ラストスタリオン   作:水月一人

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幸福な日々

 世は並べて事もなし、あれから3年の時が経過したが、世界は何もかもそのままだった。

 

 300年前、世界を救うためにレオナルドは惑星アナザーヘブンの複製(コピー)である、迷宮アリュードカエルマを創造した。人々を今住んでいる惑星とそっくりな迷宮に移住させ、そして神からの刈り取りから守ったのだ。

 

 つまりそれから世界は二つに分離していたわけだが……それが元に戻った時、惑星アナザーヘブンは300年前の状態に戻るかと思いきや、そんなこともなく、アリュードカエルマ世界の状態をそのまま継承していた。簡単に言えば、人が居なくなって原生林に還ったアナザーヘブンに、アリュードカエルマという情報が乗っかったと考えればいいだろう。

 

 帝国には相変わらず五大国が健在であり、大森林を挟んで少し離れたところに勇者領が存在する。ただし、魔王がつけた傷跡もそのまま残っており、首都ニューアムステルダムは破壊され、現在はまだ復興の途中にあり、そして二つの国家を阻んでいた大森林には、新たにハイウェイのような一直線の道が出来ていた。

 

 それは3年前に現れた魔王ベヒモスが通り抜けた爪痕だった。あの魔王は恐ろしく正確にもう一体の魔王レヴィアタンを補足していたらしく、大森林をそれが通り抜けた痕は、信じられないくらい一直線だったのだ。

 

 フェニックスに帰還したヘルメス軍は、その後、戦場の後始末と国内の混乱を鎮めるために国内を巡回し、それに気がついた。新たにヘルメス卿に就任したクレア・プリムローズは、前任の悲願であった大森林縦断街道を開通するとともに、そこにもう一つ現れた道の方もちゃっかり整備した。その結果、ヘルメス西部フェニックスに集中していた人の流れが、東部へと移っていき、現在、彼女の地元であるプリムローズ領は首都に負けぬ賑わいを見せていた。

 

 そんな新たに出来た二つの街道からほど近くにあったガルガンチュアの村は、街道を行き来する人々の重要な中継点として栄え、気がつけば大森林の全ての部族を従える国家へと変貌を遂げていた。

 

 オークキング、ベヒモス、レヴィアタン……次々と現れた全ての魔王に対し、常に最前線で勇者と共に戦い抜いた若き獣王ガルガンチュアは、その功績を認められて、広く大森林にその名を轟かせていたのだ。

 

 天変地異を伴う激しい戦闘の後、村に帰還した彼の下には続々と森中の獣人たちが訪れて忠誠を誓った。ガルガンチュアはそんな獣人たちを快く傘下に収めると、森の獣人たちの生活圏を更に広げるべく南部遠征を繰り返し、強力な魔族たちを次々と打ち倒した。

 

 これによりバルティカ大陸南部に勢力を伸ばした彼は、そこに新たな拠点を設け、香辛料生産を主な収入源とする社会を築き上げた。この獣人による共同体は後にワラキア共和国と呼ばれるようになり、その初代国王としてガルガンチュアが就任することになる。

 

 尤も、それは後の人々がそう語り継いだだけであって、実質、既にワラキア王となっていたガルガンチュアの方は、特に国だなんだと意識することもなく、いつもどおり自分の村で家族の世話をしたり、時折やってくる友人たちと楽しく暮らしていた。

 

*********************************

 

 カンッ! カンッ! ……っと、木剣のぶつかり合う乾いた音が森の中に響いていた。

 

 ガルガンチュアの村からほど近い森の広場には、何人もの獣人の子供たちが集まり、そこで戦闘訓練を続けている二つの影をじっと見つめていた。

 

 普段は騒がしい子供たちが、おとなしく息を飲んでその行方を見守っているのは、戦闘訓練自体が珍しいのもさることながら、その訓練をしている男の出で立ちが異様だったからだ。

 

 広場の中央で漫然と木剣を構えている男の目には目隠しがつけられており、そして耳には耳栓が入っていた。そんな見えない聞こえない状態で、その男は迫りくる攻撃を幾度も弾いているのだ。

 

 それは彼と戦っている相手の技量が拙いわけではない。なにしろ、その相手こそがガルガンチュアであり、彼らの王であったのだ。戦闘中のガルガンチュアは噂に違わぬ強さを誇り、その速さは本当に目にも止まらなかった。おまけに彼は屈折する光のように空中で方向を変えたり、突然影の中に飛び込んだり、分身を作り、瞬間移動したりするのだ。

 

