空は藍色に染まり、頭上には満天の星空が広がっていた。鳳は宙を舞いながらそれを見ていた。崖の上には仲間になれたと勘違いしていた班員たちが、彼を突き落とした格好のままでこっちを見下ろしていた。彼は、どうして? という表情でそれを見ていることしか出来なかった。
風が頬を掠り通り過ぎていく。このまま地面に落下したらタダじゃ済まないだろう。いつまでも呆けている場合じゃない。数瞬の後に彼は我に返ると、仰向けに落下していく体の向きを変えて膝を折り曲げた。崖はほぼ垂直だが傾斜がないわけではない。下に落ちるまでにどこかで壁に激突するはずだ。彼はその瞬間を捕らえて……思いっきり壁を蹴った。
バシャーン!! っと水に飛び込む音が暗闇に響いた。ほぼ賭けだったが、地面に落ちるよりはマシだと、落下の途中で軌道を変えたのが功を奏した。気泡が耳元を上っていき、ゴボゴボと音を立てた。滝壺に揉まれながらどうにか水面に顔を上げた彼は、体にまとわり付いてくる服に邪魔をされながら犬かきをして、ようやく岸辺に辿り着くと、陸に上がり崖下へと素早く駆け寄った。
報復を……視界は真っ赤に染まり、アドレナリンが全身を駆け巡っていた。たった今、死にかけたという事実が、彼の脳みそをこれ以上無く冷徹にしていた。やられたらやり返す。その流儀に従ってずっと生きてきたのだ。彼は腰にぶら下げていた自分専用のゴスペルを握ると、全員を血祭りにあげる作戦を模索した。
今すぐにでも殴り殺してやりたいところだが、すぐに上に戻るのは愚の骨頂だ。待ち構えている連中に、再度突き落とされるのが落ちだろう。それより、奴らが鳳の死体を確認するために降りてくるのを待つか、鳳が死んだと想定してあの場を去るのを待つのが得策だ。予想では、疲労するのを厭うて、下には降りてこないと見た。後でゆっくり崖に登り、見つからないように追跡し、就寝中を襲うのがベストだ。
彼は崖下の死角に隠れて、上方の様子を窺った。頭の中は、連中をどこまで壊すか、そのことでいっぱいだった。
「ごめんなさいぃ~……ごめんなさいぃ~……」
しかし、そんな鳳の温まりきった脳みそに冷水をぶっ掛けるようなか細い声が、上の方から聞こえてきた。様子がおかしいと思った彼がそっと上を見上げると、まだ辛うじて見えた班員たちの顔は曇っていて、中には涙を流しているのも見えた。まるで、鳳を突き落としたことは本意では無かったように見える。
「飛鳥さん~、生きてる~? ごめん。ごめんね」「私はこんなことやりたくなかったんだ」「でも、やらないとうちら……何されるかわからないから」「ごめん。本当にごめんよー!」
連中は口々に後悔の言葉を発している。それは崖下に転落して身動きが取れない鳳に向かって話しかけているようだった。予想通り、彼女らは疲労を嫌がって崖下には降りてこない様子だったが、恐らく頭の中では鳳が下で気絶しているか、転落死したと考えているのだろう。
「……どうしよう?」「死んじゃったのかな……」「誰か下に行って様子見てきなよ」「嫌だよ、自分が行きなよ」「……飛鳥さーん! 飛鳥さん……」
彼女らはそんな感じに暫くの間、崖の上から話しかけてきたが、
「……行こうか?」「でも、生きてるかも知れないよ?」「だって、介抱するわけにもいかないじゃん」「それはそうだけど……」「きっとうちらのこと恨んでるよ」「あの人、凄い強いし……」「行こう」「……うん」
やがて鳳の生死を確認することを諦めると、逃げ出すようにそそくさとその場から立ち去っていった。ザッザッと地面を蹴って、彼女らが遠ざかっていく足音が聞こえる……鳳はその音が殆ど聞こえなくなるのを待ってから、静かに崖下の隙間から外に出た。
「……どうしたもんか」
鳳はため息を吐いた。一時は絶対ぶっ殺すと頭に血を昇らせていたが、彼女らの情けない声を聞いているうちに、段々と怒りは薄れてきていた。それに話を聞いていて何となく状況も理解出来た。彼女らは何か個人的に恨みがあったわけではなく、きっと誰かにそうするように指示されたのだ。
その犯人の目星もついていた。恐らく、彼女らは班決めが終わったところで瑠璃信あたりに呼び出されて、このジャングル訓練中に鳳を窮地に陥れろとでも命令されたのだろう。この訓練は、命が掛かるギリギリのところを試されている。そうじゃなければ訓練にならないからだが、その状況を利用すれば、仮に鳳を殺してしまったところでいくらでも言い訳が立つとでも思ったのだろう。
