鳳たちを追いかけていた数十体の巨大な海竜率いる群れが、ケアンズから戻ってきた別の水棲魔族の群れを前に、まるで波に飲まれる砂の城みたいにあっけなく飲み込まれて消えてしまった。
水棲魔族の女王レヴィアタンは、一体一体が強力な魔王であるのは間違いなかったが、どんなに強力であっても、やはり数の暴力には抗えなかった。
それを自分たちの下僕であると勘違いしていたボス集団は、まさかその下僕たちに襲いかかられるとは思いもよらず、無防備のまま初撃を食らって、体勢を立て直すことが出来ずに次々と命を落としていった。
それでも魔王らしく群がるインスマウスを蹴散らそうとする個体も居るには居たが、何しろ相手は総勢数百万を数える大軍勢であり、一度振り払ったところで、後から後から湧いてくる敵を前にやがて力尽き倒れていった。
押し寄せてくる水棲魔族を前に、ようやく自分たちの不利を悟って脱出しようとするオアンネスたちを、容赦なく第二波第三波が包み込んでいく。
海竜が吹き飛ばしたインスマウスの血と、そのインスマウスが噛み付く海竜の血とで、辺り一面は真っ赤に染まり、それが朝日を受けて輝き、白と黒のコントラストを描いた。悲鳴を上げる幼子のようなオアンネスの声が戦場に轟き、阿鼻叫喚の地獄絵図とは正にこのことだった。
その、オアンネスの原型となったであろうアズラエルは、そんな光景を上空から冷徹な瞳で見下ろしていた。手にはオリジナルゴスペル・ジャガーノートを持ち、時折、逃げ出そうとする海竜やオアンネスを見つけては、それを追いかけるように杖を振るって群れに指示を続けている。
すると群れはまるで最初からそうするのが当たり前であったかのように、彼女の意思を即座に受け取り、手足のごとく自在に動き回った。因みに、杖を持っていることに意味は無く、なんとなくそうした方がテレビ映えするからという鳳の発案だった。
そう……アズラエルが、この総勢1千万にも迫る水棲魔族の群れを支配していることを、全人類はテレビを通じて知っていた。彼女は、ケアンズを襲撃してきた魔族の大軍勢を、そっくりそのまま乗っ取ってしまったのだ。
その、アズラエルの眷属と化した群れの中から、5つの影が空へと上がってきた。ラファエルの翼によって鳳たちが運ばれてくると、アズラエルは杖を振ってうまくバランスを取りながら、彼らの元へと近づいていった。
「よう! 上手くいったな!」
鳳が手を挙げて笑顔を向ける。アズラエルはそんな彼の手をパチンと叩くと、
「ああ、面白いように上手くいった。最初、君に作戦を聞かされた時はここまで上手くいくとは思わなかったが」
「こいつら、もうアズにゃんの言うことなら何でも聞くの?」
「口に出して言わずとも、考えるだけでフィードバックが返ってくる。正直、人間と同等のはずの種族が、このような行動を取るとは思いもよらなかった」
「まあ、
「いや大したものだ。私も生物学者の端くれのつもりだったが、対魔族という点では、知識でも経験でも、君の右に出るものはいないな」
「おい、二人だけで称え合ってんな。それで結局、どうしてこいつらはアズラエルの言うことを聞くようになったんだよ?」
二人が会話を交わしていると、焦れったそうにラファエルが尋ねてきた。それについてなら何度も説明してきたつもりなのだが、彼は実際にその現象を目の当たりにするまで、鳳の話が全く耳に入らなかったのだろう。
習うより慣れろというか、脳筋と言うか、たまにそういう奴いるよな……と苦笑しつつ、
「動物ってのは、個体でいる時と、群れでいる時とで全然違う行動を取ることがあるよな? 例えばバッタは普段は他のバッタを避けるくせに、いざ食糧不足に陥ると集団を形成してまるで別の生き物のように振る舞い始める。蟻や蜂は、巣のためにせっせと餌を獲ってくる。ペンギンは出産のために群れを作って、両親が餌を取りに行ってる間は、まったく赤の他人が赤ちゃんペンギンの面倒を見る。草食動物は大体みんな群れで行動していて、その中にいるボスにみんなついていく。こいつらみんな、本当は別のところに行きたいと思っていても、群れから離れるようなことはまずしない。