 その曲芸みたいな多彩な技は、子供たちからすれば何をしているのかすら理解出来なかった。ところが、そんな王の技を、目隠し男は何度も何度も凌いでいるのだ。

 

 カンッ! カンッ! ……っと、木剣の音が響く度、子供たちはゴクリと息を呑んだ。最初は自分たちの王様を応援していたのに、10合、20合と剣がぶつかり合うにつれ、いつの間にか子供たちは男の方を応援していた。しかし、流石にそんな状態でいつまでもガルガンチュアの攻撃が防げることはなく、ついに彼の木剣が男の肩に入ると、

 

「あいたーっっ!!」

 

 っと、情けない悲鳴と共に、ギャラリーからため息が漏れた。そのため息は、耳栓をする男には聞こえなかったが、ガルガンチュアにはしっかり聞こえており、彼は苦笑いしながら男の方に近づいていき、手を差し伸べた。

 

「……ツクモさん。まだ完全に集中しきれてないみたいだな。途中から音を聞こう聞こうってしてただろう?」

「おーいて……そんなつもりはないんだけどなあ……やっぱ人間、追い詰められてくると五感に頼っちゃうんだよ。本能がそうするっつーか」

 

 鳳は打ち付けられた肩を擦りながら、目隠しを取り、滲む涙を拭った。彼は耳栓を手のひらでコロコロと転がしながら、

 

「どうしても耳栓だけじゃ、完全に音を遮断することが出来ないんだよ。そのせいで漏れ伝わってくる音を拾っちゃう度、どうも普段以上に意識がそっちに行っちゃうみたいなんだ。それを意識しないように出来れば、今度こそ行けそうなんだけど……」

「俺からすれば、もう十分すぎるくらいだと思うけどな……まったく。あなたは今、わざとステータスをオール10まで落としているんだろう? そんな状態で、よくもこれだけ俺の攻撃を躱してくれたものだと呆れるよ。あなたといると、俺は自分が弱くなったんじゃないかと焦ってしまう」

「いや、とんでもない。普通にやったら、おまえに勝てるわけないよ。だから普通じゃない方法を会得しようとしているわけで……」

 

 ガルガンチュアの攻撃はあまりにもトリッキーで、普通に目で追ったり五感に頼るような戦い方をしていたら、確実にフェイントに引っ掛かってしまう。だから鳳は五感を殺して、ひたすら気配だけで彼の攻撃を避けるように訓練していたのだ。

 

 それは即ち、この物質界に居ながらにして、アストラル体の動きを読もうという試みであったが、どんなに修行しても鳳にはこれが会得できなかった。

 

「ルーシーはこれをぶっつけ本番で、しかも一発で成功したってんだろう? 今でもアストラル界を通じた精霊との対話や予言は彼女の専売特許だ。やっぱものが違うんかね。天才っつーか」

「お……どうやら、その天才が来たようだぞ」

 

 鳳が自分の不甲斐なさを呪っていると、ガルガンチュアが何かに気づいた様子で耳をピクピクさせていた。これも鳳にはいまいちピンと来ないのであるが、彼は空間の歪みのようなものを察知しているらしい。

 

 彼に言わせれば、ポータルを使うとそこに強烈な歪みが生じるから、すぐに気づくのだそうだ。この世界で、今ポータルを作ることが出来るのは、鳳とルーシーしかいないから、ガルガンチュアは彼女が来たと判断したのだろう。

 

 果たして彼の言う通り、間もなく広場に光の扉が現れて、そこからルーシーがひょっこりと現れた。彼女はは金糸でいくつもの刺繍が施された、綺羅びやかな白のローブを纏っており、手には大賢者の証として名高きカウモーダキーを握って、そして右目には、彼女の美貌には不釣り合いな黒い眼帯がかけられていた。

 

 彼女は魔王との戦闘の際に作り出した巨大ポータルの代償として、右目の機能を永久に失っていた。あれだけのことをして片目で済んだのだから御の字だと、彼女も彼女の姉弟子も言っていたが、鳳はあの時、自分がもっと上手くやれていたらと今でも悔やんでいた。

 

 全てを救うことは出来ない。それはわかっている。でも、レオナルドといい、彼女といい、どうして人々を助けようとした人が代償を支払わなければいけないのだろうか。世界は何と理不尽なものなのだろうか。

 

 鳳がそんなことを考えていると、ルーシーは二人の姿を見つけるやにこやかな笑みを湛えながら歩いてきて、

 

「やあ、マニ君、お久しぶり。鳳くん……大分待たせちゃったけど、スカーサハ先生がいつでも準備できてるって。今日はそれを伝えに来たんだ」

 

 鳳はそんな彼女にうなずき返すと、

 

