を抜け出す人々が続出したのだ。

 

 比べるべき根拠がない時、人は耳馴染みのいい方を選ぶものである。人気と能力は必ずしも比例するとは限らないものだが、ロバートは、その人柄をよく知ってる人には無能にしか映らないが、知らなければ正当な王家の血筋(ロイヤルブラッド)だった。庶民たちは女性であるクレアよりも、300年続く彼の血筋を信じた。

 

 そして続々と集まってくる義勇軍が10万を越えたと報告が上がった時、遅ればせながらヴァルトシュタインは討伐軍を編成して東進を開始した。元々、農兵を中心としたヘルメス軍では、正規軍と言ってもその感覚は完全に庶民寄りだった。故に、その選抜に苦労したのだ。

 

 ヴァルトシュタインの大義名分は正規軍であること。ヘルメス卿は未だに健在であるのに、私兵を集めればそれは反乱であるということだったが、庶民たちはそのヘルメス卿がネウロイに向かったと聞いて動揺している。そして義勇軍が10万を越えるのに対し、討伐軍が1万そこそこしか動員できなかったことも兵の士気を悪化させた。しかもその数はまだ増え続けており、討伐軍が東西に長いヘルメスを突っ切って、東部プリムローズ領に到着した時、そこには100万を号するロバートの反乱軍が待ち構えていたのだ。

 

 もちろんそれは掛け声だけで100万には到底足りなかったが、本当に20万か30万か、それくらいの規模はあった。これから戦おうとする相手なのに、非常に大雑把な勘定なのは、正直言ってヴァルトシュタインからすれば、まともに訓練もされていない群衆が相手では20も30も変わりなかったからだ。

 

 その大軍を前にして緊張の色を隠せない正規軍の兵士たちに、彼はいつも訓練でやってる通り方陣を組ませると、どんちゃん騒ぎをしている反乱軍に背中を向けて、自軍に向かって訓示を垂れた。

 

 相手の方が人数が多いと言っても、所詮は烏合の衆だ。指揮官が居なければ集団はまともな行動を起こせない。せいぜい、まっすぐこっちに向かってくるだけだ。そんな訓練もされていない素人集団を恐れても馬鹿馬鹿しいだろう。せいぜい、相手のことは花見の見物客くらいに思っていれば良い。それに、こちらにはヘルメス卿に忠誠を誓った神人兵がついているのだ。それはたった500人しかいないが、ここにいる100万だかを相手にしてもお釣りが来る。だから安心して戦ってくれ。

 

 実際、反乱軍は神人兵を相当恐れているようだった。神人兵の配備された中央付近にかけて、相手陣営は凹型にへこんでいる。兵士たちがそれを見て戦意を取り戻していると、続いて総大将のクレアが戦場に現れ、彼らを鼓舞した。ピッタリと腰のラインが浮き出る綺羅びやかなドレスを纏い、そこに不格好な革の胸当てをつけて、栗毛の馬に乗って現れた彼女は異様に映えた。実際にはヴァルトシュタインが指揮を執るが、総大将として従軍してきた彼女は兵士たちの前まで進み出ると馬を降りて、語りかけるような落ち着いた声で言った。

 

 反乱軍は自分のことを権力を簒奪する悪者のように言っているが、自分にとってヘルメス卿は非常に大切な人なのだ。その彼に対する忠誠を忘れたことはない。そして皆忘れていると思うが、勇者である彼なら、例えネウロイだろうがどこだろうが無事に返ってくるはずだから、彼がこの国に戻ってきたときに悲しまないように、このような醜い争いを一日も早く終わらせて欲しい。兵士たちには十分な恩賞を与え、勝利の暁にはボーナスもある。そしてもちろん正義はこちらにあるから、ロバートの戯言には惑わされず、存分に戦って欲しい。

 

 クレアの言葉は戦意高揚とは程遠いものだったが、不思議と兵士たちの心に響いた。自分たちがこの美しい女性を守るナイトなのだと思うと、自然と力が溢れてきた。彼らは最後の確認という大隊長からの号令に対して、一糸乱れぬ動きで返した。そんな討伐軍に対して、反乱軍から野次が飛んだが、彼らにはもう恐れるものは何もなかった。