そんな具合に、動物ってのは個体でいる時は自由に振る舞っているのに、いざ群れに取り込まれると自分の意思に反するような行動を取り始めることがある。親からそう教えられるわけではなく、本能がそう命じるからだ。
魔族も同じように、個体でいる時は、男を殺し女を犯すといったような、利己的な行動しかしないんだけど、群れを形成すると、どうも本来の習性とは全然違う、利他的な行動を取っていることがあるんだ。例えば、オークはまるで自由意志がなくなったかのように、キングの言う通りにしか行動しなくなるし、水棲魔族は女王のために、自分が手に入れた餌を巣に持ち帰ったりしている。
魔族であっても動物というものは群れから逸脱するような行動はしない。となると、その習性をうまく利用すれば、魔族の行動を限定したり誘導したりすることが出来るんじゃないか? 特に水棲魔族は蟻や蜂なんかの社会性動物みたいに、群れで行動するのが当たり前の種族だ。
それを踏まえて、改めて水棲魔族……レヴィアタン勢力ってものを観察してみたら、そこにはとても強い制約があることに気がついたんだ」
「強い制約……? それってどんなんだ?」
「ああ、それにはまず、社会性動物ってのがどんな連中かって話をしなきゃなんだけど……」
例えば、蟻という昆虫は、一つの巣の中に一匹の女王がいて、その女王が産んだ卵から孵ったメスが働きアリになって、巣を拡張したり、卵の世話をしたり、女王や生まれてきたばかりの幼虫のために餌を取ってきてやったりしている。
働きアリの一生は、大体若いうちは主に巣の中で卵の世話をするような簡単な仕事に従事しているが、年を取って死が近づくに連れて、外に出て餌を取ってきたりと言うような、より危険な仕事を行うようになっていく。
そして最期は過労死するか、不慮の事故で死ぬという、本当に徹頭徹尾、一生を巣のために尽くす生き物なのだが……
最初に断った通り、働きアリの正体は女王が産んだ卵から孵ったメスである。実はゲノム的には女王アリと働きアリは何も変わらず、オスと交尾をすればちゃんと卵を産むことだって出来る。実際、何らかの事故で女王が死んだ場合、働きアリの中から次の女王が生まれてくる。
働きアリはその気になれば、みんな自分の子供を産むことが出来るのに、そうはせず奴隷のように死ぬまで巣のために働き続けているのだ。生物の目的が自分の子孫を残すことだとすれば、これはおかしなことだろう。
こういった生物がいることから、昔は、実は全ての生物は自分の子孫を増やすためではなく、種族を維持繁栄させるために行動しているのではないかと考えられていた。生物が子供を産むのは、種の繁栄という大きな目的の一環というわけだ。
ペンギンが集団で子育てをするのは、まさにその象徴であり、草食動物が群れを作るのは、集団で肉食獣に立ち向かうためだと考えられてきた。そして人間の戦争美談には、お国のために死んでいった人の話などいくらでも見つかるだろう。
生命は最初は自己増殖目的で増えていたのかも知れないが、長い年月の間に、種の存続を維持するよう進化していったのだ。だから人間のように、より利他的な行動を取ることが出来る種が繁栄したのは必然だった……そう考えられてきたのだ。
ところが、近年になって遺伝物質であるDNAが発見されると、こういった定説を覆す画期的な仮説が唱えられるようになった。それによると、自己犠牲の塊のような働きアリも、実は自分の遺伝子を残すために行動していたと考えられるのだ。
「血縁淘汰説ってのがあって、実はすべての生物は種の存続なんてどうでも良くて、単に自分の血縁を増やすように行動しているだけだって考えた方が、色々辻褄が合うんだよ。要は、俺たちは自分のDNAを出来るだけ多く遺そうと行動しているだけだって考え方なんだけど……
例えば、人間は両親から半分ずつの遺伝子を受け継いで生まれてくる。具体的には、人間は46個ある染色体の内、半分の23個を父親から、残り半分を母親から受け継いでいる。
すると父親から見れば、息子は自分と共通する遺伝子を半分持っている血縁者であり、息子から見ても、父親は自分の半分の血縁者ということになる。じゃあ、兄弟姉妹、例えば兄はどうだろうか?
