「ブルブルブルブル……寒い、寒いわ、母さま!」「もうこんなところは嫌よ!」「島に帰りましょう、母さま!」「鬼、悪魔、母さま!」
イギリス南西部、元プリマスの街にほど近い湾内で、オアンネスの群れがブツクサと文句をたれていた。見た目こそアズラエルにそっくりな彼女たちであったが、元々は熱帯の海に生息する水棲魔族であったから、こんなに北の海になんて来たことがなくて、その寒さに対応しきれなくなったのだ。
冷たい風が吹きすさぶ地上より、まだ海の中のほうがマシらしいが、残念ながら彼女らは魚類ではないから水の中で眠ることが出来ず、寝る時はどうしても地上に上がらざるを得なかった。だからどうにかして陸に上がろうとしては、その寒さに負けて海に戻るということを繰り返していたのだが、そろそろ疲労も限界を迎えつつあり、先程からずっと泣き言を言っていた。
「ほれほれ、だから言っているであろう。この服を着れば地上でも温々と過ごせるぞ。頑なに素っ裸で過ごそうとせず、これを機会に服にも慣れるべきだ」
そんなオアンネスたちの弱点を逆手に取って、アズラエルはこれ幸いと服を着せようとしていた。ケアンズでは何を言っても聞いてくれなかった頑固な連中だが、流石に命がかかっていてはそうも言ってられないだろう。
「もう母さまの言うとおりにするしか仕方がないわ」「う、ううぅぅ~~……」「あんな動きづらい変なもの着たくないわ、姉さま」「悔しい……でも、このままじゃ死んじゃうわ」
果たしてアズラエルの目論見通りに、ついにオアンネスたちは全裸を諦め、いそいそと服を着始めた。結局の所彼女らは言うことを聞きたくなかっただけで、服を着てみたらみたでどうということも無かったらしく、
「あら、意外と温いわ、姉さま」「風を防ぐだけでこんなに違うのね、姉さま」「姉さま、肌が乾いていれば動きづらくもないわ」「重ねて着るとすごく暖かいわ!」
オアンネスたちはやいのやいの言いながら、洋服を着て陸の上をゴロゴロし始めた。アズラエルはそんな眷属たちの姿を満足気に眺めながら、傍に控えていたウリエルに向かって嬉しそうに言った。
「はっはっは! 見ろ! あのみっともない連中に、ついに服を着せてやったぞ!」
「はいはい、良かったですね」
喜色満面ほころぶアズラエルの表情を苦笑いで見つめながら、ウリエルは服を取り合っているオアンネスの群れを遠巻きに、ふと思いついたことを口にした。
「ところで、アズラエル様。あれは誰が洗濯するのですか?」
「……え?」
そんなことなどまるで考えていなかったのか、アズラエルがポカンとした表情で固まっている。その後ろではオアンネスたちが、既に魔物を生で食べたりして、服をぐちゃぐちゃに汚していた。
鳳たちがタンカーで旅立った後、失われたオリジナルゴスペルの一つ、アスクレピオスを発見したアズラエルたちは、後日それを鳳に届けるために大遠征へ出ることにした。彼らが旅立ってから既に結構な日数が経過していたが、水の上でアズラエルとその眷属に速度で勝る者は、今となってはどこにも存在せず、スエズを通っていけば十分に追いつけるはずだった。
ミカエルも、既に人類が居なくなって久しいスエズや地中海の様子が知りたかったらしく、計画を話すと遠征許可はすぐに下りた。そんなわけで護衛と言おうかお目付け役と言おうか、友人枠でくっついてきたウリエルとともに、彼女らはワイワイ旅立ったわけだが……ちょっとした小旅行のつもりが、その道中は中々ハードな物となった。
既にインドネシアの覇者として、インド洋を制圧していた水棲魔族は紅海まではすんなり通過出来たのだが、スエズ運河は長年の侵食やらなんやらであちこちが埋まってしまっており、そこに魔族がコロニーを作っていたため、通り抜けようとすると結構な戦闘となってしまったのだ。
それでも、水辺で水棲魔族に勝てる者などそうそう居ないから突破は出来たのだが、強力なアズラエル型オアンネスはともかく、ギー太は完全にお荷物であり、この戦いについていけないから置いてくるしかなくなった。
