枯井戸の中の隠し通路は地下まで続いており、何一つ光源のない状況では一寸先すら見えなかった。鳳たちはそんな真っ暗闇の中をジェンカを踊るように、前の人の肩を掴みながら進んでいた。
あちこちからぴちゃんぴちゃんと地下水が滴る音が鳴り響き、時折頭上や首筋などに水滴が落ちる度に、心臓が飛び出るんじゃないかと思うくらいに驚いた。足元はぬかるんでいて気を抜いたら転んでしまいそうだった。思った以上に緊張しているのだろうか、息苦しく感じるのは、ここが狭い地下通路であるせいだけじゃなさそうだ。
足元すら覚束ない鳳は、一歩進むにも相当勇気を持って足を踏み出さなければならなかったが、そんな状況にも関わらず先頭を進む
もしかして魔法でも使ってるんじゃないかと疑っていたら、
「人間は目に見える情報に頼りやすいが、外部からの情報はただ視覚からのみ得ているわけではあるまい。例えばコウモリは自分の発した超音波によって空間把握をしている。目の見えぬ人物なら、暗闇を歩くことなど造作もない。人間もコウモリも同じように、神経を研ぎ澄ませれば、音だけで空間把握することは可能なわけじゃ」
「へえ、それじゃ爺さんは音だけで周囲の状況を確認していたのか。すげえな」
「音だけではないぞ。重力や肌に触れる風や、匂いなんかもそうじゃな。人間はその記憶を映像として脳に刻み込んでいる……と勘違いしておる。故に視覚情報に頼り切り、目に映るものが全てだと思いこんでいるものじゃが、実際には自然からより多くの情報を受けているものじゃ。その全てをありのまま受け入れれば、己の空間座標がポンと心の中に浮かび上がるように、自然と自分の立脚する、足場というものが固まってくるものじゃ。さすればもう迷うことなどない」
なんじゃそりゃ、精神論か……?
「よくわからないけど……とにかく魔法じゃないんだな?」
「それはどうかのう。ある意味これこそが魔法と呼べるのかも知れぬぞ。例えばお主は160キロを超える豪速球を、針の穴を通すようなコントロールで投げられるか? 見ているものが今にも動き出しそうだと勘違いするほど、精巧な絵画を描く事が出来るか? 聞いただけで涙が溢れてくるような、そんな歌を作ることが出来るか? そしてそれらは、訓練だけで実現可能だと、本気でそう信じられるか?」
「いや、そう言われると……全然自信ないけど」
「儂ら人間は、割としょっちゅう奇跡を目撃しておるものじゃ。しかし、誰もそれが魔法だと思わない。何故か? 実は奴らは魔法使いかも知れんぞ。しかし、そう言ったら皆は笑うじゃろう。それはあり得ないと。彼らは努力したからあれが出来るようになったのであって、努力すれば大抵のことは出来るものだと……たった今、それを否定したばかりなのにのう」
言われてみれば確かに。やってみなければわからないというのは優等生の答えだろうが、実際問題どんなに頑張っても、多分、鳳に160キロの豪速球は投げられないだろう。大人になってしまった今更だから投げられないんじゃなくて、きっと生まれたときからプロ野球選手になろうと努力していたとしても、投げられなかったんじゃなかろうか……
だが、現実に160キロを投げる投手は存在するし、誰一人としてそれを魔法と呼ぶものはいない。しかし今、唐突に、鳳が160キロの球を投げたら、それは魔法と呼ばれるだろう。この差はなんだ。
不可能を可能にしたものだけが魔法と呼ばれるなら、じゃあ現実の160キロ投手は、不可能を可能にしたとは言えないのだろうか。
「魔法とは存外そんなものかも知れぬ。人間は常識という枷に自分をはめ込もうとするが、魔法とはその埒外にあるものじゃ。それは決して手に入れることが出来ないように思えるが、現実にはそれに触れている者はいくらでもおる。自然をありのまま受け入れよ。目で見えることが全てと思うな。目が見えぬ者が耳を研ぎ澄ますように、可能性は既に、手が届く範囲に転がっているのかも知れぬぞ」
「なんか禅問答みたいなことを言う爺さんだな……」
鳳が更に話を続けようとしていると、すぐ後ろを歩いていたギヨームが彼の肩を叩きながら、
