「くすくすくす。人間が来たよ、姉さま」
「こいつの脳はどんな味かしら、姉さま」
水棲魔族の群れに囲まれた宿舎のいたる所から悲鳴が上がっていた。突然の襲撃に慌てふためく寮生を助けながら、とにかく魔族の侵入を阻止しようと一階へ降りていけば、裏口の戸が破られた食堂で待っていたのは、魚の顔をした魚人ではなくて、何故か天使アズラエルであった。
しかも彼女は一人だけではなく、ざっと見た限りでも十数人はいるようで、おまけにその一人ひとりが物騒な事を口走りながら、犠牲になった訓練生の体を弄んでいたのである。
あの、人類を救うために体を張ってきた彼女がそんなことをするわけがないという確信もあったが、何よりも彼女が複数人いる時点で、そこにいるのが本物じゃないことは分かっていた。
しかし、分かっていながらもショックから抜け出すのに時間がかかった。何故なら、それはあまりにも彼女に似すぎていたからだ。小柄な子供みたいな身体、おかっぱの薄紫の髪の毛、それから背中に生えた片翼。寸分たがわぬアズラエルの姿をした連中が、目の前にうじゃうじゃといるのである。
「今度のやつも美味しそう、脳髄を残さず啜らなきゃ」
そう言い放つ口は既に血でドロドロに汚れていて、こいつらが今まで何をしていたのかは容易に想像がついた。よく見れば食堂のあちこちには、犠牲になった訓練生たちの死体が転がっていて、無惨に四肢が引きちぎられて胴体しか残っていないものさえあった。
そうして物のように扱われた彼女らの四肢を、目の前のアズラエルにしか見えない連中が、グチャグチャと音を立てながら満足そうに咀嚼しているのだ。鳳の正面に居た個体は死体から引きちぎった頭を手にし、鼻の穴からストローのような管を突っ込んで、ジュルジュルと音を立てて脳髄を吸い上げていた。
そのおぞましい光景を前に、背筋にブルブルとした怖気が登っていった。それが脳に達すると、恐怖が彼の脳を弛緩し、鳳はほぼ反射的に一歩後退っていた。
野生動物の前で弱気な姿を見せてはいけないとはよく言ったもので、鳳のそんな姿を見たアズラエルはニヤリと笑うと、手に持っていた頭を彼に投げつけ、とても彼女のものとは思えない下卑た笑みを浮かべながら、
「そんな怖がらないで、人間。すぐにおまえもそうなるんだよ。そしたらもう怖くないから」「くすくすくす、姉さまったら意地悪」「くすくすくす、そいつ今にも泣き出しそうよ」「ストレスは肉を美味しくなくするの、姉さま」「肉が痛む前に早く食べましょう、姉さま」「姉さま、早く早く」
アズラエルの顔をした連中は、まるで生贄を前にした悪魔のように、そんな不愉快なことを口にした。だが、彼女らの余裕はそこまでだった。鳳は投げつけられた頭を反射的にキャッチしてしまい、ぬるっとした感触に驚いてそれを落っことした。するとその頭は嘘みたいに地面をコロコロ転がって、鳳のことを見上げる格好でピタリと止まった。
彼はその顔に見覚えがあった。
「マジ……かよ……」
つい最近、ジャングルで死線を共にくぐり抜けた仲間だった。
それを見た瞬間、彼の頭の中で何かが弾け、ついさっきまで恐怖に強張っていた体中の血液が沸騰し、脳にバリバリと静電気が走ったような感覚がして、彼は腰にぶら下げていた光の剣を引き抜くと、目の前の奴らに飛びかかっていった。
彼が剣を一薙ぎするなり、まるでケーキを切るかの如く、殆ど感触もなくアズラエルの首が宙に飛んでいった。下卑た笑いを浮かべたまま、もう二度とその表情が変わることがない生首がべちゃっと地面に落ちると、同時に残った胴体の首の辺りから血が噴水のように吹き出して、天井を真っ赤に染めていった。
取り巻きはビビっていると思われた鳳の突然の行動に虚を突かれて固まっていたが、魔族らしく闘争本能が勝ったのだろうか、間もなく仲間の報復とばかりに襲いかかってきた。
しかし、鳳にはその一瞬の隙があれば十分だった。彼はまだ態勢の整っていない相手を更に二体ほど血祭りに上げると、背後から飛びかかってきたもう一体には光弾をぶつけて吹き飛ばしてやった。
連中はそれでも怯まずに畳み掛けてくる。だが、鳳は相手の突進をスライディングでくぐり抜け、血でビチャビチャの地面を滑って、そのまま食堂の反対側の壁に着地した。そんな曲芸みたいな動きに翻弄された一体が、目だけを彼に向けてギンと睨む。その眼光に嫌な予感を感じた彼が体をくねらせると、たった今彼のいた場所をレーザー光線みたいな何かが通過していき、壁にぶつかって破裂した。
何が当たったのだ? と見れば、そのクレーターみたいな着弾点が塗れている。
「水滴……?」
キラリと光ったからレーザー光線かと思いきや、どうやらそれは高圧の水を飛ばしたウォータージェットのようだった。どのくらいの圧力があるか分からないが、当たったらまず体を貫通すると思っていた方が良さそうである。
しかしそれより鳳は気になっていた。その水撃魔法なら一度見たことがあった。これはアナザーヘブン世界でレヴィアタンが連発していた魔法じゃないか?
