ラストスタリオン   作:水月一人

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第七章・女だらけのこの世界で男は俺ただ一人だけ
神のみぞ知る


 我々の宇宙には様々な元素がある。自然界には原子量1の水素から238のウランまで92個の元素が存在し、原子炉の中のような人工的な環境でなら、ウランを超える高質量の元素だって作り出せる。だが概ね、物質は原子量1の水素から56の鉄までの、原子量の少ない状態で存在していることが多い。

 

 地球の核は鉄で出来ているし、大気は酸素や窒素、二酸化炭素などで構成されており、土はさまざまな有機物や鉱物、生物の体は炭素や窒素の化合物であるアミノ酸で出来ている。

 

 ところで、私たちの体を形作っている炭素や窒素なんて元素は、ごく普通にどこにでもありふれているわけだが、ところがこれらの物質がこの宇宙の中でいつ、どうやって作られてきたのかというと、割と最近、戦後になるまでわかっていなかった。

 

 例えばラジウムなどの放射性物質は、アルファ線を放出しながら原子核が割れて別の元素へと変化する。何もしていないのに崩壊を繰り返すのはそれだけその元素が不安定な証拠だ。しかし不安定であるなら、何故この宇宙にそんなものが自然に存在しているのだろうか? おかしな話ではないか。

 

 そう考えてみると炭素や窒素、酸素なんかの元素だって不可解だ。我々はこの世の物質がすべて原子で出来ていることを知っているが、その原子は陽子と中性子、電子によって出来ている。そしてラザフォードの実験から、陽子と中性子を含む原子核の周りを電子がくるくると回っている(電子の雲が取り巻いている)ようだと、ここまで分かっている。

 

 ところでその原子核というのはとても小さく、ただでさえ小さな原子の中でも無に等しいくらい狭い領域に過ぎない。するとどうしてそんな狭い領域に、同じ正電荷を持つ陽子がいくつも存在できるのかという疑問が生じてくる。

 

 電磁気の力であるクーロン力は距離の二乗に反比例して、同じ電荷同士は反発しあうという法則がある。つまり狭い原子核の中に複数の陽子を封じ込めておくには、とてつもないエネルギーが必要になるわけだ。

 

 実際に、世界で初めて加速器の中で二つの水素原子が融合する現象が観測されたとき、その反応を引き起こすために使われたエネルギーは莫大で、とてもSFの世界みたいに発電に利用しようなどとは考えられないほどだった。そんなエネルギーをどこから持ってくるというのだ。そう考えると、この宇宙のすべての物質は、一つの陽子と一つの電子からなる水素原子だけで出来ている方が自然なのだ。

 

 だがその水素原子が一か所に集まると話が変わる。水素原子は一つ一つは軽いかも知れないが、それが大量に集まって太陽くらいの重さにまでなると、自重により莫大なエネルギーが生じて、なんと核融合を始めてしまうのだ。そうして始まった核融合が連鎖反応を起こし、現在では恒星の表面で日常的に行われていることが知られている。

 

 ここまではいい。こうして水素原子は晴れてヘリウム原子になれた。じゃあ、他の元素はどうなのだろうか。

 

 言うまでもなく、原子核の中の陽子数が増えれば増えるほど、それを一か所に縛り付けておくための力は強くなる。だから原子核の陽子数が多くなればなるほど、その反応が起きる可能性はどんどん低くなっていくはずだ。

 

 何しろ大きな太陽だから、たまにならその表面でリチウムやベリリウムが出来ることがあるかも知れない。だがそれ以上となると日常的にとは言い難い、確率はどんどんどんどん低くなっていく。炭素を作るとなると、もう絶望的だ。でもこの宇宙には沢山の炭素が存在している。これは一体どういうことか?

