「普通、生物の異種族間での生殖は不可能だ。生物の遺伝子は進化の過程で突然変異を繰り返し、生殖細胞におよそ1%の違いが生まれたあたりで別種となり、そうなるともう生殖が出来なくなる。いくら遺伝的に近くても、人間とチンパンジーの間で子供が産まれないようなものだ。
ところが魔族は種族が全然違っても子供を作ることが出来る。コボルトがゴブリンを孕ませたり、オアンネスがオークを生んだり、魔族に襲われた人間が魔族を生むこともある。つまり、まったく違って見えても、魔族という生き物は、どの種族も遺伝子的に1%も変わらないんだ。そしてそれは、魔族と人間の間にも成立している。
私はそれに目をつけた。遺伝子が1%も違わないのであれば、もしかしたら魔族の精液を使って、安全に人間を出産する方法があるのではないかと考えたのだ……」
アズラエルの告白は唐突に始まった。神域に蟄居を命じられていた彼女が何をやったのかは、これまで一緒に旅してきた中で断片的には聞いていたが、そのもっとも肝心な部分は何も知らされていなかった。それは彼女との旅を通じて、その人柄や性格を知るにつけ、必要ないと思って聞いてこなかったからだが……まさかそれが魔族と人間の生殖に関わることだとは思ってもみなかった。
彼女は何故ボロボロなのか。どうして守護すべき人間に忌み嫌われているのか。そして、なんで生まれてきた赤ん坊を殺してしまったのか。その理由は全て、魔族という種族の奇妙な繁殖力が原因だったのだ。
「魔族の出産にはおかしな偏りが見られる。いま言ったとおり、魔族は他種族間で子供を作ることが出来るが、あるオスが他種族のメスを孕ます時、そのメスは必ずオスと同種の種族を出産する。例えば、オークに犯されたオアンネスは、必ずオークを出産するといった具合に。
これは同じ減数分裂して半数ずつの遺伝子を出し合う生物としては不可解だ。考えられることは、受精の段階で産み分けを行うように、胚細胞の中で何かエピジェネティックな変化が起きているのだろう」
「エピジェネティック?」
鳳が問い返す。アズラエルは海岸で見つけたときのように、体育座りをして小さく丸まりながら、
「まず確認しておくが、ゲノムとはその生物を形成するための
生物の体というものは、ゲノムの情報だけを静的に受け継いで、何もかもが形成されているわけじゃない。ゲノムというのはその生物を作る設計図なだけであって、実は産まれてから死ぬまでの間に、環境の影響を受けて遺伝子は変化し続けている。
例えば、人間の全ての細胞核には全く同じ遺伝子が入っているわけだが、皮膚と髪の毛の細胞は見た目から何から明らかに違うだろう。この違いがどうやって生まれるのかと考えれば、皮膚を作る時と髪の毛を作る時とで、DNAに何らかの変化が起こって無ければおかしいはずだ。しかし、実際に両細胞を取ってきてゲノムを調べてもどこには変化は見当たらなかった。つまり、それ以外のどこかに、皮膚と髪の毛の違いを作る情報があるわけだ。
それが何かと言えば、主にDNAのメチル化とヒストンのアセチル化というのが、遺伝子に起こっているのだ。遺伝子はDNAにそういう
私たちの体はそうやって日々変化し続けている。このゲノム以外の遺伝情報である、DNAの修飾のことをエピジェネティクスと呼んでいるのだ」
「へえ……そうなんだ」
鳳はいきなり始まった遺伝子学の講義に少々面食らいながら、合いの手を入れた。
「その、エピジェネティクス? と、魔族同士の生殖と、どう関係があるの?」
「君は人間と魔族の根本的な違いはなんだと思う?」
「え? うーん……攻撃性かな?」
「まあ、それも確かだが……もっと具体的に。私は人間はダーウィン的進化、魔族はラマルク的進化をする生物だと考えているんだ」
「ラマルク……」
アズラエルはじっと床を見つめながら黙って頷くと、
「進化論というのはダーウィンが言い出したことではない。実は彼が種の起源を発表するよりずっと前にラマルクが提唱したものだった。そもそも当時の人々は、自分たちが猿から進化したのではないか? ということに、既に薄々勘付いていたのだ。
産業革命当初、イギリスの主産業は毛織物だったが、経済人である彼らは儲けを多くするために、羊の品種改良を当たり前のように行っていた。より毛を多くつける羊同士で交配すれば、同じように毛をたくさんつける子羊が産まれやすい。人間だって親子はそっくりなことが多いのだから、これと似たようなことが起きているんじゃないかと言うことは、誰でも想像がつくことだったのだよ。
なのに、ラマルクの進化論が無視されてきたのは、その内容が間違っていたからだ。ダーウィンが突然変異と自然選択で生物の進化というものを上手に説明したのに対し、ラマルクは用不用説を説いていた。
用不用説とは、要するに、親の獲得形質が子に遺伝するというものだ。よく挙げられるのはキリンの例だが、キリンという動物は元々は他の動物のように首が短かったのだが、木の上の方の葉っぱを食べるには首が長いほうが有利だ。だからキリンは首を伸ばそう伸ばそうといつも背伸びをしていたため、何代か世代を経た後に、首の長い子供が産まれてきた。そういう考えだ。
