サイクロンと魔族の襲撃に見舞われた災厄の一夜を越えて、翌朝は一転してカラッと晴れた快晴となった。
水棲魔族たちは、明け方が近づき、サイクロンの勢力が弱まるのと連動するかのように徐々に攻撃を弱め、朝になる前には海へと撤退していった。その潔い引き際はいまだかつてないほど人為的であり、かのレヴィアタン勢力が人類に対抗するための知恵を身に着けたことはほぼ間違いなかった。
心配された山の上の研究所であるが、最悪の事態だけは免れたようだった。前夜、鳳の不安をジャンヌが司令本部に確認したところ、本部は研究所と連絡が取れないことに気がついた。研究所は通信基地も兼ねているので、ジャンヌが本部と連絡が出来ている時点で、施設は稼働しているようだったが、何度連絡を入れても応答しなかったのだ。
そこで基地司令は決死隊を募り、山の上へ急遽増援を送ることにした。鳳もそれに参加したいところであったが、アリスが居ることと、そのアリスが宿舎を離れたら結界を維持できないため断念せざるを得ず、ジャンヌと三人娘に任せてヤキモキしながら一夜を明かした。
辿り着いた研究所はひどい有様だったそうだが……そこは水棲魔族にとって不利な山の上という場所もさることながら、元々襲撃を警戒して入り口が狭く内部が入り組んでいるという構造をしていたため迎撃がしやすく、自室に立てこもっていた非戦闘員は魔族に襲われる心配は全く無かったようである。
翌朝、世話になった神楽やよいを探しに研究所を訪れた鳳は、無傷の彼女と再会してホッと安堵の息を漏らした。
「全然大丈夫じゃないよ~……私も戦うって言ってるのに、自室に押し込められてさあ、終わってみれば案の定、オリジナル・ゴスペルが奪われちゃってたんだよ? 司令は研究員が生きていればやり直せるとか言ってるけどさ、そんなに簡単なことじゃないよ~……って言うか、これから私は何を生きがいに生きていけばいいの? あ~、せっかくの実戦で新型も試してみたかったのに!」
命あっての物種だというのに、研究が出来なくなったことへの不満の方が大きいようである。まあ、塞ぎ込まれるよりはマシだから良いが、結構な被害を出しているのに犠牲者よりもゴスペルの方をまず心配するのはどうなんだろうか。
「そんなこと言っても、君、オリジナルを失うのは人類にとって計り知れない損失なんだよ? 人類が魔王と対抗出来る唯一の方法は、オリジナルを使うことだけだったんだから。せっかく、デウスエクスマキナ・モードが解除されて再使用の可能性が出てきたというのに、これからどうしたら良いっての」
「あいつら、オリジナルを奪って何をするつもりなんでしょうかね」
「そんなの私にもわからないよ。あの刹那的な魔族が、こんなことするなんて普通思わないじゃない。司令だって、それでこっちを手薄にしていたんだろうし。でも、その裏を書かれたんだとしたら? あのオアンネスは確実に知恵を付けていたってわけよね。それに、あの姿はちょっと……」
「神楽、それから……飛鳥は君だな?」
鳳たちがそんな会話をしていると、背後からぬっと巨大な影が近づいてきた。基地司令の
「ウリエル様が今こちらへ向かっていらっしゃる。アズラエル様もご一緒だ。ただ、分かるな? 騒ぎにならないよう、関係者だけを集めるように言われているので、決して誰にも勘付かれるな」
「私も行っていいの?」
はっきり言って口が軽く、こういった席には向いていないと自覚しているのだろうか、意外そうにやよいが問い返すと、司令は仕方ないやつめとため息交じりに、
「無論だ。ゴスペルを奪われたのに、その責任者が来なくてどうするんだ」
「私がドジッたわけじゃないのになあ……」
「飛鳥。君はアイギスを持ってきてくれないか。話は聞いている。場合によっては前線で管理させてもらう」
「……あれは俺の身内のなんで、巻き込まないで欲しいんですけど」
「そんなこと言っていられる状況じゃないことはわかるな?」