こうして脱落者を出しながらも地中海に入った一行は、ミカエルの要請に応えて沿岸地域をあちこち偵察しながら進むことにした。
魔族発祥の地と目されている中東レバント地域は、予想に反して不気味なほど静かで魔族の影が見当たらなかった。だが、地上のあちこちに激しい戦闘の痕跡が残されており、ここが幾度も激戦地となった様子が窺えた。恐らくはその爪痕とサハラ砂漠のせいで、いつからか魔族すらも住めなくなっていったのだろう。
北のアナトリア半島からギリシャにかけては草原が広がり、魔族の群れをいくつも確認出来たが、バルカン半島を過ぎてヨーロッパに入ると、そこにはオークやイチイ、トネリコなどの巨木が立ち並ぶ原生林が生い茂っており、中がどうなっているか空からでもさっぱり確認出来なかった。まあ、十中八九魔族の巣窟なのは間違いないだろう。
他方、北アフリカ沿岸は緑が少なく、魔物の群れも数えるほどしか確認出来ず、比較的安全に過ごせるため休息は主にこちらで取った。サハラ砂漠が2つの大陸を分断していることは、アフリカ大陸の調査でも判明していたことだが、それを裏付ける情報であった。
因みに、北アフリカにも魔族が全く居ないわけではなく、それじゃどこから侵入してきたのかと思ったら、どうやらイベリア半島からジブラルタル海峡を渡ってくるのが大半らしく、地中海から大西洋に出る時はまた激しい戦闘になった。
スエズの時もそうだったが、どうも特定の魔族には狭い海峡で待ち構えるという傾向があるようだ。それは多分、昔から弱い魔族が追い立てられて海峡を渡ることが多かったからであろう。そう考えれば、他大陸でも同じような傾向が見られるだろうから、今後の調査に役立てられる良いデータが取れたと言える。ミカエルに教えてやったらきっと喜ぶに違いないと、二人でそんな話をしながら、一行は地中海を後にした。
そして大西洋へ出たら航海は一気に楽になった。元々、タンカーが通っているくらいだから分かっていたことだが、大西洋にはレヴィアタンのような水棲魔族はいないのだ。お陰で海洋資源が豊富で食うには困らず、どこに寄り道する必要もなく、旅は順調そのものだったが、しかしイギリスに到達したあたりでオアンネスたちが音を上げた。
イギリスは南からの暖流が流れ込んでいる影響で、実は日本より温暖な地域なのだが、それでも熱帯の生き物である彼女らにここの寒さは厳しかったらしい。アズラエルもその可能性は考慮しており、最後は筏に乗せて連れていこうと考えていたのだが、彼女らにとっては寧ろ地上の方が寒いらしくて乗船を拒否された。それで寒いなら服を着ろ、着ないとやりあっていたわけだが……
そんな微笑ましい親子喧嘩を苦笑いしながら見ていたウリエルは、早々にアイスランドまで行くことは断念し、代わりに届け物だけしてしまおうと基地に連絡を入れた。すると、そのアイスランド基地で反乱が起きていることを知り、驚いて詳しい事情を聞こうと、フェロー諸島に向かったという鳳に連絡をした次第であった。
プリマスの辺りでキャンプを張っていることを伝えたら、すぐ迎えに行くと言っていたのだが……それから1日ほどが経過し、自分の着替えを悉く駄目にしてしまったアズラエルが肩を落としていたところ、水平線の向こう側から警笛の音が聞こえてきた。
間もなく、水平線の向こう側からひょっこりホバークラフトが頭を出し、海の上を加速しながら近づいてきて、ウリエルたちのいる砂浜へと滑るように上陸した。そして砂煙を上げている風が止まると、中から鳳とアリスが現れた。
アズラエルは喜々として近づいていくと、
「やあ、君! 久しぶりだな。いや、そうでもないか……? 君の精子を受け取ったよ。早速、眷属を使って様々な受精卵を作ろうとしたのだが、ウリエルに止められたのだ。君からも文句を言ってくれないか」
「駄目に決まってるだろう、そんなこと。相変わらずマッドだな……ウリエルさんもお久しぶりです。そしてグッジョブ」
「お久しぶりです、鳳様。アズラエル様と突然押しかけてビックリさせようと思っていたのですが……まさか基地で反乱が起きてるとは思わず、こっちがびっくりしてしまいました。基地の方々は無事なのですか?」