兄も両親から半分ずつ遺伝子を受け継いでいるわけだけど、父親由来の23個の染色体のうち弟と被ってるのはどのくらいあるだろうか? 単純に考えて、半分の半分である1/4が被っていると考えられる。
奇数だから割り切れないのはちょっと置いておいて……母親との被りも1/4あるから、それを足し合わせると、結局、兄弟姉妹も両親から受け継いだ遺伝子を半分ずつ持っている血縁者だと考えられる。
こうして見ると、自分からすれば両親も兄弟姉妹も、同じ共通の遺伝子を半分ずつ分け合った血縁者なわけだ」
この血縁の濃さが基準となって、我々は利他的な行動に駆り立てられているらしい。我々は、出来るだけ自分と共通する遺伝子を長生きさせようと優先順位を付けているのだ。
現実に照らし合わせてみればわかるが、例えば空腹の両親と赤の他人が目の前にいたとして、あなたがどちらに食べ物を分けてやるかは言うまでもないだろう。それが両親と兄弟姉妹だと、どちらを優先するかは割と判断に迷うが、年の若い弟や妹に分け与えようとする人は多いのではなかろうか。年が若いほうが長生きする可能性が高いからだ。
祖父母や甥っ子姪っ子も血縁が近いから、我々は普段何かと便宜を図っているが、彼らが本当に困った時は、彼らの血縁により近い両親や兄弟姉妹になんとかしてやれと言うのではないか。
だが、相手が孫だとどうだろうか? 世のおじいちゃんおばあちゃんが孫に甘いことはよく知られている。血縁で考えると自分のことよりも1/4血縁者の方を優先するのはちょっとおかしく思える……
だが実際に孫が生まれたと仮定して、その時自分は相当高齢になっているはずだ。すると、あと何年生きられるか分からない自分より、孫を優先したほうが、例えそれが1/4血縁者だとしても、自分の遺伝子が後世に残る可能性は高くなると言えるだろう。
同じように、独身で今後子供を持てる見込みがない人は、きっと甥っ子や姪っ子のことが気になるはずだ。そういう人が自分に死亡保険金をかけるとして、受取人を誰にするかに悩んだら、若いうちは両親や兄弟姉妹にする可能性が高いだろうが、年を取るにつれて甥や姪に変わっていくのではないか。
血縁淘汰説ではこのように、どうしたら自分と共通する遺伝子をたくさん残せるかで、その生物の行動が決まっていると考えるわけだ。
「でだ。働きアリがどうして奴隷働きを一生続けるのかって言うと、この共通する遺伝子を遺そうとする傾向が鍵になっているんだよ。
アリとかハチとかいう社会性生物は、半倍数性といって、オスとメスとで染色体の数に違いがある。実は女王アリが卵を生む際、無精卵からはオスが生まれ、受精卵からはメスが生まれるというルールが存在するんだ。
ところで女王アリも他の動物と同様に、自分の卵子には減数分裂した半数の染色体を入れるわけだけど、無精卵には父親由来の染色体は存在しないから、生まれてくる雄アリはメスと比べて半分の染色体しか持っていないことになる。つまりアリのオスの遺伝子は、母親の減数分裂した生殖細胞そのものと言えるわけだ。
女王アリは生涯に一度だけ交尾して、オスから受け取った精子を胎内にストックし、以降はそれを使って産卵を続ける。すると人間の時は同じ血縁の濃さだった兄弟姉妹の関係に大きな違いが出てくる。
まず女王アリから見れば、自分の卵から生まれてくるオスとメスとに違いはない。双方ともに自分の減数分裂した半分の遺伝子を持って生まれた、1/2血縁者だ。オスから見た母親も、メスから見た母親も、同じく共通する染色体数は1/2ずつだ。ところが、メスから見た兄弟姉妹関係というのはかなり違ってくるんだ。
アリのオスもメスも、同じ女王アリの卵子から生まれるから、母親由来の染色体数は1/2ずつで変わらない。だが、オスは無精卵から生まれるわけだから、そもそも父親由来の染色体は持っておらず、逆にメスの方は常に同じ精子から生まれるから、父親由来の染色体は全員が共通して持っていることになる。
そのせいでアリのメス……つまり働きアリ同士は、共通する遺伝子を3/4ずつ持って生まれた、親よりもずっと濃い血縁関係が生じているわけだ。
さて、この働きアリが何か思うところがあって女王アリになろうと考えたとする。このまま一生を奴隷のように働いて生涯を終えるよりも、女王になって娘たちに尽くしてもらった方がよっぽどいいじゃないか……
だが、彼女はこうも考えるはずだ。もしも自分が女王になっても生まれてくる子供の血縁は1/2。ところが、巣に尽くして今の女王にもっと卵を産んで貰えば、自分と共通する遺伝子を3/4も持った妹がどんどん生まれてくる。そっちの方が素敵じゃないか!