「おしゃべりはそこまでだ、そろそろ、城の地下に到達したみたいだぞ」
その言葉にハッとなって目を凝らしてみると、進行方向の先がほんの少し見えるような気がした。恐らく、出口から漏れる城の灯りのせいだろう。鳳は口をつぐむと、黙って老人の後に続いた。
やがて出口が近づいてくると、鳳にもはっきりと地面が見えるようになった。四角く縁取りされた隠し扉の向こう側から、城の光が漏れ出していた。到着するや、一番うしろを歩いていたギヨームが先頭に躍り出て、壁に耳を当てたり手で触ったりして、慎重に扉周辺を調べ始める。恐らく、罠がないか調べているのだろう。
やがて満足したギヨームが壁をトントンと叩くと、四角く縁取られていた扉がくるりと回転して、向こう側の景色が飛び込んできた。
そこは城の内部、謁見の間や鳳たちがいた居住区などがある西館の地下だった。どうやら武器庫になっているらしく、火薬と埃の入り混じったツンとした空気が鼻を突いた。しかし今は、戦争のせいで部屋の中の武器は軒並み運び出された後らしく、殺風景な空間が広がっていた。
鳳たちはそんな武器庫の端っこの、こんなの誰が着るんだ? ……と言いたくなるような、分厚い鉄板のプレートメイルが飾ってある裏側に出た。多分、使いみちがないから、隠し扉のカモフラージュとしてふさわしかったのだろう。
そんなことを考えながら、先に出ていたジャンヌに引っ張られるようにして武器庫の中に這い出ると、先行偵察で既に部屋の出入り口辺りまで行っていたギヨームが人差し指を立てて、静かにしろというジェスチャーを見せた。すると部屋の外から、
コツ……コツ……
っと、誰かの足音が聞こえてきた。恐らく、見回りの兵士だろう。現在、この城は厳戒体制中である。見つかったら大騒ぎになるからと、鳳は息を止めてその足音が遠ざかるのを待ったが……その時、
ぴゅいぴゅいぴゅい……ぴゅーい……
っと、突然、大君が口笛を吹き始めた。呆気にとられた鳳がびっくりして、
「お、おい! 爺さ……」
老人を止めようとした瞬間、血相を変えたギヨームが飛びかかってきて彼の口を塞ぎ、ついでにすぐ隣にいたジャンヌに羽交い締めにされた。どうしてこっちを止めるんだと、モガモガと言葉にならない抗議をしていると、コツコツという足音はどんどんこの部屋に近づいてくる。そして、
バタンッ!!
と、音が鳴って、部屋の扉が開かれた。揃いの鎧を来た衛兵が二人、扉を開けて中に入ってくる。それでも老人はその場に立ち尽くし、ぴゅいぴゅいと口笛を吹いていた。扉を開けて、いきなりそんなのが立っていたら、すぐに見咎められるはずだ。
ところが、兵士たちは部屋の中に入ってくると、口笛を吹く老人の横を素通りして、部屋の奥までキョロキョロしながら進んでいき……途中、羽交い締めされている鳳のことも、確実にその視界に捕らえていたというのに、結局、彼らのことを全く無視して、そのまま部屋から出ていってしまった。
パタリと音がしてドアが閉じる。瞬間、羽交い締めにしていたジャンヌの腕が弱まり、鳳はハアハアと止めていた息を吸い込んだ。
「どういうこっちゃ? どうして、あいつら、俺たちに気づかなかったんだ? まるで何も見えなかったかのように……」
「実際、何も見えなかったのよ。今のは
「今のが!? 訓練所で習ったのと全然違うぞ? もっとこう、あーあーあーって発声練習とかしたんだけど……」
すると口笛を吹いていた大君が愉快そうに笑い、
「楽器を使う者もおれば、歌を歌うのもいる。つまるところ、魔法が発動すればいいのじゃ。実際の現代魔法に型はない。そんなことをしておったら、戦闘では使えんからのう」
「そ、そうだったのか……」
「方法は千差万別、自分のやり方は自分で見つけるしかないのう。まあ、切っ掛けくらいは与えてやれるから、訓練所ではそういうやり方をしておるのじゃろう」
彼はそう言うと、まるで自分の家にいるかのように、自由に城を歩き始めた。