ハッとして、アズラエルの首を凝視すれば、喉の辺りがパクパク閉じたり開いたり、魚のエラみたいなものが付いていた。更によく見れば皮膚は鮫肌のようにざらついており、そして彼女らの指の間には、薄い膜が張り、ヒレまでついているようだった。
こっちの世界に来てからはインスマウスの襲撃ばかりで、オアンネスのことは一体も見たことがなかった。もしかしてこいつらの正体は、そのオアンネスなんじゃないのか? しかし、だとしたら何故、こいつらはアズラエルの姿をしているのだろうか……
鳳がそんなことに気を取られていると、隙を突いて一体のオアンネスが彼の背後に忍び寄っていた。その気配に気づいた時には既に遅く、敵は攻撃態勢に入っていた。身を隠すための遮蔽物がない状況でオアンネスの目がギラリと光り、彼はヤバいと咄嗟に剣を構えたが……しかし、そんな彼の後方から光の弾が飛んできてオアンネスに着弾すると、哀れな魔族はその爆発に巻き込まれて吹き飛んでいった。
「白様、ご無事ですか?」「飛鳥さん、加勢します!」
心臓をバクバク鳴らしながら振り返ると、瑠璃と琥珀が駆け込んできた。もう一人はどうしたんだろうと思ったら、闇に乗じてオアンネスの背後に周り、一体の首を切り裂き、また闇へと消える姿が一瞬だけ見えた。そう言えば、そういうスキル持ちだった。瑠璃信たちと一緒にその特技を生かされなくて本当に良かったと思いつつ、水撃から身を守るためにひっくり返したテーブルの影に身を寄せる。
「おまえらどうしてここに!?」
「ジャンヌ隊長から聞いてませんか。僕たちも海岸で防衛してたんだけど、いきなり出てきた天使の姿に、みんな動揺しちゃって。あっちで食い止めきれなかったのが、基地にどんどん侵入しちゃったんだ」
「あれはやっぱりオアンネスなのか? どうしてアズにゃんの姿をしてるんだ?」
「私たちにもさっぱりですわ! それで、訓練生だけでは持ちこたえられないでしょうから、救援に来たんです。間一髪でしたわね」
「恩に着るよ。ジャンヌは? あいつも一緒じゃないのか?」
「お姉さまなら訓練生たちを指揮して、玄関の方を防衛していますわ。とにかく侵入経路を塞がなければ」
「隠れてないで出てきなさいよーーーっ!!」
バチバチとテーブルが音を立てて、木製の表面が弾け飛んだ。何本かの水撃が貫通し、遮蔽物として意味をなさなくなると、鳳たちは慌てて隣のテーブルの影に飛び込んだ。そんな彼らが通った後を、バシャバシャと水撃が襲う。
鳳たちは無茶苦茶に水撃を撃ってくるオアンネス目掛けて、テーブルの影から一斉に光弾を放った。何発かは敵にヒットし、壁にぶつかった弾が爆発してもうもうと煙が上がった。しかし、致命傷には至らず、オアンネスは相変わらず怒りに任せて彼らの隠れているテーブルを水撃しつづけた。どうやらその水撃のせいで室内に霧が発生し、光弾の威力を削いでしまっているようだった。鳳は慌てて、
「光弾を撃つタイミングを合わせろ! 重ねて威力を上げなきゃ奴らを倒せない!」
鳳が言うまでもなく、琥珀と瑠璃は既にタイミングを合わせていた。きっとここへ来る前、海岸の防衛線で既に戦術が確立していたのだ。とすると問題なのは、それを知らずに奇襲を受けている宿舎の訓練生たちだった。
「防衛ラインを下げよう。こんな広い室内で撃ち合うより、廊下にバリケードを作ったほうがまだマシだ」
「わかりましたわ!」
「こっちよ」
鳳たちが撤退を決めると、どこからともなく桔梗が現れて手招きした。いつの間にか食堂のテーブルが倒されて、出入り口まで敵の水撃を遮蔽する道が出来ていた。こういう地味な仕事を的確にこなしてくれる奴はありがたい。桔梗という人物を若干見直しながら、鳳は三人娘に続いて食堂から外に転がり出た。
食堂の外の廊下には既に人が集まっていて、ロッカーを積んでバリケードを作っていた。鳳たちがそのバリケードを飛び越えると、次の瞬間、一斉にそのあちこちの隙間から光弾が撃ち出され、背後に迫っていたオアンネスをドカンと吹き飛ばした。背後から悲鳴が轟き、それが全部アズラエルの声だと思うとなんだかちょっと気分が悪い。