 

 両陣営がだだっ広い荒野に陣取り、そして遠くの丘には帝都から派遣されてきた観戦武官(それはジャンヌ達を含んでいた)が見守る中で、ヘルメス内戦は開戦した。反乱軍の怒号に対し、討伐軍の法螺貝が鳴り響き、両陣営の先鋒が進み出て一番槍を争ってぶつかりあった。

 

 初戦は意外と言ったら失礼かも知れないが、反乱軍の優勢で推移した。やはりだだっ広い荒野では圧倒的に大軍が有利で、数に頼って押しつぶそうとする反乱軍に対し、討伐軍は囲まれまいとして後退し続けるしか手がなかった。正に破竹の勢いの反乱軍が、嵩にかかって押し込んでくる。

 

 しかし、それはもちろんヴァルトシュタインの罠だった。広い場所でぶつかりあえば、いくら相手が素人であっても、数が多いほうが有利なのは間違いない。だから彼は劣勢で押されている振りをして、徐々に戦線を後退させながら、敵軍を隘路に誘い込んでいたのである。

 

 反乱軍のもう一つの弱点は、寄せ集めであるがゆえに道に不案内なことだった。逆にこちらは戦場となったプリムローズ領の領主が総大将を務めているのだから、地元の人間しか知らないような間道や、地図には載っていない沼地など、いくらでも罠に誘い込むことが可能だった。

 

 ヴァルトシュタインは縦深陣形で、敵の大軍を狭い間道に誘い込みながら、途中、攻撃されて散り散りに逃げ出した振りをした部隊をあちこちに伏せさせつつ、狭い道をどんどん後退していった。

 

 反乱軍も馬鹿じゃないから、自分たちが誘い込まれていることに気づく者も居たが、一度勢いに乗ってしまった大軍は簡単には止まれず、気がつけば反乱軍の戦線は完全に伸び切っていた。

 

 反乱軍の追撃も徐々に弱くなってくる……ヴァルトシュタインはそれを頃合いと捉えると、合図を送ってそれまでに伏せさせておいた伏兵に一斉攻撃をさせた。

 

 敵を追い込んでいるつもりだったのに、突然、その敵に囲まれていることに気づいた反乱軍はあっという間にパニックに陥った。更に、その動揺に拍車をかけるように、神人兵が馬を駆りながら猛烈な勢いで伸び切った戦線のど真ん中を突っ切ってきた。

 

 神人たちの繰り出す神技や古代呪文の雨あられに対抗できず、反乱軍は散り散りになって逃げ出し始めた。しかし大軍であることが仇となってすぐあちこちで将棋倒しが起きてしまい、そのせいで前線に取り残されてしまった兵士は完全に戦意を喪失し、間もなく投降し始めた。神人兵たちは更に敵を分断すべく反乱軍を追いかけたが、しかし相手の数が多すぎて、まるで羊の群れを追い立てる牧羊犬のように周りをうろつくことしか出来なかった。

 

 ともあれ、こうして初戦に勝利した討伐軍は、逃げ遅れた反乱軍の兵士たちを一箇所にまとめて武装解除すると、特に刑罰を与えることもなく、それをさっさと解放してしまった。敗北したのに何もないなんて……彼らは驚いていたようだが、そもそも、彼らはロバートに焚き付けられただけの領民であるから殺すわけにもいかず、捕虜にとってもタダ飯ぐらいなだけで、何の価値もないから逃がすしか無かったのだ。

 

 ヴァルトシュタインはそれを知りながら寛大なふりをして、なんならあっちの陣営に戻ってくれても構わないと言って逃してやった。おまけに解放された彼らの前にクレアが現れて、自分に二心はなくてあなた達と同じヘルメス卿の下僕なのだ。彼が帰ってきた時に悲しまないように、故郷に帰ったら精一杯この国のために尽くして欲しいと説得すると、彼らは己を恥じて涙を流した。説得に応じた彼らの中に、反乱軍に戻る者は一人としていなかった。