先頭を行く老人の後を歩いていれば、すれ違う城の衛兵たちがまるで何も無かったかのように素通りしていく。中には勘のいいのもいて、一瞬だけこちらの方をじっと見つめるような素振りを見せるのもいたが、すぐに思い直したように首を振るとどこかへ行ってしまった。察するに、どうやら見えていないわけではなく、文字通り認識が阻害されているようである。
例えば人間は雑踏の中を歩いている時、そこにどんな人物がいるとか、何人いたとか、まるで気にならないものである。そこにいるのが当たり前と思えば意識してそれを見ることはない。記憶に残らなければ、いてもいなくても同じことだ。
ただし、この魔法は一人ひとりにしか効果がなく、
「一度に大勢はかけられんから、そういう時はこうするんじゃ」
城の中央の大広間までやってくると、大君は持っていた杖の石突きをコツンと地面に当てた。すると水面に波紋が広がっていくかのように、空気の断層みたいな透明の線が、大広間全体に広がっていった。そして一瞬だけ重苦しい空気が辺りに充満したかと思うと、突然、広場に居た全ての人々がピタリと行動を止めて動かなくなった。まるで時間が止まってしまったかのようである。
「ほれ、急げ、長くはもたんぞ」
彼の言葉に従って四人は大広場を突っ切り、鏡の間まで駆け込んだ。次の瞬間、暗闇でフッとロウソクに息を吹きかけるように一瞬だけ目の前が真っ暗になったかと思うと、背後からまた喧騒が聞こえてきて、場面が切り替わるように何事もなく周囲の時間が動き出した。
「人間の思考とは突き詰めれば電子の流れじゃから、それをせき止めてしまえばこの通りじゃ。奴らは自分達の時間が一瞬止まっていたことに気づけぬ。スタンクラウドという
「そんなこと出来るのは爺さんだけだよ」
ギヨームが呆れるような表情でぼやいた。この老人、只者ではないとは思っていたが、これまでの奇跡の数々に鳳は舌を巻いた。もしかして、自分達などいなくても、この老人なら一人でメアリーのところまで行けたのではないか?
「もし足手まといなら、言ってくれれば外で待っていたのに」
鳳がため息交じりにそう言うと、
「儂ではあの子のいる空間にはいけないと言ったじゃろう。もし、城主の目を盗んであそこまでたどり着けるとしたらお主だけじゃ」
「あ、そうか」
「道案内は任せたぞ。ここから先、どっちへ行けば良いのか?」
「それなら、こっちだ」
鳳はそう言うと、みんなを導くように先を急いだ。行き先は鳳たちが最初にこの世界にやってきた地下室……ではなく、その先にある牢屋である。以前、鳳は無人の城の中で光にあそこへと誘われた。だから考えられるのはそこしかないと思ってのことだったが……
鏡の間を抜け、兵士たちの詰め所を通り過ぎ地下へ降りると、それまで行き交う人々でバタバタしていた城内が一気に静かになった。この区画はやはり犯罪者などを収容する施設なのだろうか、今の状況では用がないため、誰も近づかないようである。きっと牢屋に入っていた者も、恩赦で外へ逃れたのだろう。
鳳は記憶を頼りに、そんな無人の牢屋の一つの前までやってくると、
「確かここだ。この奥の壁が、隠し通路になっていたんだ」
そう言って指差すと、早速とばかりにギヨームが中に入っていって壁をペタペタと触り始めた。最初は慎重だった手付きが、段々と雑になってくる。
「おい、本当にここか? 何もないみたいだが」
「え? そんなはずは……もしかして、間違えたのかも。見た目はみんな同じだし、他の牢も探してみよう」
「いや、恐らくここで間違いないじゃろう。精霊もそう言っておる」
鳳が別の牢を見に行こうとすると、大君がそう言って止めた。案内した本人が自信が無いと言っているのに、どうしてそう言い切れるのだろうか。精霊が言っているとはどういう意味なのかと尋ねると、
「感覚の問題じゃ。ここに霊的な痕跡がある。魔術の残滓と言っても良い。何かあるのは間違いないのう」
「しかし爺さん、俺には何も見つけられなかったぜ?」
ギヨームが非難がましくそう言うと、大君は分かってると言わんばかりに頷きながら、
「それは物理的な方法で閉じられておるのではないからじゃろう。きっと、ここを抜けるには鍵のようなものが必要なんじゃ。お主、何か心当たりはないかの?」
「鍵……あ、もしかして」