瑠璃信の嫌がらせは相変わらず続いていた。だが、その間接的な嫌がらせに慣れてしまってからは、殆ど気にも留めなくなっていた。多少被害を受けたとしても、自分ならなんとかなると思っていたし、正直、たかが子供のレズごっこでここまでやるとは思わなかったのだ。
だが、間接的ということはつまり、自分で手を下すわけではないから、裏を返せば罪悪感が薄れていくらでも残酷になれるということだ。鳳の班は班分けであぶれるような連中が集まっていた。つまり普段からイジメを受けているような地味な連中が殆どだったのだが、そんなどうでもいい連中に命令を下すだけで、鳳が死んでくれたら儲けものとか、それくらい軽く考えていたのだろう。
班員が立ち去ったのを確認してから崖の上によじ登ると、ロープはそのまま残されていたが、木に立てかけておいた支給品のゴスペルが無くなっていた。状況からして、多分、鳳のゴスペルを奪って置き去りにしろと彼女らは命令されたのではなかろうか。
崖から突き落としたのは、仮にゴスペルを奪っても、鳳には勝てないと思ったからだろうか? そんなことせず、イジメられてるなら言ってくれればいいのに……そうは言っても難しかったのだろう。支配関係というのは、長い年月によって刷り込まれていくものである。親子関係なんかモロにそうだ。ぽっと出の鳳なんかよりも、彼女らは三年間付き合いのある訓練校の友達のほうが怖かったのだろう。
「はぁ~……しゃーない。許してやるか」
鳳はやれやれと肩を竦めると、先に進んでしまった彼女らを追跡しはじめた。これからどうするかであるが、仮に許してやるにしても、今すぐ彼女らの前に出ていくわけにはいかないだろう。死んだかも知れない同級生を放置するような考えなしの連中である。鳳が出ていって睨みでもしたら、恐怖心から何をしでかすかわからない。下手すると密林の中をバラバラに逃げ回るかも知れず、ぶっちゃけ敵対されるよりそっちのほうが怖かった。
彼女らもジャングルの中に取り残されている状況は変わらないのだ。鳳を置き去りにするにしても、ゴールは目指すはずである。方針は初日に決まっていたし、この2日で彼女らも森歩きに慣れただろう。頼りないのは確かだが、彼女らもなんやかんやここまで訓練に耐え抜いてきたエリートなのだ。ならこのまま付かず離れずついていって、最終日辺りに出ていって、反省を促し、そのまま一緒にゴールするのがいいのではないか。その頃には彼女らも頭が冷えているだろう。
鳳は彼女らに見つからないよう、こっそり後をつけることにした。だが、この考えが甘すぎたのは、もちろん言うまでもなかったろう。
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鳳がいなくなった班はかなり危なっかしかった。昨日そうしたように、彼女らは水場を避けて少し遠いところに野営地を設けていたが、既に周辺が真っ暗になっていたせいで満足なシェルターを作れず、焚き火を囲んで草の上に眠ったせいで、どうも夜中にダニに食われたらしく、朝を迎える前に全員が起きて苦しみはじめた。
自分たちの体がおかしいことには気づいていたが、しかし暗闇の中ではどうすることも出来ず、血がにじむほど皮膚を掻きむしりながら朝を待ち、明るくなったところで辛抱堪らず川で行水して、今度はヒルに食われるという絵に描いたような三段落ちを披露してくれた。
出発したら出発したで、しょっちゅう川から離れてどこかに行きそうになるから、その都度引き返すように獣道に細工したり蛇をけしかけたりしたのだが、それでビビって逃げるくせに、仕込みではない本物の毒蛇が近くに居ても気づかず、無警戒に通り過ぎようとして危うく噛まれそうになっていたので、こっそり始末してやらねばならなかった。
鳳を嵌めて置き去りにした罪悪感からか、終始雰囲気が悪くて言い争いが絶えず、そのせいで喉が渇きやすいのか何度も休憩しては無駄に水分を補給して、ついに生水を飲んだ一人が腹を壊して身動き取れなくなった。
3日目はこんな具合で行きつ戻りつ、少し進んでは休憩と、距離を殆ど稼げずに夜を迎えてしまい、なおかつ下痢の班員がいるせいで水場から離れることが出来ずに、2日連続でシェルター無しで焚き火を囲んで眠るという体たらくであった。やはり人間、悪いことは出来ないものである。