基地司令が相手だと言うのに鳳が睨みつけると、司令も一歩も引かずに睨み返してきた。そんな二人の姿を目撃してしまったドミニオンの隊員が凍りついたように固まっている。鳳が、最悪の場合、アリスを連れて逃げることまで考えていると、
「なになに? アイギス!? ええっ! アイギス見つかったの? どこよどこー?」
その名前を聞いてゴスペル狂が騒ぎ出し、割とどうでも良くなってきた。まあ、基地司令が何を言っても、アリスが言うことを聞くとも思えないし、ミッシェルもサムソンもいるのだから何とかなるだろう。
鳳はやよいに絡まれてうんざりしている司令に向かって、同じくうんざりした顔で頷き返した。
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ウリエルはその日の午後、日暮れ前の目立たない時間帯にケアンズへ到着した。基地司令が今回の襲撃のことを神域に報告したのは、水棲魔族が撤退した早朝のことだったから、まだ半日しか経っていないことになる。
それだけ素早く来るには、ブリスベンを経由せずにパースから直行するしかないわけだが、そんな強行軍をするくらい四大天使は緊急性を理解していると言いたいのだろう。神域から飛んできた飛行機にはパイロットを除けばたった3人しか搭乗しておらず、ウリエルと同伴してきた中にはミッシェルが居て、そして彼はアズラエルの姿を完全に隠蔽してくれていた。
およそ三ヶ月ぶりの再会についつい顔が綻ぶが、しかし今は喜んでいる場合ではなかった。飛行機から降り立ったアズラエルはまるで死刑囚のようにしずしずと歩き、それを見守るドミニオン幹部たちはみんな能面みたいに無表情だった。空港ではジェット機のキーンという音だけが聞こえ、結局そこでは誰もろくに挨拶すら交わさなかった。
まあ、この状況では形式的な挨拶など必要無かったろう。その場に集った人々の知りたいことは唯一つだけだった。
アズラエルの正体は何なのか。司令部の一角に集められた関係者の中で、そして彼女はついにその重い口を開いた。
「……私と同じ顔をしたオアンネスが現れたというのだね? ならば心当たりがある。今回の多大な犠牲を払った襲撃の責任は、恐らく私にある可能性が高い。その責任を取るなどと軽々しく口にするつもりはない。それで君らが納得するわけがないのは承知しているつもりだ。だが、もし償うことが出来るのであれば、この生命に変えても償わせて欲しい。
本題に入ろう。恐らく今君たちが一番知りたいのは、私が何者であるかということだろう。もちろんそれについては、今ここで包み隠さず全てを話すつもりだ。だが、少々長くなりすぎるので、まずは結論から言わせてもらう。心して聞いて欲しい。
私は天使アズラエルではない。それどころか天使ですらない。私は一匹の魔族、水棲魔族の女王、レヴィアタンだ」
16年前、ニューギニア、マダガスカルと相次ぐ撤退を余儀なくされた人類は、プロテスタントによる神域襲撃を受け、再生まで出来なくなって完全に追い詰められていた。オーストラリアに侵入してきた水棲魔族を撃退するため、ダーウィンを本拠地としていたドミニオンは、メタトロン不発というアクシデントにも滅気ずに、不退転の決意でダーウィンに踏みとどまっていたが、それも水棲魔族の数の暴力を前に、飲み込まれるのは時間の問題だった。
この絶体絶命の危機を前に、天啓を失った神域は完全に沈黙しており、救いを求める人類に対して何一つ有効な手立てを打てなかった。そんな天使たちに失望した人類は批判を強め、文民統制を失ったドミニオンが暴走することを恐れ、評議会では人類の天使からの独立すら議論されるようになっていた。
だが、そんな絶望的な状況下にも僅かな光明は差し込めていた。かつては神の御名の下、直接人類の救済を行うことは決してしなかった天使であったが、この頃から一部の責任感の強い者が、ドミニオンと一緒に魔族と戦うようになっていた。アズラエルもその一人だった。