 

 翌日。初日で早くも大量の兵を失ってしまった反乱軍は、数に頼る戦術を変えてきた。その日は反乱軍の中で唯一まともな訓練を積んでいたテリーの部隊が前面に押し出され、討伐軍と相対する格好になった。

 

 ヴァルトシュタインとテリーはお互いに相手の射撃が届かない距離に陣取ると、散発的にやる気のない射撃を繰り返した。少しでも前に出れば射撃のいい的になる。だが、一歩も出なければ何事も起こらない。そんな絶妙な距離で両陣営はダラダラと一日中戦闘を続けた。

 

 するとその翌日にはもうテリーの部隊は端っこに追いやられていた。恐らく戦意が感じられないことを咎められたのだろうが、損耗ゼロで一日中攻撃を行っていたのだから文句を言われる筋合いもない。そんなやり取りがあった後、生意気なやつだと思われて、追い出されたといったところだろう。

 

 しかし、そのせいでこの日は少々厄介なのが相手になった。ろくな防具もつけていない見すぼらしい集団が先鋒を務めていたのだ。

 

 戦線が膠着して動きがない時は、勇敢であるが身分の低い者に攻撃を命じるのが鉄則だ。ちょっと考えてみればわかるが、お互いに殺しの道具を持つ者同士が相見えた時、普通はどちらも動かない。剣を交えれば勝敗は五分五分だが、戦わなければ少なくとも死ぬことがないからだ。

 

 だがこれが功に焦っている者ならどうなるか。この戦いで勲功をあげなきゃ明日を生きる糧もないような者なら、一か八か攻撃をしかけるだろう。そして身分が低ければ、将は兵士を失っても痛くも痒くもない。もしも勝ったらたっぷり恩賞を与えて、その勇敢な兵士の忠誠を得ることが出来るかも知れないのだから、一石二鳥というものである。

 

 そういう兵士が死にものぐるいで特攻を仕掛けてくるのは非常に厄介だ。ヴァルトシュタインは気を引き締めるように全軍に命じると、最精鋭を前面に配置して、神人兵と共に迎え撃った。それでも残念ながら無傷とはいかず、いくらかの損害を受けつつも、これをどうにか撃退したところで、相手の策は打ち止めになったようだった。

 

 こうして、危機を脱した討伐軍であるが、その捕虜を取り調べていた時、思いもよらぬことが判明した。なんと、その兵士たちはオルフェウスから来た難民だったのだ。正に明日をも知らない彼らは、その日の食料を求めて反乱軍に合流し、そしてロバートの命じるままに特攻を仕掛けてきたのだ。彼らが死んだところで、領民は誰も傷つかない。非常に理に適った作戦と言えた。

 

 だが、クレアはこれに激怒した。そして、戦争がなければ彼らを受け入れる準備が出来ていたことを伝えると、彼らを逃し、それを反乱軍にも宣伝するように依頼した。ヘルメス卿は彼らと戦うのではなく、国境を開くことを望んでいたのだ。

 

 それが敵陣に伝わると、すぐに反乱軍は動揺し始めた。反乱軍には思った以上に食い詰めたオルフェウス難民が合流していたようで、彼らに迷いが生じたのだ。更にはロバート派の連中が、これはクレアの策略であり、彼女は嘘をついている。もし本当に、オルフェウスの難民を受け入れるつもりだというなら、敵を引き入れようとするあいつこそ国賊ではないかと失言(・・)してしまい、反乱軍の戦意は著しく低下した。

 

 ヴァルトシュタインがこれを好機と捉えて攻勢に出ると、反乱軍にはもうこれに対抗できる戦力はない様子だった。今も戦力は反乱軍の方が圧倒的に有利なはずなのに、少数の討伐軍にまったく歯が立たない。

 

 するとロバートはこれに焦りを覚え、全軍に戦線を後退するよう命じた。彼の悪い癖はなにより相手を見くびりすぎることだったが、相手はヴァルトシュタインなのだ。彼はこのときになって、ようやくヴァルトシュタインに何度も煮え湯を飲まされたことを思い出したのだ。