しかし、そう考えると親が筋トレをして筋肉がムキムキになったら、子供も筋肉ムキムキで生まれてこなければおかしいだろう。もしくは、成長して筋肉がムキムキになる体質でなければおかしいわけだが、そういう現象は確認されていない。だからラマルクの説は間違いだったわけだが……
魔族という種族は、正にこのラマルク的な進化をする種族と呼べるんじゃないか?」
「ははあ、確かにそうかも知れないな……」
魔族は筋トレをしたりはしないが、代わりに他種族を食べるか殺害することによって、その獲得形質を奪うという特徴があった。それは自然にはあり得ない、人工進化の賜物だ。
「魔族は人工的な手法によって、ラマルク的進化をするようになった人類と考えられる。ところで具体的に、どうやったらそんなことが出来るのだろうか……? 先程エピジェネティクスについて触れたが、魔族は他種族を食べることで、その種族が持つ獲得形質をエピジェネティックに奪っていると考えれば、それは可能じゃないか。
つまり、魔族はゲノムを書き換えるのではなく、DNAの修飾のみに頼って、種の多様性を生み出しているのだ。そう考えれば、人間との間にも子が作れる理由が分かる。あれは見た目は大違いだが、ゲノム的には人間と殆ど何も変わらないのだ」
なるほど、そういうことか……鳳が感心していると、アズラエルは続けてこんなことを尋ねてきた。
「ところで、君はケッテイとラバという動物のことを知っているか?」
「ああ、それなら知ってる。馬とロバの間の子のことだろ?」
以前、大森林の中でレオナルドと話をしたことがあった。馬とロバは生物学的には、ごく最近に別れた種で、DNAが近いから交配が可能というやつだ。ところが、オスの馬と雌のロバを交配するか、メスの馬と雄のロバを交配するかで、産まれてくる子供の姿や性格はまるで違う。
「オスの馬と雌のロバを交配したケッテイは、見た目はポニーのようにズングリムックリで気性が荒く、殆ど人間の言うことを聞かない。だから経済動物としては最悪で、殆ど作られることはなかった。対して、メスの馬と雄のロバを交配したラバは、体はロバよりも大きくて耐久力に富み、さらに気性も大人しい。だから自動車がなかった時代は重宝され、高額で取り引きされていた。
両親の雌雄を逆にしただけで、どうしてここまで産まれてくる子供に違いが出るのだろうか……?
受精卵というものは、オスの精子とメスの卵子が結合して作られる。故に、受精卵には父親由来と母親由来の、2つの核が存在することになる。ミトコンドリアを除けば、普通、細胞内には一つの核しか存在しないはずなのだが、実は生命は、発生直後にだけ細胞内に2つの核を持っているんだ。
そしてその2つの核は、初期の細胞分裂である卵割が始まると、父親由来のものは除外されて、母親由来のものだけがコピーされていくのだが……ケッテイとラバがこれだけ違うということは、その消されたはずの父親由来の核に、その後の成長を決定づける何らかの情報が含まれていたと考えられるわけだ。
つまり、生まれてくる魔族が父親の方の種族に偏っているのは、受精卵の時点でそうするように、遺伝子が仕組んでいるからなのだ。となると、逆に考えれば、受精卵の時点であれば、遺伝子を操作することによって、後に生まれてくる種族を操作することが可能かも知れない。
私はそういう仮説を立てて、魔族の生殖細胞を研究し始めた。そしてついに、父親の種族になるように命じている遺伝情報をディスコードすることに成功した……と思っていたのだが……」
アズラエルはその時のことを思い出しているだろうか、ぼんやりとした視線で床を見つめたまま動かなくなってしまった。鳳はたっぷり1分以上待ってから、この張り詰めた空気を打ち払うように、ぽつりと、でもはっきりと聞いた。
「……駄目だったのか?」
アズラエルはそれでもまだ暫く動かなかったが、やがて呼吸を忘れていたのを思い出したかのように、ゆっくり、そして長い長い息を吐き出すと、彼女には珍しく感情的な様子で額に手を当てながら続けた。
「上手くいくと思ったんだ……実際、最初は上手くいっていた。生まれてきた赤ん坊は、ちゃんとみんな人間の嬰児で、遺伝子にも何も異常はないと思われた。
ただ……動物には変体というものがあるだろう? 昆虫は成長するに従って、卵、幼虫、サナギ、成虫と体が変化していく。幼虫と成虫ではもう全然別の生き物だ。人間にもその名残りのような、成長期というものがある。
つまり……生まれてきた赤ん坊は、最初は人間だったのだが、幼年期に差し掛かると急激に体が変化しはじめ……魔族になってしまったんだ」
「ああ……」
なんてことだ……鳳はその結末を知って何も言えず、ただため息しか出なかった。彼は彼女に同情した。だが、彼女の苦しみはそんな程度では済まなかっただろう。何しろ、彼女はただ結果を知って落胆していればいいわけではなく、自分のしたことに幕引きをしなければいけない立場だったのだから。