こうして働きアリは、本当なら生殖機能を持ってて子供を産めるはずなのに、一生独身のまま巣に尽くし、奴隷のように働いて死んでいくわけだ。これが血縁淘汰という考え方なんだけど……」
鳳の長い説明が終わった時には、ラファエルはもう興味の対象が変わっていて、明後日の方向を見て何やらやっていた。結局、こうなるんじゃないかと彼が不貞腐れていると、空気を読んでミッシェルが苦笑気味に尋ねてくる。
「それで、その血縁淘汰とレヴィアタンがどう関係するわけ?」
「ええ、実はレヴィアタン……つまり水棲魔族もこれと同様、半倍数性の生殖システムを採用した生物なんです。恐らく、他の魔族に対抗しようとして、より強い群れを構築するように進化したんでしょうね。それが上手くいって、レヴィアタンはインドネシアからメラネシアにかけた赤道直下の海を独占する巨大勢力にのし上がった」
「ふーん……なるほどね。その血縁淘汰に従って、オアンネスが群れを大きくしようと協力し合うから、水棲魔族はあれだけ数を増やせたってわけか」
「ええ、確かに最初はそうだったんですよ」
「最初は……? なんか、含みのある言い方だね」
ミッシェルは怪訝そうに首を傾げている。鳳は襲われている巨大な海竜を指差しながら言った。
「魔族は用不用説に従って進化する生き物で、その目的はひたすら自分を強くすることです。そしてレヴィアタンは群れを形勢し、種として強くなったわけですが……魔族の本能は自分を強くすることにあるから、女王は群れが安定しだすと自分がより強くなることを求めて、他種族を襲い、その形質を奪います……
そしてその獲得形質を子孫に伝えるため、レヴィアタンは胎内に新たな生殖細胞を取り入れてしまう。つまり、期せずして乱婚状態になっちゃうんですね。すると、群れを形成した当初は共通していたオアンネスの父親由来の遺伝子が、女王が強くなるにつれて変わっていってしまい、結果、オアンネス同士の遺伝子の共通性が損なわれてしまう。
最終的には、その血縁関係は親も兄弟姉妹も変わらなくなり、すると彼女らは群れに尽くすよりも、自分で子供を産みたい衝動に駆られはじめる。しかし、群れから離れて出産をするのはリスクが高く、結局、自分が産むのも女王が産むのも変わりはないからと、消極的な理由で彼女らは群れに残ることになる。
そういう葛藤が、あの連中には常に存在しているんですよ。
だから、一度女王が衰えを見せると裏切りが発生し、オアンネスの中から群れを乗っ取ろうとする連中が出てくるんです。彼女らは首尾よく母親を群れから追い出せたら、今度は自分たちが女王となって子供を産み始める……要は普通の動物みたいにボスが代替わりするわけですが、彼女らは遺伝子の多くが共通しているから、誰が次代の女王になるのかが曖昧になりやすく、みんな一斉に俺が俺が方式で女王になってしまって、結果的にさっきみたいに増えてしまうんですよ」
「ははあ……それで、最初十体程度だった女王が、何十体にも増えてしまったんだね? あれは僕たちを倒すために変身したわけじゃなくて」
「そうです。みんなが元々女王になりたがっているから、不慮の事故が起きるとああいうことが起こりやすいわけです。ですが、それで女王になれる個体は良いでしょうけど、群れを構成する他の連中は堪ったもんじゃないですよ。いきなり自分の母親が死んで、姉妹がその後を継ぐと言い出すわけですけど、それが何人も居たら誰に付いていけばいいのか……
かと言って群れから離れるのはリスクが高いから、誰かに付いていこうとするわけですが、そんなお家騒動が起きている時に、もしも自分たち全員の遺伝子を持つ共通祖先が……つまりアズラエルが現れたら?