 

 このまま隘路を背にした相手と戦っていては、絶対に押し切ることは出来ない。広い荒野に出て、数に頼った戦いを仕掛けなければ、絶対にあいつには勝てないのだ。敵に背を向ける……その事実はロバートのプライドを著しく刺激したが、もはやなり振り構っていられないだろう。

 

 しかし、彼の決断はもっと早くそうしていたなら英断とも言えたが、この状況下ではそれは完全に裏目であった。きっと彼は実際に、敵に背を向けたことがなかったから、その意味するところが分からなかったのだろう。

 

 相手に十倍する兵力を持っていても、戦場にいる限り命の危険は付きまとう。実際に、これだけの戦力がありながら敵に翻弄された兵士たちは、撤退を命じられて心底ホッとしたことだろう。彼らの中に、その場に踏み止まって戦おうとするものなど、もはや一人もいなかった。従って、そんな彼らの背後を襲う追撃部隊に対応できる者も誰も居なかったのだ。

 

 百戦錬磨のヴァルトシュタインは、これを好機と捉えると、全軍に追撃を命じて自身が真っ先に打って出た。戦場で最も目立つ白馬に乗った彼の後に、ヘルメスの精鋭部隊が続き、逃げ惑う反乱軍のしっぽに食らいつく。彼らはだだっ広い荒野のど真ん中で反乱軍を捕まえると、信じられないことに、小勢である討伐軍のほうが、大軍である反乱軍を滅茶苦茶に追い散らし始めてしまった。

 

 精鋭部隊がバッタバッタと反乱軍を血祭りにあげると、辛うじて行軍らしい行軍をしていた敵の殿軍は、先を争って逃げ出しはじめた。押し合いへし合い、悲鳴が轟き渡り、まるで小波のように恐怖が全軍に伝播していく。堪らず、あちこちで将棋倒しが起きると、あっという間に反乱軍は軍隊としての機能を失って、もはやただの蠢く群衆に成り下がっていた。

 

 ロバートはそれを見て目を丸くした。ずっと隘路を背にしていたヴァルトシュタインの軍は、無防備にも荒野に出てきている。今、これを攻撃すれば、数に劣る彼らは一溜まりもないはずだ。なのに何故、反乱軍の兵士たちは誰ひとりとしてあれと戦おうとしないのだ?

 

 ロバートは撤退を命じていた将兵を怒鳴りつけると、今度は反転攻勢するように全軍に号令をかけさせた。果たして将兵は滞りなくその命令を遂行した。だが、確かに命令が行き渡っているというのに、兵士は誰もその命令を守ろうとしなかった。

 

 それは当然のことだろう。自分の周りの誰もが命令に従っていないのであれば、誰が律儀にそれを守るだろうか。そこに踏み止まって戦うことは、殆どただの死を意味している。そこまでの忠義がなければ、そんな命令は通用しない。一度下した撤退命令は、そう簡単には覆せない。古今東西、撤退戦ほど難しい戦はないのだ。

 

 ヴァルトシュタインの怒号が聞こえてきて、ロバートの体がビクリと震えた。気がつけば彼の周りにいつもいた取り巻きは誰もいなくなっており、彼は完全に孤立していた。ヴァルトシュタインは逃げ惑う反乱軍の兵士を血祭りにあげながら、ロバートを探せと部下に命じている。

 

 ここに居たら殺される……ロバートは綺羅びやかな貴族の服を脱ぎ捨てると、逃げ惑う兵士に紛れてその場から逃げ出そうとした。しかし、ここまで混乱した戦場のどこに逃げ場があるというのだろう? 右を見ても左を見ても、逃げ惑う兵士でいっぱいだった。彼らはみんな別々の方向に走っていって、どっちへ逃げていいのかさっぱりだった。背後に迫る蹄の音が聞こえてくる度に、全身から汗が吹き出してくる。腰に伸ばした剣を持つ手がブルブルと震え、とても鞘から抜けそうもなかった。

 

