『我々は現在、木曜島上空3000メートルを飛行しております。ここはオーストラリアとニューギニアの間、眼下に広がるトレス海峡には普段なら美しい大海原が広がっているのですが、今は……御覧ください! この魔族の群れ、群れ、群れ! これはCGじゃありません! 全て現実の光景なのです! 少なく見積もっても1千万は下らない魔族の群れがトレス海峡を通過し、現在、オーストラリア北東部をケアンズに向けて侵攻中です。インスマウス、オアンネスの中には、巨大なレヴィアタンの姿も何体か見られ、信じられないことにあの海蛇は空を飛びながら南下し続けているのですが……って、あれ? あの個体はこちらへ向かってきているつもりでしょうか? そんなに高くは上がれないはずですが……パイロットさん? パイロットさん? もうちょっと高度を上げたほうが……って、きゃああああああーーーーっっ!!!』
液晶テレビからつんざくような女性の悲鳴が上がり、画面が切り替わった。上空から海を映し出していたカメラはスタジオに切り替わり、妙に鯱張ったアナウンサーの顔を映し出す。
『……レポーターさん? レポーターさん? ……失礼しました。音声が乱れたことをお詫びします。映像……まだ、繋がらないようですね。引き続きまして、緊急特番をお送りします。政府の発表によりますと、現在、オーストラリア北東部に異常な数の水棲魔族の集団が上陸、ケアンズを目指して南下中とのことです。ケアンズのドミニオン司令部は当地で魔族を食い止めると発表しておりますが、その実現性は非常に薄く、政府は撤退を視野に入れて協議を続けている模様です。水棲魔族の目的は不明で、どこまで南下するか予想は立たない状況で、この事態を受けて、ブリスベンからは早くも避難民が南部に向けて脱出を開始している模様です……えー……映像、戻りましたか? レポーターさーん?』
クリスマスの大襲撃の翌日、オリジナルゴスペルを奪われたケアンズに向かって、水棲魔族の大規模な侵攻が開始された。水棲魔族はオーストラリア北東部を海岸線に沿って南下しており、およそ2週間ほどでケアンズに到達するであろうと予想された。
水棲魔族との戦いは数百年にも及び、その間、一度としてこのような大規模な襲撃を受けたことは無かったことから、この集団が何らかの意図を持って行動しているのは間違いなかった。
恐らくは、アズラエルの遺伝子を受け継いだ者の中から、頭の切れる個体が現れ、それが女王となってこの群れを指揮しているのだろう。その目的は未だはっきりとしなかったが、普通に考えれば、魔族の目的など他種族の捕食か蹂躙でしかないことは容易に想像がついた。
クリスマスの襲撃では、犠牲者は必ず頭を切り落とされて脳みそを抜かれていた。鳳が目撃したオアンネスも、脳みそを美味しそうに吸い上げていたことからして、恐らく奴らの狙いは人間の脳じゃないかと思われていた。アズラエルの子孫は知恵が回るだけではなく、水撃という魔法も使っていたから、第5粒子エネルギーを取り込むための脳の器官が必要なのだろう。
あの集団は、そのためにケアンズにあるオリジナルゴスペルが邪魔であると判断し、先んじてそれを奪ったわけである。
そういう集団が襲ってきたという情報は、広く一般にも公表された。これは人類滅亡の危機であり、ドミニオンだけで隠しておくわけにはいかなかったのだ。そしてアズラエルがやったことも包み隠さず公表され、彼女は人類全体からものすごいバッシングを浴びていた。反政府組織は彼女のことを人類の敵と言って憚らず、人類の天使からの独立を声高に叫んでいた。
こうなることが予想されているのに、どうして公表に踏み切ったのかと言えば、襲ってくるオアンネスの姿を見れば、隠し立てをするなど到底不可能だったからである。テレビカメラが映し出す水棲魔族の群れの中には、比較的半魚人型のオアンネスよりもアズラエルの姿をしたものの方が多く、彼女の遺伝子がニューギニアの水棲魔族を席巻していることは、もはや疑いようもなかった。