「そっか……それじゃ、みんなに相談するため、俺は一度家に帰るよ。ガルガンチュア、今日は付き合ってくれてありがとう。ルーシーはまた帝都で待っててくれ」

「わかった。じゃ、もう行くね。あんまり留守にしてると護帝隊がうるさくって」

 

 鳳たちがそんなやり取りを交わしていると、それをそばで聞いていたガルガンチュアは申し訳無さそうな表情で、

 

「いよいよ行くのか……本当なら、俺もあなたについて行きたいところなんだが……」

「仕方ないさ、お前は今やこの森の王、獣王ガルガンチュアだからな。お前以外に獣人社会をまとめられる奴はいない」

「あなただって、この世界になくてはならない人だろうに……」

 

 ガルガンチュアが残念そうにそう言うと、鳳は苦笑交じりに、

 

「俺はただのしがない冒険者さ。俺がいなくなったところで、世界は何も変わらないよ。それに、俺は嫁が優秀だからね。だから安心してくれ」

 

 鳳はそう言って右腕を差し出すと、ガルガンチュアと握手を交わしてから、その嫁たちの待つプリムローズ城へと帰っていった。

 

********************************

 

 3年前の魔王討伐後、紆余曲折を経てフェニックスに帰還した時のヘルメス卿鳳白は、その地位を後継者クレア・プリムローズに禅譲した。彼女はロバートの起こした反乱鎮圧と、その直後に起きた魔王戦での活躍もあって、全国民の熱狂的な支持を受けてヘルメス卿に就任した。

 

 帝都での就任式を終えた彼女は早速とばかりに国内の復興に着手すると、先にも触れた通り、大森林の二つの街道整備を行った。その頃、勇者領ニューアムステルダムは魔王ベヒモスの襲来によりボロボロに破壊されており、復興しようにも手がつけられない状況だった。彼女はそんな勇者領に救いの手を差し伸べると同時に、かねてよりの問題であったオルフェウス難民の入国を許可し、街道整備や復興のための労働力としたのだ。

 

 心配された復興予算も、一度流通が動き出せば、その関税や人々の消費行動によってどうにか補える程度に収まってきた。一番の問題は相次ぐ戦争と人口増加による食糧不足であったが、これも初年度こそ新大陸を頼りにしたが、すぐに自給できるまでに回復した。

 

 そして街道が整備されると、ニューアムステルダムの復興のための物資や、新大陸からやってくる行商人が行き交い始め、気がつけば当初の目論見通り、プリムローズ領はヘルメスの一大流通拠点として発展し始めた。

 

 ヘルメス卿クレアはこれを機に自領の開発を行うことを宣言すると、魔王との戦闘で出来たクレーター湖の畔に新たな官邸であるプリムローズ城を建設し、首都機能を移転することにした。元々、前任の鳳が地位を譲ることを前提にしていたため、フェニックスの庁舎はどこもかしこも仮設ばかりであり、移転は思った以上にスムーズだった。

 

 こうして役人が移動すると、それを相手に商売している者たちも雪崩式に移動することになり、プリムローズ領のあちこちで建設ラッシュが始まった。間もなく城を中心とした街が出来上がり、クレーター湖を溜池とした灌漑が行われ、みるみるうちに農地が広がっていった。それをオルフェウス難民や農地を持たない平民たちが開墾し、どこまでも続く肥沃な土地はあっという間に人でいっぱいになった。かつては誰もいない荒野を野盗が徘徊していたのが嘘のようである。こうして自領の民を救った彼女のことを、かつて一緒に野山を駆け回っていた友達は、きっと喜んでくれているだろう。

 

 さて、そんなクレアは二児の母でもあり、子供の教育に熱心でもあった。国内には3年前の孤児問題の折に建てられた孤児院があり、景気が良くなり余裕が出来てくると、それが恵まれない子供たちを助けようという運動に繋がっていた。

 

 クレアはその動きを敏感に察知すると、全国に成人前の子供たちを教育する無償の学校を設立することを宣言し、また、さらなる孤児院を増設して、その院長にかつてアリスの主人であったルナ・デューイを据えることにした。

 

 元ヘルメス貴族であった彼女は、三代前のヘルメス卿アイザック11世を刺殺してしまったという過去があった。その罪を悔いた彼女はベル神父に感化され、キリスト教に帰依していたのだが、それ以来、神父のいなくなった孤児院を切り盛りしており、それが認められた形である。

 

 そんなわけで新たな孤児院建設のために、クレアは今日もルナの孤児院に出向いて二人で話し合っていたのだが、そんな彼女らが議論しているところへ、突然、腹心のペルメルがやってきた。彼は自分の主人に対し、恭しくお辞儀をすると、