 と、その時、彼は視界の片隅に、この混乱の最中にあって整然と行軍する部隊の姿を見つけた。テリーと言う将校が率いている部隊は、この戦場にあっても未だに統率が取れている。ロバートはその頼もしい姿を見つけるなり、涙を流してそこへ駆け込んでいった。地獄に仏、こいつなら自分をここから逃してくれる。

 

「え!? ロバート様!?」

 

 果たしてテリーは自分の部隊に逃げ込んできた者の姿を見るなり、露骨に嫌そうに顔を顰めてみせた。しかしロバートはそんな彼の反応すら気づかずに、

 

「おお! テリーよ! 私の最高の将軍よ! 君の軍隊はこの状況でも規律を失わずに、命令に従っているのだな。私はこれを見てすぐに君だと気づいたぞ!」

「そりゃどうも……」

「しかし、この戦争はもう駄目だ。命令を撤回するから、早く私をここから連れ出してくれ!」

 

 テリーはそんなロバートの血走った目を見て何かを言いたそうにしていたが、すぐに諦めたように首を振ると、

 

「わかりました、すぐにお連れしましょう。おい、おまえ! おまえはロバート様をお連れするように」

 

 彼の命令を受けて、騎兵の一人がロバートをその鞍に引き上げてくれた。全身汗まみれになっていた彼は、何度も滑りながら何とか鞍の上に乗っかると、ようやく安堵のため息を吐いた。

 

 テリーの部隊はこの混乱する戦場の中でも一切乱れず、逃げ惑う兵士たちを上手いこと避けながら進んでいった。そしてあっという間に戦場から離れると、彼らは安全を確認してから騎馬から降り、もたつくロバートを引きずり下ろすように落っことして、そのまま地面にグイッと抑えつけてしまった。

 

「な、何をする!?」

 

 突然、乱暴な振る舞いをされたことに驚きの声を上げるロバート。しかし、テリーはそんなかつての主君を見下ろしながら、哀れそうな目つきで、

 

「どうもこうも……そう言うことですよ。ロバート様。あなたは負けたのです。いい加減、覚悟を決めてください」

「貴様、裏切ったな!! ええいっ! 離せ! 離せ! この無礼者共が!!」

「裏切るも何も、私は初めからずっと反対し続けていたはずです。この戦には義がないと。それに、ヴァルトシュタインさんには勝てないと。それを庶民の戯言といって、全く聞かずに強行したのはあなたでしょう?」

「おのれえ~……! 庶民ごときがこの私に説教を垂れるか、生意気なっ!!」

 

 テリーはため息を吐いた。この期に及んで庶民だなんだと……彼はこれ以上何を言っても無駄だと悟ると、伝令に合図を送るように命令した。鏑矢が放たれ、テリーが遠くに向かって手を振っていると、やがて白馬に跨ったヴァルトシュタインがお供の精鋭部隊を引き連れて、さっそうと駆け込んできた。

 

「ひぃぃぃーーーーっっ!!」

 

 その姿を見たロバートが、恐怖心から引き付けを起こしたような表情をしている。ヴァルトシュタインは仏頂面をしながらフンッと鼻を鳴らし、

 

「お手柄じゃねえかテリー」

「冗談を。私はこの役目だけは絶対に御免だと思ってましたよ」

 

 テリーはうんざりするような、それでいて罪悪感が拭いきれないような、何とも言えない微妙な表情をしていた。きっと本心では、未だにかつての主君に対する気持ちの整理がついていないのだろう。ヴァルトシュタインは苦笑いしながら、

 

「そうかよ。それじゃここはもういい。邪魔が入らないように周囲を警戒していてくれ」

 

 テリーは頷くと黙って去っていった。ロバートはさっきまで悪態を吐いていたくせに、そんな彼が去っていくのを見ると、唯一の味方がいなくなってしまったかのような気になって、

 

「待て! 待ってくれ! 私を一人で置いていくな! そうだ! 助けてくれるなら、おまえをこの国の貴族にしてやるぞ。軍だっては全部おまえの支配下にやる。ヴァルトシュタインだって部下にしてやるぞ! だから助けろ! 助けろよーっ!」