4日目は全員が殆ど口をきかなくなっていた。昨日の言い争いで仲違いしたわけではなく、単純に疲労から誰も喋ろうとしなかったのだ。夜中に野生動物が周囲をうろつくせいで殆ど眠れず、朝を迎えてから少しだけと言って眠った彼女らは、だいぶ明るくなってからようやく動き出した。
昨日、下痢になった班員の体調は見るからに優れず、今も顔色は真っ青であり、仲間についていくのがやっとのようだった。出してしまえば、そりゃ腹も空くもので、どうやら手持ちのラードを食べ尽くしてしまったらしかったが、他の班員たちも似たりよったりだから分けてもらえず、空腹に苦しんでいた。
午後になり、フラフラになったところで遂に耐えきれず、よせばいいのに鳳の真似をしてカエルを獲るとか言い出して、案の定トロピカルな色をした可愛いカエルを捕まえてきてしまった。死ぬ前になんとかしてやらなきゃと焦ってしまい、パンを出して与えてやると、そんなものがジャングルに転がっているなんてどう考えても怪しさ爆発なのに、疑いもせずにむしゃむしゃ食べてしまった。
多分もう、自分が何をやっているのかもわからないのだろう。腹を満たすとホッとしたのか、今度は急に泣き出してしまい、同じく心細く思っていたのか他の班員たちも寄ってきて、そっと彼女に寄り添うと、彼女らは全員お通夜のようにメソメソ泣きだし、暫くその場から動けなかった。
やがて気が晴れたのか、最初に泣き出した班員が目をこすって立ち上がると、他の班員たちもそれに倣って立ち上がり、その後はまるで十年来の友のようにお互いに助け合いながら黙々と歩き続け、日が傾き始めたところですぐにキャンプを張ってしまった。
日没までまだ時間はあったが、恐らく今日まともに眠れなければもう明日は持たないという判断だろう。その判断は正しいと言わざるを得なかったが、問題は、昨日今日と続いた遅れを、残りの2日間で取り戻せるのかということだった。
深夜……焚き火の見張り番をしている班員たちの声が聞こえてきた。鳳はそれを少し離れた木の上で聞いていた。
見張りをしていた班員は、交代がやって来ると寝る前に温かい白湯を飲みたいと言い出して、二人分の湯を沸かし始めた。生水を飲んで下痢になった班員がいるから、かなり念入りに沸騰する湯を確かめている。交代要員は緊急時に使用する発煙筒を弄びながら、それを横目にしつつ誰にともなく呟くように言った。
「ねえ……明日なんだけど。もう先に進むより、戻って飛鳥さんの死体を探しにいった方がいいんじゃないかな」
「……どうしてそう思うの?」
「このままゴールしてもさ、飛鳥さんがいない理由を聞かれるじゃん。なんて答えていいかわかんないじゃん」
「うん……」
「崖から落ちたんなら、どうして助けなかったんだって言われるだろうし……それなら、戻って彼女の死体を見つけて、そこでギブアップした方が言い訳も立つんじゃないかな。もしかしたら飛鳥さん、生きてるかも知れないし……」
「でも、もしそうなら、私たち殺されるかも知れないよ? あの人、素手でも教官に勝てるくらい強いの知ってるでしょう?」
「仕方ないじゃない! ……それだけのことしたんだし」
「やだよ……私、死ぬのは怖い」
「私だってそうだよ。誰だってそうでしょう。飛鳥さんだって……もしも謝る機会があるんなら、謝りたい。その機会はもう、永遠にないのかも知れない。本当は……私、あの人と仲良くなれたのが、少し嬉しかったんだ……なんで、あんなことしたんだろう」
返事は無く、暫く沈黙が続いた後、すすり泣くような声が聞こえてきた。見張り番は、焚き火に薪をくべながら、それを黙って見つめていた。シェルターの中にいる他の班員たちも、彼女らのやり取りを聞いていたのだろうか、寝返りをうつガサガサという音が真っ暗なジャングルに響いた。月は見えず、風にのって様々な動物の鳴き声が聞こえてくるのに、生きた動物の気配は殆ど感じられなかった。
鳳はそんな彼女らのやり取りを聞きながら、どうしたものかと頭を悩ませていた。流石に2日も経って、そろそろ頭が冷えてきたのだろう。見たところ反省もしているようだし、そろそろ出ていって許してやった方がいいだろうか。しかし、やられたことがことだけに、中々踏ん切りつかないものがあった。正直なところ、あと2日間苦しめばいいという気持ちもあって、仮に出ていってもギクシャクするだけかも知れなかった。