ともあれ、食堂からの侵入は防げたようだが、他はどうなってるんだろうと気にしていると、応戦している鳳の足元にシャーっとタブレット端末が滑ってきて、音声通話からジャンヌの声が聞こえてきた。
「食堂班、裏口班、玄関班、お風呂場班、トイレの方もみんな聞こえる? 侵入経路が多すぎて、地上階での迎撃は効率が悪いわ。2階まで上がって階段で迎撃する。食堂班から順に撤退を開始して。中央の昇降口に向かってちょうだい」
「了解」
誰ともなく返事を返すと通話が切れ、代わりに昇降口の方で手を降っている訓練生たちの姿が見えた。きっと撤退を援護してくれるつもりだろう。鳳は瑠璃たちと確認し合うと、イタチの最後っ屁とばかりに、
「逃げる前に一発ぶちかますぞ! タイミングを合わせて! 3・2・1・いま!!」
彼の号令でバリケードに張り付いていた訓練生たちが一斉攻撃し、重なりあった光弾がオアンネスの群れに吸い込まれていった。すると次の瞬間、ものすごい轟音とともに閃光が迸って、頑丈な宿舎の柱をグラグラ揺らした。
本当に倒壊するんじゃないかというほどの揺れに、こりゃ、やり過ぎちゃ駄目だわ……と肝を冷やしつつ、爆風を背中に受けて加速しながら、鳳たちは昇降口へと飛び込んだ。そこで待ち受けていた訓練生たちが、一斉にロッカーを積んでバリケードを作るが、しかしもうそこへ魔族が突っ込んで来ることは無かった。多分、今の攻撃で一掃されたのだろう。
それで敵が警戒したのか、撤退は思ったよりもスムーズに行われた。最後に玄関を死守していたジャンヌが2階に上がってくると、全ての階段を封鎖するようにバリケードが築かれ、そこに宿舎内の訓練生たちが陣取り、上がってこようとする魔族を待った。
暫くすると一階が放棄されたことに気づいたのか、ギィギィという鳴き声とピタピタと歩き回るインスマウスの足音が聞こえてきた。おぞましい魚人の習性を思い出して訓練生たちの顔色が変わるが、しかし階段を突破してインスマウスが上がってくることはなかった。
インスマウスに飛び道具は無く、階段を上がろうとすれば狙い撃ちをされるだけである。問題は相手の数が多すぎることだが……階段の踊り場でひたすら迎撃しているうちに死体が積み上がって、逆に侵入を防いでくれるようになってきた。こうなると魚人共に打つ手はなく、階下からギィギィと言う声が聞こえてくるだけで、宿舎はようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
「白ちゃん、そっちの損害は?」
鳳たちがほっと一息ついていると、指揮官であるジャンヌが忙しそうに駆けてきた。
「ジャンヌか。瑠璃たちが来てからは一人も出していないけど……最初に食堂に入った時、既に何人か殺られていた」
「そう……無傷ってわけにはいかないわよね」
「この、オアンネス……なのか? こいつらは一体何なんだろう。アズにゃんの姿をしているのもそうだけど、あの水撃魔法が痛すぎるぜ」
鳳が尋ねると、彼女は首を振って、
「それは神域に報告してアズラエル様に直接聞くしかないわね。取りあえず今は、このまま辛抱して、朝を待ちましょう。予報では朝までにはサイクロンも通過するそうだから、本隊は日が昇ってから反転攻勢をかけるつもりよ」
ジャンヌの言葉を聞いて、疲労の色を見せ始めていた訓練生たちから笑顔がこぼれはじめた。どうやら本隊もまだ動けないようだが、彼女らは見捨てられたわけではないらしい。いきなり襲撃された時はパニックになってしまったが、今はジャンヌと、瑠璃と、琥珀もいる。彼女らが居ればもう安心だと、訓練生たちは安堵のため息を吐いた。
だが、得てしてそういう時こそ失敗は起こりやすいものだ。
水棲魔族の群れを階段で完全に封じ込めていたと思っていた訓練生たちは、相手が魚の顔をしたインスマウスだけではないことを忘れてしまっていた。