「本人を前にして何言ってやがる」

 

 ヴァルトシュタインは腰に佩いたサーベルを引き抜くと、ズンとロバートの目の前に突き刺した。

 

「ひぃ~っ! お助け~! お助けをっ!!」

「この期に及んで往生際が悪いな。おい、おまえら、そいつの両脇を抑えてろ。俺が首を切り落とす」

「ひゃあああぁぁぁーーー!! やめてぇ~っ!! 許してぇ~っ!! なんでも! 何でもしますから!!」

 

 ロバートは死にものぐるいで暴れているが、普段からの運動不足が祟ってすぐに動けなくなった。彼は地面の砂粒を噛みながら、ハアハアと息を荒げ情けない声で、

 

「お願いです! 命だけは助けてください! そうだ! 見逃してくれるなら、この国の半分を君にあげよう! なんなら三分の二でもいい! 金だって女だって思いのままだぞ? 全部君にくれてやる。私を殺してしまったら、こんなチャンスもう二度とないんだぞ!?」

「ほう、そいつは魅力的だな。俺は金も女も大好きだぜ」

「そ、そうだろう!?」

 

 ロバートは一縷の望みをかけてヴァルトシュタインを仰ぎ見る。しかし、彼はフンと鼻で笑うと、

 

「だが今は、あいつらがこの国をどう変えていくのか、それを見るほうが楽しみだ。おまえがトップにのさばっていては何も変わらない。おまえもこの国のことを思うなら、そろそろ退場したらどうだ」

 

 ヴァルトシュタインは手にしたサーベルを、まるで斧を振りかぶるように振りかぶって言った。ロバートはそれを見て絶望の表情を浮かべると、

 

「おのれ……私がこんなに頼んでいるのに! 私がこんなに譲歩していると言うのに! どうして言うことが聞けないんだ! 何がこの国の未来だ! おまえみたいな新参者に、この国の何がわかるというのだ! 帝国の犬が綺麗事を抜かしやがって、俺はこの国のトップだぞ!? 俺をやったら、絶対に私の民達が許さないぞ! おまえなんか、すぐに八つ裂きにされて血祭りにされるだろう!」

「ああ、そうかい。そんなもん、こちとら戦場に出る前から、とっくに覚悟を決めてんだよ」

 

 ヴァルトシュタインはまるで感情のこもっていない冷徹な目でロバートのことを見下ろしていた。彼が見つめているのはただロバートの後頭部にある、延髄のちょっと出っ張った骨だった。彼はまるで魚でも捌くかのように、もはやその骨を綺麗に断ち切ることしか考えていなかった。

 

 彼は狙いを定めて、そして思い切り剣を振り下ろした。だがその時だった……

 

「お待ちなさい!」

 

 その思ったよりも鋭い声に気圧されて、ヴァルトシュタインは振り下ろそうとしていた刃をピタリと止めてしまった。

 

「ヴァルトシュタイン。あなた、勝手に何をしているの!」

 

 見ればお供を連れたクレアが血相を変えて馬に乗って駆けてきた。彼女はロバートを取り囲むヴァルトシュタインの精鋭部隊に道を開けさせると、馬から降りて、じろりと睨みながら肩を怒らせ歩いてきた。

 

「クレアか……見てわからないか。こいつを捕まえたから、処刑しているところだ」

「何勝手なことを言っているの! そんなの誰も望んじゃいないわ! いいから、その剣を下ろしなさい」

 

 クレアの声は有無を言わさぬものだった。確かに彼女に言わずに事を起こしたことはこちらに非があるが、かと言って責められるようなものじゃない。ヴァルトシュタインはムッとして、

 

「おまえこそ何を言っているんだ? こいつが何をしたか分かっているのか? こいつのせいで大勢が死んだ。それにはおまえの領民も含まれているんだぞ? 大体、もしこいつが勝っていたら、ここで首を刎ねられていたのはおまえだったかも知れないんだぞ?」