 

 分からない。分からないけど、現実に炭素や窒素で出来た細胞を持つ、我々人間が存在しているのだから、まだ発見されていないだけで、そんな方法があるんじゃないか。

 

 そう言いだしたのは後にジョージ・ガモフとビッグバン論争を繰り広げる科学者フレッド・ホイルだった。

 

 彼は水素を燃やし尽くした赤色巨星の中で、ヘリウム原子3つが融合して炭素原子を作るという反応が、きっとあるんじゃないかと予言した。そして、これに興味を持ったウィリアム・ファウラーによって、それが事実であると証明されたのである。

 

 この発見により他の原子の生成過程も次々と見つかり、ファウラーは後にノーベル賞を獲得することとなる。因みに、フレッド・ホイルは何も貰えなかったが、彼のこのような考え方は、現在では『人間原理』という名称で世界中に広く知られている。

 

 我存在す、故に法則在り。法則は後からついてくるのだ。

 

 さて……元素というのは、原初の宇宙からありふれたものとして在ったと思いきや、実はこのように複雑な過程で出来ている。実際にビッグバン直後の宇宙に炭素や窒素はまだ存在せず、それが生じたのは最初の恒星が燃え尽きて超新星爆発を起こした後だったのだ。

 

 地上の土は、つまるところ、すべて生物の死骸であるが、実は私たちを形作る元素も、本を正せば、星の死骸で出来ていたわけである。そう考えるとなんとも言い知れぬ無常観を感じるだろう。生命は、必ず何かの死骸の上に成り立っているのだ。

 

 ところで、その生命が誕生するのに必要な有機物を作り出すための炭素や窒素が、こうして生まれたわけだが、これと同時にもう一つ生命にとって重要な物質も誕生している。言わずもがな、水である。

 

 我々は水がなければ生きてはいけず、日常的に触れているものだから、それを当たり前と思って意識していないが、実はこの水という物質は、自然界でもかなり特別な性質を持つ物質なのだ。

 

 物質には固体、液体、気体の三つの相が存在するが、普通の物質は固体の時に最も体積が小さく、液体、気体になるに連れて膨張し体積を増していく。ところが水は液体の状態の時が一番体積が小さいという変わった特徴がある。

 

 これは水の分子構造が原因なのであるが、知らない人向けにざっくりと説明すると、水はH2O、つまり一つの酸素原子と二つの水素原子の共有結合によって作られている。元素には電気陰性度というものがあり、特に酸素はそれが高くて、結合の際に水素の電子を奪おうとする傾向が強い。その結果、水の分子は水素原子の電子が酸素原子に強く引き付けられ、酸素原子のある側は少しマイナスに帯電し、二つの水素原子がある側はプラスに帯電する。

 

 

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 そして周りの水分子も同じ構造を持つから、つまり水分子は水分子同士でも引っ張りあっているのである。その結果、分子が自由に動けない固体の時よりも、動ける液体の状態の時に、水は体積が最も小さくなってしまっているわけである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 水の中にある水素原子は、こんな具合に酸素原子と他の水分子の両方から引っ張られているために、結合が外れやすい。実際に、水の中では水素の原子核H+が、くっついたり離れたりして自由に動き回っている。故に有機物が水の中に入ると、自由なH+がくっついてその構造を変えてしまう。水が様々な有機物を溶かしてしまうのは、こういうカラクリがあったのだ。

 

 このように、化学物質というのは分子式だけではなく、構造にも着目しなければその本当の性質がよく分からない。余談ではあるが、逆に何も知らないとどういうことが起きるのかという面白い逸話もある。

 

 19世紀半ば、イギリスの大学生であった18歳のウィリアム・パーキンは、夏季休暇中に自宅の実験室でキニーネの合成法を研究していた。

 

 当時、すでにキニーネの分子式は知られていたが、まだ原子の存在は未発見であり、分子構造という概念もなかったため、彼はマイクラ工業みたいに同数の元素を混ぜ合わせれば作れるんじゃないかと素朴に考え、似たような分子式を持つ物質をあれこれ混ぜ合わせ、煮たり焼いたり色々試していた。

 

 もちろん、そんな方法で目的のものが生成出来るわけもなく、案の定、出来上がったものはタール状の何がなんだか良く分からないものだった。

 

 ところが、幸運なことに、このたまたま出来上がった代物は、当時のイギリス社会では貴重な紫の染料に代わるものだった。彼はこれに目をつけると早速特許をとって、一財産を築いたそうである。閑話休題。

 

 パーキンの時代には原子核や電子の存在などはまだ知られておらず、実は化合物とは原子が電気的に引き合って作られている、なんてことは分からなかったのである。分かるようになったのは、例のバルマー系列からボーア模型が作成され、電子にエネルギー準位があることが判明してからだ。

 

