カチャカチャと誰かが食卓を囲む音が聞こえる。食器がぶつかる音と笑い声、そんな人のぬくもりを感じさせるような音を聞いたのはいつぶりだろうか。神域に蟄居を命じられてから、アズラエルはずっと一人ぼっちだった。その神域を抜け出してからも、彼女の相手をしてくれるのは魔族だけで、彼らは食卓で食事をするような生き物ではなかった。
だから彼女は、きっとこれは夢だなと思った。自分は夢を見ていて、半分眠った脳が覚醒を待っているのだと。そう思ったのが切っ掛けになって、彼女は実際に自分が急速に目覚めていくのを感じた。スイッチが入るかのように、体全体の筋繊維がぴくりと動きだし、脳のシナプスに電気が流れる。だが、予想に反して、彼女の耳に届くその楽しげな音は消えなかった。
いつの間に眠ってしまったのだろうか……気だるい体を起こすと、彼女はベッドの上にいた。狭いミッシェルの小屋の中でただ一つの寝床を占領してしまっていたようだった。これは家主に失礼なことをしたと思いつつ背後を振り返ると、すぐ手の届く距離に食卓があって、男二人と一匹が和気あいあいと食卓を囲んでいるのが見えた。
「やあ、おはよう。よく眠れたかい?」
アズラエルが起きたことに気づくと、家主が気さくに話しかけてきた。彼は手にパンを持ち、それをちぎっては食卓の皿のスープにつけて食べている。昨日、話した限りでは、彼はアストラル体とかいう肉体をもたない体のはずなのに、どうして食事をしているんだろう? と疑問に思っていると、腹の虫が鳴り出した。
どうやらそんな疑問を思うよりも、体の方は正直なようである。食卓の中央には鍋が置かれており、そこからいい匂いが漂ってきている。
「起きたんなら、アズにゃんも食べたら? これからまた街に行くつもりだけど、その前に腹ごしらえしといたほうがいい」
「ああ、これはありがたい」
鳳に誘われたアズラエルは素直に応じると、ベッドから降りて食卓の椅子に腰掛けた。
テーブルの上には人数分の食器が置かれており、アズラエルの分もすでに用意されていた。全部、ミッシェルが街で拾ってきたものだそうだが、ずっと一人で暮らしていたはずなのに、数を揃えていたのはお得意の予言を使ったのだろうか。
白い陶器の平皿の上には無骨な丸いパンがデンと乗っかっており、鳳が注いでくれたスープのお椀の両側に、ナイフとフォークが一組置かれていた。スープには多種多様な香草と、何かの肉が入っており、これだけまともな食事を拝むのはかなり久しぶりのことだった。
というのも、マダガスカルはベヒモスのせいで生態系がおかしくなっているらしく、ここへ来るまで殆ど生物を見かけなかったのだ。もしもサムソンがバオバブの実を取ってきてくれなかったら、多分昆虫くらいしか食べるものは無かっただろう。
アズラエルがこの肉はどうしたんだろうとしげしげ眺めていると、
「そのサムソンがいるから、この辺りにはベヒモスが近づかないらしいんだよ。お陰で、この辺は動物たちのシェルターみたいになってるらしくて、結構な狩場になってたんだ。そんでさっき野ネズミを捕らえて捌いといた」
「ネズミの肉か。なにもないよりマシだが……大丈夫なのか?」
「煮込んでるから平気だよ。腹に入れればただの肉さ」
「それもそうだな」
天使はそもそも病気に罹らないし、物を食べずとも暫くの間は生きていられるから、どうしても嫌なら食べなくても構わないのだが、彼の好意を無碍にするのも悪いと思い、アズラエルは黙って食べることにした。
ところが、覚悟していたのに、そのスープは彼女がこれまで食べてきた中でも屈指の美味さだった。どうしたらこんなに複雑な味を出せるのだろうか? ここにはろくな食材も、調味料もないだろうに……アズラエルが口に運んだスプーンをまじまじと見つめていると、
「どしたの? 口に合わなかったかな?」
「いや、その逆だ。とても美味しくて少々戸惑っている。これがネズミの肉の味というものなのか? だとしたら、どうして今まで食べてこなかったのか不思議なのだが」
「いや、ネズミっつーか、この辺に生えてたハーブの力だな。色々と混ぜて、くたくたになるまで煮込んであるから、それが肉の味を引き立ててるんだろう。味付けは塩しか使ってない」
「塩だけだって!? 驚いたな……」
アズラエルはしげしげとスープの中を見た。塩だけでこの味が出せるなんて、とても信じられなかった。元々、この世界の人類は追い込まれていて、あまり食生活に頓着しないところがあるから淡白な味付けが多いのだが、工夫次第でこれだけ化けるのだとしたら、もう少し考えねばならないと彼女は思った。
それに付け合せのパンも絶品である。見た目は素朴であるが作りたてで、生地がしっかり仕込んであるのか、ふんわりと柔らかくてこれだけいくつも食べたくなるくらい美味しかった。これが町中ならまだ分かるが、人っ子一人住んでいないマダガスカルで食べられるとは……