 

「ヘルメス卿、ここにおられましたか。探しましたよ。また一人で勝手にいなくなるから、あまりこういうことをされては困ります」

 

 クレアは、きっとまたお付きもつけずに一人でふらっと孤児院に来たことを咎められるのだろうと思い、ムスッとした表情でそれを迎えた。

 

「なによー、ペルメル。今日は一緒に来なくていいって言ったでしょ? 女同士で話し合いたいことだってあるのよ。そっちのほうが気楽だし。それに、私を襲う人なんていないから護衛なんて必要ないわよ」

 

 彼女はそれを、自分の領民はみんないい人たちだからという意味で言ったのだが、実際に彼女に危害を加えるような者は、このヘルメスに一人もいなかった。実は魔王との戦闘のどさくさに紛れて、レベルアップしまくっていた彼女に危害が加えられるような者は、もう殆どいないのだ。

 

 だから彼女の言う通り、本当に護衛は必要なかったのだが……そんな彼女に向かって、ペルメルはやれやれと首を振りながら、

 

「確かにあなたはお強いですから、心配はしておりませんよ。ただ、何か緊急事態が起きた時、連絡が取れなくなると困るから、こういうことは慎んでいただきたいと言ってるのです」

「わかったわよ、もう。これからは気をつけるわ。でも、緊急事態なんて、そうそう起こるわけ無いでしょ?」

「いえ、今日は本当に緊急事態で、あなたを探していたのですよ」

「……何があったの?」

 

 それまで不貞腐れたような表情をしていたクレアは、その言葉を聞くなり背筋をぴんと伸ばし、領主らしい真剣な表情に変わった。そんな彼女の顔を見て、ペルメルはふっと表情を緩めると、

 

「旦那様がプリムローズ城へご帰還なさいましたよ。あなたが留守であると知って、がっかりなさっていました」

「ダーリンが!?」

 

 その言葉を聞くや否や、クレアは今度は真剣を通り越して緊迫した表情に代わり、人が変わったみたいにソワソワし始めた。彼女はたった今まで話し合いを続けていたルナの方に、チラチラと視線を送りながら、なにか言いたげにしている。

 

 そんなヘルメス卿の姿を見て、ルナはクスクスとした笑い声を漏らすと、

 

「失礼しました……ヘルメス卿。今日のところはこの辺にしませんか? 話し合いならまたいつでも呼び出してくだされば、こちらからすぐお伺いしますから」

「ごめんなさい。今日はこっちから無理矢理押しかけておいて、今度は自分勝手に帰りたいだなんて……」

「あなたの大事な旦那様がおかえりとあっては致し方ありませんよ」

 

 ルナはまたクスクスとした笑いを漏らしてから、ふと思い出したように、

 

「そう言えば、アリスは元気ですか? 暫く会っていませんが、ちゃんとやれていればいいのですが……」

「元気も元気! 私もミーティアも何もしなくていいって言ってるのに、どうしても家のことをしていないと気がすまないみたいね。まるでメイド長が二人いるみたいよ」

「まあ、あの子らしい。本当のメイド長さんのお邪魔でなければ良いのですが」

「気になるなら、今度遊びにいらっしゃいよ。あそこは官邸といっても、私たちの家だから、家族に閉ざす門はないわ」

 

 クレアのそんな家族という言葉に、ルナは少し気恥ずかしげに、それでいて少し潤んだ瞳をしながら笑顔で返した。

 

 クレアは孤児院を飛び出ると、群がってくる子供たちにハグで別れを告げてから、馬に飛び乗ってプリムローズ城へ急いだ。街道で勇ましく馬を飛ばすヘルメス卿の姿を見つけるや、領民たちはこぞって立ち止まり恭しくお辞儀した。彼女はそんな領民たち一人ひとりに向かって、こんにちわと叫び笑顔で応えながら、ペルメルを従えてプリムローズ城下へと入っていった。

 

 どこからともなく近衛騎士団が現れて、彼女の馬を囲むように行進を始めると、城下の人々がみんな大通りに出てきて歓声をあげた。彼女は手を振りながらその間を練り歩き、ついにプリムローズ城に辿り着くと、スーッと跳ね橋が下りてきて、その向こう側で城付きのメイドたちがずらりと並び、主人の帰還を恭しく出迎えた。

 

 メイド長のアビゲイルがすまし顔で彼女の外套を受け取る。

 

