神域のど真ん中にあるビル群は、単に
もちろん、かつて人類が繁栄していた大昔のパースはそんなことはなかったのだが、今はこれがこの街最大の建物であり、機能としてはそれで十分だった。何しろ、天使はこの世に約5000人ほどしか存在せず、神域には天使しか住んでいないので、街とは言ってもその規模はせいぜい村レベルなのだ。
中枢は、その中では飛び抜けて見栄えがする建物だった。それもそのはず、ここは神の座する神殿でもあるからだ。
ビル群の中央に位置する神殿には神が座していることになっており、天使たちは神託を受けて使命を果たす、神の代弁者ということになっていた。その管理は機械によって徹底的に行われており、空調が効いていて年中快適で、いつも清潔に保たれて廊下には埃一つ落ちていない。建物内にはいくつもの部屋が整然と並んであって、その一つ一つがここで働く天使の個室であったが、そこはオフィスと言うよりは研究室と言ったほうが良かっただろう。
天使は神の代弁者と言えば聞こえが良いが、要は
そして16年前からはその神託すら来ない状況が続いていたので、彼らの気ままな行動はより一層目立つようになっていた。今ではどうせ来ない神託を待っていても無意味だからと、出勤すらしてこない天使も増えていた。
そんな
引き締まった体躯に黒い肌、ウェービーな髪をバックに流して、銀縁の眼鏡をかけている。それだけを見たらきっと黒人のダンサーとかミュージシャンを想像するだろうが、何より目を引くのは、身長180センチ以上ある彼の体をすっぽりと包み込んでしまう、その背中に生えた巨大な純白の翼だった。
その堂々たる翼を見ただけで、彼が只者ではないことが一目で分かった。実際、彼はただの天使ではなかった。
大天使ミカエル。
もしも今が16年前の中枢であったなら、彼のそんな慌ただしい姿を見た天使たちはきっと仰天したことだろう。
だが今、彼のそんな貴重な姿を拝める天使は一人もいなかった。彼はそんな人気のない廊下を息を乱しながら駆け抜け、そして神のおわす神殿にまでたどり着くと、不敬にもその扉を蹴破るような勢いで中へと飛び込んでいった。
「ガブリエル! 天啓が下されたというのは本当か?」
神殿の中央、巨大なモノリスのような機械の前には、まるでギリシャ彫刻がそのまま動き出したかのような、均等の取れた体格の天使が佇んでいた。きめ細やかな白い肌に、鼻が高く彫りの深い顔立ち、ミカエルほどではないが堂々たる白く大きな翼を持ち、きっと誰もが振り返るであろう美青年であった。
だが今、彼の姿を見て目を引くのはそんな美麗な顔立ちや翼ではなく、目であった。ガブリエルの閉じられた両目からは、血涙が溢れ出し、彼の美しい顔を真っ赤に染めていた。
ミカエルはそんな彼の前へとズカズカ近づいていくと、親指と人差指を使ってグイッと瞼を開き、ガブリエルの瞳を覗き込んだ。すると本来ならば瞳孔があるであろう眼孔に、今は不思議な七色に光る穴がポッカリと空いており、そこから止めどなく血が溢れ出しているのが見えた。
「これは……聖痕か!」
「はい、ミカエル。間違いありません、16年ぶりの神の思し召しです」
ミカエルがそれを確認して離れたのを感じ取ると、ガブリエルは微笑を浮かべてから手にしていた布で自分の両目を覆った。真っ白い布はみるみるうちに赤く染まっていったが、と同時に先程から流れ続けていた血涙も徐々に収まっていった。
聖痕とは、神の啓示を受けた
聖痕は例えばミカエルなら胸に、ラファエルなら両手のひらに現れるのだが、ガブリエルのそれは困ったことに目であった。そのため彼は超回復を持つ天使であるのに、生まれつき目が見えないというハンデを負っていた。
その代わりに視力以外の感覚が鋭く、16年前も啓示を受け、プロテスタントの襲撃に最初に気づいたのは彼であった。他の三大天使には運動能力で劣るが、奇跡を行使する力は頭一つ分抜けており、熾天使の中で最も天啓を受ける機会が多かった、神のメッセンジャー的な立場でもあった。
そんな彼が16年間音沙汰なかった神の啓示を受けたというのは信頼が置けたし、必然だったかも知れない。ミカエルはそれを確認すると、神の座するモノリスの前で跪き、恭しく頭を下げた。
「神よ、我らと我らの愛する人類を導き給え……それでガブリエル。神はなんとおっしゃられておいでなのか?」
「はい」
目隠しをつけたガブリエルは、まるで見えているかのようにミカエルの横に並ぶと、同じようにモノリスに頭を下げてから、
「天啓は、間もなく
「救世主だって……!? まさかモーセやヨシュア、そして我らが主たるイエス・キリストのような存在が現れるとでもおっしゃったのか?」
「わかりません。ただ、その者によって人類は救われる。だから決して彼の行動を妨げてはならないと……神はそうおっしゃっておいでです」