アズラエルの娘たちがシャーク湾から消えたのは、せいぜい数年前のことなのに、これだけ増殖してしまうのだから、魔族の進化スピードというものが、どれほど恐ろしいかが窺えるだろう。この世界の人類は、神が不在の状況で、こんな連中と戦い続けなければならないのである。だからもう、戦わずに逃げ出そうという意見が多数を占めるのは仕方ないことだったかも知れない。
人類政府は今回の事態に対して、完全に及び腰であり、公然とブリスベンからの避難を呼びかける議員さえいた。ブリスベンに限らず大陸中で反政府デモが頻発し、世論は戦いを放棄し避難へと傾いていた。
しかし、どこまで逃げれば安全と言えるのだろうか? 水棲魔族がブリスベンで止まってくれるとは限らない。仮にメルボルンに逃げたところで、いつか魔族がやってくるかも知れない。可能性があるとしたら、大陸中央部の砂漠地帯であるが、しかし水棲魔族が乾燥を嫌うように、人間だって砂漠では生きてはいけないだろう。
テレビでは、それでも多くの人々が砂漠に逃げている光景を映し出していた。アナウンサーが原稿を淡々と読み上げ、それをモニターの前で見ていたアリスが、嬉しそうに声を上げた。
「ご主人さま! 今この人、私の名前を呼びましたよ! このちっちゃい人には私が見えているんですか!?」
「アリス・スプリングスってのは街の名前だよ。あと、それは小人じゃないって何度言ったらわかるんだ」
「不思議です! とても不思議!!」
アリスは液晶テレビを舐め回すように見つめていた。まるで百合ドラマを見ている桔梗のようだが、別に彼女が変態性欲を持て余しているわけじゃない。鳳にしてみれば当たり前のことだが、アナザーヘブン世界の住人にとって、この世界の技術は魔法みたいなものなのだ。
彼女はこっちに来てから毎日、見るもの全てが珍しいらしく、まるで子供みたいにあれは何これは何と質問攻めされていた。正直、ちょっと大変だったが……おかしなことに巻き込んでしまった手前、不安になられるよりその無邪気な姿は救いだった。
アリスは思いの外早くこちらの世界に順応し、楽しそうにしていた。そんな彼女の姿を見て、微笑ましそうに笑みを浮かべながら、ミッシェルがふらりとやってきた。
「やあ、タイクーン。君の奥さんは今日も楽しそうだね。きっと彼女くらい毎日が輝いて見えたら、この世界の人々も救われるのだろうに」
彼はクリスマスの翌日、アズラエルと一緒にやって来たのだが、その後神域には帰らずこっちに留まっていた。理由は単純明快で、アズラエルのことを快く思わない連中から姿を隠すのに、彼の現代魔法が役に立つからである。
四大天使……というかミカエルは、彼に認識阻害や不可視を使うなと言っていたくせに、必要になったらこうして便利に利用するのであるから朝令暮改もいいところである。だが、逆に言えばそれだけミッシェルが彼らの信用を得たということだろう。
鳳がケアンズに来てから3ヶ月、その間、彼は神域に留まって四大天使と交流を続けていたのだ。それくらいの変化はあって然るべきである。寧ろ変化と言ったら鳳のほうが激しいくらいだろう。
「それにしても……こっちに来てみたら、いきなりアリス君がいてびっくりしたよ。ケーリュケイオンもまだ見つかっていないっていうのに、一体、どうやって呼び出したんだい?」
「いや、それが俺にもさっぱり。アリスが言うには、どうも神様に呼ばれたらしいんですけど……」
「神……神だって? それは君たちが倒そうとしてた、この世界の神のことかい?」
「さあ? アリスがあっちの世界で祈りを捧げていたら、急に神様の声が聞こえてきたらしくって……」
鳳が彼女がこの世界に辿り着いた経緯を話して聞かせると、ミッシェルは、
「ふむふむ……ははあ……なるほど……そうかあ……」
などといちいち相槌を打ち、わざとらしく何度も頷いてから、
「それは神様じゃなくって、僕の声だね」
「………………はい!?」
鳳は突然のミッシェルの言葉に面食らって、きっかり30秒くらい絶句してしまった。一体全体、どういうことかと問いただしてみれば、