「おかえりなさいませ、クレアお嬢様」

「ただいま! ダーリンが帰って来てるって本当!?」

「はい、ただいま奥様がシフォンケーキを焼いておりまして、旦那様はそれを食堂で待っておいでです」

「食堂ね、ありがとう! ……どうでもいいけど、どうしてみんな、あっちの方を奥様って呼ぶの? ここの主人は私よね?」

 

 アビゲイルはすました表情を崩さずに黙っている。

 

「もう! アリスのせいね。いつまでもあの子が奥様、奥様って呼んでるから。あの子だって奥様のくせに……今度じっくり話し合わなきゃいけないわ」

 

 クレアはプンプンと怒気を振りまきながら廊下をズカズカ足音を立てて入っていた。たまたま通りすがった気の毒な使用人たちが、顔を真っ赤にして肩を怒らせて通り過ぎる主人を見てギョッとして畏まっている。

 

 しかし、そんな彼女も食堂に入るや否や、そこで新聞を読んでいる人の姿を見るなり、まるで信号機のようにぱっと笑顔に変わって、

 

「ダーーリーーーーンッッ!!!」

「沢田研二っ!?」

 

 鳳は読んでいる新聞ごとタックルを決めてきたクレアを抱き止め、目を丸くした。

 

「びっくりした~……クレアか。声を掛けるならもう少し優しくお願いするよ」

「だってだって~、すっごく久しぶりだったんだもん。あなたがお疲れなことはわかってたけど、お顔を見たらもう我慢出来なかったわ。ダーリンに逢えなくて、ずっと寂しかったんだぞ?」

「う、うーん、そう言われると弱いな。ずっと家を開けててごめんね?」

「ねえ、今回はいつまで居られるの?」

「うん……それが、今回もそう長く居られなくて……」

「イヤイヤ! あなたの居ない夜を数えて眠るのはもう嫌よ。そんなに世界中飛び回らなくっても、お金なら私がいくらでも稼いでくるから、ね? ずっと家に居てよ。私なんでもするから」

「な、なんでも……? お尻でも?」

「うん。お尻でもおっぱいでも、好きなだけしていいから……ところで沢田研二って誰?」

「ジュリーのことかな」

「んまあ! 私以外の女の話なんて聞きたくないわ!」

「いや、ジュリーは男だけども……あ、コーヒー冷めちゃうから、飲んでもいい?」

「うん」

 

 二人がアホな会話を繰り広げている間に、アビゲイルが無言でコーヒーを入れてくれていた。彼女はヴィンチ村のレオナルドの館に居たメイド長だが、あの騒動以降、他の使用人と共に鳳を頼ってヘルメスにきていた。職業意識が高く、いくら主人達がアホなことをしていても、動揺することは一切なかった。

 

 クレアはそのままちゃっかり鳳の膝の上に居座って、鳳と一つのコーヒーカップをシェアしている。仲睦まじいと言えば仲睦まじいが、こんなものを毎日見せられたら堪ったものではないだろうに、整然と澄ましている様は見事であった。

 

 そんなアビゲイルが見守る中で、二人はコーヒーを飲んで大分落ち着いてきたのか、次第に会話は国内情勢に変わっていた。なんやかんや、彼女はこの国の君主であり、二人が会話をすると自然とそうなるのだ。

 

 帝国の最近の動向や、ニューアムステルダムの復興の話、経済や国内の治安問題。ヘルメスは国が富んで人口が増えるに従って、やっぱり犯罪も増加傾向にあった。その対策として、クレアは新たに憲兵組織を発足させ、戸籍調査を開始したりしていた。そして最後に遷都前の都フェニックスに話が及んだ。

 

「ここに帰ってくる前にフェニックスにも寄ったんだけど、旧庁舎街跡地の宮殿も大分出来上がってきていたよ。あれが完成すれば、またヴェルサイユみたいにこの国の象徴になるんだろうね」

「ニュートン卿の功績は間違いなくこの国最大のものですから。その血が途絶えたとしても、私たちがその恩を忘れるようなことがあってはいけないわ。だからその記念碑になれば良いんだけど」

