「まずは昨日のおさらいから始めようか。ホログラフィック宇宙論によると、物質とは宇宙の境界にある二次元の膜に記述された情報のことだ。僕はこの境界のことをアーカーシャと呼んでいるわけだけど……
1960年代にランダウアーとフォン・ノイマンが発見したのは、コンピュータ上の情報は消失する際に熱を放出するということだった。ノイマン型コンピュータは、計算の度に情報が失われる設計になっているから、CPUが一度に計算できる情報量が増えれば増えるほど、放出される熱量も増えることになる。そこから集積回路の微細化によるトランジスタの数が、約二年ごとに倍になっていくというムーアの法則が導かれたわけだが、今重要なのは、情報はそれ自体がエネルギーを持っているということだ。
つまり、物質の持つエネルギーと、アーカーシャ上の情報エネルギーは一致しており、もしもアーカーシャに新たに情報を記述することが出来れば、それがこの世界に実態となって現れるはず……ちょっと大雑把だけど、これがいわゆる現代魔法の仕組みだ。
ところで、このアーカーシャに情報を書き加えるにはどうすればいいだろうか? アーカーシャが宇宙の果てにあるからといって、まさかロケットに乗って飛んでいくわけにはいかないでしょう。なら既に情報としてそこにある、自分の内なる力を使うしかない。つまり肉体ではなく、魂を利用しようってわけさ。
さて、もしかしたら君は勘違いしているかも知れないけれど、アーカーシャっていうのは宇宙の境界のことであって、そこにある二次元の膜のことじゃない。この宇宙は10次元の空間と1次元の時間軸を持っており、アーカーシャはその全ての次元の境界と考えて欲しい。
人間は肉体と精神に分けられ、更に精神は
「ミッシェルさんが言ってた、エーテル界とアストラル界のことですね。あれ? でも、あなたは精神世界は2つあるって言ったけど、片方はイデアを閉じ込めている世界であって、厳密には精神世界とは呼べないのでは?」
「いや、そうじゃないんだ。実は僕たちの肉体はエーテル界の影響をちゃんと受けている。昨日ちょっと話した善なる力のことさ。僕たちの体は特に何もしなくても、いつも一番いい状態になろうとする力を持っている。僕たちの心の奥底は天理に通じていて、肉体は理想の状態、つまりイデアに近づこうとする。それはエーテル界にある霊体、即ちエーテル体が物質界の肉体にそうするように働きかけているからなんだよ。
僕たち人間は、3つの世界にそれぞれ3つの形態を持って存在している。物質界の肉体、エーテル界の霊体、そしてアストラル界の魂体だ。
このうち、僕たちがあーだこーだと考える時に出てくる主観というものが、魂体、即ちアストラル体なんだけど、言うまでもなく、これもまた霊体=エーテル体の影響を受けている。一番わかり易いのは、僕たちが色んなものを区別する時、エーテル体がアストラル体にイデアを返す、という情報のやり取りだね。
僕たちはこうして思考をすることによって、アストラル体をエーテル体に近づけていく。ところで、イデアはあらゆる物事の理想である。なら、アストラル体のイデアというのも無くてはおかしいんじゃないか。つまり、アストラル体のイデアというのがエーテル体のことなんだよ。
実は僕たちの主観、つまりアストラル体はエーテル体によって生みだされているものなんだ。だから主観と客観、魂体と霊体が一致した時、僕たちの精神は神霊へと昇華すると考えられているわけさ。レオナルドが目指していた『神』とはつまりこのことだ」
鳳はげっそりとしながら、片手を高々と挙げて、
「はい、先生、すみません、正直全然ついていけてません。エーテル体? アストラル体? なんで
鳳がうんざりした口調でぶっちゃけると、ミッシェルは苦笑交じりに、
「馬鹿馬鹿しいと思う気持ちは良く分かるけど、僕が言ってることは間違いないんだよ。精神には2つの形態がある。速い思考と遅い思考とか、理性と野性なんて言い換えてもいい。実は人間の体をよく観察してみれば、それが分かるんだ。
これはダニエル・デネットって哲学者のアイディアなんだけど……例えば、僕たちの脳は本来マルチタスクだ。人間は走りながら呼吸をしたり、眠っている間も心臓は動き続けている。考え事をしている間も血液は流れ続けて、汗もかけばのどが渇いたというシグナルを送ってきたりもする。脳はいくつものことを同時進行している。
ところが思考ってのはシングルタスクなんだ。たまに、そんなことはない、私はマルチタスクだって言い張る人もいるけど、それは擬似的なマルチタスクであって、物事をぶつ切りに考えているだけにすぎない。人間はいつも一つのことしか考えられないように出来ている。一番わかり易い例は、人間の体は一つの痛みしか感じられないってことだね。骨折なんてしてしまえば、僕たちは空腹を忘れてしまう。
つまり、思考ってのは本来マルチタスクの脳がシングルタスクで動く時に、創発的に生み出される現象と考えられるわけさ」
なるほどマルチタスク、シングルタスクという例えはわかりやすい。確かに人間は物事を考える時、脳の色んな部分を同時並行で動かしていることが脳波測定などでもわかっている。人間の思考が創発現象だったと考えれば、それが一つしかない理由にもなる。
「こんな感じに、僕たちの精神世界は2つに分けられる。そして僕たち人間は、アーカーシャに記述された3つの情報でもある。その3つの情報は、僕たちが思考する時、どんな風に動いているんだろうか……ちょっと思考実験してみよう。