見れば分かる通り、あの連中はみんな彼女を始祖としているんです。そんな彼女が強力な魔法を使い、これから人類を蹂躙するから付いてこいと命令したら? こっちの強力な魔王に付いていこうと考えるんじゃないでしょうか。
おまけに今後もし彼女が子供を産んだら、それは間違いなく群れに共通する遺伝子を持っているんですよ。それは何度も代替わりした今の女王よりも、よっぽど魅力的じゃないですか。
まあ、彼女にそんな気はさらさらないんですけどね」
だがそんなことは、彼女に付いていこうとする水棲魔族たちには関係ないことだった。知恵のある人間に比べれば、野生動物なんてものはどれもこれも血縁関係は曖昧なはずだ。自分は誰と誰の子供なのか。誰が甥で誰が叔母か。兄弟と何歳違うのか。そんなことを考えて生きている野生動物はまずいないだろう。
ところが、そんな野生動物を観察してみると、どうも血縁というルールに従って行動しているように見える。
考えてもみれば、蟻なんてみんな卵から生まれてくるわけだから、両親だの姉妹だのと意識できるわけがないではないか。それなのに、彼女らが巣に尽くし奴隷のように働くのは、遺伝子がそう命じるからだ。そう考えねば理解できない行為が、自然界では散見される。
アズラエルはそんな神のルールを逆手に取って、レヴィアタン勢力を乗っ取り、そして真の魔王となったのである。
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その頃……ケアンズから遠く離れた北方の海を、一体の手負いのオアンネスが飛ぶように泳いでいた。
彼女は今にも千切れそうな自分の腕を抱えながら、必死にドルフィンキックを駆使し、信じられない速度で海の中を突き進んでいる。その瞳は復讐に燃え、ギラギラとした光を放っていた。
「おのれおのれ……人間どもめ! この恨み晴らさでおくべきか!」
死物狂いで泳ぎ続けた彼女は、安心できるくらい遠くまで逃げ延びると、ようやく進むことをやめて体を休めるため岸へ上がった。砂浜に上がった彼女の体からは、夏だと言うのに湯気が立ち上っており、どれだけのエネルギーを消費したかが窺えた。
ハアハアと息を整えながら砂浜に寝転がった彼女は、もはや役に立たない腕を乱暴に引きちぎると、苦痛の叫びをあげて泣きながらそれを口に運んだ。ガツガツと咀嚼音が朝焼けの静かな海辺に響き渡っている。
すると次の瞬間、そんな惨めな彼女の体が光を放ち始めたかと思えば、突然、彼女の体が風船みたいにブクブクと膨れ上がり、背中からまるでヘビ花火のように後から後から細胞が湧き出してきた。にょきにょきと彼女の体は細長く伸びていき、そしてそれが終わった時、そこには一体の大きな海竜が横たわっていた。
のそのそと起き上がったレヴィアタンは、体をくねらせながら波打ち際まで進んでいくと、そこでグルグルとぐろを巻いて寝そべった。海水が、脱皮したばかりの鱗を冷やしてくれて心地よかった。
彼女はいつでも変身が出来た。なのに、ここまでオアンネスの体で逃げてきたのは、あの忌々しい人間どもに見つからないためだったが、もうその必要はないだろう。大きな海竜に変身した彼女にはもう痛みはなく、体は綺麗に再生していた。
人心地ついたレヴィアタンはホッと息を吐くと、さっき自分たちの群れに起きた理不尽な出来事を思い出し、歯噛みした。
人間たちを駆逐するため、大兵力を率いて大陸に渡ってきたはずが、まさかその大兵力を逆用されるとは思いもよらなかった。完全に不意打ちを受けた彼女は群れを失い、今はたった一人になってしまったが……だが、水棲魔族の長所は、いくら倒されても新たな女王が誕生することにある。彼女は、まだ人類を駆逐することを諦めてはいなかった。
ニューギニアに帰れば、まだ旧世代の水棲魔族がたくさん残っているはずだ。そいつらを支配し、食らい、力を蓄えれば、また自分の子供を増やすことが出来るだろう。ついさっきまで自分のものだった群れが、始祖であるアズラエルの言うことを聞いてしまったことは誤算であったが、逆に言えば、あいつさえ倒してしまえば群れはまた自分の言いなりになるはずだ。
そうしたら、レヴィアタンが脆弱な人間どもに負けるはずがない。盤石の体制を整えて、今度こそ人類を蹂躙し、オーストラリア大陸を手に入れるのだ。そう……レヴィアタンにはそうしなければならない理由があった。何故なら、今、彼女らの本拠地であるニューギニアには……
ズシン……!
レヴィアタンがそんなことを考えている時だった。突如、彼女の横たわる海岸線を地震が襲い、彼女の体をグラグラと揺らした。波打ち際の水がチャプチャプと暴れだし、おかしな波形を描いている。
「ひぃっ!」
彼女は小さく悲鳴を上げた。その音を聞いた瞬間、彼女は恐怖に怯え、そこから一歩も動けなくなった。津波が起こるような大きな揺れではないから逃げる必要も無いだろう。いや、そもそも水棲魔族の彼女が地震を怖がるのはおかしな話だ。そう彼女は地震が怖かったのではない。そもそもそれは地震ですら無かった。
ズシン……! ズシン……! ズシン……!
揺れは断続的に何度も続いている。それは地震ではなく、巨大な足音だった。今、レヴィアタンの背後に巨大な何かが近づいていた。それは山のように大きく、そしてカバのようなシルエットをした何かだった。