いや、待て……アズラエルはパンを齧りながらふと思った。当たり前のようにパンを食べているが、それを作るための小麦はどこで調達したのだろうか? ミッシェルは16年前からここで暮らしているそうだから、畑を作っていても不思議ではないが、少なくともこの家の周りにそれらしきものは見当たらなかった。
彼女は不思議に思って尋ねてみた。すると鳳がけろりとした顔で、
「ああ、それなら、ほら。こうやって現代魔法で作り出したんだよ」
彼が何もない虚空からいきなりパンを取り出してみせた瞬間、アズラエルは口の中に入っていたパンを問答無用でペッと吐き出した。
「ぎゃっ! 汚い! なにも吐くことないじゃないか!!」
「君こそ何を考えてるんだ!? こんなものを食べさせて、体がおかしくなったらどうするつもりだ」
「いや多分、平気だろ。サムソンなんて朝からもう何十個も食べてるんだ。もしも駄目なら、今頃すでにアウトだろうから、心配するなよ」
「うほうほ」
サムソンは得意げに相槌を打っている。アズラエルはうんざりしながら、
「私を君たちと一緒にしないで欲しい。まったく……しかし、驚いたな。現代魔法というものは、こんなことまで出来てしまうのか? この力があれば、少なくとも飢えて死ぬようなことはなくなるはずだ。こんな力が当たり前のように存在している君の世界とは、一体どんなところだったのだ?」
「いいや、アズラエル君。流石にこんなことが出来るのはごく一部の限られた人だけだよ」
鳳の代わりにミッシェルが横から付け加えるように言った。
「タイクーンは勇者と呼ばれるだけあって才能が抜きん出ているんだ。だから普通はこんなことは出来ないんだけど……でももしかしたら、天使の君は不老長寿だから、修行を怠らなければいつかその域に達するかも知れない。よかったら、また昨日の続きをしようじゃないか」
アズラエルは社交辞令ではないんだろうなと受け入れつつ、
「興味深いが、もしもそれまで人類が持てばの話だ……現代魔法で私が魂の分離法を習得する前に、人類が絶滅していては元も子もない。まずは早急に人口減少問題に取り組まねば。昨晩は興奮して色々尋ねてしまったが、一晩寝て少し目が冷めた気分だ」
「そう……それは残念だね。もしもその気があるなら、いつでも相談にのるんだけど」
アズラエルはうずいてから、
「その時があれば世話になろう。今はそれよりも、この島へやって来た当初の目的を果たさねば。昨日はドミニオンから逃げられたからいいものの、これからどうすればいいものか……彼女らはもう待ち伏せなどせず、研究所の前で私が来るのを待っているはずだ。となると真正面から近づくわけにはいかないが……」
「ああ、それなら問題ないよ」
「なに?」
アズラエルが頭を悩ませてると、彼女が残したパンをちぎりながら鳳が言った。
「寝起きにも言ったじゃないか。これから街へ行くつもりだって。君の言う通りドミニオンは街に陣取っているだろうけど、なんつーか、もう気にする必要はないんだ」
「どうしてだ……?」
「そりゃもう、現代魔法の専門家がいるからね」
鳳はそう言ってミッシェルのことを指差した。
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日が暮れるのを待ってから、4人は森から出て街に入った。
アズラエルの予想通り、昨日捜索を打ち切ったドミニオンたちは、方針を替えて今度は街の中で網を張るようになっていた。街に入ってすぐの大通りには、彼女らの乗ってきた車両で簡易的な検問所が作られており、気づかれずにそこを抜けるには不可能のようだった。
昨日はいきなり大人数で襲ってきたから、どうやってここまで辿り着いたのかと思っていたが……ドミニオンたちは、どうやら鳳たちとは違って東側からジャングルを突破するルートではなく、島をぐるりと迂回して、西側から車で登って来るルートを通ったようである。確かにこっちのほうが道がなだらかでアクセスもしやすいだろうが、ベヒモスと遭遇する可能性も高いから相当な賭けに出たのは間違いなかった。
つまり、そんな賭けをしてまで行った奇襲が不発に終わってしまったからか、今日の部隊にはかなりピリピリとした空気が漂っていた。どの隊員も顔が険しく、触れれば切れるナイフのようだった。もしこの中に突っ込んでいっても、聞く耳を持たないだろうし、ろくな目にも遭わないだろうから、アズラエルは別の入口を探すべきだと主張したが、鳳もミッシェルもまるで意に介さずに、そのまま検問の方へと歩いていってしまった。