 現在の化学では、有機化合物は元素が安定的に結合しやすいいくつかのパターンを作り、それがくっついたり離れたりして形作られていることが分かっている。

 

 良く知られているのは、炭素と水素で出来たアルキル基(CH2とかCH3とか)に、ヒドロキシ基(OH)がくっついてメタノールやエタノールのようなアルコールが作られること。ほかにもベンゼン環(フェニル基)やカルボキシル基などがくっついて、酢酸や安息香酸が出来たりする。

 

 ほかに有名どころと言えば二日酔いの原因であるホルムアルデヒドを作るホルミル基だ。これはカルボキシル基を作る中間素材でもあり、その変化過程は化学の教科書に載っているだろうから、知っている人も多いだろう。

 

 ところで、我々の体を作るたんぱく質は、アミノ酸が重合して作られている。そのアミノ酸は二つの官能基、アミノ基(NH2)とカルボキシル基(COOH)がついているのが大きな特徴なのであるが、実はもう一つ変わった特徴がある。

 

 アミノ酸の一般構造式は下図の通りであるが、このアミノ基とカルボキシル基の位置関係が、必ずと言っていいほど図の順番通りになっているのである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 図では左にアミノ基、右にカルボキシル基がついているが、自然界に存在するアミノ酸は、殆どこの順番通りに並んでいるのだ。これを左右逆にしたところで出来上がるアミノ酸の特性は何も変わらないし、ごく少数ではあるが現実に存在もしている。だから普通に考えれば自然界に半数ずつがあっても良さそうなのだが、何故か殆どのアミノ酸が図の通りの構造になっているのだ。

 

 これは一体、どうしたことだろうか? アミノ酸は我々の体を作る大事な材料だ。それがここまで露骨な偏りを見せるのだから、人間原理的に考えれば、これには絶対に意味があるはずである。もう一度、図を見てみよう。

 

 アミノ酸を構成する二つの官能基は、直接本体Rにくっついているのではなくて、ハブのような役割のCHと結合して、それから本体Rにくっつている。こうして改めて見ると、一つの炭素(C)に、アミノ基(NH2)とカルボキシル基(COOH)とプロトン(H)の三つの基がついているようにも見える。ところでこの三つの基は、真ん中の炭素Cに、それぞれどれくらいの強度でくっついているのだろうか?

 

 さきほど水の分子構造を見た時、そこには電気的な偏りがあった。水素原子は陽子と電子、一個ずつから構成されているから、どうしてもそうならざるをえないのだ。ところで、よく見てみれば、さっきのアミノ基もカルボキシル基にも水素原子は含まれている。そしてそれは水分子と同じように電気的な偏りがあるはずだ。

 

 つまり、ハブである炭素(C)にくっついている三つの基は、自由にぶら下がっているのではなく、それぞれ電気的に反発しあい、歪みながらくっついているのだ。故に、二つの官能基を入れ替えてしまうと、その歪みは逆向きになってしまう。

 

 ところで、たんぱく質は同じアミノ酸がいくつも連なって出来ている。アミノ酸のカルボキシル基とアミノ基が脱水縮合するというペプチド結合を作るのだが……

 

 

【挿絵表示】

 

 

 もし、一つ一つのアミノ酸の歪みがバラバラだったら、そのペプチド結合が上手に作れなくなってしまうのがわかるだろうか。出来ることは出来るだろうが、右ねじ用の穴に左ネジを無理やり突っ込むようなもので、構造的に相当不安定になる。我々の体がそんなに脆くては困ってしまうから、だからアミノ酸は粒が揃ったものだけが生き残っていった。

 

 実はアミノ酸も生物の進化の過程で、淘汰されていたのである。

 

 さて、1951年にライナス・ポーリングがアミノ酸のこの偏りからタンパク質の構造を正確に描いてみせた時、同じ頃DNAの構造を研究していたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、DNAが二重螺旋を描くであろうことを予言した。

 

 実は同じような偏りは遺伝子の材料であるリボ核酸にも存在し、しかもこっちの方は例外なく、必ず全てが同じ構造を持っていたのだ。それまではどうしてこんな偏りが存在するのか誰にも分からなかったのであるが、ポーリングがタンパク質の構造を示したことで、その糸口が見つかったのである。

 