「最初の子供が魔族に変わった時、その母親は自分の子だとは気づかずに、半狂乱になってその子を殺してしまった。魔族が相手なのだから当然の処置だったろう。しかし、母親にとってその魔族は、自分のお腹を痛めて産んだ子供だったのだ。その事実を知った母親は、その後自分のしたことに耐えきれなくなり、精神崩壊してしまった。
私は対応を迫られた……神域は事態を重く受け止め、動揺が広がらない内に早く幕を引けと言ってきた。私もそうすべきだと思っていた。だが、ようやく生まれてきた子供たちだ。もしかしたら、最初の子はたまたまかも知れないと、私は少ない望みに賭けてしまった……
結果は言うまでもないだろう。二人目の犠牲者が出たところで、私は自らの手で幕を引くしか選択肢が残されていなかった。
私は、母親たちに希望を見せるだけ見せておきながら、ある日突然、その希望を全て奪い取ってしまったのだよ。人類の私に対する憎しみは当然だ。自分の子供を失った母親たちの悲しみが癒やされることは決してないだろう……全て、私が起こしてしまったことなのだ……全て、私の責任だ……」
そう言って項垂れてしまったアズラエルに対し、鳳は掛ける言葉が見つからなかった。何を言っても慰めにもならないだろうし、そんな偽善すら思いつけないほど、アズラエルの悔恨は救いが殆どなかった。
人類は追い詰められ、絶滅への道をひた走っている。そんな中で生まれてきた赤ちゃんは、その母親たちだけではなく、人類全体への希望の光となったはずだ。そんな人々の希望を、アズラエルはある日突然、なかったことにしてしまったのだ。一度希望を見出した人からすれば、理不尽にしか思えないだろう。母親たちはきっと半狂乱になったに違いない。
きっと人々は、アズラエルのことを悪魔としか思えなかっただろう。
しかし、それは間違いなのだ。彼女の行動は全て善意から出たものだった。アズラエルはこれっぽっちも誰かを傷つけようとしていたわけじゃない。寧ろひたむきに人類を救おうとしていただけなのだ。
それにもしも彼女が手を下さなければ、魔族になった赤ん坊は、一体誰が始末していたのだろうか? 母親たちの中には、魔族といえども子供は殺せないという者もいただろう。そうなった時、人類は魔族になったその赤ん坊を受け入れることが出来たのだろうか。恐らく、出来なかっただろう。当事者を除けば、それは他人事に過ぎないのだから
ドミニオンの少女たちがアズラエルのことを容赦なく傷つける。鳳は、彼女はどうして抵抗しないんだと不思議に思っていた。その理由が分かった気がする。彼女は言い訳をすることも出来ず、甘んじてそれを受け入れるしかなかったのだ。
あんまりな話だ……
ここまで人類に尽くしてきた彼女なのだから、ようやく生まれてきた赤ん坊は、彼女にしても自分の子供みたいに可愛かったに違いないだろう。彼女だって赤ん坊に手をかけたくは無かったろうに、他に出来るものがいなかったから、彼女が責任を取る形でそうしたのだ。そして何の言い訳もせずに、ただ四方八方からの中傷を耐え続けている。こっちのほうが、よっぽど理不尽ではないか。
神域を抜け出して、マダガスカルまでやって来たのも、人々を救うためだったのだ。最後の望みを賭けて、ここに精液が残っていないかと……オーストラリアから何千キロも筏に乗って、普通に考えれば馬鹿げているのはすぐわかるだろうに、彼女はそこまで追い詰められていたのだ……
「ん……?」
追い詰められて……? 筏に乗って何千キロも?
普通に考えてそんなことは不可能だ。でも彼女はそれを可能にした。どうやって?
もしかして……あの筏を引っ張ってた魔族ってのは……
「なあ、アズにゃん?」
鳳が、彼女に話しかけようとした時だった。
ズズンッッ!!!
……っと、ものすごい振動音が聞こえて、続いてグラグラと建物が揺れ始めた。廃墟同然とは言え、あの頑丈な建物がこれだけ揺れるとは驚きである。二人とも最初は地震かな? と思ったが、どうも様子が違っている。
するとまた遠くの方から、ズシンズシンと振動音が立て続けに聞こえてきた。
「なんだ? 何が起きてんだ?」
鳳は一応そう言ってはみたものの、その音の正体には既に勘付いていた。
「これは……君、早く外に出たほうがいい!」
そう言って飛び出していったアズラエルの後に続いて、鳳も部屋から飛び出した。二人は狭い廊下を抜け、階段の踊り場までやってくると、窓ガラスが抜けて枠だけになってしまった窓の外を見た。
すると街の外側の何もなかった広場に、何故か急に、ビルみたいに大きなものがニョキッと聳え立っているのが見えた。
月明かりに照らされて、巨大なカバのようなシルエットが浮かんでいる……鳳はそれを一度見たことがあった。元の世界のニューアムステルダムを突如襲った災厄。それは魔王ベヒモスの姿で間違いなかった。