「ええ、基地の人たちは……」
鳳はそう言うなり表情を曇らせた。久しぶりの再会を喜んで、道中の武勇伝を語ろうとしていたアズラエルは、どこか元気がない様子の彼を見て、
「どうしたのだ? なんだか君らしくない、歯切れの悪い態度だな。基地の人たちはと言うことは、まさかドミニオンに犠牲者が出たのだろうか?」
「いや、瑠璃たちやタンカーの乗組員は怪我一つ負っちゃいないんだけど……サムソンが……」
「なに、あの信じられないほど強い魔族が!? それこそ信じられない話なのだが……もう少し詳しく教えてくれないか」
アズラエルに促されて、鳳はアイスランドに来てから起きた一連の出来事を話して聞かせた。基地にたどり着いてみれば、助けに来たはずのギヨームが反乱を起こしていたこと。そのギヨームを説得しようと波乱軍の待つフェロー諸島まで行ったら、何故か天使たちが暴走をし始めたこと。
その天使を止めようとしていたら殺気を感じ、ギヨームに攻撃を受けたこと。彼は、ケアンズで鳳を狙撃したことを認め、鳳のことを神ではないかと疑っていた。鳳はなんとかそれを否定しようとしたが否定しきれず、
「……言われてみれば、こっちの世界に来てから俺の周りでは都合のいいことばかりが起きていて、その決定打が狙撃されても復活したことだった。目の前で見ていた君らだって、不審に思っていたんだろう? こんなこと出来るのは神しか居ない。そう言われたら何も言い返せなくってさ、そしたら今度は天使たちが俺を庇って次々と銃弾に倒れ行って、終いには暴走したコカビエルがオリジナルゴスペルをぶっ放しちゃって……」
「なんだと? オリジナルゴスペルは適正がなくては使えないはずだぞ!?」
鳳はうんざりするように首肯し、
「ああ、でも出来ちゃったんだよ。そんで、その爆発に巻き込まれて反乱軍の堕天使と、サムソンが犠牲になって……彼は今、火傷の治療を受けているところだ」
「容態は? 大丈夫なのですか……?」
「ええ、サムソンも身体は魔族ですから、そう簡単に死にはしないでしょうけど、暫くは動けそうにありません」
そう言って溜息を吐く鳳を前にして、アズラエルとウリエルは困惑気味に目配せをしあった。正直、こんなことが起きていなければ、そんなことは考えもしなかったのだが……
「もしや、これも天の配剤というやつだろうか?」
「……なにが?」
「我々は君に届け物があって来たと言っていただろう。ウリエル!」
アズラエルがそう言って促すと、ウリエルは海岸に積み上げられていた荷物の中から、一つの楽器入れみたいなケースを持ち出してきた。大きさは長辺が1メートル強くらいの長方形。どこにでもあるような形状で珍しくもないのだが、鳳は何故か妙な既視感を感じていた。
何がそんなに気になるのだろうと思いながら、ぼーっとケースを見ていたら、ウリエルが開けないのか? といった感じに首を傾げてから、鳳に見えやすいようにケースを傾け、それを開いた。
鳳はそれを見るなり声を失った。
「鳳様が旅立った後、ケアンズでアスクレピオスを発見したのです。確かこれは、あなたがずっと探していたのではないかと思い、それでアズラエル様と一緒にお届けしようとこうして追いかけてきた次第です」
「で、どうなのだ? これは君が探していたもので間違いないか?」
杖を前に、いつまでも呆けている鳳に対し、焦れったそうにアズラエルが問いかけてくる。鳳はそれでも尚しばらくの間、呼吸を忘れたかのようにじっとそれを見つめ続けた後、ようやくといった感じにゴクリとつばを飲み込んでから、その杖に手を伸ばした。
見た目や形状、大きさ、どれをとってもケーリュケイオンで間違いなかった。ただそのトレードマークである杖身に巻き付いている蛇は、彼のとは違って一匹しかなく、そして先端の頭の部分にはまっている鈍色の石に見覚えもなかった。
だが、それでも彼はそれが自分の杖であることを確信し、扱くように両手で杖をぎゅっと握りしめると、それを高々と掲げながら宣言した。
「始まりにして終わり、アルファにしてオメガ、死者は蘇り、生者には死の安らぎを与えん」