あの折り鶴ではないだろうか……鳳がそう思った瞬間だった。
バサバサ……っと、音がして、見れば彼の足元に数枚の千代紙が落ちていた。あの謎空間で目覚めた時に手にしていた折り紙で、ギヨームと魔法について話していた時も一度出したことがあった。あれからどうやっても出すことが出来なかったそれが、今、何枚も地面に転がっている。
唖然とする鳳の横から、ひょいっと大君が屈んで地面に落ちたそれを一枚拾い上げた。彼はためつすがめつそれを眺めてから……
「ふむ……これはお主が造り出したのか。物質としてかなり安定しておるな……これを虚空から生み出すとは、儂などよりお主のほうがよっぽど化け物ではないか」
「そんなこと言われても……それって凄いのか?」
すると老人はその自覚も無かったのかと言いたげな非難がましい目つきで、
「この世の物質は全て、突き詰めればエネルギーの塊じゃ。これは1グラムにも満たない紙きれとは言え、生成するためのエネルギーは莫大じゃ。それをお主は一体どこから出してきたと言うのかのう」
「いや、そんなこと言ったらギヨームの方が凄いじゃないか。あいつはピストルを作り出すぞ」
「しかし用が済んだら消えるじゃろう。お主のこれは消えん」
言われてみれば確かに。痩せても枯れても現代人、鳳はなんだか自分がとんでもないことをしでかしているような気がしてきた。彼は落ちていた別の紙を拾い上げると、どうして消えないのだろうかと冷や汗を垂らした。
いきなり爆発したりしないだろうな? そんなことを考えているとギヨームが、
「なあ、俺には何が凄いかさっぱりだが、そろそろ先に進まねえか? ここも城の中には代わりねえ、いつまでもゆっくりはしてらんないぜ」
「そうじゃった……どれ、この紙を壁に当てればよいのか?」
大君はそう言って紙をペタペタと壁に擦りつける。
「そうじゃない。これはこうして……」
鳳が地面にしゃがんで折り鶴を折って見せると、それを上から見ていた大君が珍しいものを見たと愉快そうに笑いながら言った。
「それは紙を折って動物を形作っておるのか」
「ああ、これは鶴だよ。見たことある?」
「ある……しかし、日本人とは本当に面白いことを考えるのう。利休や北斎のような稀有な人材が時折現れ、驚かしてくれる」
「へえ、爺さん、千利休なんて知ってるの?」
「知っている。会ったこともあるぞ」
何を言ってるんだこの爺さんは……もしかしてボケちゃったのか? と鳳は思ったが、考えても見ればおかしな話である。利休も北斎も、鳳たちがいた世界の歴史上の人物である。こっちの世界の人間が知るはずがない。
思い返せばこの老人からは、この城の持ち主が、アイザック・ニュートンであったことも聞いていた……もしかして、この老人も
鳳がそのことを尋ねようとした時だった。
「あ、おい!」
ギヨームの声に呼応するかのように、突然、鳳が折ったばかりの折り鶴が光を発し始めた。
驚いたことにそれは翼を広げ、パタパタと羽ばたき始めたかと思えば、そのまま目の前の壁の中へと飛び去ってしまった。そうして光る折り鶴が消えた先には、四角くくり抜かれた形の光の扉が残されていた。それは以前、この場所で鳳が見たものと同じだった。
「これ、私が白ちゃんに呼び出された時にも現れたものだわ」
ジャンヌがそう付け加える。メアリーの住む大きな木の下でアイザックに襲われた時、鳳は無我夢中でジャンヌに話しかけた。彼はその後、ポータルを使ってあの空間に現れたわけだが、その時に使ったポータルがどうやら目の前のそれであるようだ。
「どうやら、ここで間違いなかったようだな」
ギヨームはそう言うと、立ち上がって光の扉を調べ始めた。手を触れると、指が壁の向こう側に突き抜ける。彼はびっくりして一旦その指を引っ込めたが、すぐに気を取り直すと、再度腕をその先に突っ込んでみせ、
「通り抜けられるようだな……一体どうなってんだ、これ。
「行こう、この先でメアリーが待っておる」
その光の仕組みに首を捻っているギヨームの横で、大君がそう宣言した。鳳たちはお互いに頷きあうと、その光る扉を抜けて先に進んだ。