「首都は移転しちゃったけど、あっちには誰が住むの?」

「ディオゲネスを城代に送るつもりよ。そのつもりで、工事の責任者をやらせているの。ダーリンもあっちで会ったでしょう?」

「ああ、テリーと一緒に食事がてら……そうそう、君と初めて一緒に行った、あの料亭で食事したんだ。女将さんがよろしくって」

「まあ、懐かしいわね。利休も帝都で元気してるかしら」

「あの時は本当に、ひどい目にあったよ……こっちは必死だっつーのに、全然構わず色仕掛けしてくるから、もうちょっとでおかしくなるとこだった」

「うっ……だってだって、私だって必死だったんだもん。ねえ? でも、もしあの時、あなたに抱かれていたら、今頃私たちってどうなってたのかしら……」

「……目をキラキラさせてるとこ悪いけど、多分死んでたと思うよ?」

「うっ……身も蓋もないわね。でもいいの、私はあなたに殺されるなら本望よ」

「無茶苦茶言うなよ……ところで、クレア。さっきからその、君のお尻がすっごいとこに当たってるんだけど……」

「あら、そう? 気になさらないで、私はあなたの物ですもの」

「……おまえ、そのつもりでわざとやってないか?」

「どうかしらね……ねえ? あの日のこと、再現してみる? 本当は私のこと、どんな風にしちゃいたかったの? ダーリン……?」

 

 クレアは鳳の首に絡みつくように抱きついている。すぐ目の前まで迫った彼女の瞳がキラキラと潤んでいた。鳳はゴクリとつばを飲み込むと、キスくらいはしてもいいかと顔を近づけていったが……

 

「は、な、れ、な、さいっ!!」

 

 その時、鳳の首が思いっきりグイッと引っ張られて、あらぬ方向に無理矢理向けられた。グキッと音がして寝違えたような痛みが走り、鳳は轢き殺されたカエルみたいな情けない声を上げ、クレアはそんな鳳の膝からおっこちて、床に尻もちをついていた。

 

「いったーーーーいっ!! 何すんのよこの馬鹿!」

 

 床に落っこちたクレアが涙目になりながら抗議する。見上げるとそこにはミーティアが立っていて、彼女のことを鬼の形相でじろりと見下ろしていた。

 

「ちょっと目を離した隙に真っ昼間っから盛っちゃって、このコンコンチキ! 使用人たちもいる前で、城内の風紀を乱すようなことはやめなさいって、いつも言ってるでしょう! あなた、それでもこの国の女王様なんですか!?」

「うっさいわねえ……久しぶりにダーリンに逢えたんだもん。ちょっとくらい甘えたって良いじゃない」

「彼だって、長旅で疲れてるんですよ。なのに、労いもせずにベタベタくっついて、メイド長だって困ってます、少しは恥を知りなさい恥を」

 

 ミーティアはプンプンと怒っている。そんな彼女の背後には相変わらずメイド服に身を包んだアリスが立っており、彼女の持つ皿からは、焼き立てのシフォンケーキのいい匂いが漂っていた。

 

 きっと、鳳が帰ってきたので、いそいそとケーキ作りに勤しんでいたのだろう。その隙にクレアに出し抜かれたから彼女は怒っているのだ。それを見透かしたクレアが、挑発するように言い放つ。

 

「ふーんだ! 自分が上手に甘えられないからって、私に嫉妬しないでくれる?」

「嫉妬!? 誰があんたなんかに嫉妬するものですか。私は常識をわきまえろと言ってるんですぅー!」

「おーこわ! 眉間に皺を寄せちゃって、そんなんじゃ夜の相手もその内呼ばれなくなっちゃうわよ、おばさん」

「誰がおばさんですか! 今すぐその口を慎まないと、シャンパングラスを突っ込んで顔面パンチしますよ! 大体、あなただって私と2つしか違わないじゃないですか!」

「あんた、発想がホント邪悪よね……たまに感心するわ。脳みその栄養が、その大きなおっぱいに吸い取られてるんじゃないかしら」

「う、うるさいですねえ……私だって好きで大きくなったわけじゃないですよ。それに、白さんが大きいほうが良いって言ってくれるんですから、別に良いんですー! あなたこそ、自分が小さいからって嫉妬しないでください」

「なっ!? 私だって別に小さくないわよ! あんたが大きすぎるだけよ、このウシ女! ダーリンは私のおっぱいだって好きって言ってくれるもん! いっつも赤ちゃんみたいに吸い付いて離れないもん!」

「私ならその上、挟んであげられますけどね……」

「くっ……いい気になるんじゃないわよ!? じゃ、じゃあ、本当は言いたくなかったけど教えてあげるわ! 実はダーリンは私のおっぱいだけじゃなくて、お尻にも夢中なのよ。どう? あなたにそんな真似が出来て!?」

「ふんっ」

 

 ミーティアは哀れな小さきものを見るような目つきで冷笑している。

 

「な、なによ、その余裕ぶった笑みは……」

「たかが、お尻ごときで勝ち誇っちゃって、かわいいもんですね、クレアちゃん……」

「なっ!?!? なによ! あんたは、それ以上のものを持っているというの……!? こ、こんな、正常位でセックスしてそうな顔してるくせにっ!!」

「もうやめて! 二人で喧嘩するふりして、その実、俺を傷つけるのはもうやめてぇーっ!!」

 