「だとしても、これはルール違反よ。敵将を捕まえたのなら、捕虜にして裁判に掛けるべきだわ」

「そんな甘っちょろいことをしていたら、遺恨を残すだけだ。下手に釈放されでもしたら、またこいつが息を吹き返すかも知れない。戦場で死んだことにすれば、何もかも上手くいくだろうに。みんな万々歳だ」

「それでも、ルール違反をした自分のことは誤魔化せないわ。私は正々堂々勝ちたいの!」

 

 キンキンと響く女性の悲鳴のような声が戦場にこだました。ヴァルトシュタインはなんだか、子供から諭されているような嫌な気分になった。彼は脱力するようにため息を吐くと、

 

「……何故、こんな奴に情けをかけようとするんだ!?」

「それは、こんなんでも私の大切な人が選んだ、この国の正当な後継者の一人だからよ。その手続きを踏まずして私がヘルメス卿を継いだら、こいつの言う通り簒奪してるのと変わらないじゃない」

「そんなの、ただの詭弁だろうが。寧ろ、こいつがテーブルをひっくり返そうとしてたんだぞ? それがわからないわけでもあるまい」

「分かってるわよ! 分かってるからこそ、私はこいつと同じところに降りていくのが嫌なのよ。私は正々堂々勝負して、ちゃんとみんなに認められたいの。と言うか、もう決着はついているじゃない……仮に生きていたところで、彼に期待する人なんてもういないわ。それなのに、命まで奪うのは可哀相よ」

「……その可哀相なことに、おまえの方がなっていたかも知れないと言っているのだが」

「そうならなかったのだし、仮に彼がまた何かしようとしても、あなたが助けてくれるのでしょう?」

「………………」

 

 ヴァルトシュタインはロバートの首筋に当てていたサーベルの先を見ながら、仏頂面をして暫く何かを考えていたが、やがて諦めたようにため息を吐くとサーベルを下ろし、

 

「やれやれ、俺も丸くなったもんだ。自分より若い連中の言うことを聞くなんて」

「ありがとう、ヴァルトシュタイン」

「いいよ。おまえの国なんだろう」

「いいえ、私たちの国よ、ヴァルトシュタイン。あなたはもう、この国になくてはならない将軍よ」

 

 ヴァルトシュタインは、自分の子供と言っても大差ない女の子にそんな風に言われて、なんだか気恥ずかしくなってきた。だが、満更でもない気分だった。根無し草の傭兵として戦場を渡り歩いてきた自分が、こうして辿り着いたのがこの若くて新しい国だとしたら、それも悪くない選択と思えた。彼はため息交じりにロバートの事を蹴っぽると、

 

「ほらよ、お嬢ちゃんに感謝しろよ、この野郎」

「ロバート卿、顔を上げてください。まずはこの戦争を終えるために、あなたが敗北を宣言してください。決着がつけば兵士も落ち着きます」

 

 クレアはそう言ってロバートを諭した。しかし、そのロバートは地面に両手をついてブルブルと震えたまま、一向に顔をあげようとしなかった。その肩の震えと、ポタポタと滴り落ちる雫を見て、クレアは彼が泣いているのだとわかり、少し同情した。もしかしたら彼と自分の立場は逆だったかも知れないと思うと、彼の気が済むまでこのまま待ってやるのが優しさだろうと彼女は思った。

 

 しかし、それはとんでもない間違いだった。ロバートは地面に四つん這いになって、己の負けを噛み締めていたり、多くの兵を失ったことを後悔していたり、まして命を助けてもらって感謝しているわけでもなんでもなかった。

 

「おのれ……おのれ……おのれぇ~……女のくせに……女のくせに!」

 

 彼はただひたすら憎んでいたのだ。目の前の女を、ヴァルトシュタインを、そして何もかも上手く行かないこの世の中を。

 

「私はロバート・ニュートン様だぞ? ヘルメス卿アイザックの正当な後継者で、この国の王になる男のはずだぞ? それが何故、こんな小娘なんかに、上から目線で命を助けてもらわなきゃいかんのだ! このような下賤の民どもに命乞いせにゃならんのだ! こんなの間違っているだろう! 私は生まれる前から王になることを宿命付けられてきた男だぞ!? なのにっ! 何故、こんな女なんかに頭を下げて、そのうえ私の大事な地位まで奪われなければならんのだあーっ!!」