彼がその言葉を口にした瞬間、杖からまばゆい光が溢れ出し、重力に逆らうかのように鳳の頭上高くに飛び上がった。不意打ちに目が眩んでいると、どこからともなく杖の周りにもう一匹の蛇が現れて、その頭が先端の石にたどり着いたかと思えば、二匹の蛇が同時に牙をむき出しにし、石にかぶりついた。
すると光は瞬時に収束し、杖は間もなく元の木の棒に戻ってしまった。しかしそれが悠然と落下し、鳳の手に収まるや否や、その先端で煌めく宝石から猛禽のような光の翼が現れて、それは一度だけ力強く羽ばたいてからピタリと止まった。
見る者全てを圧迫するような神々しい光を放つ杖に二人は目を瞠った。アズラエルはポカンと口を半開きにしながら、
「……それがケーリュケイオンか。本当に、君の杖だったんだな」
「ああ」
「神域でずっと管理してきた物ですが……こんな適正を見せた人はいません。いえ……恐らく、今までの適正者はみんな半分も力を引き出せていなかったんでしょうね。力を貸してもらっていたというのが正しいのかも……」
ウリエルが杖を呆然と眺めながらそんなことを呟いている。ケーリュケイオンが何故、アスクレピオスという別の形態を取っていたかはわからないが、ただそのお陰で、鳳が前の世界でその中に入れていた物は全て、そのまま保存されているようだった。
彼が溜め込んだ大量のMPも、それからサムソンやルーシーといった仲間の遺伝子も……それだけではなく、彼はその杖を手にした瞬間、かつてアストラル界でヘルメスから授けられた力のことを思い出した。
あの時、異世界の神は言っていた。君は力を取り戻す必要があると。君は錬金術師である前に、最高位の魔術師であったのだと……
そう……鳳の力は元々封印されたものだったのだ。それを封印したのが誰かは知らないが、全ての叡智は最初から自分の中にあったのだ。
「ファイヤーボール!」
鳳が何気なく海に向かって杖を振ると、その先端から巨大な火球が飛び出し、海に着弾して巨大な水しぶきを上げた。下の世界では、いつも感じていたMPがごっそりと無くなる感覚がする……彼がそれを杖の中から充填していると、ウリエルが青ざめながら問いかけてきた。
「鳳様、その力は?」
「元の世界での俺の能力です。この力を見込まれて、カナン先生に一緒に来てくれって頼まれたんだ」
「それが君の本来の力だと……? 驚いたな。しかし、それが本当なら、君が神であると信じないわけにはいかなくなるぞ」
アズラエルが呆れ果てたようにそんなセリフを口走る。鳳はその言葉に少し傷つき、少しナーバスになりながら、しかし一つの可能性を見出していた。
この場に居てただ一人だけ澄ました顔で、鳳の能力を当然のものと受け入れているアリス。銃弾で撃ち抜かれても再生した頭。空腹で死にかけた時、虚空から掴み取った丸パン。千代紙で出来た折り鶴。
かつて
「サモン!」
古代呪文の上位ランク。帝国では失われた禁呪と呼ばれていたそれらの呪文すらも、かつての鳳は使いこなすことが出来た。だが、その中でたった一つだけ、いつまで経っても使えない呪文があった。
サモン・サーヴァント。名前からして、従者や使い魔を呼び出すそれが使えなかったのは、単にシステムの不備か何かだろうと思っていた。だが違ったのだ。恐らくそれが使えなかったのは、鳳に
果たして、今の彼がその呪文を唱えれば、杖の中に保存されたそれが反応して、虚空より光が溢れ出した。溢れる光はまたたく間に集まっていき、やがて人の姿を形作ったかと思えば、次の瞬間、その光の中から一人の女性が現れた。
その人は純白のローブを纏っており、その美貌に不釣り合いな眼帯を身に着けている。キラキラとした光の礫を撒き散らしながら彼女は砂浜に着地すると、目をパチクリしながら周囲を一瞥した後、すぐ目の前に立っている人に向かって、
「やあ、鳳くん。アリスちゃんが呼ばれたから、私もそろそろかなって思ってたけど、やっと会えたね。お待ちかね! 君の
ルーシーはそんなふうに芝居っぽいセリフを吐くと、いつものように誰もが振り返るようないい笑顔で、にこやかに笑っていた。