すすり泣きが、騒がしいジャングルの夜に吸い込まれていく。戻るべきか進むべきかという話し合いはまだ続いている。取りあえず、出ていくにしてもしないにしても、朝を待ってからだと結論を先延ばしにし、木の上であくびを噛み殺している時だった。
「きゃあああああああああーーーーーーーっっ!!!」
遠くの方から、まるで女性の悲鳴のような声が聞こえてきた。焚き火を囲んでいた二人にもそれが聞こえたのか、すすり泣きがピタリと止まって、彼女らは耳をそばだてて周囲をキョロキョロ見回し始めた。
何しろ、いろんな動物の鳴き声が聞こえてくるジャングルの中である。聞き間違いかも知れないし、人間ではなくただの野生動物の鳴き声の可能性もある。そう自分たちに言い聞かせ、彼女らが警戒を解こうとした時、再度、
「きゃあああああああーーーっっ!! 助けてっっ! たすけてーーーーっ!!」
と、悲鳴と共に助けを求める声が聞こえてきた。
もはや聞き間違いでは絶対にない。鳳は木の上で立ち上がると、声の聞こえてきた方角を確かめた。ジャングルは暗くて一寸先も殆ど見通せなかった。ただ、声のした方向から推測すると、それは川から聞こえてきたのは間違いなかった。考えられるのは、川沿いにキャンプを張っていた誰かが、野生動物にでも襲われたのだろう。
鳳たちは遠くの山の上にあるゴールを目指すために、川沿いを進むという方針でここまで来た。恐らく、同じことを考えた別の班に、たまたま追いついてしまったのだろう。進みが遅いのは、向こうが最初は別の方法を取って悪戦苦闘していたのかも知れない。
ゴスペルを持ったドミニオンの候補生が、ただの野生動物に遅れを取るとは思えないが……突然の暗闇からの襲撃に焦っているのか、それとも本当に危険な状況なのだろうか。班員たちにバレるかも知れないが、ここは飛び出して助けに行くべきかどうか迷っていると、悲鳴の間にギィギィという聞き慣れた声が混じっていることに気がついた。
鳳はそれを聞いた瞬間、アズラエルが連れていたギー太たちのことを思い出し、ホッとして肩の力を抜いた。きっと、夜中にいきなりあんなのに出くわして、パニックになった訓練生が悲鳴を上げているに違いない。だが、あの間抜けな連中が相手なら、大した被害はないはずだ。
彼はそう思って、また班員たちから隠れるように木の上でしゃがんだ時だった。
「火を消して!! 急いで!!」
しかし、そんな鳳とは打って変わって、班員たちの動揺はかなり劇的だった。
彼女らは悲鳴の中にインスマウスの声を聞き取ると、シェルターの中で寝ていた班員たちは飛び出し、焚き火を囲んでいた二人は慌てて火に砂をかけて明かりを消した。その動きには一切の躊躇がなく、彼女らが本気で緊迫している様子を窺わせた。まるで熟練の戦士みたいな敏速な動きに、鳳がぽかんとしていると、
「……やばい、やばいよ。あれ、魔族だよね?」
「ここは危険よ! で、出来るだけ水場から離れないと……」
「ちょっと待って! さっきの声、聞こえたよね? 誰かが襲われてるんだよ?」
「私たちが行ったところで仕方ないでしょう!?」
「でも……」
「自分たちの安全が優先よ。早く逃げましょう!」
班員たちは荷物をかき集めると、悲鳴に背を向けて歩き出した。しかし、その中に一人だけ、尚も背後から聞こえる悲鳴から目を逸らせない者がいて、
「待って! やっぱ駄目だよ。助けなきゃ!」
「いやよ! 早く逃げなきゃ……早く逃げなきゃ……」
班員の怯えるような叫び声が闇に木霊する。
「魔族の子を孕まされるなんて、冗談じゃないわ!!」
「だから絶対に助けなきゃって言ってるんでしょ!!」
その声は思いのほか大きく闇に響き渡った。興奮する彼女らは、自分たちの声が大きすぎることに気づくと、慌てて口をふさいでその場にしゃがみこんだ。彼女らの怯えきった瞳が、こわごわと周囲の様子を窺っている。
鳳はその言葉を聞いて、魔族の習性を思い出した。
ああ、自分はなんて馬鹿なんだろう。魔族とは、殺すか犯すか、その二択しか頭にない生き物のことではないか。アズラエルが連れている連中がそうじゃなかったから、すっかりそのことを忘れていた。
そしてそのアズラエルは言っていたではないか。水棲魔族のオス……インスマウスは基本的に生殖以外のことは考えられない、脳足りんだと言うことを。
ザンッ!! っと大きな音を立てて、警戒する班員たちの背後に鳳は飛び降りた。その音に驚いた彼女たちの悲鳴があがる。彼はそんな怯える彼女らの前に歩いていくと、光弾を作って彼女らに見えるようにその姿を現した。