一体何のつもりだと驚きはしたものの、置いていかれるわけにもいかないので渋々その後に続いたのであるが……検問所まで来たアズラエルがギュッと目をつぶってドミニオンたちの前に出ていっても、不思議なことに彼女らは全く気がつくことなく、彼女はあれよあれよとその横を通り過ぎてしまった。
「な、何だこれは? これも現代魔法なのか?」
「認識阻害の魔法だよ。俺は不得意なんだけど、ミッシェルさんの方はもう、これが本職ってくらいのエキスパートだ」
こんな便利な力まであるとは……アズラエルは、すぐ横を通り過ぎたのに、まったく気づかずに警戒を続けているドミニオンたちを見ながらため息を吐いた。
「もしかして、神域にルシフェルたちが突然現れたのも、この力を使っていたのだろうか?」
「ん……? ああ、そうかもね。あの三人は
そんな話をしながら大通りを通り抜け、町外れの少し丘になった区画へたどり着くと、そこにはまた先程と同じような検問所があった。
ただし、あっちと違ってこっちの方は人数が少なく、より厳選されているように見えた。何故そう思うのかと言えば、そこにジャンヌがいたからだ。彼女は車両の前に置かれた椅子にどっしりと腰掛け、魔剣フィエルボワを地面に突き立て、その頭に手を乗せつつ、じろりと睨みつけるように周囲の気配を探っていた。
その殺気に触れるだけでも、死んでしまいそうなくらいの緊張感が漂っていたが、悲しいかな、そんな殺伐としたジャンヌの横を、へらへらした表情のミッシェルが通り過ぎていく……いくら彼女が気を張っても、ミッシェルの認識阻害を破ることは出来ないのだ。
そんなミッシェルに続いて鬼の前を通り過ぎ、建物に近づいていくと今度は瑠璃の姿が見えた。彼女は武器を奪われたりはしていないようだが、明らかに戦力と見做されていないようで、一人だけ離れた場所でぽつんと肩身を狭そうにしていた。あの時、やっぱり無理矢理にでも海岸に置いてくればよかったのかな……と思いつつ、その前を通り過ぎて建物内に入る。
アズラエルの目的地……メルクリウス研究所は、なんというか昭和に建てられた公共施設みたいに、やたらと柱が太くて妙に天井が低い鉄筋コンクリートの建物だった。頑丈なせいか、この廃墟の街にあってもほぼ無傷で、当時の原型をそのまま留めているようだった。
その天井の低さのせいか窓が小さく、採光に難があって暗くてよく見えなかったが、元研究員であるアズラエルには住み慣れた我が家みたいで、暗い廊下を苦もなくずんずん進んでいく背中はなんとも頼もしかった。
案内なしでは建物内を調べるのも一苦労だったろうなとその背中を追いかけていると、突然、サムソンがうほうほ言い出して来た道を戻り始めてしまった。どうしたんだろう? と見守っているとミッシェルが、
「どうやらジャンヌ君がいる外の方が気になるみたいだね」
「ありゃま……野性の衝動に負けちまったか。半分魔族みたいなもんだからかな」
「もうここまで来たらちょっとやそっとじゃ見つからないと思うし、僕は彼の面倒を見ることにするよ」
「わかりました」
鳳たちは二手に分かれて先に進んだ。
今度は認識阻害がかかってないから、足音を潜めて慎重に……と言っても、後はアズラエルがかつての自分の研究室に行くだけなので、その後は特に何事もなく、目的地にあっけなくにたどり着いてしまった。
階段を上がって5階まで進み、窓ガラスが割れてしまってびゅーびゅー風が吹き付ける廊下を進んでいくと、廊下の奥まった場所で彼女は立ち止まった。そして暫くの間懐かしそうな目で扉を見つめてから、すぐに気を取り直したように扉をくぐって室内に入っていった。鳳も、出来ればケーリュケイオンの手がかりを探したいところだったが、一人では無理そうなので彼女の後に続いて中に入る。
その室内は廊下よりももっと薄暗かった。なんとなく太陽の方角を向いていそうなイメージがあったが、どうやら研究資料などが日焼けしないように、陽の光を避けて作られているようだった。部屋自体も頑丈に作られているせいか、16年経っても窓ガラスまでしっかりと残っており、カーテンを閉めれば外から中は見えなくなった。
アズラエルは窓を閉め扉も閉めると、真っ暗な部屋の中でランプを点けた。仄暗い部屋の中で、彼女は自分の机をごそごそと漁りだす……
「俺にも手伝えることあるかな?」
「ふむ……特に無いな。暇なら外を見張っててくれても構わないが」
手持ち無沙汰の鳳が尋ねるも、アズラエルはそうあっさり返してきた。それはそれで暇そうだから、彼は肩を竦めて部屋の壁に背を持たれかけると、机の引き出しを漁ったり、棚の中を手探りしたり、恐らくは冷蔵庫だったであろう箱の中から何か異様に臭うものを取り出したりしている彼女に向かって尋ねた。
「どう? 目的のものは見つかりそう?」
彼女は難しい顔で何かの書類を眺めながら、ため息混じりのトーンで答えた。