 これにより、DNAが二重螺旋を描くことが分かり、更には一つのDNAの中に含まれる塩基、アデニンとチミン、グアニンとシトシンが必ず同数である理由が判明した。実はこれらの塩基がDNAの二重らせんの中で、お互いに水素結合することによって螺旋は形を保っていたのだ。水素結合ということは、つまり、その螺旋は簡単に半分に引き剥がすことが出来るわけである。そして、その半分に引き裂いたものの塩基配列から、全く同じものを簡単にコピー出来るのである。

 

 だいぶ端折ったが、このような事実が判明したことによって、DNAが生物の遺伝情報を持った物質であることが決定的になった。それもこれも原子間の電気の力……この宇宙の電磁気の力が丁度いい大きさだったからだと思うと、本当にこの宇宙というのは、つくづくよく出来ていると感心する。

 

 何故なら、もしも今よりほんの少しでも電磁気の力が大きかったり小さかったりしたら、原子はこんな風に自由に化合物を作ることが出来なかっただろう。水の奇妙な特徴も存在せず、従ってそこで化学変化も起きず、遺伝子はらせんを描かず、生命は誕生しなかったに違いない。

 

 実際、1916年に電磁気の力を表す微細構造定数が定義されて以来、この宇宙の絶妙な力の法則は結構な謎だった。あまりにも人間に都合よく出来過ぎているのだ。確率的に考えれば、もしも宇宙をビッグバンからやり直したとしても、今の宇宙は絶対に誕生しない。我々がこうして生きているのは天文学的数字でありえない奇跡なのである。

 

 だからエヴェレットは人間原理的に考えて、多世界解釈仮説を唱えた。実は宇宙は無限に存在して、我々はそのうちの一つにたまたま生まれただけなのだと。そういう風に考えれば、確かにこの宇宙が我々にとって都合がいいことの理由にはなる。

 

 しかし、論理的に正しく思えても、仮説はあくまで仮説である。それを真実と言い切ることはちょっと出来ない。例えば19世紀まで光は波だった。故に媒質が存在するはずだから、宇宙にはまだ未発見のエーテルという物質が満ち溢れているのだと、当時の人たちは割と本気で信じていた。

 

 だが、真実はどうだったろうか。光は粒子で波である。という、常識では到底考えられない事実がそこにはあったのだ。案外、この宇宙もそんな感じに、常識では考えられない無茶苦茶な真実が待っているのかも知れない。

 

 人間原理は伝家の宝刀ではなく、弄べばなんにでも辻褄を合わせてしまえるジョーカーなのだ。ぶっちゃけ、無限の平行世界が存在するということと、この世は神が作ったということと、どれほどの違いがあるだろうか。どちらも我々が自分たちに都合がいい世界に住んでいるという理由にはなるではないか。

 

 案外、この世界は神様に作られたと考えるのが、一番自然なことなのかも知れない。神様というのは、我々以外の知的生命体と捉えてもいいし、宇宙の法則のような概念的な存在でもなんでもいい。そして我々はそういった連中に、実験的に生かされているに過ぎないと考えても良いのではないか。少なくとも、その神が気まぐれでも起こさない限り、我々の日常は大して変わらないのだから。

 

 もちろん、平行世界が無限に存在するという宇宙も十分に検討する価値があるだろう。なんならこの物語みたいに入れ子構造の宇宙も。すべては5分前に始まったという仮説や、あなたの頭の中で起きている出来事ということもありかも知れない。

 

 なんにせよ分かっていることはただ一つ。いろいろ分かったつもりでいて、我々は真実を知るにはまだ無知すぎるのだ。

 

 この宇宙には、まだ何なのかよく分かっていないダークマターとダークエネルギーが満ち溢れている。我々が知っているのは、宇宙のたった5%を占めるに過ぎない物質だけだ。2000年にヒトゲノム計画が完了した時、我々はこれで人間の全てがわかると期待した。しかし2012年のエンコード計画の発表で判明したのは、今まで遺伝子のゴミと思われていた80%の領域に、遺伝情報が含まれていたという事実だった。ヒトゲノム計画で分かったこととは、全遺伝子のほんの一部に過ぎなかったのだ。

 

 我々は分かったようでいて実は何も分かっていなかった。この世界がどうして出来ているのかなんてことは、それこそ神のみぞ知るというやつなのである。

 


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