「タイクーンと別れた後、僕は神域で暇でね。サムソン君もラファエル君と遊びにいっちゃって、話し相手もいなくって退屈してたところ、ガブリエル君が気を利かせてチェス盤を持ってきてくれたんだよ。それで二人で対局していたんだけど、何局か指した時、ただ指しているだけじゃ詰まらないから何か賭けようって話になって、それで僕が負けたら占ってあげようってことになったんだよ」
「はあ」
「それでガブリエル君から、失せ物探しをお願いされて、失われたゴスペルの行方を占ってみたんだよ。まあ、そんなので見つかれば苦労しないから? ただの余興のつもりだったんだけど……実際、殆どの物は行方がわからなかったんだけど、何故かアイギスのことを占った時だけは、ホロスコープが君のことを指し示していてね? もちろん、君がそんな物持ってないことはみんな知ってるし、こりゃ変だなあって話になってさ」
「はあ」
「どういうことだろうと思った時に、ふって思い出したんだよ。ほら、君がタイクーンって呼ばれるようになったのは、レオナルドの後を継いで世界中の迷宮を攻略するようになってからでしょう? それで思ったんだよね。あっちの世界のカウモーダキーがこっちの世界のジャガーノートとして存在するなら、こっちの世界のアイギスもあっちの世界で別の宝物として存在するんじゃないかって」
「ああ!」
「それで、君が収集した聖遺物の中にあるんじゃないかって思って、ちょっとそんな感じの物がないかいって、アリス君に聞いてみたんだよ」
「いやいやいやいや……」
これには流石の鳳もツッコミを入れざるを得なかった。
「ちょっと聞いてみるってあんた、こっちとあっちは次元も違えば全然別の世界でしょう? どうしてそんなことが気軽に出来ちゃうんですか」
「何度か言ったと思うけど、僕は実体を持たないアストラル体なんだよ。世界間の移動ならともかく、情報のやり取りだけだったらそう難しいことはないさ」
「難しくないって……あんた本当になんでもありですね。実際、俺は今なら、あなたが神だって言われても信じられますよ」
「はははは。冗談はよしてよ。僕が神なら、君は一体何者なんだい?」
ミッシェルは苦笑交じりに言った。
「僕は確かに別次元に居たアリス君に話しかけたけど、彼女のことを連れてきたのは君じゃないか。知ってると思うけど、エーテル体、アストラル体を引っ張ってきたところで、肉体がなければそれは定着しない。メアリー君は元の世界に戻され、サムソン君は魔族の肉体に間借りしているように。ところが君は複雑な遺伝子細工を無から完全に再現してしまった。これを神業と言わずしてなんて言うんだい」
「それは俺じゃなくって、アイギスの力だったんじゃないんですか?」
「ゴスペルにそんなことが出来ると思う? 例えば君のケーリュケイオンだったら。あれはかなり強力な道具だと思うけど」
「それは……そんな機能はありませんでしたね」
ケーリュケイオンは等価交換と複製の杖で、無いものを1から作り出すことは出来ない。出来ないから遺伝子を取り込んでおいて、こっちの世界で肉体を作ろうって話をしていたのだ。
「パンを生成した頃から、君の幻想具現化能力は知らずしらずの内に成長し続けていたんだろうね。案外、今、神に最も近いのは君なんじゃないか」
「そんなの笑い話にもなりませんよ……アリスのことは、ただの偶然です。実は最近ちょっと色々なことがあって、彼女のことをよく思い出していたもので……」
「ふーん。まあ、そういう事にしておこうか」
二人がそんな話をしていると、部屋のドアがトントンとノックされてウリエルが入ってきた。その背後には見慣れた巨大なゴリラ型の魔族と、小さな天使の姿が見える。
「おお! サムソン! 久しぶりー! 元気してたか?」
「うほうほ、うっほー!」
「そっちはラファエルじゃねえか。お前まで呼んだつもりはなかったんだけど……一体どうしたんだ? サムソンと別れるのがそんなに寂しかったのか?」
「バカ。でかい喧嘩するんだろ? 俺を呼ばなくってどうすんだよ」