人間が思考を開始すると、物質界の脳のシナプスが複数同時に動き出す。それはエーテル界で星が煌めくように、エーテル体がアストラル界と物質界に信号を送っているとも考えられる。
そしてエーテル体によって起動された思考、つまりアストラル体が論理的な分析を開始し、時にエーテル界からイデアを参照したりしながら結論を出し、その結果をエーテル体に渡し、エーテル体が物質界の肉体に信号を送る。
そう考えると、エーテル体は人間のコアのようにも思えるし、物質界とアストラル界を繋ぐ橋渡し役とも考えられる。ただしそこには人間の主観も、物理的な力も存在しない。あるのは情報をバイパスする何らかの作用だけだ。
つまりアーカーシャに情報を記述するのがこのエーテル体の役割なんだ。そして恐らく、宇宙の外側にある第5粒子エネルギーを受け取っているのも、エーテル体と考えられる。
さて、ここでちょっと話を変えて、眠りについて考えてみようか? 僕たちは眠っている間に思考をしない。でも、呼吸をしたり心臓は動かさないといけないから、脳はずっと動き続けている。つまり、肉体とエーテル体は常にリンクしていて離れることはない。その2つが離れる時は、肉体が滅びる時だと考えられる。
それに対してアストラル体はどうだろうか? こっちは眠っている間、肉体に縛られている必要はない。実はアストラル体は、常に肉体と一緒でなくても構わないんだ。だから眠ってる時、アストラル体は肉体を離れてどこかに行っていると考えられる。
逆に、眠っている間も肉体と共にある時、僕たちは夢を見ている。そして瞑想などを通じて、肉体から魂を分離することも可能だと考えられるわけだ。
魔法とは、この魂の分離を利用する力なんだ。では次に現代魔法を使う時、これらの世界で何が起きているか考えてみよう。
まずは
続いて
そして最後に、さっき君がやって見せてくれたクオリア魔法だ。これはリバースエンジニアリングをするように、アストラル体がエーテル体に働きかけて、イデアを物質界に顕現させようという力だ。この場合、エーテル体が外部から第5粒子エネルギーを調達してくるから、MPは消費されない。
まあ、こんな感じで君は魔法を使っているから、アストラル体の感覚を知らないわけはないんだ。多分、まだ気づいていないだけで、とっくにその感覚は身についていると思うんだけど」
難解な話の連続で、少々
「なんとなく、言ってることは分かるんですけど……やっぱりそのアストラル体の感覚ってのはわかりませんね」
「そう……残念だけど、こればっかりは自分自身で気づくよりないね。まあ、既にやってることなんだから、そのうち分かってくるでしょう。ふわっとしたコツを言えば、思考するつもりで思考しないことだ。例えば、君はあの紙を作り出した時、何を考えていた? 何も考えていなかったんじゃない?」
「……そう、かも、知れません……」
「この、感覚では知覚できない感覚を掴めばいいんだけど。僕も自分で言っててわかんなくなってきたよ。あははは」
ミッシェルは自嘲気味に笑っている。鳳は下唇を噛みながら唸り声をあげた。
「難しいですね。頭で考えちゃいけない感じですよね。頭では分かっちゃいるんですけど……」
「そうだね。だからもう何も考えないのもいいかも知れない。瞑想をしたり、さっきサムソンくんとやってた修行を続けるのもいいかも」
「うーん……」
「後はそうだなあ……そう言えば、君はどうしてあの力を使えるようになったの? 何か切っ掛けがあったはずだけど」
「切っ掛けですか? そうですね……いや、何でか知らないけど、俺は最初からこの力を使えていたんですよね。この世界……じゃなくて、アナザーヘブン世界に連れてこられて、いきなり殺されかけて、目覚めた時には既に……」
あの時は、そう、エミリアに自分の正体を告げて謝罪するまで、絶対に死ねないと思っていたのだ。だから幼い頃の彼女の夢を見て、そして目覚めたら、あの輪郭線がブレッブレの世界に飛ばされてて、何故か千代紙を握っていたのだ。今にして思えば、あそこはアストラル界だったのだろう。そう考えると、鳳のエミリアに対する執着のようなものが、これを生み出したとも考えられるが……
もしくは、あの時の自分は死にものぐるいだったとも考えられる。エミリアという未練があって、それをどうにかするまでは何が何でも生きてやるのだという強い執念が、鳳をあの世界へと導いたのでは……?
「あれ……?」
鳳はふと思い出した。
そう、死にものぐるいなら、割と最近にもあった。この世界にやってきたばかりで、いきなり大海原に放り出されて、詰みかけて、嫁との約束もあるのに死ねるかと、必死になって生きようと藻掻いていた。そしたら何故か手にパンを握っていて……
「ああ、それだよ、それ」
ミッシェルのカラッとした声が聞こえる。
考えに夢中になってて周りが見えなくなっていた鳳は、その声にハッと顔を上げると、いつの間にか手のひらに何かを握っている感触があることに気がついた。
恐る恐るそれを目の高さまで持ち上げてみると、そこにはあの時のパンが……何の変哲もない、ただ生地を丸めて焼いただけの丸パンがあった。
鳳はそれを見た瞬間、背筋をゾクゾクとした感覚が駆け上がっていき、それが脳に達した時、脳の中で何かが開くような、そんな不思議な感触がした。
「今、頭の中で閃きのようなものを感じたでしょう? それが君のアストラル体の感触だよ」
鳳には、今はミッシェルの言葉がすんなりと耳に入ってきていた。
そうか、最初から出来ていたのか……彼は目の前のパンをじっと見つめた。そして落ち着いてもう一度さっきと同じ感覚をトレースしてみせると、笑っちゃうくらい簡単に、そのパンは2つに増えた。