ニューギニア高地を奪われた人類は、この時期、オイルショックに見舞われ経済が低迷しており、評議会は神域の反対を押し切って、ドミニオンによる奪還作戦を強行した。しかし、それが可能であるなら、そもそも撤退自体ありえないわけで、作戦は敢え無く失敗し、その余波を受けてドミニオンは本拠地であるダーウィンをも失う羽目になった。
しかし押し寄せてくる魔族を前に、防衛線を維持しながら撤退を行うことが、難しいのは言うまでもないだろう。人が逃げれば逃げるほど、防衛線を維持する人員も減り続けるわけだから、誰がそんな場所に最後まで残るのかと言う話になる。アズラエルは、その撤退戦で殿軍を任された大勢の天使の一人だった。
人類はインスマウスやオアンネスが相手ならば、陸上であれば問題なく対処が出来る。だが、その女王であるレヴィアタンが出てきてしまうと為す術もない。頼れるオリジナル・ゴスペルはもはや存在せず、こうなると魔王に対抗できるのは天使部隊しかいなかったのだ。
しかし痩せても枯れても相手は魔王。戦えば天使と言えども無傷とはいかず、おまけに相手は倒しても倒しても途切れること無く、また別の個体が女王になってしまうという水棲魔族である。
果てることのない戦いが続き、天使部隊は徐々に追い詰められていった。それでもアズラエルは人類のためにレヴィアタンを倒し続けていたのであるが……そんなある日、彼女は奇妙なことに気がついた。
やってくるレヴィアタンは何故かいつも手負いで、連れている取り巻きも少なかった。魔王と天使の対決を前に、取り巻きがいくら居たところで物の数にもならないので、ある意味それは正しい判断と言える。しかし、レヴィアタンは水棲魔族を統べる女王である。その女王がまるで鉄砲玉みたいな扱いを受けていることが、アズラエルには不可解だった。
撤退戦は続き、ついに最後のドミニオンの部隊が去って、後はアズラエルたち天使部隊が逃げるだけとなった。ところが、そんな時、まるでそれを狙っていたかのように、水棲魔族が最後の攻勢をかけてきた。
取り巻きの数が最大規模なのは言わずもがな、何と最後の襲撃では8体ものレヴィアタンがその大部隊を率いてきたのである。
流石にこの数では天使であっても分が悪く、彼女らはすぐに飛んで逃げようとしたが、しかし厄介なことにレヴィアタンも空を飛んで立ちふさがり、天使部隊は戦いを余儀なくされた。
そして行われた戦いは、もしもそれを見る者がいたとすれば、ラグナロクと形容したことだろう。地中からは灼熱のマグマが吹き上げ、幾度も洪水が襲いかかり、雷雲が空を覆って、途切れることなく稲光が戦場を照らした。数多の獣が吠え、慟哭し、天使たちは持てる限りの力を振り絞り、8体のレヴィアタンと、数えるのも馬鹿らしくなるほどのインスマウスとオアンネスを撃退し……そして散っていった。
最後のレヴィアタンを地に落とし、蠢く取り巻きたちを薙ぎ払ったアズラエルはもうボロボロだった。美しい翼は片方が千切れ飛び、片目は無残に潰されて、もはや再生する気配も無かった。辛うじて全ての魔王を倒し切り、熾天使のプライドを保った彼女であったが、その超回復力を持ってしてももう死は免れないようだった。
それでも彼女は最後の力を振り絞り、たった今地上に落としてやった女王に止めを刺すべく、自身も地上に降り立った。そして手にした剣を振り上げ、レヴィアタンの頭を目掛けて突き立てようとした時……彼女はふと思い立ち、その手を止めて、たった今殺そうとしていた魔族に問いかけていた。
「なんで、お前は孤独なのだ? お前の眷属は今どこにいるんだ? もしもこの場にいるのなら、すぐに新たな魔王が生まれるはずだ」
どうせ、この魔王は放っておけば死ぬ。そして自分も時間の問題だろう。後はどちらが先に死ぬかという話に過ぎない。そう思ったら、彼女は彼女と戦っているのが馬鹿らしくなり、寧ろ生物学者としての興味のほうが強くなってきた。