「残念だが……少なくともこの部屋の物はもう駄目なようだ。他の研究室にまだ状態の良いサンプルが残っていないか、これから探しに行くつもりだが……恐らく無駄だろうな。私の研究は、ある意味邪道だったから」
「ふーん、そりゃあ残念だな……」
「まったくだ……」
アズラエルはそんな具合に淡々と答えていたが、その間もずっと机を探る手が動き続けているところを見るからに、まだ諦めてはいないようだった。鳳は、それならやっぱり自分も手伝ったほうがいいだろうと、壁から背を離し彼女へ向かって歩きながら聞いてみた。
「そういやあ、聞いてなかったけど、アズにゃんってここに何を探しに来たの?」
「精子だ」
「……へ?」
鳳がぽかんとして聞き返すと、アズラエルは言ってなかったか? と言わんばかりに眉を上げ目を丸くしながら、
「人間の精子を探しに来たのだ……そうか。これは禁忌だから、君にもまだ言ってなかったな……
以前にも話したが、私はかつて『再生』と称し、神域の機械で人間のクローンを作るという役目を負っていた。だがいつもお役目があるわけでもなく、平時はここで人間の生殖を研究していたのだよ。
性別のない天使と、女性しか存在しない私たち現代人には生殖の知識がない。ただ畜産農家が家畜の交尾を行っているから、自分たちもかつてはそういう方法で繁殖していたであろうことは我々も想像がついていた。だが、具体的にどうやるのか調べようとする者はいなかった。人間にはオスがいないのだから当然だろう。
しかし、私は再生を司る天使であったから興味があった。それで、再生の時に使われる胚細胞を研究材料として調べていくうちに、神は再生……人間のクローンを創造する際に、検体の細胞を一から培養するのではなく、予め用意されていた父母の生殖細胞を使って、単に人工授精しているのだということに気づいたのだ。
なんてことはない。減数分裂した生殖細胞を一から作り出すのは困難なので、神はストックしておいた両親の生殖細胞を使って、クローンを人工授精で作り出していただけだったんだ。
考えてみれば当たり前のことだな。『再生』とは『復活』のことではなく、また新たに赤ん坊として『生まれ変わる』ことだったのだから。人間は永遠の命なんて持ってはおらず、再生とは、単に老いぼれて役に立たなくなった人間を殺して、同じDNAを持った赤ん坊を新たに作り出していただけだったのだ。
……ともあれ、私はこうしてこの世界の秘密を暴いてしまった。言うまでもなく、それは禁忌だったから、私はこのことを公表はせずにずっと胸の内に封印していた。そしてそんなストレスから逃れるために、私はより研究に没頭するようになっていった。
新たな研究材料もすぐに見つかった。そこに男女の生殖細胞があるのなら、それを研究しない理由はない。そうして私は『再生』を行う機械から
それは純粋に探究心だけだったのだが……今、もしそのサンプルが残っていたら、人口減少問題はたちどころに解決しただろう。どうせ私は裏切り者としていつ処分されてもおかしくはない身の上。だったらいっそのこと、今までの罪を告白して、少しでも人類の役に立てればと思ってここまで来たのだが……
16年も経っていれば、こうなるのが必然だ……サンプルが残ってるわけがない。そんなこと、分かっていただろうに、何故、私はすぐに動かなかったのだろうか。私は、なんて愚かなことをしたんだろうか……」
アズラエルはそう言って、両手に顔を埋めて黙ってしまった。その肩が少し揺れ動いているのは、もしかして泣いているからだろうか。小さな少女が蹲って悲嘆に暮れる様は、なんとも痛々しくて見ていられなかった。
しかし鳳はそんな彼女のことを、口を半開きにして呆然と見下ろしていた。それは落胆している彼女になんて声をかけて良いのかわからなくて……ではなく、こいつは何をトンチンカンなことを言ってるんだ? と呆れ返っていたからだった。
何故なら、精子なら目の前にいくらでもあるではないか。
何もこんなとこまで取りに来なくても、一言言ってくれれば、その辺の草陰でシコシコピュッと出してやっても良かったのだ。そしたら3億くらいすぐ手に入ったろうに。なのに、なんでこんな危険を冒してこんなとこまでやってきたのだろうか……? 鳳は呆れ果てて何も言えなかった。
だが、それも仕方なかったのだろう。さっきアズラエルも言ったとおり、この世界の人間には
鳳はため息混じりに口を開いた。
「アズにゃん、あのさあ……」
「どうした?」
鳳が声をかける。アズラエルが顔を上げる。その瞳はほんの少し潤んでいて、彼女が涙を我慢しているのが嫌でもわかった。だから鳳はすぐにでも彼女を喜ばしてやりたかったのだが……しかし、口を開きかけたところで彼はまた固まってしまった。
彼女は、その精子を使って何をするつもりだ?