 

 そして四つん這いのままあげた彼の顔は憤怒で真っ赤に燃えていた。目が充血し、白目がもはや異様などす黒い色をしていて、額に浮き出た血管がまるで生き物のように蠢いていた。

 

「殺す……殺してやる……」

 

 そうつぶやくロバートの顔はあまりにも異常で、人間にそんな表情が出来るなんて到底考えられず、クレアは気圧されるように一歩引き下がった。

 

「クレア様! 危険です!」

 

 すぐに精鋭部隊の兵士が飛んできて、彼女を庇うように間に入る。ロバートは今にも飛びかかってきそうなものすごい殺気を漂わせながら、そんな兵士を睨みつけつつ、ゆらゆらと立ち上がった。

 

「おい……なんだ、こいつ……なんか、おかしいぞ?」

 

 ヴァルトシュタインが剣を抜き放ち、牽制するつもりでロバートに飛びかかっていった。しかし、さっきまであれほど無様に命乞いしていたロバートは、そんなヴァルトシュタインのことなど眼中にないと言った感じに腕を一閃すると、

 

「うるさいっ!!」

「ぐ……ぐわああああーーーっ!!」

 

 あろうことかその腕が剣に触れた瞬間、何故か斬りかかっていったヴァルトシュタインの方が、ものすごい勢いで吹き飛んでいってしまった。

 

 クレアも、その場に居た全ての兵士も、物理的に有り得ない光景を前にして、みんな何が起きたのか理解が出来ずに、転がっていく彼のことを呆然と見送っている。ロバートは湯気のようなモヤモヤとしたオーラを纏って、今もどす黒い瞳をランランと輝かせて、クレアの方を睨みつけていた。

 

 その時、突然、何かが通り過ぎたような、ズンッとした衝撃が走り、ロバートの体がブルッと震えた。彼は一瞬、びっくりするように目ン玉をひん剥いたかと思ったら、今度は急に目を吊り上げ、歯をむき出しにして、まるで獣のように叫び始めた。

 

「くそ女ごときが、この俺様に、情けをかけるなど万死に値する! 貴様は死刑だ! おまえも、おまえも、おまえもおまえもおまえも! みんな死刑だ! 貴様はただ殺すだけじゃないぞ! 犯してから殺す! 殺してからも犯す! 貴様の全てを陵辱し尽くし、プライドと一緒に粉々に砕いた後、一片も残さず食らうてくれるわ! この女がああああああ!!!」

 

 ロバートの狂ったような叫び声が戦場にこだまする。それは今までのただヒステリックなだけの叫びとは違って、聞くものの精神を蝕むような、そんな悪意に満ちた空気を孕んでいた。それを間近に聞いてしまったクレアの顔面が蒼白に変わる。

 

 そして次の瞬間、またありえないことが起きた。憎悪の叫びをあげていたロバートの体が、突然ビクビク震えだすと、彼の両手両足がもこもこと膨張し始め、背筋がありえない方に折れ曲がり、そして口から気持ちの悪い巨大な泡をブクブクと、次から次へと吐き出し始めたのである。

 

 そんな姿を人間がするわけがない。そのあまりにも異様な光景に、兵士たちも堪らずその場を後退る。だが、それは少し遅かった。逃げるなら、もっと早く、はっきりとそうすべきだった。その時、上空の雲ひとつない空から稲妻が走り、それは枝分かれするような軌跡を描いてロバートの体に直撃した。瞬間、衝撃波が周囲に走って、周りに居た人々が吹き飛んでいく。

 

 そしてクレアも、ヴァルトシュタインも、兵士たちも、稲妻の衝撃で地面をゴロゴロ転がり、砂まみれになりながらそれを見た。

 

 たった今、雷に撃ち抜かれたロバートの体から、水のような透明な色をした何かが溢れ出しているのを。そしてそれはよく見ると、中に巨大な蛇のような、得体のしれない怪物を抱えているのだった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。