だから最後の最後に、以前に感じた違和感について尋ねてみようと思ったのだ。もちろん、相手は魔族であるし、返事は期待していなかった。だが、死にゆく魔王もまた寂しかったのだろう。気まぐれを起こしたレヴィアタンは淡々と彼女の問いかけに答えた。
「私はただ私の子孫を増やしたかっただけだ。多くの子供を産み、私の生きた証を残したかっただけだ」
レヴィアタンの繁殖は女王の胎内で行われる。女王は保存していたオスの精液を自分の胎内で卵子と交配してオアンネスを産むか、もしくは自分の生殖細胞だけでインスマウスを産む。
ところで女王が言う通り、もしも自分の遺伝子を多く残したいとしたら、彼女はメスを産むよりもオスのインスマウスを多く残した方が得だ。メスは一度に一体の子供しか産めないが、オスならメスの数だけ遺伝子をばらまくことが出来る。しかも魔族社会はレイプが基本で、抵抗するならぶっ殺せばいいという後腐れの無さだ。
しかし、群れというものを考えると、こう単純にはいかない。群れは生まれて来た子供を保護するが、インスマウスは生殖以外に殆ど役に立たないので、働き手のオアンネスが嫌がる。
遺伝子を残したいのであれば、子供が生き残ってくれた方がもちろんいい。だから結果的に、レヴィアタンは若い頃は群れを維持するためにメスを多く産むが、年を取って出産数が少なくなってくるとオスを産みたくなり、インスマウスが生まれる傾向が強くなる。
すると群れ内で意見の不一致が起きる。群れを維持するためにはタダ飯ぐらいのインスマウスは要らない。そこでオアンネスの中から新たな女王が誕生し、オスしか産まなくなった旧女王は放逐される。
「だから、お前たちはいつも手負いだったのか……」
言われてみれば、レヴィアタンが連れている取り巻きはいつもインスマウスだった。どうして鉄砲玉みたいに突っ込んで来たのかも、インスマウスに人間を襲わせて、自分の子孫を産ませようとしていたと考えれば辻褄が合う。
まさかそんなカラクリがあったとは……アズラエルは生物学者として、最後にこの事実をまとめることが出来ないことを残念に思いながら、地面に体を横たえた。
息をするのも億劫で、もはや立っているのも不可能だった。地面は水浸しで冷たいはずだが、まったく温度は感じられなかった。空には暗雲が垂れこめて、仲間は誰ひとり生き残っていない。あとは死を待つだけだった。
そんな彼女の耳に、レヴィアタンの声が聞こえてくる。
「私は死ぬのか……ああ、天使よ、私の最後の望みを聞いてくれないか。私を捨てた娘たちに復讐するため、お前の子供を産ませて欲しい。私に最後の子供を産ませてはくれないか」
「残念だったな、レヴィアタン。天使は雌雄同体で生殖細胞を持たない。君は私を孕ませることも、私の子を生むことも出来ない」
アズラエルはそう言って薄く笑った。まさか死の間際に、魔族に子供をねだられるとは思いもよらなかった。生まれてから数千年の時が過ぎたが、こんなに奇妙なことは初めてだった。生きていれば、本当に色々な事が起きるのだなと彼女は少し死ぬのを残念に思った。
だが、後悔はなかった。次第に頭がぼんやりしてきた。冷たいはずの体が暖かくなってきたような気がして、空は暗いはずなのに、信じられないほど輝いて見えた。
そして最後の最後まで人類に尽くした彼女は、意識を手放すべくそっと目をつぶった。
「いや、そんなことはない。私なら天使の子を産むことも可能だ。私はおまえの子供を産むことが出来る」
その言葉を聞いた時、薄れゆくアズラエルの意識が急速に回復してきた。感覚が彼女に戻ってきて、苦痛が体を埋め尽くしていた。しかし、それでも彼女は意識を手放すことなく、死に抗おうとし始めた。それだけの魅力がその言葉にはあった。
天使の子を産むことが出来る? もしもそれが可能であるなら……再生が出来なくなった人類の希望になるのではないか?
アズラエルは最後の希望をこの魔王に託し、彼女の話をもっと真剣に聞こうと思い始めていた。