 二人が言い争っているその間で、鳳が涙を流してノックダウンされていた。そんなあらゆる性癖を暴露されている中で、アビゲイルは相変わらず表情一つ変えずに、せっせと紅茶の準備を続けていた。そろそろ転職を言い出さないか不安である。

 

 そしてもう一人、シフォンケーキを持ってきたアリスもアビゲイルのように澄まし顔でお盆をテーブルの上に置いたと思ったら、てくてくと歩いてきて鳳の横にちょこんと座った。どんな変態セックスをしているかバレてしまった鳳がバツが悪くなって目を逸らすと、彼女はそんな彼の腕にぎゅっと抱きついて、ほっぺたをその肩に乗せた。

 

「……あの、アリスさん?」

 

 何をしてるんだろうと思っていたら、彼女はそのあるかないか微妙なおっぱいを鳳の腕に押し付けながら、目の前の二人の反応を窺っていた。しかし、そんな彼女のことが眼中にないのか、二人は全く気が付かないで言い争いを続けている。

 

 アリスは拗ねたように、ぷくーっとほっぺたを膨らませると、

 

「奥様も、お嬢様も、ご主人様も……みんな私だけ子供扱いしてずるいです。私もご主人様に、もっといろんな事をして差し上げたいです」

 

 彼女はそう言って、真剣な表情で鳳の顔を見上げていた。いろんな事って、どういうことか、本当にわかっているのだろうか……鳳はその真っ直ぐな愛を嬉しく思う反面、彼女だけはまだ汚れてほしくないという思いもあり、なんとも言えずに黙っていた。

 

 と、その時だった。別室からおぎゃあおぎゃあと赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、言い争いを続けていた二人の声がぴたりと止まった。

 

「大変! あの子達が泣いていますよ」

「おしめかしら、おっぱいかしら?」

 

 それまで激しくやりあっていたくせに、その瞬間、二人は何事も無かったかのように会話を交わしながら、仲良く並んで部屋から出ていってしまった。出遅れた鳳とアリスは目をパチクリさせながら顔を見合わせると、アビゲイルにすぐ戻ると伝えてから、そんな二人の後を追った。

 

 別室にやってくるとそこには赤ちゃんを抱いた二人が、よしよしと自分の子をあやしていた。直ぐ側には乳母の女性たちが何人も忙しそうに駆け回っており、おしめやら哺乳瓶やらの用意をしている。子供のためにこれだけの人数を掛けるのだから、やはりなんやかんや言ってもクレアは王侯貴族なのだ。

 

 他人事のように言っているが、もちろん、この二人が抱いている赤ん坊は鳳の子供たちだった。彼と二人の嫁の間には、あの魔王との戦いの後、子供が生まれた。クレアは双子の姉妹を出産し、ミーティアは男の子を産んでいた。みんなすくすくと健康に育っており、つい先日1歳になった。まだ言葉も話せないが、鳳の子供だから、いずれ父親譲りの能力を発揮しだすかも知れない。

 

 クレアとミーティアは普段はあまり仲がよろしくないが、赤ん坊の前では絶対に喧嘩をしなかった。二人ともお互いの子供たちを愛し、子供たちもまたそんなもう一人のお母さんのことを慕っているようだった。

 

 鳳がそんな妻たちの姿を目尻を垂らしながら見守っていると、ミーティアが苦笑しながら手招きした。

 

「白さん、あなたもこっちに来て、赤ちゃんのことを抱いてあげてください」

「え? いいの?」

「自分の子供なんだから当たり前じゃない。さあ、ダーリン、こっちきて、お姉ちゃんの方を抱っこしてくれないかしら? 最近大きくなってきて、二人同時に抱いていると腕が疲れちゃうのよね」

 

 鳳はクレアから赤ん坊を預かると、まるでガラスの靴でも扱っているかのように、恐る恐る手の上に乗っけるように抱いてみた。あまり家に寄り付かないせいか、赤ん坊は鳳に抱かれても反応を見せずキョトンとしていたが、泣いたりもせずじっとその身を彼に預けているようだった。

 

「そんなビクビクしなくても、壊れたりなんかしませんって」

「うん、大丈夫だって分かってるんだけど。自分でも慣れたつもりでいるんだけど、やっぱり緊張しちゃうんだよね」

 

 鳳が赤ん坊から目を離さずにそう言うと、二人のお母さんはクスクスと笑い声を上げていた。傍目には自分はどう映っているのだろうか。鳳は彼女らに何か言い返す余裕もなく、ただひたすら自分の娘を見つめていた。