仲間はずれにされたとでも思ったのだろうか、ラファエルはふんと不貞腐れた表情をしている。もちろんそんなつもりは無かったのだが、確か天使は魔族と直接戦うことは禁じられていたはずだ。ここに居るってことはミカエルも知っているのだろうけど、良いのかなと思っていると、ウリエルが、
「今回の大規模襲撃に関しては、我々四大天使としても流石に看過できませんでした。天啓はありませんでしたが、協議の結果、私とラファエル様とであなたのサポートをするよう仰せつかったのです」
「あの
「ええ。それで私は人類が敗れた場合、最後の盾になるという名目で、ドミニオンたちの補佐を務めさせていただきます。代わりにあなたにはラファエル様がご同行してくださいますので、それでお許しを……お役に立てずに申し訳ございません」
「いや、全然。そっちにはアズにゃんもいるから、しっかり守ってくれよ。わかってると思うけど、今回の作戦の要は彼女だから」
「はい。お任せください」
「ところで、そいつは? そいつも俺たちと一緒に行くのか? 役に立つんだろうな」
鳳とウリエルが話をしていると、ラファエルが彼の背後の方をチラチラ見ながら話しかけてきた。振り返ればいつの間にか、テレビにかじりついていたはずのアリスが、澄ました顔で鳳の後ろに控えていた。
もしもミーティアが一緒なら、あなたも奥様なのだからもうそんなことしなくていいとか言っている頃だろう。鳳はそんなことを思い出して懐かしくなりながら、また少し人見知りをしている天使に向かって彼女のことを紹介してやった。
「ああ、彼女はアリス。ちょっとした手違い……? があってさ、こっちに呼び出しちゃった俺の嫁だ。知ってると思うけど、彼女がアイギスの使い手で現所有者だ。役に立つ、立たないじゃなくて、彼女が居なければ今回の作戦は話にもならない」
「アリスです」
彼女がメイド服の裾を摘んでちょこんとお辞儀をすると、ラファエルはそっぽを向きながら「おう」と素っ気なく返事をかえした。興味無さそうなふりをしているが、チラチラこっちを気にしているのがモロバレである。相変わらず人見知りが激しいようだが、戦闘が始まるまでには慣れてくれるだろうか。鳳は気を取り直すように続けた。
「何しろ今回の相手は1千万、背後に控えるメラネシアの残存兵力も合わせれば1億という大軍勢だ。ミカエルに依頼された時点ではそれを知らなくて軽く考えていたけど、こいつらを全部駆逐するとなんてことはまず不可能だろう。だから作戦が必要なわけだが……こいつをドミニオンにやらせることは出来ないから、俺が直接やるっきゃない。そのための戦力になるなら、たとえ自分の大事な人でも一緒に戦ってもらうしかないんだよ」
鳳の言葉にアリスが力強くうなずく。ウリエルはそんな二人を見ながら、
「あなたの作戦については聞かせて頂きました。私にはよく分からなかったのですが……果たして、そう上手く行くのでしょうか」
「もしも上手くいかなかったら、その時は人類が滅亡するだけさ。あの大群を食い止めるには、ドミニオンでは明らかに戦力不足だ。オリジナル・ゴスペルが使えない今、普通にやったら人類にまず勝ち目はない。かと言って、逃げたところで後がないなら、やれることは何でもやってみるしかないだろう?」
鳳はそう言うと不敵な笑みを漏らし、
「なあに。きっと上手くいくさ。アズにゃんから聞いた話を総合すると、明らかに状況はその可能性を示しているんだ。条件はすべて揃っている。後は俺たちがそのスイッチを押してやれば、問題は芋づる式に解決するだろう……そしてその時、俺たちは人類の救世主になるのさ」
彼は強がりのつもりでそう言っては愉快そうに笑い声を上げた。しかし、その言葉を聞いた天使たちは相槌を打つくらいで、とても笑うことなど出来なかった。彼は何気なく言ったつもりだろうが、その言葉には深い意味が込められていたのだ。
3ヶ月前、天啓が訪れ、ガブリエルに告げた。西の海より救世主が来ると。その言葉が今、現実のものになろうとしていた。