言うまでもない。鳳の精子を使って、減りすぎてしまった人間の繁殖を行うのだ。それはつまり、自分の子孫が爆発的に増えるって事だろう。浮気とはいわないが……そんなことを嫁たちが許してくれるだろうか。それに、次に子供を作るならアリスとだって約束してきたのだ。その約束を反故にするわけにはいかないだろう。
いや、嫁のせいにするのはやめよう。鳳自身、なんか嫌だったのだ。
そうして、自分の子供たちがわーっと増えたとして、その後一体どうなるというんだ? 生まれてきた子供たちは相変わらず魔族に脅かされる世界で暮らしていて、もしかしたら死ぬかも知れない戦いに駆り出されるのだ。そしてまた生まれてきた子供たちの生殖細胞を使って、天使たちは人口を統制しながら人間社会を管理し続けるのだろう。
人口減少問題が解決したところで、魔族との戦いは終わらないのだ。そんな世界に生まれてきて、子供たちは幸せなのだろうか? 果たして自分たちの父親のことを、恨まずにいられるだろうか?
「これで……人口出産の道は途絶えたか。残念だが、私はこれからドミニオンに投降し、大人しくパースに帰るとするよ。これだけの騒ぎを起こしたのだから、きっとミカエルは私のことを許さないだろうな」
アズラエルは自虐的に笑っている。恐らく、これが今生の別れと思うと、その笑みがなんとも儚げに映った。
「本当なら、君の手伝いをしてあげたかったのだが……すまない。天使からも、人間からの信用も失った私にはもう、何をしてあげることも出来ないだろう」
アズラエルは完全に元気を失っている。鳳は、本当ならすぐにでも彼女を元気づけることが出来ると知りながら、黙っていることに罪悪感を覚えながら、空々しく言った。
「俺のことなんていいから、元気出せよ。もしかしたら、諦めるのはまだ早いかも知れないぜ? ほら……ルリルリも言ってたけど、確か君は一度は人工出産に成功してるんだろ? だったら、もう一度改良してチャレンジしてみたらいいじゃんか」
「いや、それは無理なんだ」
「どうして? やる前から諦めるなんてらしくないじゃないか」
「だから無理なんだ!」
鳳がそれでもしつこくチャレンジしろと言うと、アズラエルは珍しく感情を露わにして拒絶した。ミッシェルの認識阻害がかかってない状況で、こんな大声を出してしまったら、下手をすればドミニオンに気づかれてしまうだろう。彼女はすぐにその事に気づいて、バツが悪そうに口を噤んだが、その表情は青ざめていて、何かに追い詰められている、そんな感じがした。
一体、何があったのだろうか。問いただしたところで、余計に彼女を追い詰めるだけだろう。だから鳳が黙って彼女の様子を窺っていると、やがてアズラエルは観念したかのように、誰に話しかけるともなく、まるで懺悔するかのごとく、ポツリとその言葉を口にした。
「私の人工出産法とは……魔族の精液を使うことだったんだ」
「……え?」
「私は、人間のものであると偽って、魔族の精液を使って人工出産する方法を模索していたんだ。それは一見、はじめは上手く行ってるように見えた。だが、時がたつに連れてやはり問題があることが分かってきたのだ。生まれてきた子供たちはやがて魔族の影響を受けておかしくなっていった。だから私は……無辜の母親たちから、彼女たちの最愛の子供を奪わねばならなくなったんだ」