 

 赤ん坊はとても小さくて軽くて、温かくて、そして湿っぽかった。生きているって感じがした。一生懸命、胸が上下に動いている。そして何もない空中に手を伸ばして、指をにぎにぎしていた。

 

「可愛いなあ……可愛いなあ……」

 

 鳳が思わずそんなことを呟いていると、アリスが寄ってきて赤ん坊を覗き込み、

 

「可愛いですねえ……」

 

 彼女が指を差し出すと、赤ん坊はその指をギュッと握りしめてから、アリスの顔を見てキャッキャと笑った。赤ん坊は実の父よりも、アリスのほうがよっぽど好きみたいだった。鳳はそれをがっかりに思わず、寧ろ嬉しかった。赤ん坊がこんなに懐いているのは、きっとアリスの方も彼女のことが好きだからだろう。

 

 そんな風に、二人して小さな赤ん坊をじっと見つめている時だった。

 

「あの、ご主人様……私も赤ちゃんが欲しいです」

 

 アリスがポツリとそんなことを呟いた。鳳は全神経を手のひらに集中していたから、自分がどんな顔をしていたかわからなかったし、周りの人たちがどんな顔をしているのかも分からなかったが、なんとなくよそよそしくなる空気の中で、アリスはそわそわしながら続けた。

 

「その……私は体が小さくて、ずっとご主人様が気を配ってくださっていたことも分かっていたのですが、そろそろ私もお二人みたいに、ご主人様の赤ちゃんが欲しいなって、思っていたんです。だって……こんなに可愛いんですもの。私も早く、私の赤ちゃんに会ってみたいなって……駄目でしょうか?」

 

 鳳は自分の手のひらの上でアリスを見つめている赤ん坊の目を見つめながら、

 

「……そうだね。それじゃあ……次の攻略を終えて、今度こっちに帰ってきたら、作ろっか?」

「本当ですか!?」

 

 鳳の返事にびっくりしたアリスが大声を上げる。するとそれに驚いた赤ん坊の顔が歪んできたと思ったら、おぎゃあおぎゃあと盛大な鳴き声を上げた。

 

 鳳とアリスがしまったと青ざめてパニクってると、すぐに苦笑気味にクレアがやってきて赤ん坊を引き取ってくれた。赤ん坊はお母さんに抱かれて暫くすると、また元の上機嫌に戻ってしまった。やはり母は偉大である。

 

 鳳がホッとして周りを見渡してみると、部屋の中はさっきまでの緊張感が解けて、どこか和やかな雰囲気になっていた。アリスと子供を作ると言ったら、二人は嫌がるかと思ったが、どうやらそんなことはなかったらしい。

 

 鳳は三人の嫁に序列をつけるつもりはなかったが、アリスはいい意味でも悪い意味でも少々特別扱いしていたから、みんな気になっていたのだろう。鳳がそれを申し訳なく思っていると、そんなアリスのことを自分の娘のように抱きしめながら、ミーティアが鳳に尋ねてきた。

 

「それで、今度はどんな迷宮を攻略するんです? 帝都のものはあらかた片付けてしまったのでしょう? 新大陸ですか? 大森林ですか?」

「ああ、それなんだけど……」

 

 鳳は言いかけてから少し考え直し、

 

「それについては、夕食後にでも。落ち着いてからみんなに話すよ」

「……よっぽど難しそうな迷宮なんでしょうか?」

「それもあるけど、今日はみんなとディナーに行きたいと思ってたんだ。出かける前に余り重い話はしたくないでしょ」

「まあ! 今日はダーリンと外食ですの? 早速、ドレスの準備をしなくっちゃ。ミーティアもアリスも、今日はちゃんと着飾りなさいよね? せっかくのダーリンのお誘いなんだから、わかった?」

 

 クレアが何となく空気を読んで、はしゃいだ声を上げていた。こういった場面で咄嗟にそう言うことが出来るのは、やはり社交界のスターの血筋だけある。鳳はそんな彼女に感謝しながら、赤ん坊を抱っこして、今日のディナーについて楽しそうにあれこれ話し合っている3人の嫁を見つめていた。

 

 鳳は、クレアにヘルメス卿の座を譲った後、世界中の迷宮を回っていた。その目的は、壊れてしまったレオナルドの迷宮を直すため……だが、その方法は未だに見つかっていない。

 

 彼がこれまでに攻略した迷宮は100を越えていた。あらゆる世界の秘密を暴き、そして神に匹敵する力を手に入れた。そんな彼のことを人々は、いつしかタイクーンと呼ぶようになっていた。

 


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