「ふむ……西の海と言えば、モーリシャスに駐屯しているドミニオンのことだろうな。しかし、その中の誰が救世主かと言われると分かりかねるぞ。もしかして、神域を抜け出したアズラエルのことを言っているんだろうか?」
「もしくは、彼女を逮捕しに行ったジャンヌ・ダルクのことかも知れません」
ミカエルはその名前を聞くや否や、ハンッと鼻で笑うと、
「いくら人間の中で飛び抜けて強いと言えど、元プロテスタントがメシアはないだろう。もっとふさわしい者がいるはずだ……例えば……いや、待てよ?」
彼はそこまで言ってから、妙な胸騒ぎを覚えて口を引き結んだ。その雰囲気を敏感に感じ取ったガブリエルが尋ねる。
「どうかされましたか、ミカエル? お顔の色が優れないようですが」
「見てきたようなことを言うんじゃない。実は先日、アズラエルを迎えに行かせたドミニオンから、プロテスタントの残党を発見したとの報告を受けたんだ」
「プロテスタントですって!?」
「ああ。鳳白……16年前、あの大立ち回りしていた少年が悔しそうに叫んでいたから覚えていたんだ。記憶を消す前のジャンヌ・ダルクも、いつかもう一人やって来ると言っていた。まさかと思ったが、空に人工衛星らしき火球が見えたと報告を受けた際、その捜索を頼んだのだが……」
「本当に現れたというのですか?」
「報告ではそうらしい。だから私はウリエルを通じて、そいつを抹殺するよう命じたのだが……まさか、そのプロテスタントが救世主ってことはないだろうな?」
「わかりませんが、それはいつの話ですか?」
「もう二週間ほどになる。流石にもう死んでいると思うが……」
「ミカエル様! ここにおいででしたか!」
二人がそんな話をしていると、神殿の扉が開き、また別の天使が慌ただしく中に入ってきた。
よく手入れされた栗色の長い髪に、女性らしく柔和で整った顔立ち、胸は豊満とは言えないが腰とのバランスが良くてナイスバディである。四大天使の中で唯一の
彼女は息せき切って駆け込んできたが、それでも二人に倣ってモノリスの前で恭しくお辞儀をしてから、口角に唾を飛ばしてミカエルに報告した。
「お忙しいところ申し訳ありません、ミカエル様。先日ご依頼された件についてご報告なのですが……よろしいでしょうか?」
「今ちょうどその話をしていたところだ。言ってみろ」
「はい。実は先程私のもとに、かの者の抹殺を命じた部隊から報告が入ったのですが、それによりますと件の人物をついに拘束したとのこと」
ミカエルは一歩前進して食い入るようにウリエルに迫った。
「まだ殺してはいないんだな!?」
「は、はい! 殺せとお命じになられたと言うのに命令違反かと思いましたが、少々事情がございまして……話だけでも聞いては貰えませんか?」
「いや、怒っているわけではないんだ。それで? 話してみろ」
ウリエルはどことなく切羽詰まった様子のミカエルに困惑しながらも、ゴクリと唾を飲み込むと報告を続けた。
「は、はい。プロテスタントを拘束した部隊長ジャンヌ・ダルクの報告によりますと、何でもそのプロテスタントは自らを『男』であると主張しているらしくて……」
「男……男だと??」
「はい。えーと……その者は生物学的に自分は人間の、ホモサピエンスの男だと言っているようなのです。とても信じられないのですが、その場にいたアズラエル様もそれをお認めになったらしく……部隊長は判断に迷って私に報告してきたようです。なんでも、プロテスタントは我々四大天使との会談を望んでいるとか」
ミカエルは隣のガブリエルを振り返った。盲目の天使がまるで見えているかのようにそれにすぐ反応すると、二人は気の進まないお見合いでもしてるかのような、しっくりとしない表情を向け合いながら、ボソボソとした口調で話し始めた。
「……もしそれが本当なら、確かにある意味、救世主に違いないな」
「はい。神託はこのことを指していたのかも知れません」
「これは、会うしかないのだろうな」
「それが神の思し召しとあらば」
「まさか……16年ぶりの天啓があったのですか!?」
ガブリエルの言葉を目ざとく聞いていたウリエルが驚きの声を上げる。彼は頷き返しながら、
「はい、神はおっしゃいました。西の海より救世主がくる。彼の者の行動を妨げてはならないと。神託に従うなら、彼の求めに応じるべきでしょうね。すぐにラファエルにもお伝えしなければ」
「そうしよう。だが、伝えるのはそこまでだ。このことはまだ内密にして、見極めねばなるまい。果たしてその者が、本当に救世主たり得る男であるのか」
ミカエルはそう言うと、神殿の中央に鎮座するモノリスをじっと見つめた。16年前に破壊され、今日この日まではうんともすんとも言わなかったはずの神が、突然送ってきた神託……
果たしてそれは、この追い詰められた人類を救う、本物の天啓なのだろうか。
何しろその救世主とは、神を破壊した侵略者の仲間なのだ。少なくともそれを受け取ったガブリエルのことは信じられたが、その内容については、ミカエルはまだ迷いが捨てきれずにいた。