突然、踊り場に積み上がっていたインスマウスの死体の中から、無数の水撃が飛び出してきて、階段の上で警戒していた一人の訓練生を貫いた。血飛沫が舞い上がり、悲鳴が響き渡る。
ジャンヌがハッとして振りかえると、そんな訓練生を助けようとしてまた別の訓練生が犠牲となり、手薄となった階上に、階段を突破した水棲魔族が押し寄せてきた。
ドドドドド……っと、地響きを立てながらインスマウスの群れが迫る。
廊下に腰を落ち着けていた訓練生たちが慌てて迎撃を開始するが、敵は数に物を言わせて、あっという間に彼女たちを飲み込んでいった。
鳳たちは廊下を一直線に駆けてくる魚人の群れに向かって光弾を放つが、しかし、その途中で逃げ惑っている訓練生たちに当たりそうで狙いが定まらなかった。一方、オアンネスの方は仲間であるはずのインスマウスに当たるのも構わず水撃を放ち、逃げ遅れた訓練生たちが次々と犠牲になっていった。
「三階を目指して! みんな早く!!」
ジャンヌが突進し、少しでも水棲魔族の進行を遅らせようと盾になる。
「飛鳥さん! 瑠璃を頼みます!!」
防御魔法が使える琥珀がその後に続き、二人で魔族を食い止めている間、逃げ遅れた訓練生たちが我先にと廊下を駆けてくるが……しかし、彼女らを逃した後の二人がどうなるかはバカでも分かった。
「飛鳥さん!! 早く!! もう持ちません!!」
琥珀が必死に叫んでいる。ジャンヌがめちゃくちゃに剣を振り回し、後先考えずに敵を屠り続けている。鳳もゴスペルを握って突撃すれば時間稼ぎにはなるだろう。しかしそれでも敵の勢いは止められそうもない。
彼女らがどうして欲しいのかはもちろん分かっている。だが、鳳も瑠璃も金縛りにあったかのようにその場を一歩も動けずにいた。
何か……何か方法は無いのか?
かつての彼には敵の数を物ともしない圧倒的な力があった。でも、今の彼にはそんなものはなく、知恵を振り絞ってこの場を切り抜けるしか方法はない。
しかし、この咄嗟の場面で彼にやれることは何もなく、ただ呆然と立ち尽くすしか無かった。周囲を見ても役に立ちそうなものは何もない。
逃げ惑う訓練生の背中を水撃が襲う。悲鳴が上がるが、琥珀もジャンヌももうそんなことを気にしている余裕がないようだ。
どうしてこの場面で、自分は防御魔法が使えないのか……かつてのゲームみたいな防御結界が使えれば……せめて、あと一枚でいいから盾があれば……
盾が……今必要なのは誰かを守る盾なのだ。
「盾だ……盾はないのか!? 何でもいい! 誰か持ってこい!!」
するとその願いが天に届いたとでも言うのだろうか。
鳳は突然、脳にギンっとした鋭い痛みを感じたと思ったら、急に目の前が光りだし、そこに半透明の盾が浮かび上がった。それはキラキラと光鱗を撒き散らして、仄明るく緑色に輝いている。
なんだこれは? と思わなくもなかった。だが、そんなボヤキが口をついて出る前に、彼はその盾に見覚えがあることに気がついた。
中世ヨーロッパ風のエスカッシャン、その両側に立つ2匹の竜がそれを支えている。その頭上には綺羅びやかなコロネットと無骨なヘルメットが並び、そして十字によって分割された盾の表面には4つの言葉が刻まれていて、鳳は自然とその言葉を口にしていた。
「
そんな彼のつぶやきが、騒がしい宿舎の壁にこだまするように響き渡ると、突然、閃光が迸り、盾からまばゆい光が溢れ出した。その暴力的なまでの光は、みるみるうちに空間を埋めていき、気がつけばその場にいた全ての者は、ただひたすら白い純白の中に佇んでいた。
その不思議な光景を前に、魔族さえも恐れおののいて固まっている。
「おまかせください、ご主人さま」
するとそんな白の中に、空間を切り裂いて一人の少女が降りてきた。彼女はまるでパラシュートみたいに大きな盾を高々と掲げて、ゆっくりとしたスピードで天から降りてくる。
そして彼女は鳳の前に優雅に着地すると、恭しくそのメイド服の裾を軽く摘んでお辞儀をし、状況を確認するかのようにぐるりと辺りを見回してから、その大きな盾でご主人さまのことを守るように構え叫んだ。
「アイギスッ!」